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前原美影の視点
第十一話:宵闇に咲く証明
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八月の夜気は、ねっとりとした甘い蜜のようだった。
川沿いの土手に集まった膨大な数の人々。 彼らの熱気と、屋台から漂う焼きそばソースの焦げた匂い、そして綿菓子の甘い香りが混ざり合い、夏の夜特有の混沌とした空気を醸成している。
私は、慣れない下駄の鼻緒の痛みを少しだけ気にしながら、隣を歩く瞬くんを見上げた。 浴衣姿の私を見た時、彼は「……似合うじゃん」と短く言ったきり、しばらく口を利いてくれなかった。 耳の先が赤くなっていたから、それが彼なりの精一杯の褒め言葉だったのだと理解している。 今の彼は、甚平など着ず、いつものTシャツに黒いパンツ姿だ。 「浴衣なんて着てらんねーよ」と悪態をつきながらも、私の歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれるその不器用な優しさが、今は何よりも愛おしい。
「すっげー人だな」 「うん。はぐれないようにしないとね」
私が言うと、彼は無言で私の手を握った。 汗ばんだ掌。 強く、確かな感触。 以前のような「所有するための手」ではない。「守るための手」だ。 里奈さんとの一件以来、彼の手は迷いを捨てた。
ドン、と腹の底に響く音がした。 夜空に、最初の一輪が咲く。 「うわあ……!」 群衆から歓声が上がる。 極彩色の光が、私たちの顔を照らし出し、そして儚く消えていく。
私たちは、人混みを少し外れた、神社の石段に腰を下ろした。 ここなら、花火は少し遠いけれど、静かに話ができる。 頭上で次々と炸裂する光のシャワーを見上げながら、私は隣にいる彼の気配に意識を集中させていた。
予感があった。 今日の彼は、何かが違う。 ここに来るまでの電車の中での、少し強張った横顔。 繋いだ手から伝わってくる、微かな緊張。 彼は、何かを「終わらせ」、そして「始めよう」としている。
「……なぁ、美影」
不意に、彼が口を開いた。 次の花火が打ち上がるまでの、ほんの数秒の静寂。 その隙間に、彼の声が落ちる。
「はい」
私は、かき氷のカップを置いて、彼に向き直った。 逆光の中で、彼の瞳だけが、屋台の提灯の灯りを反射して揺れている。
「一番最初……六月の、あの屋上のこと、覚えてるか」
忘れるわけがない。 あの日、彼が退屈凌ぎのゲームとして、私に「付き合って」と言った日。 私がそのゲームに乗った日。
「俺さ、あの時……お前のこと、何とも思ってなかった」
正直な告白。 知ってたよ、と心の中で答える。 あの時のあなたは、私という人間を見ていなかった。ただの「攻略対象」としか見ていなかった。
「退屈だったんだ。誰かを思い通りに動かして、優越感に浸りたかった。最低だよな」
彼は、自嘲気味に笑った。 その笑顔は、過去の自分への決別だ。
「でも、お前は……そんな俺の、ふざけたゲームに付き合ってくれた。俺が逃げても、傷つけても、ずっと待っててくれた」
彼の声が、少し震え始める。 言葉を探し、選び、紡ごうとしている。 かっこいいセリフなんていらない。 計算された演出もいらない。 私はただ、あなたの裸の言葉が欲しい。
ヒュルルル……という音が響き、頭上で大きな黄金色の柳が枝垂れた。 世界が金色に染まる中、彼は私の目を真っ直ぐに見つめて、言った。
「もう、ゲームは終わりだ」
宣言。 それは、私たちが今まで続けてきた「仮初めの恋人ごっこ」への死亡宣告。
「俺は、お前が好きだ」
飾りのない、たった一言。 でも、その一言には、彼がこの二ヶ月間で知った痛み、迷い、そして喜びの全てが凝縮されていた。
「攻略とか、駆け引きとか、そんなんじゃなくて。……ただ、明日も明後日も、お前の隣で笑っていたい。お前じゃなきゃ、ダメなんだ」
ああ。 私の待ち望んでいた言葉が、今、夜空の星のように降り注いでくる。 胸がいっぱいになって、視界が滲んだ。 涙でぼやけた彼の顔が、世界で一番愛しい。
私は知っていた。 彼がどれだけ臆病で、どれだけ傷つきやすくて、それでもどれだけ懸命に変わろうとしてきたかを。 そのすべてが報われた瞬間だった。
私は、涙を拭うのも忘れて、彼に飛びついた。
「……遅いよ、バカ」
泣き笑いのような声が出た。 彼の胸に顔を埋めると、心臓が激しく脈打っているのが聞こえた。 この鼓動こそが、彼の真実だ。
「もうとっくに、私は本気だったんだからね」
「……知ってる。……悪かったよ」
彼が、私の背中に腕を回す。 ぎこちなく、でも力強く、私を抱きしめる。 浴衣越しに伝わる体温。 汗の匂い。 夏の夜の湿気。 そのすべてが、愛おしい「現実(リアル)」だった。
ドーン! ドーン! クライマックスのスターマインが、夜空を埋め尽くすように咲き乱れる。 光の洪水中、私たちは互いの体温を確かめ合うように、強く抱きしめ合っていた。
もう、迷わない。 彼がゲームの盤上から降りて、私と同じ大地に立ってくれた。 これからは、二人で歩いていくのだ。 シナリオのない、予測不能で、だからこそ愛おしい日々を。
「美影」 「ん?」
腕の中で顔を上げると、彼が、どこか照れくさそうに、でも真剣な顔で私を見ていた。
「来年も、再来年も……ここ、来るぞ」
それは、永遠への予約だった。 「飽きる」ことも「捨てる」こともない、未来への約束。
私は、一番の笑顔で頷いた。
「うん! 絶対だよ!」
最後の花火が消え、辺りが静寂に包まれる。 でも、私たちの心には、消えることのない温かい灯火がともっていた。
帰り道。 彼の手は、今までよりもずっと熱く、そして優しかった。 カランコロンと鳴る下駄の音が、二人の新しい始まりを告げる足音のように、夜の街に響いていた。
川沿いの土手に集まった膨大な数の人々。 彼らの熱気と、屋台から漂う焼きそばソースの焦げた匂い、そして綿菓子の甘い香りが混ざり合い、夏の夜特有の混沌とした空気を醸成している。
私は、慣れない下駄の鼻緒の痛みを少しだけ気にしながら、隣を歩く瞬くんを見上げた。 浴衣姿の私を見た時、彼は「……似合うじゃん」と短く言ったきり、しばらく口を利いてくれなかった。 耳の先が赤くなっていたから、それが彼なりの精一杯の褒め言葉だったのだと理解している。 今の彼は、甚平など着ず、いつものTシャツに黒いパンツ姿だ。 「浴衣なんて着てらんねーよ」と悪態をつきながらも、私の歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれるその不器用な優しさが、今は何よりも愛おしい。
「すっげー人だな」 「うん。はぐれないようにしないとね」
私が言うと、彼は無言で私の手を握った。 汗ばんだ掌。 強く、確かな感触。 以前のような「所有するための手」ではない。「守るための手」だ。 里奈さんとの一件以来、彼の手は迷いを捨てた。
ドン、と腹の底に響く音がした。 夜空に、最初の一輪が咲く。 「うわあ……!」 群衆から歓声が上がる。 極彩色の光が、私たちの顔を照らし出し、そして儚く消えていく。
私たちは、人混みを少し外れた、神社の石段に腰を下ろした。 ここなら、花火は少し遠いけれど、静かに話ができる。 頭上で次々と炸裂する光のシャワーを見上げながら、私は隣にいる彼の気配に意識を集中させていた。
予感があった。 今日の彼は、何かが違う。 ここに来るまでの電車の中での、少し強張った横顔。 繋いだ手から伝わってくる、微かな緊張。 彼は、何かを「終わらせ」、そして「始めよう」としている。
「……なぁ、美影」
不意に、彼が口を開いた。 次の花火が打ち上がるまでの、ほんの数秒の静寂。 その隙間に、彼の声が落ちる。
「はい」
私は、かき氷のカップを置いて、彼に向き直った。 逆光の中で、彼の瞳だけが、屋台の提灯の灯りを反射して揺れている。
「一番最初……六月の、あの屋上のこと、覚えてるか」
忘れるわけがない。 あの日、彼が退屈凌ぎのゲームとして、私に「付き合って」と言った日。 私がそのゲームに乗った日。
「俺さ、あの時……お前のこと、何とも思ってなかった」
正直な告白。 知ってたよ、と心の中で答える。 あの時のあなたは、私という人間を見ていなかった。ただの「攻略対象」としか見ていなかった。
「退屈だったんだ。誰かを思い通りに動かして、優越感に浸りたかった。最低だよな」
彼は、自嘲気味に笑った。 その笑顔は、過去の自分への決別だ。
「でも、お前は……そんな俺の、ふざけたゲームに付き合ってくれた。俺が逃げても、傷つけても、ずっと待っててくれた」
彼の声が、少し震え始める。 言葉を探し、選び、紡ごうとしている。 かっこいいセリフなんていらない。 計算された演出もいらない。 私はただ、あなたの裸の言葉が欲しい。
ヒュルルル……という音が響き、頭上で大きな黄金色の柳が枝垂れた。 世界が金色に染まる中、彼は私の目を真っ直ぐに見つめて、言った。
「もう、ゲームは終わりだ」
宣言。 それは、私たちが今まで続けてきた「仮初めの恋人ごっこ」への死亡宣告。
「俺は、お前が好きだ」
飾りのない、たった一言。 でも、その一言には、彼がこの二ヶ月間で知った痛み、迷い、そして喜びの全てが凝縮されていた。
「攻略とか、駆け引きとか、そんなんじゃなくて。……ただ、明日も明後日も、お前の隣で笑っていたい。お前じゃなきゃ、ダメなんだ」
ああ。 私の待ち望んでいた言葉が、今、夜空の星のように降り注いでくる。 胸がいっぱいになって、視界が滲んだ。 涙でぼやけた彼の顔が、世界で一番愛しい。
私は知っていた。 彼がどれだけ臆病で、どれだけ傷つきやすくて、それでもどれだけ懸命に変わろうとしてきたかを。 そのすべてが報われた瞬間だった。
私は、涙を拭うのも忘れて、彼に飛びついた。
「……遅いよ、バカ」
泣き笑いのような声が出た。 彼の胸に顔を埋めると、心臓が激しく脈打っているのが聞こえた。 この鼓動こそが、彼の真実だ。
「もうとっくに、私は本気だったんだからね」
「……知ってる。……悪かったよ」
彼が、私の背中に腕を回す。 ぎこちなく、でも力強く、私を抱きしめる。 浴衣越しに伝わる体温。 汗の匂い。 夏の夜の湿気。 そのすべてが、愛おしい「現実(リアル)」だった。
ドーン! ドーン! クライマックスのスターマインが、夜空を埋め尽くすように咲き乱れる。 光の洪水中、私たちは互いの体温を確かめ合うように、強く抱きしめ合っていた。
もう、迷わない。 彼がゲームの盤上から降りて、私と同じ大地に立ってくれた。 これからは、二人で歩いていくのだ。 シナリオのない、予測不能で、だからこそ愛おしい日々を。
「美影」 「ん?」
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「来年も、再来年も……ここ、来るぞ」
それは、永遠への予約だった。 「飽きる」ことも「捨てる」こともない、未来への約束。
私は、一番の笑顔で頷いた。
「うん! 絶対だよ!」
最後の花火が消え、辺りが静寂に包まれる。 でも、私たちの心には、消えることのない温かい灯火がともっていた。
帰り道。 彼の手は、今までよりもずっと熱く、そして優しかった。 カランコロンと鳴る下駄の音が、二人の新しい始まりを告げる足音のように、夜の街に響いていた。
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