なぜ勇者は地獄に落ちたのか?

Gaku

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第1話:英雄の死と理不尽な審判

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その日、世界は一つの時代の終わりを、秋の終わりの静けさの中に見守っていた。

窓の外では、王都の庭園を吹き抜ける風が、最後の抵抗をやめたかのように力なく枝を揺らし、乾いた金色の葉をはらはらと舞い散らせていた。それはまるで、季節そのものが大英雄の死を悼み、静かに喪に服しているかのようだった。傾きかけた太陽が投じる橙色の光は、王城の一室に長い影を落とし、金の刺繍が施された深紅のカーテンを、燃え尽きる直前の炎のようにきらめかせている。空気は重く淀み、古びた木材と乾燥した薬草のかすかな匂いに、集まった人々の声にならない悲しみの気配が深く混じり合っていた。部屋に満ちる沈黙は、ただの静けさではなかった。それは、一つの伝説が終焉を迎えようとしている瞬間の、息を詰めるような荘厳さを宿していた。

大英雄アレス。

その名は、大陸の歴史において不滅の輝きを放つ星である。かつて魔王を討ち滅ぼし、大陸全土を覆っていた絶望という名の分厚い暗雲を払い、人々に百年分の平和と繁栄をもたらした男。彼の武勇伝は、吟遊詩人によって数えきれないほどの詩歌となり、親から子へ、子から孫へと語り継がれる御伽噺となっていた。しかし、その彼も、王侯貴族から名もなき農夫まで、万物を平等に蝕む時の流れには抗えなかった。

王城の最も陽当たりの良い部屋にしつらえられた、天蓋付きの壮麗な寝台の上で、アレスは人生の最期の瞬間を迎えようとしていた。白鳥の羽毛をふんだんに使った枕に沈む頭は、雪よりも白く、かつては太陽の光を浴びて輝いていた金髪の面影はどこにもない。深く刻まれた額の皺は、彼が駆け抜けた苦難に満ちた道のりを物語る地図のようであり、日に焼けた頬の皺は、仲間たちと笑い合った遠い日の記憶を留めているかのようだった。かつて、魔王の軍勢を薙ぎ払った大陸最強の腕は、今は老いによる褐色の染みが浮かび、青い血管が透けて見えるほどに痩せ細り、絹のシーツの上に力なく投げ出されている。薄く開かれた唇から漏れる呼吸は、か細く、浅く、そして短い。まるで、風前の灯火が最後の煌めきを放って、今にも消え入ろうとしているかのようだ。

その枕元には、彼の最期を見届けようと、大陸で最も重要ないくつかの人々が集っていた。

大陸を統べる若き王、アルトリウス四世は、アレスの曾孫にあたる。齢二十五にして、その肩には広大な王国の未来が託されている。祖父や父から、まるで神話のように聞かされてきた伝説の英雄の姿。魔王を前に一歩も引かず、その眼光だけで魔物を竦ませ、聖剣の一振りで山を断ったという大英雄。そのイメージと、目の前で静かに死を待つ衰弱した老人とのあまりの隔たりに、彼は必死で涙をこらえ、唇を固く噛みしめていた。王としての威厳を保たねばならない。だが、込み上げてくるのは、偉大な祖を失う悲しみだけではなかった。自分が背負う「英雄の血脈」という重圧の根源が、今まさに失われようとしていることへの、形容しがたい喪失感と、そして微かな安堵がない交ぜになった複雑な感情だった。

その隣には、アレスと共に幾多の死線を潜り抜けたかつての戦友達が、今は皆、時の重みに背を丸め、雪のような白髪を頭に頂いて静かに佇んでいた。

“不動”のバルガス。かつて山のような巨体で巨大な戦斧を振り回し、その名だけで敵の戦列を崩壊させた大男の戦士。今は頑健だった体躯も少しだけ小さくなり、節くれだった指で樫の杖を強く握りしめている。その顔に深く刻まれた無数の傷跡の一つ一つが、アレスと共に戦った栄光の記憶を宿している。彼は何も語らず、ただじっと、かつての盟友の顔を見つめていた。その瞳の奥には、友を失う悲しみだけではない。自分たちもまた、すぐ後を追うだろうという、穏やかな諦念の色が浮かんでいた。

“月光”のエリアーナ。森の奥深くで悠久の時を生きるエルフ族の王女にして、百発百中の腕を誇った弓の名手。人間とは異なる時の流れを生きる彼女でさえ、その美しい顔には悲しみの影が色濃く落ちていた。人間の一生というものの、あまりの短さと儚さ、そしてその短い時間の中で燃え上がる情熱の激しさを、彼女はアレスという男を通して学んだ。彼女の長いまつ毛に、月の雫のような涙が一粒、光っていた。

そして、杖に寄りかかるようにして立つ小柄な老婆、賢者マチルダ。古代の知識を操り、その饒舌さで時に仲間を煙に巻きながらも、幾度となくパーティの窮地を救ってきた大魔術師。今はその口数も少なく、皺だらけの顔で静かにアレスの呼吸に耳を澄ませている。彼女は知っていた。どれほど強力な魔法をもってしても、この自然の摂理だけは覆せないことを。

彼らの皺だらけの顔に浮かぶのは、単なる悲しみではなかった。それは、一つの時代を共に作り上げ、そしてその時代の終わりを共に見届ける者だけが分かち合える、深く、静かで、そしてどこか誇らしげな感情の共有だった。

さらにその後ろには、アレスの血を引く子や孫たちが、嗚咽を漏らしながら、その痩せ細った手にそっと触れていた。彼らにとって、アレスは伝説の英雄であると同時に、優しい祖父であり、偉大な父であった。その温もりが、今まさに自分たちの手の中から消え去ろうとしている。その事実が、彼らの心を張り裂きそうにしていた。

窓は固く閉ざされているというのに、その向こうから、風に乗って微かな音が届いていた。それは、彼の身を案じる数万の民の祈りの声だった。王城前の広場は、身分も職業も異なる人々で埋め尽くされている。豪奢な衣服をまとった貴族も、汚れたエプロン姿のパン屋も、硬い革鎧を身につけた若い兵士も、母親のスカートを握りしめる子供も、皆が等しく天を仰ぎ、英雄の魂の安寧を祈っていた。一人一人の声は小さいが、それが幾万と集まることで、まるで海鳴りのような、荘厳で途切れることのない一つの大きな響きとなって王城を包み込んでいる。時折、遠くの教会の鐘が、悲しげに、しかし敬虔に鳴り響き、その音色は祈りの声に溶け込んで、天へと昇っていくようだった。

(ああ、悪くない人生だった)

薄れゆく意識の水平線の向こうで、アレスは深い満足と共に自らの生涯を振り返っていた。体の感覚はもうほとんどない。ただ、遠い日の記憶だけが、驚くほど鮮やかに瞼の裏に映し出されていた。

乾いた土と、青々とした麦の匂いが満ちていた故郷の村。夏には、黄金色の穂波が風に揺れ、地平線の彼方まで続いていた。貧しいながらも、そこには確かな幸福があった。無口だが優しい父の背中、いつも温かいスープを作ってくれた母の笑顔、おてんばな妹との他愛ない口喧嘩。それが彼の世界の全てだった。しかし、ある日、空が禍々しい赤黒い雲に覆われ、地を揺るがす咆哮と共に、全ては炎と煙に変わった。血のぬるりとした匂い、肉の焼ける吐き気を催す異臭、そして、父と母、妹の断末魔の叫び。幼いアレスは、燃え盛る家の残骸の下で、ただ一人、奇跡的に生き残った。その時、冷たい灰の中で握りしめた薪割りの斧の、ざらついた木の感触と、心に刻んだ復讐の誓いを、彼は今でもありありと思い出せる。あの瞬間、彼の子供時代は終わりを告げたのだ。

復讐を誓って剣を取った日。そこから、彼の本当の人生が始まった。

数えきれないほどの出会いと別れがあった。辺境の町の酒場で、些細なことから殴り合いの喧奮になった末に意気投合し、それ以来、背中を預け合うようになった大男の戦士バルガス。迷いの森で道に迷い、飢えと渇きで死にかけていたアレスを導いてくれた、月の光のように神秘的なエルフの射手エリアーナ。古代の知識をひけらかす、いささか胡散臭い老婆だったが、その知恵がなければ突破できなかったであろう罠が無数にあった賢者マチルダ。焚き火を囲み、硬い干し肉を分け合いながら交わした他愛もない会話。満天の星の下で語り合った、それぞれの夢。バルガスは故郷に帰り、鍛冶屋を営みたいと語った。エリアーナは、汚された森を浄化し、かつての美しい姿を取り戻したいと願った。マチルダは、世界中の失われた知識を集めた大図書館を作るのが夢だと笑った。それら全てが、アレスの荒んだ心を少しずつ溶かし、温かい光を灯してくれた、かけがえのない宝物だった。

数えきれないほどの死線を潜り抜けた日々。湿っぽくカビの匂いが立ち込めるアンデッドの地下迷宮、肌を焼く溶岩が煮えたぎる火竜の巣、凍てつく風が骨身に染みる巨人族の住まう雪山の頂。一体一体の魔物の断末魔と、仲間たちの雄叫びが、今も耳の奥で一つの交響曲のように響いている。傷つき、倒れ、もうだめだと何度も思った。しかし、その度に仲間たちの声が、故郷を失った者たちの悲しみが、そして平和を願う人々の祈りが、彼を再び立ち上がらせた。

そして、全ての元凶たる魔王と対峙し、満身創痍の末に聖剣を突き立てた、あの栄光の瞬間。

魔王城は、硫黄と腐臭が混じり合った吐き気を催す空気に満たされ、大地は絶え間なく不気味に震えていた。魔王の圧倒的な威圧感は、空間そのものを歪ませ、魂を直接握り潰すかのような純粋な恐怖となって襲いかかってきた。その存在は、悪意の塊そのものだった。仲間たちは次々と倒れ、バルガスは盾を砕かれ、エリアーナは矢を射尽くし、マチルダは魔力を使い果たした。アレス自身も骨は砕け、鎧は半壊し、血は流れ尽きようとしていた。だが、人々の祈りを一身に受けた聖剣『ソル・ブレイカー』だけが、希望の光を失わずに白銀の輝きを放っていた。最後の力を振り絞り、仲間たちの想いを、殺された家族の無念を、そして未来への希望を全て乗せて渾身の一撃を突き立てた時、世界から一切の音が消えた。そして、魔王の肉体が黒い塵となって崩れ去り、禍々しい城が天から降り注ぐ陽光の下で浄化されていく光景は、彼の生涯で最も美しいものだった。

自分の行いが、今ここにある平和な世界を築いた。
自分が流した血と汗と涙が、枕元で涙ぐむ愛する者たちの笑顔を守った。

その揺るぎない自負が、死への恐怖を和らげ、魂を温かい光で満たしていく。もはや何の心残りもない。

「我が人生に、一片の悔いなし」

誰にも聞こえないほどの、吐息のような声でそう呟くと、アレスは安らかに最後の息を引き取った。英雄の心臓が、その鼓動を永遠に止めた瞬間だった。

部屋を満たしていた悲しみの気配は、一瞬にして深い嗚咽に変わった。若き王はついに堪えきれずに顔を覆い、戦友達は静かに頭を垂れた。民衆の祈りの声は、英雄の死を悟ったかのように、一層大きな悲しみの波となって王都を揺るがした。

魂が肉体から解き放たれる、心地よい浮遊感。それはまるで、長い間着古して体の一部と化していた重い鎧を、ようやく脱ぎ捨てたかのような、途方もない解放感だった。痛みも、苦しみも、悲しみも、もはやない。世界の色と音がゆっくりと遠ざかり、彼は綿毛のようにふわりと宙に舞い上がる。次に目を開ける時、自分はきっと、先に逝った仲間たちが待つ光の国にいるのだろう。そこには、故郷の村で見たような、どこまでも続く緑の丘が広がり、穏やかな風が吹き、懐かしい顔ぶれが酒杯を掲げて「遅かったじゃないか」と笑って自分を待っているはずだ。

英雄にふさわしい、永遠の安息が与えられるはずだ。

そう、信じて疑わなかった。

次に彼が感じたのは、温もりではなく、肌を突き刺すような絶対的な冷気だった。

先に彼を包み込んだはずの温かい光はどこにもなく、全てを吸い込むような完全な静寂だけがあった。自分の呼吸音も、心臓の鼓動も聞こえない。音という概念そのものが存在しないかのような、深淵の静けさ。まるで、宇宙の終焉の後に残された、最後の虚無に一人取り残されたかのようだった。

アレスはゆっくりと目を開ける。

そこは、彼が想像した天国とは似ても似つかぬ場所だった。

床は、どこまでも続く一枚岩の黒曜石でできているかのようだった。完璧に磨き上げられたその表面は、鏡のように鈍い光を反射し、そこに立つアレス自身の、実体を失った魂の姿をぼんやりと映し出している。生きている頃の肉体ではない。それは青白い光を放つ、どこかおぼろげな人影だった。見上げれば、天を突くかのような巨大な柱が、数学的な正確さで等間隔に並び、視界の及ぶ限りの彼方まで続いていた。その柱には、見たこともない複雑怪奇な文様がびっしりと刻まれており、それらは時に苦悶する魂の姿のようにも、時に宇宙の法則を示す数式のようにも見え、絶えず微かに蠢いているかのような錯覚を覚えた。天井は、果てしない闇に溶け込んでおり、その高さは全く窺い知れない。星一つない、完全な虚無の空が、無限に広がっているだけだった。

神殿、と呼ぶにはあまりに生命の気配がなく、墓所、と呼ぶには荘厳に過ぎた。空気には匂いというものがなく、ただ、永劫の時が堆積した塵の気配と、魂すら凍てつかせるような虚無の冷たさだけが、彼の感覚を満たしていた。

途方もない孤独感と不安が、英雄の魂を蝕み始める。仲間はどこだ?光はどこにある?ここは、一体……。数々の死線を潜り抜けてきた彼の精神力をもってしても、この絶対的な孤独は堪えがたいものだった。

彼の視線は、自然と、その空間の遥か奥、一段高い場所に設けられた巨大な玉座に吸い寄せられた。

それは権威の象徴というよりも、断罪の道具と呼ぶ方がふさわしい、冷たく無機質な造形をしていた。黒い巨石をただ削り出しただけのような、一切の装飾を持たない玉座。しかし、その存在感は圧倒的で、この広大無辺な空間の全てを支配しているかのようだった。まるで、この空間そのものが、この玉座のために存在しているかのように。

そこに、一人の男が座っていた。

夜の闇を梳いて束ねたかのような、艶やかな黒檀の髪。寸分の狂いもなく整った顔立ちは、まるで神の手による最高傑作の彫像のようだったが、その肌は血の気というものを全く感じさせないほどに白く、まるで上質な大理石のようだった。身にまとうローブは、夜空の闇そのものを織り上げたかのように深く、星々の瞬きすらない、絶対的な黒。その黒は、あらゆる光を吸収し、何ものをも反射しない虚無の色だった。

そして、その瞳。アレスは思わず息をのんだ。その瞳は、星のない夜空のようにどこまでも深く、何の感情も映してはいなかった。喜びも、悲しみも、怒りも、慈悲も、そこにはない。ただ、無限の時と虚無だけが広がっている。男はただ静かに、この異質な空間で目覚めたばかりのアレスを、値踏みするように見据えている。その視線は、アレスという個人の人生や感情、苦悩や栄光といった表層を全て透かし見て、その奥にある魂の本質だけを捉え、その重さを測ろうとしているかのようだった。

「ここは…どこだ?私は死んだはずだ。貴方は…?」

アレスの声は、この広大過ぎる神殿に虚しく響き、誰に届くこともなく闇に吸い込まれて消えた。彼の魂に残された、最後の英雄としての尊厳が、かろうじてその問いを発させた。

玉座の男は、アレスの問いかけに答えなかった。

代わりに、まるで時の流れが止まったかのような緩慢な動作で、手元にあった分厚い石板を持ち上げる。それは、まるで世界の創世から終わりまでの全てが刻まれているかのような、風化し、ひび割れた古びた石板だった。表面には、アレスが見たこともない古代の文字が、びっしりと隙間なく刻まれている。その一文字一文字が、鈍い光を放っているように見えた。

男は、感情の乗らない平坦な声で、そこに記された文字を読み上げ始めた。その声は、囁くように小さいはずなのに、不思議と神殿の隅々にまで明瞭に響き渡り、まるで空間そのものが語りかけてくるかのようだった。

「勇者アレス。生前の記録を照合する」

アレスは息をのんだ。自分の名が、この世界の理を超越したかのような存在の口から発せられたことに、畏怖と、そして一縷の期待を抱いた。自分の人生は、やはり記録され、評価されるべきものだったのだ。

「王歴732年、魔王軍第7軍団を壊滅させ、3つの都市を解放」

その言葉と共に、アレスの脳裏に鮮やかな光景が蘇る。解放された都市の一つ、港町エリアスの光景だ。長い圧政から解放された人々が、歓喜の涙を流しながら、泥と血にまみれたアレスと仲間たちを迎え入れてくれた。空には、子供たちが放った色とりどりの花びらが舞い、久しぶりに浴びる太陽の光に、誰もが目を細めていた。潮風の香りと、人々の歓声、そしてパン屋が焼いてくれた温かいパンの味が、今でも肌で感じられるかのようだ。それは、凍てついた大地にようやく訪れた、春の息吹そのものだった。

「王歴734年、南方の沼地を支配していた古竜『沼の主』を討伐。これにより、数百年にわたり毒に侵されていた大地が浄化され、周辺地域に豊かな実りをもたらす」

記憶は、淀んだ水と腐臭が立ち込める広大な沼地へと飛ぶ。真夏の太陽が照りつけ、湿気と熱気が体力を奪う中での死闘。古竜の吐き出す毒のブレスをかいくぐり、鋼鉄よりも硬い鱗に何度も剣を弾かれた。泥と汗にまみれ、疲労困憊の末に、バルガスの斧が鱗を砕き、エリアーナの矢が目を射抜き、マチルダの魔法が動きを封じた一瞬の隙に、ようやく竜の逆鱗に剣を突き立てた時の、大地を揺るがすほどの断末魔。あの時の安堵感は、何物にも代えがたいものだった。

「王歴738年、忘れられた民の古代遺跡にて、失われた聖剣『ソル・ブレイカー』を発見。その資格者として認められる」

苔むした石畳、壁画に残された古代の英雄譚。遺跡の最深部、天井の隙間から差し込む一筋の光が、祭壇に突き立てられた聖剣を神秘的に照らし出していた。恐る恐る柄に手を触れた瞬間、体中に駆け巡った清浄で温かい力。それはまるで、数千年にわたる人々の祈りと希望の集合体だった。世界を救うという使命が、抽象的な観念から、具体的な重みとなって彼の両腕に宿った、あの荘厳な瞬間。

「王歴740年、魔王城に到達。魔王を討ち滅ぼし、世界に平和をもたらす。この功績により、世界の平和は少なくとも百年早められた」

読み上げられるのは、アレス自身が成し遂げた、誰にも否定できない輝かしい戦歴の数々だった。

彼は混乱しながらも、自らの功績が、この世界の理を司る場所で正当に評価されていることに、かすかな、しかし確かな誇りを感じていた。当然だ。これだけのことを成し遂げたのだ。自分の人生は、間違いなく偉大なものだった。

やはり自分は英雄として、それにふさわしい場所へと迎え入れられるのだ。安堵が、彼の魂を少しだけ温めた。恐怖と孤独で凍てついていた魂が、ようやく安らぎを得られる。

石板から顔を上げた男は、再びアレスを真っ直ぐに見つめた。

その瞳に、初めて何かの光が宿ったように見えた。

しかし、それはアレスが心のどこかで期待していた敬意でも、賞賛でも、ましてや慈悲でもない。全ての証拠を吟味し終え、被告人に判決を言い渡す、ただそれだけのために存在する裁判官のような、冷徹で無慈悲な光だった。

「――以上の功罪を鑑み、審判を下す」

「功罪」という言葉に、アレスの魂が微かに揺れた。なぜ「罪」という言葉が入っている?私に、何の罪があるというのか。魔物を殺したことが罪だというのか?だがそれは、世界を守るために必要なことだったはずだ。

男は厳かに、しかし何の躊躇もなく、まるで自明の理を告げるかのように言い放った。

「勇者アレス。汝の魂を地獄へ送る」

一瞬の静寂。

世界から、再び音が消えた。アレスの思考が、完全に停止した。黒曜石の床に映る自分の姿が、ぐにゃりと歪んだように見えた。今、この存在は何と言った?聞き間違いか?

地獄? 誰が? この私が?

理解が、凍てついた思考に追いついた瞬間、彼の魂は怒りと混乱で激しく震え上がった。それは、まるで静かな水面に投げ込まれた巨大な岩のように、彼の内なる世界を根底から覆す衝撃だった。彼の人生、彼の信念、彼の存在意義そのものが、たった一言で否定されたのだ。

「地獄だと…?ふざけるな!なぜだ!私は我が身を犠牲にし、この世界を救ったのだぞ!」

アレスの絶叫が、がらんどうの神殿に虚しく響き渡る。生前、幾万の軍勢を震え上がらせた英雄の咆哮も、この絶対的な静寂の前では、空虚な木霊となって返ってくるだけだった。その声には、怒りだけではなく、懇願と、そして理解できないものへの恐怖が滲んでいた。

「私の行いによって、どれだけの民が救われたと思っている!飢饉に苦しんでいた村は豊かになり、魔物に怯えていた町は活気を取り戻し、絶望に沈んでいた国々は未来への希望を見出したのだ!何億という人々が、私の功績の上で幸福を享受しているのだぞ!私が流した血が川となり、私の流した汗が大地を潤した!その大地に咲いた平和という名の花を、お前は踏みにじるというのか!これ以上の正義が、これ以上の善が、この世界のどこにあるというのだ!」

玉座の男――その存在が冥府の王ハデスであることを、アレスはまだ知らない――は、魂そのものをぶつけてくるかのような絶叫を全身に浴びても、なお表情一つ変えなかった。彼はただ、嵐が過ぎ去るのを待つ巨岩のように静かにアレスを見つめ、そして、アレスの全ての言葉が途切れ、荒い息遣いだけが神殿の闇に響いた完璧なタイミングで、静かに口を開いた。

その声は、相変わらず平坦で冷ややかだったが、先ほどまでとは比較にならないほどの重みと、拒絶できない威厳を宿していた。それは、この空間の支配者として、絶対的な法則を告げる声だった。

「では、お前の『正義』の検証を始めよう」

その冷ややかな一言が、これから始まる永い、永い対話の始まりを告げていた。

ハデスの言葉は、アレスの怒声とは対照的に、静かに、しかし確実に彼の魂の深奥にまで染み渡った。「検証」という言葉が、この場所が賞罰を与える天国や地獄などではなく、魂の真価そのものを問う、厳格な法廷であることをアレスに悟らせた。

「お前が救ったという億の民。その幸福がお前の功績だと言うのならば」とハデスは続ける。「お前の『正義』の行使の過程で踏み潰された、数多の命の重さもまた、お前の罪として勘定されねばなるまい」

その言葉の意味を、アレスはまだ完全には理解できない。踏み潰された命?それは魔王軍の兵士や、世界に害をなす魔物のことだろう。それらを屠ることに、何のためらいがあろうか。それは大義のための、当然の行いだ。

だが、ハデスの冷徹な瞳は、アレスが「必要悪」や「大義のための小さな犠牲」として、自らの記憶の片隅に押しやってきた数々の光景を、容赦なく引きずり出そうとしていた。

魔王軍の補給路を断つため、やむなく焼き払った森。その森に住んでいた、人間とは関わりのなかったはずの獣たちや精霊たちの悲鳴。

魔王軍に協力せざるを得なかった村々。アレスたちが通り過ぎた後、報復として魔王軍に皆殺しにされた村人たちの顔。

討伐対象のゴブリンの洞窟の奥で、親の帰りを待っていたかのように震えていた、幼いゴブリンの姿。

それら一つ一つの「小さな犠牲」の、声にならない叫びが、今、この静寂の中で、アレスの耳に届き始めているかのような錯覚に陥った。彼の輝かしい英雄譚の裏側で、確かに存在した無数の死と悲しみ。それらを、彼は「仕方のないこと」として、振り返ることすらなかった。

ハデスの冷たい視線が、それらを決して見逃さないと、そして、その一つ一つについて、これからアレス自身に問い質していくのだと、雄弁に物語っていた。

英雄アレスが信じて疑わなかった自らの「正義」。その輝かしい物語が、今、冥府の王の手によって、一ページ目から、冷徹に、そして徹底的に検証されようとしていた。

終わりなき対話の幕が、今、静かに上がった。黒曜石の床に映る英雄の魂は、かつてないほどに小さく、そして儚く揺らめいていた。
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