なぜ勇者は地獄に落ちたのか?

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第9話:奪われた『美徳』と冥王の目的

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完全な虚無。

アレスの魂は、そこに漂っていた。

色はない。白も黒もなく、ただ無が存在するだけだ。音もない。静寂ですらなく、音という概念そのものが存在しない空間。温度もない。絶対零度。分子の運動が完全に停止する、思考すら凍てつかせる極限の冷気が、彼の魂の輪郭を際立たせる。

かつて、その身にまとっていたはずのものは、すべてが剥がれ落ちていた。

陽光を反射し、民衆の希望の的であった白銀の鎧。それは砕け、光の粒子となって霧散した。悪を断ち、正義を執行すると信じて疑わなかった聖剣。それは錆びつき、塵となって虚空に消えた。何よりも固く、揺るぎないと信じていた善意の心臓。それは抉り出され、どこか遠い場所で、もはや意味をなさぬまま最後の鼓動を終えたのかもしれない。

後に残ったのは、ただ空っぽの器だけだった。

英雄アレスと呼ばれた男の、魂の抜け殻。それは、風に弄ばれる枯れ葉のように、あるいは深海に沈む石のように、ただ目的もなく、意思もなく、この永遠とも思える時間の中を漂い続けていた。

どれほどの時が流れたのか。一瞬か、あるいは億劫か。時間の概念すら失われたこの場所で、突如として、彼の意識は一つの場所に引き寄せられた。

目の前に広がったのは、広大無辺な神殿だった。天井は見えず、ただ星のない夜空のような闇が広がっている。床は磨き抜かれた黒曜石で、歩みを進めるたびに、無数の魂の呻きにも似た微かな残響が返ってくる。等間隔に並ぶ巨大な柱は、人間のあらゆる悲しみや苦悩を固めて作ったかのように、禍々しくも荘厳な光を放っていた。

神殿の最奥。そこには、高くそびえる玉座があった。世界の骨そのものを削り出して作られたかのような、威圧的な椅子。そこに、一人の神が座していた。

冥王ハデス。

死者の国の支配者。魂の循環を司る、世界の均衡そのもの。

彼は、玉座に深く身を沈め、肘掛けに頬杖をつきながら、静かにアレスを見下ろしていた。その瞳は、夜の湖面のように静かでありながら、世界の始まりから終わりまで、全てを見通すかのような深淵を湛えている。その視線に射抜かれた瞬間、アレスの虚ろな魂に、重力が生まれた。彼はもはや漂うことを許されず、黒曜石の床にその膝をついた。

神殿を吹き抜ける風は、生者の世界のものとは全く異質だった。それは、忘れられた者たちの溜息であり、叶わなかった願いの残滓であり、流されることのなかった涙の冷たさを含んでいた。風はアレスの頬を撫で、彼の空っぽの器に、失われたはずの感覚を微かに呼び覚ます。それは痛みですらなく、ただ、自分がここに「存在する」という、残酷な事実の証明だった。

やがて、ハデスが口を開いた。

その声は、初めは冬の夜に遠くで響く鐘の音のように静かだった。しかし、言葉が紡がれるにつれて、それは神殿の隅々にまで染み渡り、柱を震わせ、床を揺るがし、アレスの魂そのものを直接揺さぶる、絶対的な響きとなった。

「勇者アレス。お前は、自分がしでかしたことの本当の意味を、まだ理解してはいない」

その言葉は、もはやアレスの心に何の波紋も起こさなかった。感情という水面そのものが、干上がってしまっているのだから。彼はただ、うなだれたまま、ハデスの次の言葉を待つでもなく、待たないでもなく、ただそこに在った。

だが、ハデスは構わずに続ける。その声は、冷たい宣告でありながら、同時に、蒙昧なる子供に世界の理を説いて聞かせる教師のような、奇妙な熱を帯び始めていた。

「お前は人々から苦しみを救った。飢えを、恐怖を、理不尽な死を。それは事実だ」

ハデスの言葉が、アレスの魂の奥底に眠っていた記憶の澱を、わずかに揺り動かした。


――飢え。

そうだ、確かに自分は人々を飢えから救った。

アレスの脳裏に、北方の辺境、グレイランド地方の荒涼とした風景が蘇る。そこは、一年を通じて灰色の雲が垂れ込め、痩せた大地からは、申し訳程度の麦しか育たない土地だった。彼がそこを訪れたのは、厳しい冬が三度続いた後の、雪解けの季節だった。

雪解け水は、しかし、生命の息吹を運んではこなかった。それは大地に残ったわずかな養分すらも洗い流し、ぬかるんだ泥の海を広げるだけだった。村人たちの目は窪み、頬はこけ、まるで生ける屍のようだった。春の柔らかな日差しが、かえって彼らの絶望を浮き彫りにしていた。教会の鐘が鳴っても、祈る力さえ残っていない。子供たちの泣き声はか細く、風の音に掻き消されてしまう。家の戸口には、固くなった黒パンを、水でふやかして分け合う家族の姿があった。そのパンすら、明日には尽きるだろう。

アレスは、その中央に立った。彼の純白のマントが、灰色の風景の中で唯一の色だった。彼は天に手をかざし、その全身全霊を込めて祈った。彼の祈りは、個人的な神への請願ではない。彼自身が、世界の法則に直接語りかける、一種の命令だった。

「光よ、恵みよ、この地に満ちよ」

彼の体から放たれた金色の光が、天に昇り、厚い雲を貫いた。雲の切れ間から、何年ぶりかという、まばゆい陽光が差し込む。その光は、大地に降り注ぎ、ぬかるんでいた泥を乾かし、黒く痩せていた土を、豊かな生命力を感じさせる黄金色へと変えていった。

そして、奇跡は起きた。

乾いた土の至る所から、緑の芽が、まるで意思を持っているかのように勢いよく顔を出したのだ。麦の芽、野菜の芽、果樹の若木。それらは、本来なら数ヶ月かかるはずの成長を、わずか数時間のうちに遂げていく。村人たちは、最初は何が起きたのか理解できず、ただ呆然と立ち尽くしていた。やがて、一人の少女が、芽吹いたばかりの瑞々しい葉に触れ、その柔らかさを確かめた。そして、歓喜の声を上げた。

その声が、伝染した。人々は泣きながら抱き合い、大地にひれ伏し、アレスの名を神のように讃えた。その日の夕暮れには、村は黄金色の麦穂で埋め尽くされ、たわわに実った果実の甘い香りが風に乗って運ばれてきた。人々は収穫の喜びに沸き、何年かぶりに腹を満たし、歌い、踊った。アレスは、その光景を小高い丘の上から眺めていた。夕日が彼の白銀の鎧を赤く染め、その姿はまるで神話の神のようだった。人々の笑顔、感謝の言葉。それが彼の正義だった。彼は、この世界から「飢え」という苦しみを一つ、消し去ったのだ。

――恐怖。

そうだ、確かに自分は人々を恐怖から救った。

記憶は、緑豊かな森が広がる南方の小王国、シルヴァニアへと飛ぶ。その国は、隣接する帝国からの侵略に、長年脅かされていた。帝国の鉄騎兵団は無慈悲で、村を焼き、人々を奴隷として連れ去っていった。シルヴァニアの騎士たちは勇敢に戦ったが、その数の差は歴然としていた。国境の森には、いつ終わるとも知れぬ戦いの緊張が満ち、鳥のさえずりは途絶え、代わりに昼夜を問わず、遠くで響く戦いの音が人々の心を苛んでいた。

アレスが戦場に降り立ったのは、真夏の太陽が大地を焦がす日だった。帝国の軍勢が、最後の砦である王都に迫っていた。城壁の上から見えるのは、地平線を埋め尽くさんばかりの、黒い鉄の波。絶望が、城内の兵士たちの顔を覆っていた。彼らは、愛する家族を守るために剣を握っていたが、その腕は震え、瞳には死の色が浮かんでいた。

アレスは、たった一人で城門を開け放ち、帝国の軍勢の前に立った。

帝国の将軍は、彼の姿を見て嘲笑した。だが、次の瞬間、その嘲笑は驚愕と恐怖に変わった。アレスが静かに聖剣を抜くと、その刀身から放たれた光が、太陽よりも眩しく戦場を照らし出したのだ。

「武器を捨てよ。争いは、ここで終わりだ」

彼の声は、雷鳴のように響き渡った。帝国の兵士たちが、その威光に気圧されて一瞬動きを止める。その隙を、アレスは見逃さなかった。彼は地を蹴った。彼の動きは、人間の目では捉えられない。彼は疾風となり、戦場を駆け抜けた。彼が通り過ぎた後には、武器を失い、呆然と立ち尽くす兵士たちの姿だけが残った。剣は折られ、槍は砕かれ、弓は弦を切られていた。誰一人傷つけることなく、彼は巨大な軍隊を、わずか数分で無力化してしまったのだ。

夕暮れ時、血ではなく汗と土埃にまみれた兵士たちが、静かに故郷へと帰っていく。もう、この森で血が流れることはない。シルヴァニアの民は、城壁からその光景を信じられない思いで見つめ、やがて、爆発的な歓声が王都を揺るがした。アレスは、戦いの終わった草原に一人立ち、静かに剣を鞘に収めた。風が運び来る、むせ返るような夏の草いきれの匂い。それは、死の匂いよりも、ずっと心地よかった。彼は、この世界から「戦争」という恐怖を一つ、消し去ったのだ。

――理不尽な死。

そうだ、確かに自分は人々を理不尽な死から救った。

彼の記憶が最後に映し出したのは、港町ポート・エリアで猛威を振るった「灰色の死病」の光景だった。それは、高熱と共に全身が石のように硬化していく不治の病。感染力は強く、瞬く間に町中に広がった。薬師たちの懸命の努力もむなしく、人々は次々と命を落としていった。愛する者が目の前で冷たい石になっていくのを見つめるしかない絶望。町は死の匂いと、残された者たちの嗚咽に満たされていた。季節は秋。澄み渡る空と、海に沈む美しい夕日が、人々の悲しみを一層深くしていた。

アレスは、病が最も蔓延する隔離病棟へと、何の躊躇もなく足を踏み入れた。そこは、この世の地獄だった。藁のベッドに横たわる人々、か細い呼吸、虚ろな瞳。彼は、その一人一人の手に触れ、額に口づけをした。

彼の体から溢れ出す聖なる光が、病魔を浄化していく。硬化していた皮膚は柔らかさを取り戻し、高熱は引き、死の淵をさまよっていた人々が、次々と意識を取り戻した。人々は、涙を流して彼に感謝した。失われたはずの未来が、再びその手に戻ってきたのだ。

やがて、町から病は完全に駆逐された。港には活気が戻り、船乗りたちの陽気な歌声が響き渡る。子供たちは、病気になる前よりも元気に、浜辺を駆け回っていた。アレスは、その光景を教会の鐘楼から見下ろしていた。潮風が、彼の頬を優しく撫でる。彼は、この世界から「病」という理不尽を一つ、消し去ったのだ。

そうだ。自分は、確かに世界を救った。苦しみをなくし、安寧をもたらした。それは紛れもない事実のはずだ。

アレスの魂に、微かな自負が蘇りかけた、その時。

冥王ハデスの、熱を帯びた声が、その儚い光を打ち砕いた。

「そうだ。それは事実だ。だが同時に、人が人として輝くために、その魂が真の価値を得るために不可欠なものをも、この世界から根こそぎ奪い去ったのだ」

ハデスの声が、徐々に熱を帯びていく。それは、単なる怒りではない。世界の在り方そのものを歪められたことに対する、神としての、あるいは世界の管理者としての、深い嘆きと憤りだった。

「『困難』『挑戦』『失敗』。それらは、人間という種族にとって、魂を磨くための砥石であった。灼熱の炉であり、万鈞の鎚であった。お前は、人々が汗を流し、涙を流し、時には血を流して乗り越えるべきだった、その全ての試練を取り払った」

ハデスの言葉は、もはやアレス個人への糾弾ではなかった。それは、世界の理そのものの解説だった。

「考えてみろ、アレス。鍛冶師は、ただの鉄塊をどのようにして名剣に変える?何度も火にくべ、赤く熱し、鎚で打ち、水に浸す。その過酷な工程を繰り返すことで、不純物は叩き出され、鋼は強靭さと輝きを得るのだ。魂もまた、同じだ」

冥王は、ゆっくりと指をアレスに向けた。その指先は、世界の法則そのものを指し示しているかのようだった。

「お前が救った、あの飢饉の村。グレイランドの民を思い出せ。厳しい冬を耐え忍び、乏しい食料を分け合い、春の訪れを信じて歯を食いしばる。その過程で、彼らの魂には『忍耐』という美徳が刻まれるはずだった。痩せた土地を、知恵と工夫で耕し、僅かな収穫を得た時の、あの心からの感謝。仲間と協力し、一つの困難を乗り越えた時の『結束』。それら全てを、お前は一瞬の奇跡で奪い去った」

ハデスの言葉は、アレスの記憶に新たな光を当てた。

そうだ。あの後、グレイランドはどうなった?彼は、噂を耳にしたことがある。人々は、もはや畑を耕さなくなった。どんな天災が訪れても、「またアレス様が救ってくださる」と、ただ空を眺めて祈るだけになったと。努力の価値は失われ、感謝は当然の権利へと変わった。春の芽吹きに感動はなく、秋の収穫に喜びはない。ただ、与えられるのを待つだけの、魂の抜け殻。

「お前が平和をもたらした、あのシルヴァニア王国。あの国の人々を思い出せ。侵略の恐怖に怯えながらも、愛する家族や故郷を守るために、震える手で剣を握りしめる。その極限の状況でこそ、魂には最も尊いものが刻まれる。圧倒的な敵を前にしても、なお立ち向かう**『勇気』**。それは、お前のような絶対的な強者には決して理解できぬ、弱者が持つ最高の輝きだ」

アレスの脳裏に、帝国軍に立ち向かう前の、シルヴァニアの老兵の顔が浮かんだ。彼は震える声で、若い兵士たちに語りかけていた。「我々は負けるかもしれん。だが、ここで逃げれば、我々は家畜だ。誇りを持って死のう。それが、我々にできる唯一の戦いだ」と。あの時、あの老兵の瞳に宿っていた光。それは、絶望の中に見出した、人間としての最後の尊厳の光だった。

「戦いを生き延びた者は、死んでいった戦友を悼み、戦争の悲惨さを知る。そして、二度と過ちを繰り返すまいと誓う。その痛みから、人は『知恵』を学ぶのだ。だが、お前はどうだ?誰一人傷つけず、血も流させず、まるで子供の喧嘩を仲裁するように戦争を終わらせた。痛みを知らぬ平和に、真の価値などない。彼らは、なぜ争いが愚かなのかを学ぶ機会を永遠に失ったのだ」

そうだ。あの後、シルヴァニアはどうなった?戦争の恐怖を忘れた人々は、今度は内輪での些細な権利争いに明け暮れるようになったと聞く。命の重みを知らぬ彼らにとって、争いはもはや深刻なものではなく、退屈を紛らわすための遊戯に成り下がってしまった。兵士たちは戦う誇りを失い、ただ無為に日々を過ごしていると。

「お前が病を癒した、あの港町ポート・エリア。あの町の人々を思い出せ。死という、抗えぬ運命を前にして、人は初めて生の輝きを知る。限られた時間の中で、何を為すべきか、誰を愛すべきかを真剣に考える。病に倒れた隣人を看病し、その痛みを分かち合うことで、人は**『憐れみ』**を学ぶ。自らの無力さを知り、それでもなお、愛する者の手を握り続けることで、魂は深く、豊かになるのだ」

アレスは、隔離病棟で見た光景を思い出す。自分の娘が石に変わっていくのを、ただ見守ることしかできない父親。彼は、娘の好きだった野の花を毎日摘んできては、動かなくなったその枕元に飾り続けていた。その行為に、何の意味もない。それでも、彼はそうせずにはいられなかった。その父親の姿にこそ、人間の愛の、最も純粋な形があったのではないか。

「だがお前は、その死の恐怖すらも奪い去った。人々は、もはや死を恐れなくなった。生が永遠に続くかのように錯覚し、限りある時間の尊さを忘れた。病の苦しみを知らぬ者は、他者の痛みを理解できない。お前は、人々から病を取り除いたのではない。**『誇り』、**そして**『憐れみ』**といった、魂の『美徳』そのものを根こそぎ奪い去ったのだ!」

ハデスの声が、神殿全体を激しく震わせた。それは、裁きの声だった。

「お前は人々を救ったのではない。彼らの魂を、永遠に成長することのない、ただ安楽を貪るだけの家畜にしたのだ。これ以上に残酷で、傲慢な支配が、他にあるか?」

その言葉を聞いた時、アレスの虚ろな瞳に、ほんのかすかな光が宿った。

それは希望の光ではない。怒りでも、悲しみでもない。

絶望の底の、さらにその奥底から、彼の存在の根源から湧き上がってきた、最後の、そして最も純粋な疑問だった。

「なぜ…」

彼の声は、ひび割れたガラスのようだった。ほとんど音にならず、神殿の冷気の中に吸い込まれて消えそうだった。それでも、彼はかろうじて言葉を紡いだ。

「なぜ、貴方はここまで私に教えるのだ…?ただ私を地獄へ送り、罰を与えるというのなら、このような対話は…不要なはずだ…」

英雄として生きてきた男の、最後の問い。それは、自らの罪を理解するための問いではなかった。自らの存在理由そのものへの、問いかけだった。

その問いに、ハデスは初めて、わずかな沈黙で応えた。

それは、ほんの一瞬の間だったが、神殿に満ちていた時間の流れが、完全に停止したかのように感じられた。冥府を流れる忘却の川、レテのせせらぎすら、その音を止めたかのようだった。

やがて、彼はこれまでとは違う、どこか個人的な響きすら感じさせる声で、その重い口を開いた。

「……お前のような絶対的な『光』は、同質の巨大な『影』を生む」

ハデスの声は、もはや断罪の熱を失い、ただひたすらに冷たく、厳かに冥府の冷気の中に響いた。その声は、まるで世界の真理を語る天体の運行のように、非情で、揺るぎない法則の響きを持っていた。

「お前が消し去った世界の苦難や悪意は、消滅してはいない」

ハデスは玉座から立ち上がり、その巨躯がアレスの前に影を落とした。彼の視線はアレスを通り越し、遥か彼方の何か、世界の理そのものを見据えているようだった。彼は、アレスに語りかけながら、同時に、アレスという存在を通して、未来の世界に語りかけているかのようだった。

「考えてみろ、アレス。光が強ければ強いほど、その影は濃くなる。お前は、飢えや争い、病といった『目に見える苦しみ』を地上から一掃した。だが、それらの苦しみによって消費されるはずだった、人間の根源的な『負のエネルギー』…嫉妬、怠惰、傲慢、憎悪…それらはどこへ行ったと思う?」

ハデスは、ゆっくりと神殿の中を歩き始めた。彼の歩みに合わせ、黒曜石の床に、アレスが見たことのない光景が、水面のように揺らめきながら浮かび上がった。

最初に映し出されたのは、アレスが救った飢饉の村、グレイランドの現在の姿だった。黄金色の麦は、相も変わらず豊かに実っている。しかし、誰もそれを収穫しようとはしない。人々は、家の軒先でぼんやりと座り、虚空を見つめている。子供たちは駆け回ることもなく、ただ人形のようにじっとしている。かつて、生きるために必死だった彼らの瞳から、光は完全に消え失せていた。彼らは、苦しみから解放されたのではない。生きる目的そのものから、解放されてしまったのだ。努力も、工夫も、協力も、もはや必要ない世界。そこには、魂が磨かれる機会はなく、ただ生命維持装置に繋がれた植物のように、時が過ぎるのを待つだけの、生ける屍の群れがあるだけだった。

「お前が消し去った『飢え』は、『無気力』という名の、より根深い飢餓を生んだ。生きる意欲の飢餓だ」

次に映し出されたのは、平和になったはずのシルヴァニア王国だった。戦争はない。だが、街には奇妙な緊張感が漂っている。人々は互いを監視し、些細なことでいがみ合っている。誰かが少しでも裕福になれば、足を引っ張り、誰かが僅かな失敗をすれば、ここぞとばかりに嘲笑する。かつて、共通の敵を前にして団結していた彼らは、その矛先を、より身近で、より弱い者へと向け始めたのだ。命の危険がない世界で、彼らの有り余る闘争本能は、陰湿な『嫉妬』と『憎悪』となって、内側から国を腐らせていた。

「お前が消し去った『恐怖』は、『猜疑心』という名の、見えない恐怖を生んだ。隣人こそが敵となる世界だ」

最後に映し出されたのは、病を克服した港町ポート・エリアだった。人々は健康で、長寿になった。しかし、その顔に喜びはない。死の恐怖から解放された彼らは、生の尊さを完全に忘れてしまった。芸術は生まれず、新たな学問が探求されることもない。なぜなら、それらは全て、限りある命を輝かせるための営みだったからだ。彼らは、刹那的な快楽のみを追い求め、より強い刺激を求めて、かつては考えられもしなかったような、倒錯的な娯楽にふけるようになっていた。

「お前が消し去った『理不尽な死』は、『退廃』という名の、緩やかな魂の死をもたらした。永遠の命など、人間にとっては呪いでしかないのだ」

床に映し出された光景が、渦を巻くように一つになり、やがて、おぞましいイメージへと変わっていった。それは、世界の底に溜まった、巨大な『澱』だった。アレスが消し去った苦難、悪意、苦痛。それらが消滅することなく、世界の法則を歪め、より悪質で、より救いようのない、ヘドロのような塊となって、世界の基盤そのものを蝕んでいる。それは、まるで巨大な癌細胞のように、脈動していた。いずれ、その澱が地上に溢れ出した時、世界は、アレスがいた時以上の、救いのない混沌に沈むだろう。

「私は、魂の循環と、この世界の均衡を司る者だ」

ハデスは、その『澱』のビジョンを足で踏み消すと、再びアレスに視線を戻した。その瞳には、もはや裁判官の冷徹さはなかった。世界の運命を憂う、守護者の、深く、静かな悲哀にも似た色が浮かんでいた。

「魂は、苦難の中で生まれ、試練の中で磨かれ、死をもって冥府に還り、そして再び生へと循環する。それが、この世界の法則だ。だが、お前の作った世界は、魂が生まれぬ不毛の大地。美徳が育たぬ、死んだ世界だ。循環は止まり、澱み、やがて腐敗する。私の役目は、それを未然に防ぎ、歪みを正すことにある」

ハデスの言葉は、最後の宣告だった。

「故に、この対話はお前一人のためではない。お前という『英雄』が、そしてお前が信じたような安易な『正義』が、二度とこの世界に現れぬようにするための、未来永劫に打ち込むべき楔なのだ」

その言葉を聞き終えた瞬間、アレスは、全てを理解した。

パズルの最後のピースが、カチリと音を立ててはまったかのように。全ての疑問が氷解し、彼の空っぽの器に、絶対的な、そして絶望的な真理が満たされていった。

自分は、罪人ですらなかった。

罪とは、法を犯した者に与えられる、人間的な尺度の言葉だ。だが、自分がやったことは、そんな次元の話ではない。自分という存在そのものが、世界のシステムを根幹から破壊しかねない、予測不能で危険な「バグ」だったのだ。

ハデスの行いは、単なる断罪などという個人的な感情によるものではない。それは、世界の恒常性を守るための、必然的な「治療」行為であり、「デバッグ」作業だったのだ。

そのあまりに壮大で、あまりに非情な理の前では、自分の人生も、栄光も、苦悩も、そして今感じているこの絶望すらも、全てが取るに足らない、矮小な出来事に過ぎなかった。

英雄アレス。人々を救った光の勇者。その物語は、壮大な宇宙の歴史から見れば、ほんの僅かな瞬きにも満たない、些細なエラーログに過ぎなかったのだ。

ああ、そうか。

そういうことだったのか。

彼が救った人々の笑顔が、脳裏をよぎる。飢えから解放された少女の、涙に濡れた感謝の言葉。平和を噛みしめる老兵の、安堵の溜息。病から回復した母親の、我が子を抱きしめる喜び。それらは全て、本物だった。彼の善意もまた、本物だった。

だが、善意だけでは、世界は救えない。いや、善意こそが、世界を滅ぼすことさえあるのだ。

アレスは、静かに目を閉じた。

瞼の裏に広がる闇の中で、彼の魂の奥底で、何かが静かに、そして完全に終わった。燃え盛る炎が、最後の輝きを放って消え去るように。

もはや、抗う意志はない。
後悔もない。
弁解も、言い訳もない。

ただ、巨大で、完璧で、そして冷徹なシステムの前に、一個のちっぽけな存在として、そこにあるだけだった。

彼は、自分が犯したことの途方もない結果を理解した。そして、その責任を取らなければならないことも。いや、責任という言葉すら、もはや陳腐に響く。これは、責任ではない。役割だ。

エラーとして生まれた自分が、世界の修正プロセスの一部として、組み込まれる。それが、唯一の、そして必然の結末。

アレスは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、もう何の感情も映っていなかった。虚無でも、絶望でもない。ただ、全てを受け入れた者の、湖面のような静寂が広がっていた。

神殿の空気が、変わった。それまでアレスの魂を圧迫していた重苦しい気配が消え、代わりに、厳粛で神聖な静寂が満ちていく。ハデスは、玉座に戻り、再び深くその身を沈めていた。彼の表情もまた、静かだった。彼は、ただ世界の法則の代行者として、その役割を果たしただけなのだ。

アレスは、もはや裁かれる罪人ではない。
彼は、世界の均衡を保つための、新たな役割を与えられるのだ。
それが、どのような役割なのかは分からない。
世界の底に溜まった『澱』を、その身をもって封じ込める人柱となるのかもしれない。あるいは、未来に現れるであろう、第二、第三の「アレス」を戒めるための、永遠の番人となるのかもしれない。
どんな過酷な運命であろうと、構わない。

それは、罰ではない。
彼がこの世界に対して、唯一果たせる、最後の「貢献」なのだから。

彼はただ、来るべき最後の審判を、そして自らに与えられるべき「役割」を、静かに受け入れる準備を整えた。

冥府の風が、彼の魂の抜け殻を、優しく撫でて通り過ぎていった。それはまるで、長すぎた物語の終わりを告げる、静かなカーテンコールのように、アレスには感じられた。
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黄昏人
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ハヤトは15歳、中学3年生の時に異世界に召喚され、7年の苦労の後、22歳にて魔族と魔王を滅ぼして日本に帰還した。帰還の際には、莫大な財宝を持たされ、さらに身につけた魔法を始めとする能力も保持できたが、マナの濃度の低い地球における能力は限定的なものであった。しかし、それでも圧倒的な体力と戦闘能力、限定的とは言え魔法能力は現代日本を、いや世界を大きく動かすのであった。 4年前に書いたものをリライトして載せてみます。

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