記憶喪失の悪役令嬢、断罪フラグより国家破綻が目前なので、牢屋の天才と無骨な騎士と国を立て直します

Gaku

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第二話:『白馬の王子様より、まずは牢屋の罪人様ですわ!』

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漆黒のベルベットが窓の外を覆い尽くし、城の尖塔が夜空の星々をかすめる時刻。私は、自室の豪奢な椅子に身を沈めながら、先ほど侍女長マーサから無理やり聞き出した情報を、頭の中にある見えないメモ帳の一ページ目に、一文字たりともこぼさぬよう、強く、深く刻み込んでいた。それはこの城の見取り図であり、私がこれから歩むべき道の羅針盤となるはずのものだった。記憶を失った悪役令嬢アリシアとして目覚めて数日、周囲の恐怖と腫れ物に触るような態度に辟易していた私は、ついに自ら動くことを決意したのだ。情報がなければ始まらない。現状を把握し、未来を切り拓くための、これは最初の一歩に過ぎない。

深呼吸を一つ。冷たく澄んだ夜の空気が、緊張で強張っていた肺を満たしていく。よし、と小さく呟き、私は重いシルクのガウンが床に擦れる音も構わず、勢いよく椅子から立ち上がった。自室の扉は、私の背丈の倍はあろうかという巨大なマホガニー製で、繊細な彫刻が施されている。その黄金のドアノブに手をかけた、まさにその瞬間だった。

「アリシア様、どちらへお出かけでございますか?」

背後からかけられた声は、まるで絹のように滑らかでありながら、鋼鉄の芯を感じさせるものだった。侍女長マーサ。この城で唯一、私に対して恐怖よりも先に忠誠心(あるいは職務意識)を見せる、鉄壁のポーカーフェイスを持つ女性だ。しかし、長年培われたであろうその完璧な無表情の仮面の下から、「お願いでございますから、これ以上面倒事を起こさないでくださいませ」という魂の叫びが、悲痛なほど鮮明に透けて聞こえてくるようだった。その心の声に、私は内心で(ごめん、マーサ)と謝りつつ、できる限りの優雅さを装って、ゆっくりと振り返った。唇の端を引き上げ、慈愛に満ちた(あくまで、つもりの)笑みを彼女に向ける。

「少し、城の探検をしようと思って。わたくし、記憶がありませんでしょう? 自分の住んでいるお城のことくらい、きちんと知っておかなくては、主として示しがつきませんもの」

我ながら完璧な言い分だと思った。正論であり、王女としての自覚の表れでもある。これならばマーサも納得し、感心さえしてくれるかもしれない。そんな淡い期待は、しかし、一瞬にして打ち砕かれた。私の言葉を聞いたマーサの顔から、サッと血の気が引いていくのがはっきりと見て取れたのだ。その表情の変化は、まるで穏やかな春の日に突如として絶対零度の吹雪が吹き荒れたかのようだった。

(え、ちょっと待って!? 今、私、『探検』って言っただけだよね!? なんでそんな、禁断とされていた古代文明の最終兵器の起動スイッチを、よりにもよって目の前で押してしまったかのような顔をするの!? 教えて、マーサ! 昔のアリシアは、お城を探検した結果、一体何を破壊したの!? 城壁!? それともどこかの国の外交官!?)

内心で繰り広げられる絶叫の嵐を、必死で喉の奥に押し殺す。ここで動揺を見せれば、マーサは文字通り体当たりで私を部屋に押し戻しかねない。私は平静を装い、「ついてこなくてよろしくてよ。一人で静かに見て回りたい気分なの」と、有無を言わさぬ口調で告げた。そして、これ以上の問答は無用とばかりに、彼女に背を向けて廊下へと一歩を踏み出す。カツン、とヒールの硬い音が、静寂に包まれた廊下に響いた。一歩、また一歩と進むごとに、背後でマーサが天にいます全ての神々に祈りを捧げ、何かの奇跡が起こることを切に願っているかのような、悲壮な気配をひしひしと感じたが、私は断固として気づかないふりを貫き通した。

一歩足を踏み出した廊下は、息を呑むほどに、そしてどこか人を寄せ付けないほどに、無駄が多かった。天井は遥か高く、まるで天上の神殿にでも迷い込んだかのような錯覚を覚える。そのアーチ状の天井には、建国の神話を描いたであろう壮大なフレスコ画が広がっているが、薄暗がりの中ではその色彩も不鮮明で、ただただ荘厳な圧力を放っているだけだった。両側の壁には、歴代王族の肖像画がこれみよがしに、等間隔で掲げられている。しかし、描かれた王や女王たちは、誰も彼もが一様にふてぶてしく、尊大で、民を慈しむような温かみのある表情の者は一人もいない。彼らの冷たい瞳が、まるで私の行動を監視しているかのように、どこまでも追いかけてくる。ありがたみなど、微塵も感じられなかった。

磨き上げられた床の大理石は、等間隔に配置された巨大な窓から差し込む月光を鈍く反射し、足元に銀色の道を映し出していたが、よく目を凝らせば、壁際の彫刻が施された腰羽目板の隅の方には、ふわりとした灰色の埃が溜まっているのが見える。豪華絢爛、壮麗無比。しかし、その実態はどこか人の温もりが欠落し、ただただ空虚な箱。それが、このエドワード城に対する私の第一印象だった。

(まずは図書室を目指すべきね。マーサの執務室の隣にあると言っていたわ。本があれば、この国の歴史や法律、政治体制、それに文化や風習について、もっと詳しく知ることができるはずだ。知識は力よ。今の私に最も必要なものだわ)

マーサから聞き出した、頭の中の地図を慎重に広げる。確か、この廊下を突き当たりまで進み、右に曲がって、次の角を左……。私は記憶を頼りに、大理石の床に足音を響かせながら歩を進めた。一つ目の角を、指示通りに曲がる。現れたのは、先ほどと寸分違わぬ、不機見な肖像画が並ぶ廊下だった。まあ、城なんてこんなものだろう。気を取り直して、さらに進み、次の角を曲がる。そこにもまた、同じような赤い絨毯が長く伸び、同じような金ピカの装飾が施された扉が並んでいた。

(……あれ?)

何かおかしい。既視感、というレベルではない。景色が全く、と言っていいほど変わらないのだ。どこまで歩いても、同じような幅の廊下、同じような高さの天井、同じようなデザインの燭台、そして何よりも、同じような不機嫌そうな顔つきの肖像画が私を睨めつけてくる。私は確信した。

(……完全に、迷った)

さすがは私だ。前世の、日本という狭い国でさえ地図アプリがなければ目的地にたどり着けなかったこの私が、異世界の、それもこんな馬鹿でかい城の中で迷わないはずがなかったのだ。転生したくらいで、致命的な方向音痴が治るわけもなかった。今更マーサの元へ引き返し、「ごめんなさい、迷子になりました」と泣きつくのは、私のちっぽけなプライドが許さない。私は、半ばやけくそになりながら、自分の直感だけを頼りにやみくもに歩き続けた。

その結果、どういうわけか、きらびやかで貴族的な空気が満ちていた王族用の廊下から、いつの間にか、薄暗く、ひんやりとした空気が肌を撫でる裏手の通路へと迷い込んでしまっていた。

そこは、つい先ほどまで歩いていた場所とは、まるで世界の法則が違うかのように、全く異質な空間だった。壁は豪華な壁紙など貼られておらず、ごつごつとした石がむき出しになっている。床には柔らかな絨毯もなく、私のヒールの音はカツンカツンと乾いた響きを立て、無機質に反響した。遥か高い天井近くに設けられた小さな窓から差し込む月光も、ここでは弱々しく、頼りない光の筋を床に落とすのみ。空気は湿り気を帯びて冷たく、石壁を伝って滴る水の音が、時折静寂を破った。

ここは、おそらく召使いたちが日々の業務のために使う通路なのだろう。時折、簡素な衣服をまとった人々が、せわしなく行き交う姿が見えた。しかし、彼らは廊下の角から私の姿を認めると、まるで悪夢から飛び出してきた幽霊でも見たかのように、一瞬で凍りつき、息を殺して壁際にへばりつく。そして、私が通り過ぎるのを、石像のように固まって待っているのだ。彼らの視線は決して私と交わらず、ただ床の一点に注がれている。その過剰なまでの恐怖と拒絶に満ちた反応に触れるたび、私の心は、鋭利なガラスの破片でじわりじわりと、地味に、しかし確実に傷つけられていった。

(……どんだけ嫌われてるのよ、私……いや、元のアリシアは)

そんなことを考えながら、半ば自虐的な気持ちで、さらに通路の奥深くへと足を進めていくと、次第に鼻腔を刺激する特有の匂いが強くなってきたことに気づいた。

それは、複合的な匂いだった。
長い間、陽の光を浴びていない場所特有のカビの匂い。
じっとりと湿った土の匂い。
そして、それら全ての不快な匂いを塗りつぶし、支配するかのような、濃密で、息が詰まるほどの、絶望の匂い。

まるで腐臭に引き寄せられる蠅のように、私はその強烈な匂いの発生源をたどった。そして、一つの、他とは明らかに違う、重々しい鉄の扉の前へとたどり着いた。扉は黒々としており、無数の鋲が打ち付けられている。その両脇には、王家の紋章が入った盾と、穂先を鋭く磨かれた槍を手にした二人の衛兵が、石像のように微動だにせず立っていた。しかし、彼らは私の姿を視界に捉えた瞬間、その厳格な表情を崩し、顔を真っ青にして、まるで背筋に氷でも突っ込まれたかのように直立不動になった。その瞳が、恐怖に揺れている。

「……ここは、何?」

私が静かに尋ねると、衛兵の一人が、カタカタと震える歯を必死に噛み合わせながら、どもりどもりに答えた。

「ち、ち、地下牢獄で、ございます、アリシア様」

「牢獄?」
聞き返した私の声に、特別な感情はなかったはずだ。しかし、衛兵はさらに身を縮こまらせた。

「は、はい。アリシア様が、その……お気に召さなかった者たちを、お、お入れになるための……」

(私の!? 私設の牢獄ですって!?)

開いた口が塞がらなかった。思考が完全に停止する。自分の気分を害した人間を収監するためだけに、わざわざ城の地下に、専用の牢屋を? どんだけ自分勝手で、傲慢で、人の心を解さない人間なんだ、元のアリシアは! 怒りを通り越して、もはや呆れて言葉も出ない。この国の司法制度はどうなっているんだ。王女の一存で、裁判もなしに人を投獄できるというのか。

「……開けなさい」

絞り出した声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。

「へ?」

衛兵は、信じられないという顔で私を見返す。

「扉を開けろと言っているのよ。中の様子を、この目で見ます」

私の命令に、衛兵たちは「どうかご勘弁くださいませ!」という悲鳴にも似た表情で、互いの顔を見合わせた。彼らにとっては、私がこの場所に来ること自体が悪夢の始まりなのだろう。囚人たちの惨状を見て、さらに機嫌を損ねた私が、新たな、より残虐な悪行に走る──そんな未来しか見えていないに違いない。彼らの逡巡は、私への恐怖と、命令に背くことへの恐怖との間で揺れ動いていた。

「聞こえなかったのかしら?」

私は、地獄の底から響いてくるような、低く、威圧的な声(のつもり)で、もう一度繰り返した。その一言が、彼らの躊躇を打ち砕いたらしい。二人は弾かれたように慌てて腰の鍵束を取り出し、その中から一番大きく、錆びついた鍵を選び出した。そして、ギギギ、ギィィィ……と、錆びた蝶番が悲鳴を上げるような、耳障りで不快な音を立てながら、その重い鉄の扉をゆっくりと開けていった。

開かれた扉の向こうから、冷たく、淀んだ空気が津波のように押し寄せてくる。中に一歩足を踏み入れた瞬間、私は思わず息を呑んだ。

そこは、光という概念が存在しない世界だった。
文明社会から完全に切り離された、絶対的な闇の空間。

壁から突き出た鉄の腕に支えられた松明が、二、三本、パチパチと心許ない音を立てて燃えているだけで、あとはどこまでも深く、底なしの闇が広がっている。じっとりとした粘つくような冷気が、高価なドレスの生地を通してさえ肌を刺し、先ほど通路で感じたよりも格段に濃くなったカビと汚物と、そして絶望が凝縮された匂いが、呼吸をするたびに肺を汚していくようだった。

「……ここには、何人いるの」

震えそうになる声を必死で抑え、私は背後の衛兵に尋ねた。

「は……現在、三十名ほどが……収監されております」

「三十名!?」

思わず、素っ頓狂な声が出た。私の声が、湿った石壁に反響して不気味に響く。衛兵がビクッと肩を震わせたのが、闇の中でも分かった。

私は、一番近くにあった松明を衛兵の手からひったくると、覚悟を決めて、闇の奥へと足を進めた。揺らめく炎が、周囲の光景を断片的に照らし出す。そこに現れたのは、幾重にも並ぶ鉄格子の檻だった。そして、その向こう側に、亡霊のようにぼんやりと浮かび上がる、いくつもの人影。

彼らは皆、人間としての尊厳を奪われ尽くした姿をしていた。頬はこけ、眼窩は落ち窪み、まるでぼろきれのような、かつては衣服だったであろう布をその身にまとっている。ある者は力なく床に座り込み、ある者は冷たい石の床に横たわり、微動だにしない。そして、その誰もが、瞳に一切の光を宿していなかった。ただ虚ろに、焦点の合わない目で、目の前の暗闇か、あるいは壁の一点を見つめているだけだ。生きている、というよりは、ただ死ぬことを許されずにそこに存在しているだけの、抜け殻のようだった。

「……彼らの、罪状は?」

私の声は、自分でも信じられないほど掠れていた。

「は、はい。まず、そちらの牢におります男は、アリシア様の肖像画を描いた際に、お顔のシワを、指示されたよりも一本多く描いたという罪で……」

「はあ!?」

理解が追いつかない。シワ一本。たったそれだけのことで、人はこんな場所に投げ込まれるのか。

「あちらの檻の女は、アリシア様のお食事にお出ししたパンが、様のお口には、思ったよりもふんわりとしていなかった、という罪で……」

「…………」

もはや、言葉も出ない。

「そして、一番奥の牢におります学者は、アリシア様が『星はなぜ夜空で光るのか』と、お尋ねになった際、『恒星が自らの重力で収縮する際に生じる核融合反応によって莫大なエネルギーが…』などと、長々と小難しい説明を始めた罪で…」

「もう、いいわッ!!」

私は、耐えきれずに叫んだ。頭が割れるように痛い。クラクラする。なんだ、その理不尽のオンパレードは。なんだその、暴君の気まぐれとしか言いようのない罪状の数々は。こんな、あまりにもくだらない、身勝手な理由で、人は牢獄に入れられていいというのか。こんな、光も届かず、風も通わず、明日への希望も一切持つことのできないような場所で、ただ無為に朽ちていくのを待つだけの存在にされていいはずがない。

怒りで震える視線を、牢獄の奥へと向けた、その時だった。一番奥にある牢にいる一人の男に、私の目が留まった。彼は、他の囚人たちとは明らかに何かが違っていた。もちろん、骨と皮ばかりに痩せこけているのは同じだ。だが、その瞳の奥には、まだ消え失せていない理性の光が、かろうじて宿っていた。そして彼は、血が滲んだ指の爪で、牢の壁に何か複雑怪奇な数式のようなものを、一心不乱に書きつけていた。

(あ、あれが……マーサが言っていた、この国一番の天才学者、エーリヒか……)

その隣の牢にも、もう一人、異質な空気を放つ男がいた。囚人服は泥と汚れで見る影もなく、無精髭も伸び放題だ。しかし、その服の下の体つきは、明らかに過酷な鍛錬によって作り上げられたものであり、闇の中でもなお、その眼光は狼のように鋭く、爛々と輝いていた。彼は、私が松明をかざした瞬間から、私をまっすぐに、射抜くように見据えていた。その瞳には、燃え盛るような憎しみと、どうにもならない状況への諦めと、そして、私という存在に対する、ほんのわずかな侮辱の色が混じっていた。

(そして、こっちが……若くして騎士団長の座に上り詰めた、クラウス……。彼の罪状は確か……廊下ですれ違った時に、目が合った、だったかしら)

ふつふつと、ふつふつと、腹の底から、マグマのような熱い何かがこみ上げてくるのを感じた。それは、私がこの世界に生を受けてから、いや、前世の記憶を含めても、一度たりとも感じたことのないほどの、純粋で、どこまでも激しい怒りの感情だった。

(ふざけるなッ!!)

目の前にいる囚人たちにではない。こんな非人道的な行いを、さも当然のことのように、平然とやってのけた、「元のアリシア」に対してだ。
こんな、国の未来を担うべき才能と、忠誠心に溢れた人々の、かけがえのない時間と尊厳を、ただ自分の機嫌一つで踏みにじり、奪い去った悪魔に、これ以上、私の体を使わせてたまるものか。

私は、燃え盛る松明を壁の燭台に叩きつけるように戻し、踵を返した。そして、何も知らずに扉の前で待っていた衛兵たちの前に、仁王立ちになって立ちはだかった。私の形相がよほど恐ろしかったのだろう。彼らは、先ほどまで手にしていた槍をカラン、と音を立てて取り落とし、腰を抜かさんばかりにガタガタと震えている。

「……全員、ここから出しなさい」

地を這うような低い声で、私は命じた。

「え……あ、あの……」

「今すぐ、この牢獄にいる者たちを、一人残らず、全員ここから出すのよ!」

「し、しかしアリシア様! 彼らは皆、アリシア様がご自身の命令でお入れになった者たちで……もし釈放などすれば、後で陛下からお咎めが……」

「理由は、もう覚えていないわ!!」

私は、この状況を打開できる唯一にして最強のカードを、声の限りに、高らかに宣言した。

「先日、落馬したせいで、わたくし、記憶がひどく混乱しているの! こんな薄汚い場所に牢獄があることも、誰がどんなくだらない理由でここに入れられているのかも、さっぱり、綺麗に、忘れてしまったのよ! だから、これは全て間違いだったの! 今すぐ全員を釈放しなさい! これは、王女としての命令よ!!」

私の絶叫に、衛兵たちは完全に思考を停止させ、呆然と私を見つめていた。しかし、「王女命令」という絶対的な言葉だけは、彼らの硬直した脳にどうにか届いたらしい。二人はしばらくの間、蒼白な顔で互いを見合わせた後、やがておぼつかない、よろよろとした足取りで、牢の鍵を開け始めた。重い鉄の鍵が、一つ、また一つと開けられていく音が、静まり返った地下牢に響き渡る。

しばらくして、三十名ほどの囚人たちが、まるでこの世の終わりのような顔で、恐る恐る牢から出てきた。彼らは何が起きているのか全く理解できず、ただただ困惑した表情で、私と衛兵たちを交互に見ている。誰もが、これは新たな拷問か、あるいは処刑の始まりではないかと疑っているようだった。

「外へ。あなたたちは自由よ。太陽の光を浴びなさい」

私の言葉に、彼らは一様にびくりと体を震わせた。しかし、誰も動こうとはしない。その時、衛兵の一人が、「行け!早くしろ!」と怒鳴ると、彼らはようやく、夢遊病者のようにゆっくりとした足取りで、地上へと続く、薄暗い石の階段を上り始めた。

私も、彼らの後を追った。湿った冷たい空気が渦巻く階段を一段ずつ上り、中庭へと続く重い扉が衛兵によって開け放たれた、その瞬間。

目が眩むほどの、圧倒的な光の奔流が、私たちの全身に降り注いできた。

春の柔らかな日差しが、手入れの行き届いた中庭いっぱいに満ち満ちている。心地よい風がそよぎ、刈り込まれたばかりの植え込みの若葉の匂いや、遠くの庭園から運ばれてくる名も知らぬ花の甘い香りが、鼻腔を優しくくすぐった。長い間、闇の中にいた囚人たちは、あまりに久しぶりに浴びる強烈な光と、肌を撫でる風の感触に、苦しげに目を細め、骨ばった腕で必死に顔を覆っている。

やがて、少しずつ目が慣れてきたのだろうか。彼らは、おずおずと、ゆっくりと、その腕を下ろし、空を見上げた。そこには、どこまでも澄み切った、吸い込まれそうなほどの青空が広がっていた。ぽっかりと浮かぶ真っ白な雲。高く澄んだ空を渡る小鳥たちの、楽しげなさえずり。何年も、あるいは何ヶ月も忘れていた、当たり前の世界の光景。

それらを認識した瞬間、彼らの虚ろだった瞳から、ぽろり、ぽろりと、大粒の涙が次々とこぼれ落ちた。信じられない、という硬い表情が、まるで雪解けのように、徐々に、本当にゆっくりと、純粋な喜びへと変わっていく。ある者はその場に崩れ落ちて嗚咽し、ある者は天を仰いで声を上げて泣き、またある者は、ただ呆然と立ち尽くしたまま、涙を流し続けていた。その光景は、私が今まで見たどんな高価な絵画よりも、どんな壮麗な宝石よりも、比較にならないほど美しく、そして感動的だった。

(……よかった)

心の底から、深い安堵のため息が漏れた。元のアリシアが犯した罪の一つを、ほんの少しだけ、償うことができた気がした。

そして、この感動的な解放シーンを締めくくるにふさわしい、最高の演出を、私は思いついた。

私は、まだ状況が飲み込めず、呆然と立ち尽くしているエーリヒとクラウスの前に、誇らしげに進み出た。そして、躊躇うことなく、泥と垢で汚れた彼らの手を、両方から力強く、ぐっと掴む。二人が驚いてビクッと体を震わせたが、そんなことはお構いなしだ。私はキラキラと瞳を輝かせ、物語のヒロインが浮かべるような、慈愛と希望に満ちた笑みで、高らかに宣言した。

「あなたたち! これからは、この私を支えなさい! その類まれなる知性と、比類なき武勇をもって、この傾きかけた国を立て直すのです! わたくしと共に、新しい歴史を、今、この場所から作り始めましょう!」

完璧だ。我ながら完璧な流れじゃないか。絶望からの感動的な解放シーン、そして未来への希望を示す仲間集めのイベント。物語の王道そのものだ。

さあ、感動に打ち震え、私の足元にひざまずくがいい!

しかし。

私の輝かしい期待とは裏腹に、天才学者エーリヒと騎士団長クラウスは、一瞬、顔を見合わせた。そして次の瞬間、まるで示し合わせたかのように、揃ってサッと一歩、後ろへ飛び退いた。それにつられるように、周囲で感動の涙にむせんでいたはずの他の元囚人たちも全員が、まるで巨大な毒蜘蛛でも現れたかのように、蜘蛛の子を散らすようにして、私から一斉に距離を取った。

中庭には、一瞬にして、巨大で、安全な円形の空白地帯が出来上がっていた。その中心に、私は一人、ぽつんと取り残される。

彼らの顔には、先ほどまでの感動や感謝の色は、どこにも、一片たりとも残ってはいなかった。
そこにあったのは、ただ、純度百パーセントの、混ぜ物のない恐怖だけが、くっきりと浮かんでいた。

(……また何か、我々の想像を絶する新しい罰ゲームが始まったに違いない……!)

その場にいた全員の、そんな悲痛な心の声が、春の爽やかで長閑な空気に、虚しく木霊したような気がした。
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