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第八話:『舞踏会は戦場、ドレスコードは国益ですの』
しおりを挟む季節は、すっかり冬の衣を纏っていた。空は低く、重たい雲がまるで巨大な獣の腹のように垂れ込めている日が多い。時折、その雲の隙間からこぼれる日差しは、まるで遠い記憶のように弱々しく、城の石壁を暖めるほどの力はもうない。風は、枯れ木の間を吹き抜けるたびに、ヒュー、ヒューと寂しげな口笛を吹いた。その音は、まるで世界の終わりを告げる前奏曲のようで、聞いているだけで心が凍えそうになる。
しかし、そんな荒涼とした外の世界とは裏腹に、王城の中は、奇妙な熱気に包まれていた。レオナルド王子を歓迎するための、そして彼の滞在を祝うという名目の、大規模な舞踏会が今夜、開かれるのだ。
廊下を行き交う侍女たちの足取りはせわしなく、騎士たちはいつもより念入りに磨かれた甲冑を身につけて警備に当たっている。城中に、床を磨く蜜蝋の甘い匂いと、厨房から漏れ伝わってくる肉の焼ける香ばしい匂い、そして貴族たちが纏うであろう高価な香水の匂いが混じり合い、落ち着かない、どこか浮かれた空気が満ちていた。
「王女様、こちらのお衣装はいかがでしょう! 隣国アストレアより取り寄せました最新のデザイン。この深紅のシルクは、王女様の燃えるような美しさを一層引き立てることでしょう!」
「まあ、こちらも素敵ですわ! 一面に縫い付けられた真珠は、まるで夜空の星々のよう。きっと、会場の誰よりも王女様を輝かせますわ!」
私の寝室で、侍女長と侍女たちが、目の前に山のようなドレスを広げて大騒ぎしている。どれもこれも、目もくらむような豪華絢爛な代物だ。金糸銀糸の刺繍は当たり前、宝石がこれでもかと縫い付けられ、一枚で小さな村の年貢くらいは軽く吹き飛びそうなものばかり。以前のアリシアが溜め込んだ、負の遺産たちである。
「うーん、そうねえ…」
私は、内心の巨大なため息を隠し、腕を組んで思案するふりをした。
(いらんいらん、こんなもん! 動きにくいし、肩は凝るし、何より無駄の極み! こんな布切れ一枚に、民の汗と涙がどれだけ詰まってると思ってるんだ!)
侍女たちの期待に満ちたキラキラした視線を一身に浴びながら、私はゆっくりと首を横に振った。
「どれも素敵だけれど、今夜の私には、ふさわしくないわ」
「そ、そんな…! では、どのようなドレスを…?」
顔面蒼白になる侍女長に、私はにっこりと微笑みかける。そして、部屋の隅に置かせていた、シンプルな一つの包みを指さした。
「今夜の私は、あれを着るわ」
侍女が、恐る恐るその包みを解く。現れたのは、他のドレスに比べれば、あまりにも地味で、質素な一着のドレスだった。
深い夜空のような藍色。しかし、それは高価なビロードでもシルクでもない。先日、エーリヒの指導のもと、国内の職人たちが開発した、新しい植物繊維から作られた、光沢のある丈夫な布地だ。デザインも、胸元や腕を過度に露出せず、動きやすさを重視した、洗練されてはいるが、装飾の一切ないシンプルなもの。唯一の飾りは、腰に巻かれた銀糸で編まれた細いベルトだけ。
「こ、これは…!? 王女様、このようなものを舞踏会でお召しになるなど、前代未聞にございます! 他国の王子もおられるのですよ! 王家の恥と笑われます!」
侍女長が、悲鳴のような声を上げた。無理もない。彼女の価値観では、これは貴族が着るものではなく、せいぜい裕福な商人の娘が一張羅として着るレベルのものだろう。
「恥ですって? とんでもない。これは、我が国の誇りそのものよ」
私は、そのドレスを手に取った。滑らかで、しっかりとした手触り。職人たちの試行錯誤と、この国にしかない技術が詰まった、希望の布だ。
「いいこと、侍女長。今夜の舞踏会は、ただのパーティーではないわ。我が国の未来を賭けた、戦なの。そして、このドレスは、その戦に挑むための、私の『戦闘服』よ」
「せ、戦闘服…?」
意味が分からず、ただ呆然と私を見つめる侍女長。私は、彼女には見えないように、不敵な笑みを浮かべた。
(見てなさい、レオナルド。見てなさい、時代遅れの貴族ども。私が、この国の本当の価値を、世界に示してやるわ!)
今夜の戦場(舞踏会)のドレスコードは、ただ一つ。「国益」である。
***
そして夜。王城で最も大きな「鏡の間」は、その名の通り、壁一面に張られた鏡が、数え切れないほどのシャンデリアの光を反射し合い、まるで昼間のように、いや、昼間以上に眩い光で満たされていた。
天井からは、万華鏡のようにカットされたクリスタルの装飾が吊り下げられ、床は寸分の狂いもなく磨き上げられた大理石。楽団が奏でる優雅なワルツの調べが、着飾った人々の楽しげなざわめきと混じり合う。空気中には、甘い花の香水、スパイシーな紳士のコロン、そして厨房から運ばれてくる料理の芳醇な香りが渦を巻き、嗅覚だけで目眩がしそうだった。
まさに、贅を尽くした、夢のような空間。そして、今の私にとっては、国庫を食い潰す、悪夢のような空間だ。
「やあ、アリシア! 今宵の君も、実に…ん?」
主役であるレオナルドが、私を見つけて近寄ってきた。彼は、今日も今日とて、白鳥の羽を惜しげもなくあしらった、純白のフロックコートに身を包み、胸元には巨大なダイヤモンドのブローチが輝いている。歩くたびに、彼の体中の装飾品がシャラシャラと音を立て、その存在をこれでもかと主張していた。
しかし、私の姿を見るなり、彼の言葉は途中で止まった。その完璧な顔が、面白いほどに、あからさまな侮蔑の色に染まっていく。
「…なんだ、その格好は。僕のために開かれた舞踏会だというのに、メイドの夜着のようなものを着てくるとは。ついに、正気を失ったか?」
「ごきげんよう、レオナル-ド様。お褒めにあずかり光栄ですわ。ですが、これはメイドの夜着ではございません。我が国が誇る、最新技術の結晶ですのよ」
私は、優雅にカーテシーをしてみせた。周囲の貴族たちが、クスクスと笑う声が聞こえる。彼らは、私のドレスを嘲笑っているのか、それともレオナルドのあまりの言い草に呆れているのか。おそらく、両方だろう。
その時だった。私の背後に、ぬるり、とした気配と共に、数人の貴族令嬢たちが集まってきた。リーダー格は、派手なピンクのドレスに身を包んだ、マルグリット子爵令嬢だ。彼女は、以前のアリシアの取り巻きの一人だったらしい。
「まあ、アリシア王女様。なんて、その…質素なドレスでございましょう。まるで、喪に服しておられるかのようですわ。お可哀想に、落馬で記憶と一緒に、美意識まで失くされてしまわれたのね」
ねっとりとした同情を装った、悪意に満ちた声。彼女の周りの令嬢たちも「本当ですわ」「いくら緊縮財政とはいえ、限度というものが…」と口々に囁き合う。
(出たー! 悪役令嬢のお約束、取り巻き令嬢たちの陰湿マウンティング!)
私の内心のツッコミなど知る由もなく、マルグリットは勝ち誇ったように胸を張った。彼女のドレスは、胸元がはだけんばかりに開いており、その谷間には巨大なルビーがこれ見よがしに鎮座している。
私は、ゆっくりと彼女たちに向き直った。そして、少しだけ悲しそうな表情を作って、ため息をついてみせる。
「…あなた方には、そう見えるのですね。それも、仕方のないことかもしれませんわ」
「え?」
「このドレスの、本当の価値がわからないのも。この国の未来より、目の前の宝石の輝きの方が大切だとお思いになるのも。無理からぬことです」
私の言葉に、令嬢たちの顔色が変わる。
「な、何を仰いますの!?」
「これは、ただのドレスではございません。これは、我が国の新しい産業の礎。この一本の糸が、いくつの職人の家族を養い、この染料が、どれほどの新たな交易の可能性を秘めているか。あなた方には、想像もつかないでしょうね」
私は、自分のドレスのスカートの裾を、そっと指でつまんでみせた。
「あなた方が纏っている、異国の絹や宝石。それは、ただ消費され、国富を流出させるだけの『過去の遺物』。わたくしが今着ているこれこそが、未来を生み出すための『投資』。――そう、この舞踏会は戦場、そしてこれは、国益という名の勝利を掴むための『戦闘服』なのですわ!」
びしっと、人差し指を天に突きつけて言い放つ。
しーん、と辺りが静まり返った。令嬢たちは、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、口をぽかんと開けて私を見ている。何を言っているのか、全く理解できていない顔だ。
壁際に立つクラウスの肩が、必死に笑いをこらえて小刻みに震えているのが見えた。少し離れた柱の陰では、エーリヒが「然り、然り!」とでも言うように、無言で激しく頷いている。
してやったり、と私が内心でガッツポーズをした、その時だった。
「…くだらん」
冷たく言い放ったのは、レオナルドだった。
「産業? 国益? 女の仕事は、美しく着飾り、男の慰めになることだけだ。お前は、そんな当たり前のことまで忘れてしまったのか」
彼は、私に心底失望した、という顔をすると、ふい、と背を向けた。そして、会場で一際目立っていた、他の美しい令嬢の元へと歩いて行ってしまった。
その瞬間、私の胸に、チリリとした痛みが走った。
(…別に、あんな男に理解されなくたって、どうってことない。どうってことない、はずなのに…)
だが、感傷に浸っている暇はない。戦は、まだ始まったばかりなのだから。
私は、気持ちを切り替え、エーリヒの元へと向かった。
「手引きは、頼んだわよ」
「お任せを。すでに、話の通じそうな方々には目星をつけてあります」
エーリヒは、まるで有能なスパイのように、手にしたリストを指でなぞった。彼の目は、学者としての好奇心と、この国の未来への情熱で、爛々と輝いている。
こうして、悪役令嬢アリシアの、外交という名の仁義なき戦いの火蓋が、切って落とされたのである。
***
【クラウス視点】
舞踏会の喧騒が、まるで遠い世界の出来事のように聞こえる。俺の目は、ただ一人のお方を、ひたすらに追い続けていた。
アリシア様。
我が主君は、今、戦場に立っておられる。
きらびやかなシャンデリアの下、優雅な音楽が流れるこの場所が、戦場。色とりどりのドレスを纏った貴婦人や、勲章をじゃらつかせた貴族たちが、敵兵。そして、彼女が放つ言葉の一つ一つが、国を救うための剣であり、盾なのだ。
俺は、壁際の守護者の位置から、その全てを見ていた。
レオナルド王子に侮辱され、子爵令嬢たちに嘲笑されても、彼女は少しも揺らがなかった。むしろ、その理不尽な言葉を逆手に取り、自らの信念を、国の未来を、堂々と語ってみせた。その姿は、どんな歴戦の将軍よりも、雄々しく、そして気高く見えた。
今、彼女は、エーリヒ殿の手引きで、各国の商人や大使たちの間を渡り歩いている。
最初は、「ご挨拶を」と近づく彼女に、どこか侮りの色を浮かべていた者たち。所詮は、世間知らずの姫君の戯言とでも思っていたのだろう。
だが、彼女が口を開くと、場の空気は一変した。
「…我が国で新たに栽培に成功したこの麦は、従来の品種に比べ、乾燥に強く、収穫量も三割は見込めます。何より、その粉は、これまでのものよりずっと長く保存が効く。貴国の軍隊の、遠征用の兵糧として、必ずやお役に立てるはずです」
「北方の毛織物も素晴らしいですが、冬の寒さをしのぐには、時に重すぎるのが難点。我が国で開発中のこの新素材は、驚くほど軽く、そして暖かい。いずれ、貴国の貴婦人方の間で、毛皮に代わる新たな流行を生み出すことになるでしょう」
「東の山脈の鉱物資源については、現在、エーリヒが考案した新工法によって、採掘コストを大幅に削減できる見込みです。純度の高い鉄は、農具だけでなく、より強靭な武具の素材ともなり得ます」
彼女の言葉には、熱があった。ただの知識の羅列ではない。その先に広がる、民の暮らしの向上と、国の繁栄を、誰よりも強く信じている者の熱だ。
最初は退屈そうに聞いていた者たちが、一人、また一人と、身を乗り出してくる。侮りの色は消え、驚きと、探るような、そしてやがては真剣な興味の色へと変わっていく。彼らはもう、彼女を「か弱い姫君」としては見ていない。「交渉すべき、一国の指導者」として、その言葉に耳を傾けている。
ああ、なんと眩しい光景だろうか。
俺は、守られるだけの姫ではない、と言った彼女の言葉を思い出していた。その通りだ。彼女は、誰かに守られるだけの、か弱い存在などでは、断じてない。彼女こそが、この国を、そしてそこに生きる人々を、その細腕で守ろうと戦っているのだ。
ならば、俺の役目は。俺が、この剣を捧げた意味は。
彼女が、その戦いに集中できるよう、あらゆる雑音から、あらゆる危険から、彼女を守り抜くこと。彼女が信じる未来への道を、俺が、この身を盾にしてでも切り開くこと。
それが、俺の戦いだ。
ふと、視線をレオナルド王子に向ける。彼は、アリシア様の奮闘など気にも留めず、取り巻きの令嬢たちと、下品なジョークを飛ばして笑い合っていた。その姿に、腹の底から、冷たい怒りがこみ上げてくる。
(あなたでは、駄目だ)
心の内で、静かに呟く。
(このお方の隣に立つべきは、あなたではない)
この想いが、不敬であることは、分かっている。許されざる感情であることも、痛いほど理解している。
だが、この胸に灯ってしまった炎は、もう、消すことなどできそうになかった。
アリシア様が、一人の商人と固い握手を交わし、花が綻ぶように微笑まれた。その笑顔を見ただけで、俺の心臓は、まるで鷲掴みにされたかのように、大きく跳ねた。
どうか、そのお心が、これ以上傷つけられることがありませんように。どうか、その戦いが、輝かしい勝利で終わりますように。
俺は、祈るように、柄に置いた自分の手に、強く、力を込めた。冬の夜の舞踏会は、まだ、終わらない。
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