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一部
第3話:地下に響く包丁の音
しおりを挟むAパート
鈴木のアパートからの帰り道、誠の足取りはどこかフワフワとして、現実感がなかった。舌の上に、そして記憶の中に、あの「黄金のカルボナーラ」の衝撃が、まるで聖痕のようにくっきりと刻み込まれている。濃厚な卵黄とペコリーノのコク、グアンチャーレの官能的な脂の甘み、そして全てを貫く黒胡椒の鮮烈な香り。あれは、誠が知る「料理」という概念の、遥か外側に存在する何かだった。
翌日からの数日間、誠の心はそのことで一杯だった。仕事中も、ふとした瞬間にあの味が蘇り、上の空になる。自宅のキッチンに立っても、いつも作っている生姜焼きやカレーが、ひどく色褪せた、取るに足らないものに思えてしまった。
打ちのめされた。完膚なきまでに。
同時に、心の奥底で、何かが燃え上がっていた。悔しさ、というのとは少し違う。憧れ。そして、嫉妬。あんな境地に、自分も立ってみたいという、抗いがたい欲求だった。
「ご馳走になったままじゃ、いられない」
誠は、スマートフォンを手に取った。あの衝撃を与えてくれた男に対して、自分は何を返すことができるだろうか。どんな皿を差し出せば、彼の心を少しでも揺さぶることができるだろうか。
『鈴木さん、先日はありがとうございました。あのカルボナーラ、本当に衝撃でした。もし良かったら、今度は俺が何かご馳走させてください』
メッセージを送信すると、すぐに返信があった。
『お!マジすか!ぜひぜひ!楽しみにしてます!』
屈託のない、いつもの鈴木の文面。だが、誠にはその裏にある、鋭い鑑定眼が見えるような気がした。
約束の日まで、一週間。
その日から、誠の苦悩が始まった。何を作るべきか。イタリアンで張り合っても、あのカルボナーラの前では赤子同然だろう。フレンチや中華の専門的な知識もない。自分にあるのは、長年、趣味として一人で向き合ってきた、家庭料理の経験だけだ。
自分の土俵で、自分の持てる全てで勝負するしかない。
数日間、仕事以外の時間のほとんどをメニューの選定に費やした。そして、彼が辿り着いた結論は、一つしかなかった。彼の数少ないレパートリーの中で、唯一「必殺」と呼べる一皿。時間と手間を惜しまず、自分の料理哲学の全てを注ぎ込んできた料理。
「豚の角煮」
決戦の当日。誠は、決闘に臨む武士のような面持ちで、朝から買い出しに出た。目指すは、商店街の端にある、昔ながらの個人経営の精肉店。スーパーのパック詰めされた肉ではダメだ。店主と話し、自分の目で見て、最高の塊を選ぶ必要があった。
「おやっさん、豚のバラブロック、いいとこある?」
「お、誠くん、いらっしゃい。角煮かい?なら、今日のこれなんか最高だよ」
店主が、ショーケースの奥から取り出したのは、美しい長方形をした豚バラの塊だった。赤身と脂身が、くっきりとした七層ほどの縞模様を描いている。厚みは均一で、表面には瑞々しい艶がある。これだ。これしかない。
「じゃあ、それを1キロほど」
肉を受け取り、家に帰る。
やがて、インターホンが鳴った。鈴木が、いつものパーカー姿で立っていた。
「お邪魔しまーす!うわ、田中さんの部屋、なんか落ち着きますね」
鈴木は、物珍しそうに部屋を見回す。誠の部屋は、彼の個性を主張するようなものは何もない、ごく普通のサラリーマンのワンルームだ。だが、鈴木の目は、すぐにキッチンの一角で異彩を放つ、年季の入った調理器具の数々に釘付けになった。
「お、この雪平鍋、いい感じに使い込まれてる。こっちの深鍋も、かなりの年代物じゃないすか?」
「あ、ああ。親父から譲ってもらったもので……」
鈴木の鋭い観察眼に、誠はたじろぐ。この男には、何もかもお見通しなのかもしれない。
「さてと、じゃあ始めますかね」
誠は、ごまかすようにそう言うと、丁寧に手を洗い、黒いエプロンをきつく締めた。
覚悟を決め、調理台に向かう。これから始まるのは、ただのお返しではない。田中誠という料理人の、誇りをかけた真剣勝負だった。
Bパート
キッチンに、静かな緊張が満ちる。誠はまず、買ってきた豚バラの塊をまな板の上に乗せた。その美しい層を、鈴木が興味深そうに覗き込む。
「まずは、こいつの表面を焼いて、旨味を中に閉じ込めます」
誠は、大きなフライパンをコンロに乗せ、強火で熱した。油は引かない。豚バラ肉自身の脂で十分だ。フライパンがカンカンに熱せられたのを肌で感じ取り、肉塊を、脂身の面からフライパンへと置いた。
「ジュウウウウゥゥーーーーーッ!!」
凄まじい音と共に、肉が焼ける香ばしい匂いが立ち上る。白い煙がもうもうと立ち込め、換気扇がゴォッと音を立ててそれを吸い込んでいく。脂が溶け出し、パチパチと激しく跳ねる。誠は、トングを使って肉の全ての面に、丁寧に、力強い焼き色を付けていった。この工程が、後の煮崩れを防ぎ、肉の旨味を凝縮させるのだ。
表面がこんがりときつね色になった肉塊を、一旦バットに取り上げる。次に、誠がキッチンの一番大きな棚から取り出したのは、祖父の代から使っているという、分厚い鋳物の深鍋だった。
その鍋に、焼き付けた肉を入れ、たっぷりの水を注ぐ。そして、冷蔵庫から取り出したネギの青い部分を数本、皮を剥かずに薄切りにした生姜を数枚、惜しげもなく加えた。
「ここからが、長いです」
誠は、鍋を火にかけながら、ポツリと呟いた。
「俺の角煮は、圧力鍋を使いません。もちろん、あれを使えば時間は何分の一にも短縮できる。でも、俺はどうも、あのやり方が好きじゃない」
「……というと?」
鈴木が、真剣な眼差しで問い返す。
「圧力鍋の高温高圧は、確かに肉を柔らかくする。でも、それは肉の繊維を強制的に、半ば破壊するようにして柔らかくしているだけな気がして。食感が、どこか不自然になる。それに、急激に火を通すから、味が芯まで染み込みにくい。だから俺は、時間はかかっても、昔ながらのやり方で、コトコト煮込むんです」
それは、誠が長年、一人でキッチンに立ち続けて見つけ出した、自分だけの料理哲学だった。その言葉には、確固たる信念が宿っていた。
やがて、鍋の水が沸騰し始め、表面に、灰汁が泡と共にふつふつと浮き上がってきた。茶色く濁った、泡の集合体。
ここからが、第二の正念場だった。
「角煮作りは、この下茹でと、アク取りが命なんです」
誠は、お玉を手に取り、神経を研ぎ澄ませた。
「ここでどれだけ丁寧に、肉の臭みと余分な脂を取り除けるかで、仕上がりの味が、本当に、天と地ほど変わるんですよ」
浮き上がってきたアクを、お玉でそっと、掬い取る。鍋の縁に沿って、円を描くように。アクだけを狙い、澄んだスープは一滴たりとも無駄にしない。掬っては捨て、掬っては捨て。その作業は、まるで終わりがないように思えた。
一度や二度ではない。十分、二十分、三十分。誠は、無言のまま、ただひたすらにアクを取り続けた。その姿は、もはや趣味の料理を楽しんでいるようには見えなかった。それは、完璧な一皿を創り出すために、己の全てを捧げる職人の姿そのものだった。
鈴木は、腕を組み、壁に寄りかかりながら、その光景を黙って見つめていた。彼の表情から、いつもの人懐っこい笑みは完全に消え失せ、代わりに、真剣で、どこか値踏みをするような、鋭い光が宿っていた。
一時間後。
下茹でを終えた鍋のスープは、驚くほどに澄み切っていた。誠は、肉の塊をそっと取り出し、流水で表面の汚れを洗い流してから、まな板の上で、均等な厚さの一口大に切り分ける。
鋳物の鍋を一度きれいに洗い、再びコンロへ。
そこに、切り分けた肉を戻し入れ、新しい水をひたひたになるまで注ぐ。そして、味の根幹となる調味料を加えていく。
醤油を、ドボドボと。
料理酒を、惜しげもなく。
みりんを、たっぷりと。
そして、砂糖。誠が取り出したのは、上白糖ではなく、ザラメだった。
「ザラメを使うと、味に、なんていうか…深みと、綺麗な照りが出るんです」
最後に、木製の落し蓋を乗せる。火加減は、ごくごく弱い弱火。鍋の中心が、かろうじて、コト、コト…と、小さな音を立てるくらいの。
「あとは、ひたすら待つだけです。二時間ほど」
キッチンに、静かで、規則的な煮込み音だけが響き渡る。それはまるで、古時計の振り子のように、ゆったりとした、しかし確実な時間の流れを刻んでいた。
Cパート
長い、長い待ち時間。
コト、コト、コト……。
鋳物鍋から響く、命の鼓動のような音だけが、部屋の静寂を支配していた。誠と鈴木は、ローテーブルを挟んで、他愛のない話をしていた。好きな映画の話、音楽の話。しかし、誠の意識の半分は、常にキッチンの鍋に向けられていた。時折、ふと立ち上がっては鍋の様子を確認し、煮汁をお玉ですくって、肉の上から優しく回しかける。その所作は、まるで大切な赤子をあやすかのようだった。
二時間が経過し、誠はついにコンロの火を止めた。
「これで、完成…じゃないんです」
「え?」
「実は、一番美味しくなるのは、ここからなんですよ」
誠は、鍋の蓋をきっちりと閉め、言った。
「このまま、一度、完全に冷ます。そうすることで、冷めていく過程で、味がぐっと、肉の芯まで染み込んでいくんです。浸透圧の原理ってやつですね」
それは、科学的な裏付けのある、料理の秘訣だった。急がば回れ。美味しさのためには、いかなる時間と手間も惜しまない。それが、田中誠の料理道だった。
さらに一時間後。鍋が完全に冷め切ったのを確かめると、誠は再び、コンロに火をつけた。温め直しだ。鍋の縁からは、醤油と砂糖が焦げる、甘く香ばしい匂いが立ち上り始める。煮汁が煮詰まっていくにつれて、その香りは密度を増し、部屋中に充満していく。それは、日本人のDNAに直接訴えかけてくるような、抗いがたいほどに魅力的な香りだった。
肉の表面が、煮詰まったタレを纏い、美しい飴色の“照り”を放ち始める。
「……よし」
誠は、満足げに頷くと、火を止めた。
ほうれん草をさっと茹でて、青みを添える。小皿には、鮮やかな黄色の練りからし。
そして、主役である角煮が、深めの皿に、湯気と共に盛り付けられた。
艶やかに輝く、飴色の肉塊。箸で軽く触れただけで、ホロリと崩れ落ちてしまいそうなほどの柔らかさ。
「……どうぞ」
誠の声は、自分でも気づかないうちに、少しだけ震えていた。
鈴木は、ゴクリと喉を鳴らし、目の前の一皿を、真剣な眼差しで見つめている。カルボナーラを出された時の自分も、きっとこんな顔をしていたのだろう。
やがて鈴木は、ゆっくりと箸を取った。
角煮を一つ、慎重につまみ上げる。その肉は、重力に逆らえないとでも言うように、箸の上でふるふると震えていた。
そして、その一塊が、鈴木の口の中へと、吸い込まれていった。
次の瞬間、鈴木の動きが、完全に止まった。
その大きな瞳が、信じられないものを見たかのように、カッと見開かれる。口は、何かを言おうとするかのように半開きになっているが、何の音も発しない。絶句。まさに、その言葉がふさわしい状態だった。
彼の手に握られていた箸が、力なく滑り落ち、カラン、と乾いた音を立てて床に転がった。
「な……なんだ、これは……!?」
ようやく絞り出した声は、驚愕と、感動と、そしてわずかな畏怖の色を帯びていた。
その時、鈴木の脳裏には、信じられない光景が広がっていた。
どこまでも続く、満開の桜並木。視界の全てが、淡いピンク色に染まっている。桜吹雪が、キラキラと光を反射しながら、春の陽気の中を舞い踊る。
そして、その桜の木の下で。
ピンク色をした、可愛らしい子豚たちが、輪になって、楽しそうに、幸せそうに、クルクルと踊っているのだ。その表情は、一点の曇りもない、至福に満ちた笑顔。
(トロける……!口に入れた瞬間、肉の繊維が…ホロホロと、雪のように解けていく……!なのに、味は、この肉の芯の、そのさらに奥の、分子レベルまで染み渡っているだと……!?)
甘み、塩味、そして豚肉自体の持つ深い旨味。その全てが、完璧なバランスで融合し、舌の上で、多幸感という名のオーケストラを奏でている。これは、ただの角煮ではない。時間と、手間と、そして何より作り手の揺るぎない信念がなければ、決して辿り着けない領域の味だ。
「……信じられない」
ハッと我に返った鈴木は、目の前の男の顔を、改めて見つめた。
平凡なサラリーマン。物静かで、少し気弱そうにさえ見える。だが、彼が創り出す一皿は、紛れもなく“本物”だった。鈴木は、この一皿で、田中誠という男の底知れない才能を、完全に理解した。
Dパート
食後、誠が入れたインスタントコーヒーを飲みながらも、鈴木はまだ、先ほどの衝撃から立ち直れないでいた。時折、空になった角煮の皿に視線を落としては、深い溜息をついている。
「田中さん……あんた、一体、何者なんだ……」
その問いは、心の底からのものだった。
「いや、ただの料理好きのサラリーマンだよ」
誠は、照れ臭そうに笑う。だが、その言葉を、鈴木はもはや額面通りに受け取ることはできなかった。
しばらくの沈黙の後、鈴木は、まるで重要な決断を下したかのように、コーヒーカップを静かにテーブルに置いた。そして、誠の目を、まっすぐに見据えて言った。
「田中さん」
その声のトーンは、いつもの軽やかなものではなく、低く、真剣だった。
「あんたほどの腕なら……今のまま、ただの趣味で終わらせるのは、あまりにも、もったいない。いや、それは社会的な損失だ」
「え……?」
「あんたが、心の底から満足できる場所がある。自分の腕を、本気で試せる場所が。俺と一緒に、来てみないか?」
その誘いには、有無を言わせない、不思議な力がこもっていた。それは、懇願でも、提案でもない。ほとんど、命令に近い響きを持っていた。
誠が返事をする前に、鈴木は立ち上がっていた。
「行こう」
戸惑う誠の手を引くようにして、アパートを出る。鈴木は、大通りでタクシーを拾い、運転手に、都心のある地名を短く告げた。
タクシーが着いたのは、高層ビルが立ち並ぶエリアの、その谷間にあるような、人通りの少ない薄暗い路地裏だった。目の前には、古びた5階建ての雑居ビルが、まるで時代の流れから取り残されたかのように、ひっそりと佇んでいる。壁は汚れ、窓という窓には黒いシートが貼られ、中の様子を窺うことは一切できない。何の看板も出ておらず、ここが一体何のビルなのか、皆見当もつかなかった。
「……ここが?」
「ああ」
鈴木は、ためらうことなく、ビルの脇にある、地下へと続くコンクリート打ちっぱなしの階段を下りていく。後を追う誠。ひんやりとした、湿った空気が肌を撫でる。カビの匂いと、埃の匂いが混じり合った、独特の地下の匂いが鼻をついた。コツ、コツ、と二人の足音だけが、薄暗い空間に響き渡る。
階段を下りきった先にあったのは、異様なまでに存在感を放つ、巨大な鉄の扉だった。
錆が浮き、無数の傷が刻まれた、重厚な扉。ドアノブも、鍵穴も見当たらない。ただ、威圧的な沈黙をもって、そこに在るだけだった。
誠がその異様さに息を飲んでいると、鈴木は、扉の横の壁に埋め込まれた、ほとんど目立たない小さなインターホンに向かって、短く、何かを呟いた。
「―――スピナッチオ。カルボネーラ・エ・コットーラ」
意味の分からない、まるで合言葉のような言葉。
すると、次の瞬間。
ゴゴゴゴゴゴ…………ッ!!
地響きのような、重い、重い音を立てて、その巨大な鉄の扉が、ゆっくりと、内側に向かって開き始めたのだ。
扉の隙間から、まず溢れ出してきたのは、凄まじいまでの熱風だった。そして、様々な食材が調理される匂い、金属がぶつかり合う甲高い音、そして、人々の怒号とも歓声ともつかない、圧倒的なまでの活気。
呆然と立ち尽くす誠の肩を、鈴木が、ポンと叩いた。
振り返ると、そこにいた鈴木の顔は、誠が知る、どの顔とも違っていた。人懐っこい料理好きでもなく、鋭い鑑定家でもない。それは、この異常な世界の、住人としての、案内人の顔をしていた。
「ようこそ、田中さん」
扉が、完全に開け放たれる。
誠の目に飛び込んできたのは、信じがたい、現実離れした光景だった。
広大な、巨大な地下空間。
その中央には、スポットライトに照らされた、古代ローマの闘技場(コロッセオ)を模した円形のステージが鎮座している。その闘技場をぐるりと囲むようにして、最新鋭の調理器具がずらりと並んだ、いくつもの厨房。そして、そのさらに外周には、熱狂する大勢の観客がひしめき合う、すり鉢状の観客席が広がっていた。
ここは、一体、なんなんだ……。
声にならない声を上げる誠の耳元で、鈴木が、悪戯っぽく、そして誇らしげに、こう告げた。
「本物の料理の世界……『グラディウスの厨房』へ」
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