美人OLに恋した地味サラリーマン、料理教室に通い始めたら何故か裏社会の料理バトルで頂点に立っていた

Gaku

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第19話:最後の晩餐

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#### Aパート:神と凡人、対峙の刻

その日、東京ドームは一つの巨大な生き物と化していた。ドームという硬質な殻の内側で、五万人の観客が発する期待と興奮、そして肌を刺すような緊張感が混ざり合い、一つの巨大な感情のうねりとなって、地鳴りのようにビリビリと空気を震わせている。ここは単なる野球場ではない。今この瞬間、日本の料理界における新たな神話が誕生する、あるいは絶対的な神がその座を揺るぎないものとする、聖なるコロッセオへと変貌を遂げていた。

スポットライトが漆黒の闇を切り裂き、ステージの一点に光の円を描き出す。そこへ、まるで光そのものから生まれ出でたかのように、一人の男が姿を現した。

純白のシルクで仕立てられた、東洋とも西洋ともつかぬ優美な衣服。それは彼の身体の動きに合わせ、滑らかな波紋を描く。彼の歩みは静かで、一切の無駄がなく、まるで水面を滑る白鳥のようだ。しかし、その身から放たれるオーラは、常人では直視することすらためらわれるほどに神々しい。後光、という陳腐な言葉では表現しきれない、存在そのものが発光しているかのような圧倒的な威光。

絶対皇帝(エンペラー)、天音奏(あまね かなで)。

彼がステージにその神体を現しただけで、あれほどまでに沸騰していた会場の熱狂は、まるで灼熱の鉄に冷水を浴びせたかのように、一瞬にして静まり返った。それは恐怖ではない。畏怖。神の降臨を前にした人間が抱く、根源的な敬意。荘厳という言葉以外にふさわしいものが見つからない、完璧な静寂がドームを支配した。彼は何も語らない。ただ、その美しい相貌に感情の欠片ものせず、静かにアリーナを見渡す。それだけで、五万人の魂は彼の前に平伏していた。

その静寂を破るように、もう一つの入場ゲートから、ゆっくりとした、しかし確かな足取りで、別の料理人がステージへと歩みを進めてくる。

田中誠(たなか まこと)。

彼の出で立ちは、エンペラーとはあまりにも対照的だった。着古された、しかし清潔に糊の効いたコックコート。その顔には、幾多の戦いを乗り越えてきた者だけが持つ、深い覚悟と、拭い去ることのできない疲労の色が刻まれている。数ヶ月前まで、彼はどこにでもいる平凡なサラリーマンだった。毎朝同じ電車に揺られ、パソコンの画面と睨めっこする日々。そんな男が、今、日本の料理界の頂点を決めるこの舞台に立っている。それは奇跡だった。だが、もはや誰も彼を「凡人」と笑う者はいなかった。

彼の背中には、今、確かに見えていた。観客席の片隅で、祈るように拳を握りしめる者たちの姿が。

無二の親友であり、誠を料理の世界へと引きずり込んだ男・鈴木の夢が。彼の作るカルボナーラは、誠にとっての最初の衝撃、最初の道標だった。
氷のように冷徹で完璧な技術を持ちながら、誠との戦いの中でその心の氷を溶かした孤高の天才、氷の皇帝・橘のプライドが。彼は誠に、技術の先にあるものを見つめることの重要性を教えた。
そして、太陽のような笑顔と炎のような情熱で、常に前だけを見つめ続けた不屈のチャレンジャー・ひなたの情熱が。彼女は誠に、決して諦めない心の強さを与えてくれた。

いくつもの温かい想いが、見えない光の翼となって彼の背中を力強く支えている。彼はもう、一人ではなかった。背負うものの重さが、彼の足取りを確かなものに変えていた。

二人の料理人が、ステージ中央に設えられた純白の調理台を挟んで対峙する。
片や、神。世界の調和を体現し、完璧以外の全てを切り捨てた絶対者。
片や、人間。仲間との絆を力に変え、泥臭くここまで這い上がってきた挑戦者。
あまりにも対照的な二人の王者の対峙に、会場は息をすることさえ忘れていた。五万人の視線が、まるで一本の巨大な矢のように二人へと突き刺さる。

張り詰めた空気の中、大会の支配人がゆっくりとその口を開いた。彼の声はマイクを通して、ドームの隅々まで厳かに響き渡る。
「これより、全国料理人選手権、決勝戦を執り行う!」
一呼吸置き、その言葉の重みを観客に噛みしめさせる。
「決勝戦のお題は……」
支配人はそこで一度言葉を切り、挑戦者ではなく、絶対皇帝である天音奏の顔を見た。その視線には、確認と、そしてある種の畏敬が混じっていた。
「エンペラー自身の指定により決定された。挑戦者、田中誠よ。心して聞くがいい。お前にとって、それはあまりにも過酷なお題かもしれん」

誠の背中に、冷たい汗が一筋流れた。エンペラー自らの指定。その意味を彼は測りかねていた。だが、どんなお題が出ようとも、退く道はない。誠はただ、ゴクリと唾を飲み込み、その宣告を待った。

そして、支配人は両腕を大きく広げ、宣言した。
「決勝戦のお題は……『始まりの一皿』!!」

その言葉がドームに響き渡った瞬間、凍り付いていた空気が一気に解け、巨大などよめきとなって爆発した。
「始まりの一皿……だと?」
「なんだそのお題は……あまりにも漠然としすぎている!」
「始まりって、何の始まりだ?宇宙か?生命か?それとも……」
観客席のあちこちから、困惑と興奮の入り混じった声が上がる。それはあまりにも哲学的で、曖昧で、そしてあまりにも広大なテーマだった。生命の始まりか、歴史の始まりか、文明の始まりか、それとも自分自身の人生の始まりか。その解釈一つで、創り出される料理は無限に変わる。そして、その解釈の深さそのものが問われるのだ。挑戦者である誠にとって、それはエンペラーが築き上げた広大な宇宙の中で、一つの答えを見つけ出せと言われているに等しい。あまりにも、あまりにも過酷なお題だった。

エンペラー・天音奏は、その神々しいまでに美しい顔に、わずかな笑みを浮かべた。それは慈愛でも嘲笑でもない。森羅万象の全てを見通しているかのような、絶対者の笑みだった。彼の前では、どんな問いも、その答えも、全て掌の上にあると言わんばかりだった。

誠はただきつく唇を結び、その究極の問いに静かに向き合った。視界の端で、仲間たちが心配そうに自分を見つめているのが分かった。大丈夫だ、と心の中で呟く。俺は一人じゃない。お前たちの想いが、きっと俺に答えをくれる。彼はエンペラーの完璧な微笑みを正面から受け止め、自らの内なる声に耳を澄ませた。

始まりの一皿。俺にとっての、始まりとは――。

---

#### Bパート:原初の記憶、神のスープ

決勝戦の開始を告げる重々しいゴングの音が、ドームに響き渡った。それはまるで、新たな世界の創造を告げる鐘の音のようだった。

最初に静かに動き出したのは、やはり絶対皇帝(エンペラー)、天音奏だった。彼の動きには一切の迷いも焦りもない。まるで悠久の時を生きる神が、自身の庭を散策するかのような優雅さだ。

彼が解釈する「始まりの一皿」。それは、この地球という惑星に、最初の生命が誕生したあの奇跡の瞬間。全ての生命の母なる海、その原初の記憶を呼び覚ます至高のスープ。

彼の厨房は、もはや厨房という俗な言葉で表現できる場所ではなかった。それは世界の森羅万象をミニチュアとして再現し、新たな生命を吹き込む、創造主の祭壇だった。彼の前に、アシスタントたちによって恭しく並べられたのは、この世界の三つの領域――陸、海、そして空(天)――を代表する、人類が手にしうる最高級の食材たち。

陸からは、フランス美食の最高峰に君臨する地鶏、プーレ・ド・ブレスのガラ。ブレス地方の豊かな大地で放し飼いにされ、完璧な管理の下で育てられたその鶏は、肉だけでなく骨の髄までが極上の旨味を蓄えている。そして、その隣には、まだ草も食まぬ最高級の仔牛の骨。純粋で繊細なゼラチン質が、スープに深みと輝きを与える。

海からは、北海道・利尻島。極寒の海で育ち、収穫された後、専用の蔵で二年もの間、じっくりと熟成された蔵囲いの最高級利尻昆布。その表面には旨味の結晶であるマンニットが白い粉となって吹き出し、深く、清澄で、どこまでも高貴な出汁を生み出す。そして、漆黒の海から揚がったばかりの、活きた伊勢海老。その身ではなく、濃厚なミソが詰まった頭だけが、海の全ての豊かさを凝縮した出汁のために使われる。

そして空(天)からは、イタリア・ピエモンテ州の森で、今朝、夜明けと共に採れたばかりだという、神々しいまでに芳醇な香りを放つ白トリュフ。土と霧と木々の香りが混ざり合った、天上のアロマ。さらに、その香りを支えるべく、太陽の光をたっぷりと浴びて乾燥させられたポルチーニ茸が、大地の力強い風味を加える。

彼の調理は、三つの異なる世界の創造から始まった。まるで旧約聖書の創世記のように、彼はまず世界を分かつのだ。

一つ目の巨大な銅鍋では、鶏ガラと仔牛の骨が丁寧に下処理され、静かに煮込まれていく。浮かび上がってくるアクを、彼は神経質なまでに精密な手つきで、一欠片たりとも残さず掬い取っていく。時間をかけて、ただひたすらに丁寧に。やがて鍋の中の液体は、一点の曇りもない、輝かしい黄金色のフォン・ド・ヴォライユ(鶏の出汁)へと昇華されていく。

二つ目の鍋では、蔵囲い利尻昆布が静かに水の中でその旨味を解き放ち、伊勢海老の頭が甲殻類特有の甘く香ばしい香りを添える。決して沸騰させることなく、温度を完璧に管理しながら、海の全ての恵みを優しく抽出していく。出来上がったのは、海の静けさと豊かさを閉じ込めた、深く澄んだ琥珀色のフュメ・ド・ポワソン(魚介の出汁)。

三つ目の鍋では、薄くスライスされた白トリュフとポルチーニ茸が、清らかな水の中でその高貴な香りを解き放つ。キノコという、天と地の間に存在する神秘的な食材から、天上のアロマと大地の力強さを併せ持った、官能的な大地のブイヨンが生まれる。

それぞれが、それ一つだけで完璧な一皿となりうる、究極の出汁。性質も生まれも全く違う三つの液体。陸の力強さ、海の深遠さ、天の高貴さ。常識で考えれば、これらを混ぜ合わせることは、それぞれの個性を殺しあう愚行に他ならない。

しかし、ここからがエンペラーの神業の真骨頂だった。

彼は、傍らに用意されたメスシリンダーを手に取った。そして、三つの鍋からそれぞれの出汁を掬い、一滴、また一滴と、ミリリットル単位、いや、それ以下の精度で正確に計量しながら、中央に置かれた一つの巨大なクリスタルのボウルの中へと、静かにブレンドしていく。

フォン・ド・ヴォライユを73.5ミリリットル。フュメ・ド・ポワソンを21.0ミリリットル。そして大地のブイヨンを5.5ミリリットル。彼の脳内には、完璧な調和を生み出す黄金比が存在するのだ。陸、海、空。異なる世界が、彼のクリスタルのボウルの中で静かに出会い、反発し、そしてやがて溶け合い、一つの新しい、完璧な小宇宙(ミクロコスモス)へと生まれ変わっていく。会場の誰もが、その神聖な儀式を前に、息をすることすら忘れていた。

だが、彼の仕事はまだ終わらない。最後に彼は、そのブレンドされた奇跡のスープを、フランス料理における最高技術の粋である「コンソメ」の技法で、極限まで磨き上げていく。

細かく刻んだ赤身肉と野菜、そして卵白を静かにスープに加え、ゆっくりと、ゆっくりと火にかけていく。すると、まるで魔法のように、スープの中にわずかに残っていた不純物やアクが、全て卵白に吸着され、その表面に灰色の膜となって浮かび上がってくる。エンペラーは、そのアクの膜を、レースを扱うかのように繊細な手つきで、お玉を使ってそっと取り除く。

そして、その下から現れたのは――。

会場の誰もが、思わず息を呑んだ。

一滴の濁りもない。まるで光そのものを液体にしたかのような、完璧な黄金色に輝くコンソメスープ。それは物理的な液体というよりは、もはや純粋な概念、調和という名のイデアが具現化したかのような、神々しいまでの輝きを放っていた。

『原初の黄金コンソメ(スープ・オブ・ジェネシス)』

その神々しい一皿が、純白のカップに注がれ、審査員席へと厳かに運ばれる。誰もが固唾を飲んで見守る中、老齢の首席審査員が、震える手でスプーンを手に取り、その黄金の液体を一口、口に含んだ。

その瞬間。

彼の瞳が、驚愕と恍惚に見開かれた。皺だらけの頬を、一筋の涙が静かに伝っていく。彼は言葉を発することさえできず、ただ天を仰いだ。

他の審査員たちも、次々とその奇跡を味わう。そして、誰もが同じ反応を示した。ある者は静かにむせび泣き、ある者は恍惚の表情で目を閉じ、ある者はただただ、カップの中の黄金の液体を呆然と見つめている。

やがて、首席審査員が、絞り出すような、震える声で呟いた。
「……天国だ……。これは、料理ではない。天国の、味だ……」
別の審査員が、それに続く。
「これが……生命が、あの原初の海で生まれた瞬間の味なのか……。全ての喜びと、全ての悲しみが溶け合い、そして浄化された、始まりの味……」
「……陸と海と空。相反するはずのものが、完璧なバランスで手を取り合っている。全ての始まりにして、全ての終わり。完璧な調和が、この一滴に宿っている……」

その完璧すぎる一皿を前に、会場の誰もが、エンペラー・天音奏の絶対的な勝利を確信していた。いや、もはや勝ち負けの問題ではなかった。彼という存在そのものが、この世界の「正解」なのだと、認めざるを得なかったのだ。ドームは再び、神の御業を前にした時のような、荘厳な静寂に包まれていた。

---

#### Cパート:挑戦者の沈黙、魂の米研ぎ

エンペラー・天音奏が見せつけた、あの神の所業としか言いようのない調理。その余韻は、まるで分厚い霧のようにドーム全体に立ち込め、観客の心を重く支配していた。あの『原初の黄金コンソメ』の後で、一体何が作れるというのか。どんな豪華な食材を使おうと、どんな斬新な技術を披露しようと、あの完璧な一皿の前では色褪せて見えるに違いない。

会場の誰もが、固唾を飲んで田中誠の調理台を見守っていた。絶望的なまでの差。彼に、この圧倒的な神の創造物に抗う術など、本当にあるというのか。同情、憐れみ、そしてわずかな期待。様々な感情が入り混じった視線が、彼の一挙手一投足に注がれる。

だが、田中誠は、驚くほどに静かだった。彼の心は、嵐が過ぎ去った後の凪いだ海のように、不思議なほど穏やかだった。エンペラーの料理は確かに凄かった。神の領域だ。だが、それは彼の土俵ではない。彼が目指す頂きは、そこではないのだ。

彼が解釈する「始まりの一皿」。それは宇宙の始まりでも、生命の始まりでもない。もっとささやかで、もっと個人的で、そして、もっと温かい始まり。彼自身の、料理人としての原点。そしてきっと、この会場にいる誰もが、その人生の最初に「美味しい」と感じたであろう、あの懐かしい記憶の味。

「母の味」。

誠はまず、調理台に置かれた一つの麻袋に手を伸ばした。彼がこの決勝のために選び抜いた食材。それは、新潟県魚沼産コシヒカリの中でも、年に一度開かれる特別な米・食味分析鑑定コンクールで、最高位の金賞を受賞した、奇跡の米。一粒一粒が大きく、乳白色に輝き、生命力に満ち溢れている。

彼はその米を、静かにざるにあけた。そして、研ぎ始めた。
その所作は、もはや調理ではなかった。両の手のひらで米を包み込み、決して力を入れず、米同士を優しく擦り合わせるように、まるで宝石でも扱うかのように、あるいは掌中の珠を愛でるかのように、研いでいく。その指先から、米に対する深い敬意と感謝の念が伝わってくるようだった。それは、神に祈りを捧げる神聖な儀式にも見えた。

研ぎ上げた米を、彼は年季の入った、黒く煤けた土鍋の中へと移す。それは、彼がサラリーマンを辞め、料理人になる決意をした日に、道具屋の片隅で手に入れた、彼の相棒だった。そして、正確に計量した、南アルプスの清らかなミネラルウォーターを静かに注ぎ、コンロの火をつけた。

パチッ、と青い炎が灯る。土鍋がゆっくりと温められていく、その静かな待ち時間。誠は目を閉じ、これまでの戦いの全てを、その脳裏に走馬灯のように蘇らせていた。

毎日同じメニューを繰り返し作るだけの日々に、漠然とした焦りと退屈を感じていたサラリーマンの頃の自分。そんな時、親友の鈴木が屋台で出してくれた、あの衝撃的なカルボナーラ。一口食べた瞬間、世界が色づいたあの日。『料理って、こんなに人を幸せにできるんだ』。それが彼の本当の始まりだった。
料理人たちの地下闘技場『グラディウスの厨房』で、氷の皇帝・橘と初めて火花を散らしたあの夜。彼の完璧な技術の前に、一度は心が折れかけた。だが、その戦いの中で、技術だけではない、料理に込める「何か」の重要性に気づかされた。
炎のチャレンジャー・ひなたとの死闘。彼女の、決して諦めない燃えるような情熱に触れ、自分の心の奥底に眠っていた熱い想いを再確認した。
そして、かつては敵だった彼らと仲間として共に戦い、笑い、涙した数々の記憶。その全ての想いが、今の自分を形作っている。ありがとう、みんな――。

目を開けた誠は、もう一つのコンロに火をつけた。味噌汁を作り始める。
丁寧に、時間をかけて引いた昆布と鰹の一番出汁。黄金色に澄んだ出汁が、ふわりと優しい香りを立てる。具材は、ごくごくありふれた、豆腐とワカメと長ネギだけ。エンペラーが使ったような高級食材は何一つない。だが、その一つ一つの仕事が、極限まで丁寧だった。
豆腐は、柔らかな絹ごしを手のひらの上に乗せ、その感触だけで厚みを測りながら、均一なさいの目に切り分ける。ワカメは、水で戻しすぎず、潮の香りとコリコリとした食感を絶妙に残す。長ネギは、繊維を潰さないように、極細の小口切りに。そのリズミカルな包丁の音だけが、静かな厨房に響く。
そして、鍋の出汁が沸騰するその直前。「煮えばな」と呼ばれる、味噌の香りが最も華やかに立ち上る、その一瞬を逃さない。彼はその刹那を見極め、そっと味噌を溶き入れていく。

会場は、深い困惑に包まれていた。
「決勝戦だぞ……? あれは、ただのご飯と味噌汁じゃないか……?」
「エンペラーのあの神のスープの後で、家庭料理を出すつもりか……?」
「彼は一体何を考えているんだ……。プレッシャーで壊れてしまったのか?」
実況席も、解説者も、言葉を失っていた。この誠の行動を、どう解説すればいいのか誰にも分からなかった。

その時だった。
土鍋の蓋の縁から、白い湯気が勢いよく、しゅーっと吹き出し始めた。そして、米の炊き上がる、甘く、香ばしく、どこか懐かしい香りが、ドームの巨大な空間にふわりと広がり始めたのだ。
それは、エンペラーの厨房から漂ってきた、白トリュフや魚介の、脳を痺れさせるような高貴で官能的な香りとは全く違う。だが、それは、この場にいる全ての日本人の魂と、その心の奥底にある故郷の記憶を、直接揺さぶるような、抗いがたいほどに懐かしく、そして温かい香りだった。
ざわついていた会場が、その香りに誘われるように、再び静まり返っていく。誰もが、無意識のうちにその香りを深く吸い込み、遠い日の食卓の風景を思い出していた。

火を止め、蒸らしの時間を正確に計る。そして、誠は覚悟を決めたように、ゆっくりと土鍋の蓋に手をかけた。

蓋が開けられた瞬間、凝縮されていた白い湯気が、爆発するように一気に立ち上った。その湯気の向こう、黒い土鍋の中に現れたのは、一粒一粒が宝石のようにくっきりと立ち、キラキラと輝いている、完璧な炊き立ての白いご飯だった。

そして、誠は、信じられない行動に出た。
彼は、その灼熱の湯気が立ち上る炊き立てのご飯を、躊躇うことなく、その両の手ですくい取ったのだ。
「うおっ!?」
「素手で!?」
観客から驚きの声が上がる。手に、冷たい水と、そして沖縄の美しい海から作られた天然塩だけをぱらりとつけ、彼はその熱い米の塊を、優しく、しかし力強く、握り始めた。

---

#### Dパート:始まりのおにぎり、心の味

じゅっ、と掌で米が焼ける音が聞こえるかのような、凄まじい熱気。だが、田中誠の表情は穏やかなままだった。彼はただ、目の前の米の塊と向き合い、心の中で絶叫していた。それは彼の料理人としての、そして一人の人間としての、全ての答えだった。

(料理とは! 誰かのためだけに作るものなんだッ!!)

彼の料理の原点。全ての始まり。それは、彼が初めて自分のためではなく、誰かのために料理を作った、あの遠い日の記憶。

まだ小学生だった頃。いつも元気だった母が、珍しく高熱を出して寝込んでしまった日。心細さと、何かをしなければという焦りに駆られた幼い彼は、おぼつかない手つきで台所に立った。冷蔵庫にあった卵を割り、牛乳と砂糖を混ぜ、フライパンで必死に焼いた。出来上がったのは、端が真っ黒に焦げ付いて、形もいびつな、お世辞にも美味しそうとは言えない玉子焼きだった。
だが、母は、汗びっしょりの顔でゆっくりと体を起こし、その焦げた玉子焼きを一口食べると、ふわりと笑ったのだ。
『美味しいよ、誠。ありがとうね』
そう言って、涙を流しながら笑ってくれた母の、あの笑顔。
あの笑顔が見たくて。ただ、その一心で。美味しいと言ってくれる誰かの、そのたった一つの笑顔のために、彼はここまでやってきたのだ。

彼は、その全ての想いを、米の一粒一粒に込めていく。
平凡なサラリーマンだった自分。あのままだったら、きっとこんな場所に立つことなど無かった。
鈴木との衝撃的な出会い。彼のカルボナーラが、俺の世界を変えてくれた。ありがとう、鈴木。
橘、ひなたとの激しい戦い。お前たちがいたから、俺は強くなれた。お前たちのプライドも情熱も、今、この手の中にある。ありがとう、橘、ひなた。
仲間たちが託してくれた、数え切れないほどの熱い想い。その全ての記憶と感情が、彼の手の中で熱く混ざり合い、一つの温かい形になっていく。

ふっくらと、しかし、決して崩れない絶妙な力加減。米粒と米粒の間に、空気の層を作るように。潰してはいけない、優しく包み込むように。愛情を込めるというのは、こういうことなんだと、台所でいつもそうしていた祖母が、そして母が、その背中で教えてくれた握り方。

やがて、誠の手の中に、二つの完璧な三角形が完成した。
彼はそれを、静かに木のお盆の上に乗せた。そして、湯気の立つ味噌汁のお椀をその隣に添える。

完成した一皿。それは、何の飾り気もない。何の高級食材も使われていない。ただ、使い込まれた木のお盆の上に、豆腐とワカメとネギの入った味噌汁のお椀と、真っ白な塩だけで握られた二つの「塩むすび」が、ちょこんと並んでいるだけ。

『始まりのおにぎりセット』

その、あまりにも素朴で、場違いとさえ思える一皿が、絶対皇帝(エンペラー)・天音奏の前に、静かに置かれた。

会場は、困惑と静寂が入り混じった異様な空気に包まれている。神のスープと、ただのおにぎり。あまりにも不釣り合いな光景。エンペラーは、この挑戦者の「蛮行」とも言える一皿に、一体どんな反応を示すのか。

エンペラーは、完璧な無表情のまま、その塩むすびを値踏みするように見つめていた。だが、やがて彼は、その白魚のような指で、そっとその温かい塊を手に取った。そして、静かにその一口を、完璧に整えられた唇へと運んだ。

一口、噛みしめた、その瞬間。

ピシッ。

まるで、完璧に磨き上げられた水晶に、一本の亀裂が入るような、硬質で微かな音が、エンペラーの内側で響いた。
天音奏の、あの完璧な調和で固く閉ざされていた心の扉が、何の予告もなく、激しく破壊されたのだ。

彼の脳裏に、まるで稲妻に打たれたかのように、一つの記憶が鮮烈に蘇った。
それは、彼が絶対皇帝・天音奏になるずっとずっと前の、彼が、ただの泣き虫な男の子だった遠い、遠い昔の記憶。

冷たい雨が降りしきる、寒い日だった。家には誰もいない。学校で嫌なことがあって、お腹を空かせて、小さなアパートの部屋の隅で、一人でしくしくと泣いていた幼い自分。そこへ、パートの仕事から冷たい雨に濡れて疲れて帰ってきた、若き日の母親が、慌てて駆け寄ってくる。
『ごめんね、奏。遅くなっちゃって。お腹すいたわね。今すぐ、何か作ってあげるからね』
そして彼女は、決して裕福ではなかったその家の小さな台所で、あり合わせの米と、わずかな塩だけで、その決して美しいとは言えない、少し荒れてごつごつとした、だけど温かい手で、ぎゅっ、ぎゅっと握ってくれた。
生まれて初めて食べた、あの「おにぎり」の記憶。

しょっぱくて、でも、ほんのりと甘くて。
それは、ご飯の味だけじゃなかった。お母さんの、ごめんねっていう涙の味と、大丈夫だよっていう優しさの味がした、あのおにぎり。

エンペラー・天音奏の、その一切の感情を映さないはずの完璧な瞳から、一筋、また一筋と、熱い雫がこぼれ落ちた。それは、彼が完璧な「調和」を求める過程で、ノイズとして自ら切り捨て、そして忘却の彼方に葬り去ってしまっていた、人間としての最も根源的で、最も温かい感情の涙だった。

「……ああ……」

彼の唇から、初めて、震える声が漏れた。それは神の声ではなく、ただ一人の男の子の、か細い嗚咽だった。

「……忘れていた……。私が、求めていたものは……。これが……。これが、料理の……“心”……」

その手から、食べかけのおにぎりが、ぽとりと皿に落ちる。
絶対皇帝・天音奏の築き上げた、完璧で、冷徹で、孤高な調和の世界が、田中誠のたった一つの純粋な「想い」が込められたおにぎりの、その圧倒的なまでの温かさの前に、ガラガラと音を立てて崩れ去った瞬間だった。

ドームを支配していたのは、もはや静寂ではなかった。
神が人間に戻った瞬間を目撃した、五万人の観客の、言葉にならない感動の吐息が、温かい風となってアリーナを包み込んでいた。
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戦場で命を削り、帝国最強部隊を率いた男――ラル。 数々の激戦を生き抜き、任務を終えた彼は、 今は辺境の地に建てられた静かな屋敷で、 わずかな安寧を求めて暮らしている……はずだった。 彼のそばには、かつて命を懸けて彼を支えた、最強の少女たち。 それぞれの立場で戦い、支え、尽くしてきた――ただ、すべてはラルのために。 今では彼の屋敷に集い、仕え、そして溺愛している。   「ラルさまさえいれば、わたくしは他に何もいりませんわ!」 「ラル様…私だけを見ていてください。誰よりも、ずっとずっと……」 「ねぇラル君、その人の名前……まだ覚えてるの?」 「ラル、そんなに気にしなくていいよ!ミアがいるから大丈夫だよねっ!」   命がけの戦場より、ヒロインたちの“甘くて圧が強い愛情”のほうが数倍キケン!? 順番待ちの寝床争奪戦、過去の恋の追及、圧バトル修羅場―― ラルの平穏な日常は、最強で一途な彼女たちに包囲されて崩壊寸前。   これは―― 【過去の傷を背負い静かに生きようとする男】と 【彼を神のように慕う最強少女たち】が織りなす、 “甘くて逃げ場のない生活”の物語。   ――戦場よりも生き延びるのが難しいのは、愛されすぎる日常だった。 ※表紙のキャラはエリスのイメージ画です。

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