美人OLに恋した地味サラリーマン、料理教室に通い始めたら何故か裏社会の料理バトルで頂点に立っていた

Gaku

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第18話:絶対皇帝(エンペラー)

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###Aパート: 嵐の前の、あまりにも静かな夜

準決勝を終えた夜。最終決戦を翌日に控えたその静かな時間は、「嵐の前の静けさ」という陳腐な表現では到底追いつかない、重く、濃密な緊張に満ち満ちていた。まるで水深数千メートルの深海にでもいるかのような、息苦しいほどの圧力が空気を支配している。

田中誠は、大会側が用意したビジネスホテルの無機質な一室で、一人、落ち着かない時間を過ごしていた。広さにして八畳ほどだろうか。簡素なベッドと、小さなデスク、そして壁に埋め込まれたクローゼット。生活感の一切を削ぎ落とした殺風景な空間は、彼の孤独を一層際立たせるかのようだった。

窓の外に目をやれば、眠らない巨大都市・東京の光が、地上に降り立った無数の星々のように瞬いている。幾千万の人生が、その光の一粒一粒の中で今この瞬間も営まれているのだろう。だが、その壮大な夜景も、今の誠の心には何の慰めももたらさない。ただ、自分という存在の矮小さを突きつけられているようで、彼はそっとカーテンを引いた。

(明日、決勝戦……)

その言葉を頭の中で反芻するたびに、心臓がぐにゃりと歪な形に締め付けられるような、鈍い痛みが走る。まるで熟練のマッサージ師に急所を的確に揉みしだかれるような、逃げ場のない不快感。掌を見れば、じっとりと汗が滲んでいた。拭っても拭っても、まるで体の内側から不安が湧き出してくるかのように、すぐにまた湿ってしまう。

デスクの上には、二つの道具が静かに置かれていた。一つは、橘から託されたペティナイフ。その切っ先は研ぎ澄まされ、部屋の豆電球の光を吸い込んで、氷のような鋭い輝きを放っている。触れれば指先が切れそうなほどの冷気と、橘の冷静沈着な思考そのものが宿っているかのようだ。もう一つは、ひなたから託された泡立て器。幾重にも重なるステンレスのワイヤーには、彼女と共に駆け抜けた日々の記憶、その情熱と涙の跡が刻まれている。鈴木から受け継いだ、人を笑顔にするという料理の原点。二人の、そして鈴木の想いが、物理的な重さとなって誠の両肩にずっしりと圧し掛かっていた。

「……っ」

気を紛らわせようと、意味もなく立ち上がっては部屋の中を数歩歩き、また座る。そんな無意味な行動を繰り返しているうちに、どうしようもない焦燥感に駆られ、リモコンを手に取ってテレビの電源を入れた。

ザッピングする指が、ふと止まる。画面に映し出されていたのは、今大会の決勝戦直前スペシャルとでも言うべき、扇情的なテロップが躍る特別番組だった。

『ついに決定!料理界の頂点に立つのは誰だ!?奇跡のダークホースか、絶対皇帝か!』

軽薄な煽り文句とは裏腹に、番組の内容は重厚だった。これまでの熱戦のダイジェスト映像が、勇壮な音楽と共に次々と流れていく。初戦の緊張、二回戦の苦闘。そして、料理四天王の一角、「将軍」と呼ばれた豪腕の料理人、徳大寺龍平との激闘。誠自身の牛丼が、将軍の最高級シャトーブリアンを使ったステーキを破った、あの奇跡の瞬間もスローモーションで映し出されていた。審査員たちの驚愕の表情、観客のどよめき。だが、誠はそれをどこか他人事のように眺めていた。あれは本当に自分が成し遂げたことなのだろうか。まるで遠い昔の、別の誰かの物語を見ているような、奇妙な乖離感があった。

しばらくダイジェストが続いた後、番組の雰囲気が一変する。それまでの熱狂を煽るようなBGMがぴたりと止み、辺りを支配したのは、グレゴリオ聖歌を思わせる厳かで、どこか神聖さすら感じさせる音楽だった。スタジオの照明が落とされ、一条のスポットライトが司会者を照らし出す。

「さて、ここまで田中誠選手の奇跡の軌跡をご覧いただきました。ですが」

司会者が一度、言葉を切る。その一瞬の沈黙が、これから語られる存在の規格外さを物語っていた。

ナレーターの、張りのある、しかし畏敬の念に満ちた声が、静かに、そして重々しく響き渡る。

「日本の料理界、その長き歴史において、数多の天才が生まれては、時代の流れの中に消えていきました。革新者、伝統の守護者、異端児……。綺羅星の如く輝いた彼らですが、その誰一人として到達し得なかった、あまりにも高く、あまりにも孤高な絶対的な頂きが存在します。料理四天王、最後の一人。そして、全ての料理人の頂点に君臨する者。人は彼を、こう呼びます」

画面が暗転する。そして、漆黒の中に白抜きで、二つの漢字が浮かび上がった。

『皇帝』

「――絶対皇帝(エンペラー)」

番組はついに、誠が明日、その全てを懸けて戦うことになる対戦相手の特集を始めたのだ。誠はゴクリと固唾を飲む。喉がカラカラに乾ききっていることに、今更ながら気づいた。

スクリーンに、ゆっくりとその男の姿が映し出される。逆光の中から現れたその人影は、誠が想像していたいかなるイメージをも、静かに、そして完全に裏切るものだった。

そこにいたのは、将軍のような筋骨隆々の巨漢でもなければ、女帝のような妖艶な美女でもなかった。

純白の、上質なシルクで織られたかのような、ゆったりとした東洋風の衣服。それを、華奢とさえ言える細身の体に、ふわりと纏っている。長く、美しい銀色の髪は、一切の乱れなく滑らかに後ろで一つに束ねられていた。そして、その顔立ちは――まるで、古代ギリシャの最高傑作と謳われる大理石像のように、完璧な黄金比で整っていた。高く通った鼻筋、やや切れ長の瞳、薄い唇。年齢も、そして性別さえも超越したかのような、中性的な美しさ。神が自らの手で創り上げた最高傑作とでも言うべき、人の手によるものではないかのような造形美。

だが、そのあまりにも美しすぎる顔には、人間的な感情というものが、驚くほど希薄だった。穏やかに微笑んでいるはずなのに、その紫水晶のような瞳は、どこまでも静かで、冷たく、そして全てを見透かすかのように深い。それはまるで、人間を遥か上から見下ろす、神の視線にも似ていた。

テロップが、その名を静かに表示する。

【絶対皇帝 天音(あまね) 奏(かなで)】

料理界の、頂点に立つ者。

VTRの中で、彼――天音奏が、静かに語り始めた。その声は、男性のものにしては高く、女性のものにしては低い、不思議な響きを持つアルトの声だった。それはまるで、最高級のチェロが奏でる、深く、そして心地よい音色にも似ていたが、そこにもやはり感情の揺らぎは感じられない。

「……宇宙の森羅万象は全て、調和(ハーモニー)のもとに成り立っております」

彼の言葉は、テレビ画面を通して、誠の鼓膜を直接震わせた。

「惑星の公転も、季節の移ろいも、生命の誕生と死も。ミクロの世界における素粒子の振る舞いから、マクロの世界を支配する銀河の螺旋に至るまで。その全てが、寸分の狂いもない、完璧な調和(ハーモニー)の上に成り立っているのです」

奏は、まるで教室で生徒に語りかける教師のように、淡々と、しかし絶対的な真理を説くように続ける。

「料理もまた、然り。私の仕事は、何か特別なことをしているのではありません。ただ、そこに在る食材たちが奏でる、声なき声を聴き、それらが最も美しく響き合う一点を見つけ出し、完璧な調和(ハーモニー)へと導いて差し上げる。ただ、それだけのこと……」

その言葉は、もはや料理人のものではなかった。それは、世界の真理を語る哲学者の言葉であり、あるいは、宇宙の法則を説く物理学者の言葉だった。誠は、そのあまりにも巨大で、深遠な存在感に、ただただ圧倒されるしかなかった。リモコンを握りしめたまま、身動き一つできず、画面に釘付けになる。これは、人間なのだろうか。自分が明日戦う相手は、本当に同じ人間なのだろうか。そんな根源的な問いが、誠の頭の中を支配していた。

### Bパート:完璧なる調和、あるいは絶望のレシピ

番組は続いて、エンペラー・天音奏が過去の大会で披露した料理の数々を、アーカイブ映像と共に紹介し始めた。そのどれもが、誠の料理に対する常識を根底から覆す、人間の創造物とは思えないほどに完璧で、美しく、そしてどこか恐ろしいほどの調和に満ちていた。

一皿目。画面に映し出されたのは、宝石のように輝くテリーヌだった。

ナレーターが厳かに告げる。『海の幸と山の幸の、禁断のテリーヌ』。

断面は、完璧な市松模様を描いていた。片や、海の滋養を一身に受けた黒アワビの、深く濃い緑色。片や、森の豊穣を象徴する松茸の、気高い乳白色。その二つの間には、透明なジュレが寸分の狂いもなく挟み込まれ、クリスタルのように光を反射している。

普通に考えれば、濃厚な磯の風味と、豊かで力強い土の香りは、一つの皿の上では激しく反発し合うはずだ。それはまるで、水と油。決して交わることのない、世界の理。しかし、このテリーヌは違う。

解説者として招かれていた、辛口で知られる料理評論家、岸田川が、普段の皮肉めいた口調を忘れ、子供のように目を輝かせて興奮気味にその秘密を語る。

「信じられますか!?皆さん!天音奏は、この二つの全く異なる食材の旨味成分である、アワビのグルタミン酸と、マツタケのグアニル酸の比率を、分子レベルで完全に1:1に調整しているのです!どうやったのかは分かりません!現代科学の粋を集めても不可能と言われた離れ業を、彼は厨房でやってのけた!そして、その二つの拮抗する力を繋ぎ合わせるための第三の要素として、昆布と鶏ガラから、あらゆる雑味を極限まで取り除いて抽出した、限りなく中性的で純粋な味わいのジュレを、わずか数ミクロンの薄さで間に挟み込んでいる!これにより、二つの味は反発するのではなく、互いを高め合い、かつて誰も味わったことのない、第三の次元の旨味へと昇華するのです!これはもはや料理ではない!科学と哲学、そして芸術の融合です!」

岸田川の絶叫に近い解説を聞きながら、誠は背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。旨味成分を、分子レベルで調整する?そんなことが、人間の技術で可能なのか。それはもはや、神の領域ではないのか。

続いて、二皿目が紹介される。純白の円形の皿の上に描かれた、まるで芸術品のようなリゾット。

『白と黒の、二元論(デュアリズム)リゾット』。

皿が、中央の一本の線によって、完璧に二つに分けられている。右半分は、新鮮なイカスミを使い、光さえも吸い込むかのような漆黒のリゾット。左半分は、最高級のパルミジャーノ・レッジャーノと、低温殺菌された新鮮な牛乳だけで作られた、一点の曇りもない純白のリゾotto。そのコントラストは、陰と陽、光と闇、生と死といった、世界の二元論そのものを象徴しているかのようだった。

ナレーターが語る。「この二つのリゾットを、別々に食べても、もちろん極上の味です。しかし、天音奏の真骨頂は、この二つを同時に口に運んだ時にこそ現れます」

VTRでは、審査員が二つのスプーンを使い、白と黒のリゾットを寸分違わぬ量だけすくい取り、同時に口へと運ぶ。すると、次の瞬間、審査員の顔が驚愕に歪む。

「……なんと!口の中で、あれほど主張の強かった磯の香りと、濃厚な乳の香りが、一切反発することなく、まるで太極図のように完璧に混ざり合い、一つの全く新しい味へと昇華していくのです!白でもなく、黒でもない。光でもなく、闇でもない。その先にある、究極の調和の味が、そこには存在するのです!」

彼のレシピに、偶然やインスピレーションといった、不確定な要素は一切存在しない。味覚、嗅覚、視覚、食感、そして温度。料理を構成する全ての要素が、まるで寸分の狂いもない数学の方程式のように、完璧な黄金比で計算し尽くされ、構成されているのだ。それは、人の感情が入り込む隙間のない、絶対的な法則の世界だった。

そして番組は最後に、彼の料理を食べた審査員たちの、異様なまでのリアクションを映し出した。それは、誠がこれまで見てきた、どんな光景よりも不気味だった。

彼らは皆、その一皿を口にした瞬間、驚きや感動の声を上げるのではない。ただ、恍惚とした表情を浮かべ、瞳の焦点がどこか遠くを見つめるように虚ろになる。そして、まるで天国でも垣間見たかのように、その頬を静かに涙が伝い始めるのだ。それは、悲しみの涙ではない。喜びの涙でもない。もっと根源的な、魂が浄化されるかのような、静謐な涙。

そして、誰もが同じような言葉を、夢うつつに呟くのだ。

「……ああ、幸せだ……」
「……これが、世界の完成された形……。争いも、悲しみも、何もない……」
「……もう、何もいらない……。このままでいたい……」

それは、誠がこれまで見てきた「美味しい」という感情の発露とは全く異質のものだった。将軍のステーキを食べた時の、脳天を打ち抜かれるような衝撃。ひなたのオムライスを食べた時の、胸が温かくなるようなノスタルジー。そういった、人間的な感情の爆発や揺らぎではない。

まるで、脳の快楽中枢に直接働きかけられ、心を強制的に書き換えられてしまったかのような、不気味で、恐ろしいほどの幸福感。それはもはや、料理による感動ではなく、一種の精神的な救済、あるいは洗脳に近かった。食べる者を、現世の苦しみから解き放ち、絶対的な調和の世界へと強制的に連れて行ってしまう、禁断の果実。

プツン、とテレビが消えるように、番組が終わった。

部屋に、再びテレビのノイズさえもない、完全な静寂が戻ってきた。誠は、ソファの上で自分の体が、カタカタと小刻みに震えていることに気づいた。寒くもないのに、奥歯がガチガチと鳴って止まらない。

(……勝てるはずが、ない)

心の奥底から、絶望の声が聞こえる。これまで戦ってきた相手とは、次元が、いる世界が違いすぎる。将軍や女帝は、確かに強かった。だが、彼らの料理にはまだ、人間的な情熱や勝利への渇望、己の力を誇示したいという欲望があった。付け入る隙は、そこにあった。

しかし、あのエンペラーの料理には、それがない。そこにあるのは、ただひたすらに完璧で、絶対的で、冷徹な、宇宙の法則のような「調和」だけ。

これは、料理の腕前を競う戦いではない。

料理という概念そのもの、そして、不完全で矛盾に満ちた人間という存在そのものを問われる、哲学の戦いだ。

その、あまりにも巨大で、あまりにも深遠なプレッシャーに、誠の心は軋みを上げていた。まるで巨大なプレス機にゆっくりと押し潰されていくような、逃げ場のない恐怖。

彼は、ふらつく足取りでベッドに向かい、毛布を頭まで被った。だが、眠れるはずもなかった。瞼を閉じれば、あの感情のない美しい顔と、完璧すぎる料理の数々が、繰り返し脳裏に浮かんでくる。

時間だけが、無情に過ぎていく。長い、長い、孤独な夜だった。

### Cパート:深夜の作戦会議と、深まる絶望

時計の短針が、深夜二時を指そうとしていた。天井の木目の模様が、まるで不気味な顔のように見えてきて、誠は何度目か分からない寝返りを打った。ベッドにもぐりこんでから二時間以上が経過していたが、眠気は一向に訪れない。それどころか、時間は経てば経つほど、思考は冴えわたり、絶望はより深く、色濃くなっていく。

その時だった。

コンコン、と静かな部屋に、控えめなノックの音が響いた。

その音は、張り詰めた静寂の中では、やけに大きく聞こえた。誠は、心臓が跳ね上がるのを感じながら、体を起こす。こんな時間に、一体誰が? 大会関係者だろうか。いや、それならばもっと事務的なノックのはずだ。

訝しみながら、ゆっくりとベッドから抜け出し、足音を忍ばせてドアに近づく。ドアスコープを覗き込むと、そこには見慣れた二つの影が立っていた。

誠は、安堵と驚きが入り混じったような溜息を一つついて、ドアのロックを外した。

「……橘さん、ひなた……」

ドアを開けると、そこにはやはり、同じように眠れずにいたのであろう、橘とひなたが立っていた。

橘は、いつもと変わらないポーカーフェイスを装ってはいたが、その目の下には、隠しきれない隈がうっすらと浮かんでいる。その怜悧な瞳も、どこか焦点を失っているように見えた。ひなたも、トレードマークである元気な笑顔は完全に消え失せ、眉を寄せた心配そうな表情で、誠の顔をじっと見つめていた。その手には、コンビニの袋らしきものが握られている。

「……やはり、眠れていないようだな」

橘が、静かに、しかし確信に満ちた口調で言った。まるで、誠が眠れていないことなど、最初から分かっていたかのように。

「ばっかじゃないの! あんたがこんな大事な日の前に、ぐっすり眠れるわけないでしょ! 一人で全部抱え込んで、ウジウジ悩んでるんじゃないかと思ったわよ!」

ひなたが、少し怒ったような、それでいて心底心配しているのが伝わってくる声で言った。その言葉は、棘を含んでいるようで、その実、誠の孤独を優しく溶かしてくれる温かさがあった。

二人は、誠が招き入れるのを待つまでもなく、当たり前のように部屋の中へ入ってくると、小さなローテーブルの前にどかりと腰を下ろした。ひなたがコンビニの袋から、ペットボトルのお茶や栄養ドリンク、それにチョコレート菓子などを取り出してテーブルに並べる。

そして、橘がおもむろに、どこからか入手してきたのであろう、分厚いファイルの束を「ドン」と重い音を立ててテーブルの上に置いた。黒い表紙には、何のタイトルも書かれていない。しかし、その佇まいは、尋常ならざる情報が詰め込まれていることを雄弁に物語っていた。

「これは、天音奏が過去に出場した、全ての公式・非公式コンペティションの記録と、その時に彼が作った料理の詳細なデータだ。レシピはもちろん、使用した食材の産地、調理時の温度と時間、盛り付けの意図、そして審査員たちの評価コメントまで、手に入る限りの情報を全てまとめた」

それは、エンペラーの料理の全てが記された、いわば禁断の魔導書(グリモワール)だった。これだけの情報を、準決勝が終わってからわずか数時間で集め、分析したというのか。橘の、常軌を逸した情報収集能力と分析力に、誠は改めて戦慄した。

こうして、決勝戦を数時間後に控えた深夜、三人の徹夜の作戦会議が始まった。

ページを一枚、また一枚と、橘の細く長い指がめくっていく。そこに並んでいたのは、先ほどテレビで見た料理の、さらに詳細な情報だった。『禁断のテリーヌ』のアワビがどこの海で採れたものか、松茸がどの山のものか。『二元論リゾット』の米の種類、チーズの熟成期間、牛乳の脂肪分に至るまで、全てが克明に記されている。

だが、ページをめくるたびに、三人の顔は希望を見出すどころか、次第に絶望の色に染まっていった。読めば読むほど、分かれば分かるほど、エンペラー・天音奏の料理の、その神がかり的なまでの完璧さが、冷たい事実として浮き彫りになってくるのだ。

味の構成、食材の組み合わせ、温度管理、そして盛り付けの美学。その全てに、寸分の隙もない、数学的なほどに完璧な理論的裏付けがあった。奇をてらっただけのレシピは一つもない。全てが、「調和」という唯一絶対の目的に向かって、緻密に、冷徹に計算し尽くされている。

「……なんだよ、これ……」

誠が呻くように言った。あるページには、こんな記述があった。

『"森の囁き"と名付けられたスープ。主役はキノコ。しかし、彼は単一のキノコを使わない。ポルチーニの芳醇な香り、ジロール茸の微かな酸味、トランペット茸の土のニュアンス。それぞれを別々に、最適な温度と時間で煮出し、その抽出液を、黄金比である1.618:1:0.618の比率でブレンドすることで、森羅万象の香りを一つのスープに凝縮させる……』

「……こんなの、どうやって勝てって言うのよ……」

ひなたが、ついに頭を抱えてテーブルに突っ伏した。彼女の明るい声から、完全に光が失われている。「偶然の産物」や「情熱の勢い」といった、自分たちがこれまで武器にしてきたものが、この完璧な理論の前では、まるで子供の遊びのように思えてならなかった。

部屋に、重い、重い沈黙が流れる。それは、絶対的な強者を前にした、完全なる無力感と絶望の沈黙だった。ペットボトルの表面についた水滴が、ぽたり、とテーブルに落ちる音だけが、やけに大きく響いた。

橘でさえも、その分厚い資料を睨みつけるように見つめたまま、長い間言葉を発することができなかった。彼の頭脳が、これほどの情報量を前にして、初めて解を見つけ出せずにいる。その整った眉間に刻まれた皺が、彼の内面の葛藤を物語っていた。

やがて、彼は絞り出すように、ほとんど吐息に近い声で呟いた。

「……死角が、ない」

橘が、生まれて初めて口にした弱音ともとれるその一言。それは、他の誰が語るどんな賞賛の言葉よりも、エンペラーという存在の、そのあまりの巨大さと絶望的なまでの完成度を、何よりも雄弁に物語っていた。その言葉を聞いた瞬間、誠の心の中で、かろうじて燃え残っていた希望の小さな灯火が、ふっと音を立てて消えそうになった。

### Dパート:絶望の底で見つけた、唯一の不協和音

どれくらいの時間が経っただろうか。時計の針は、午前四時を回っていた。窓の外の暗闇が、ほんの少しだけその濃さを和らげ始めた頃。

重苦しい沈黙が、まるで鉛のように三人の上にのしかかっていた。ひなたは突っ伏したまま動かず、橘は資料から目を離さないまま、石像のように固まっている。誠もまた、為す術なく、ただテーブルに並べられたエンペラーの完璧な料理の写真たちを、ぼんやりと眺めていた。宝石のようなテリーヌ、陰陽の太極図を思わせるリゾット、森羅万象を凝縮したスープ……。

その時だった。

重苦しい沈黙を破ったのは、意外にも、絶望の淵にいたはずの田中誠その人だった。

「……でも」

彼は、資料に並べられたエンペラーの完璧な料理の数々を見つめながら、ぽつりと、自分自身に言い聞かせるように言った。

「彼の料理、どれも完璧すぎて……なんだか、心が、ないような気がするんです。綺麗すぎて、温かみがないというか……。なんていうか、すごく美味しいんだろうけど……食べても、お腹はいっぱいになるけど、心は満たされないような……そんな感じがする」

それは、論理的な分析でも、計算された戦略でもない。あまりにも素朴で、感覚的で、子供の感想のような一言だった。

だが、その一言は、暗闇の中で灯された一本のマッチの炎のように、凍り付いていた二人の思考を、はっきりと揺り動かした。

ひなたが、がばりと顔を上げる。その目には、驚きと、何かに気づいたような光が宿っていた。

そして、橘の氷のような瞳の奥に、初めて、確かな一条の光が宿った。彼は、弾かれたように顔を上げ、誠の顔を真っ直ぐに見つめた。

「……そうか」

橘の口から、乾いた声が漏れる。

「完璧な調和(ハーモニー)。……それは、言い換えれば、一切の“ノイズ”を許さないということだ。彼の世界は、完璧に計算され、制御された音だけで構成されている。そこに、不規則で、予測不可能で、非論理的な要素……“ノイズ”が入り込む余地は、一切ない」

その言葉に、今度はひなたが、まるで天啓を得たかのように、勢いよく立ち上がって声を弾ませた。

「そうよ! オーケストラみたいなもんよ! 考えてもみてよ! 何百人もの超一流の演奏者が、完璧な楽譜通りに、一音も間違えずに、壮大で美しいシンフォニーを演奏してるところに! たった一人! 楽譜なんて完全に無視して、自分の魂の叫びを、アドリブでめちゃくちゃに、がなり立てるように歌い出すボーカリストが現れたらどうなる!?」

ひなたは、身振り手振りを交え、興奮して言葉を続ける。

「その完璧な調和は、きっとぐっちゃぐちゃになるはずよ! 聴衆は混乱するかもしれない! でも、もしかしたら、その魂の叫びだけが、他のどんな完璧な音色よりも、人の心を直接揺さぶるかもしれないじゃない!」

それだ!

ひなたの情熱的な言葉が、橘の冷徹な理論と結びつき、そして誠の素朴な感覚が、その中心を射抜いた。

三人の思考が、ついに一つの結論へと、光の速さで収束していく。

エンペラー・天音奏の、あの完璧に計算され尽くした「調和」という名の絶対的な世界。ミクロの分子レベルまでコントロールされた、神の領域。それを、内側から破壊する唯一の方法。

それは、さらなる高度な調和や、より洗練された技術ではない。

計算も、理論も、セオリーも、全てを無視した、たった一つの純粋で、剥き出しの、そしてコントロールなど到底不可能な、人間的な感情。

「想い」

それこそが、完璧な調和の世界に、ただ一つ打ち込むことのできる、最強の「不協和音(ノイズ)」となるはずだ。

「俺の、あの思い出の味……」

誠が、無意識のうちに呟いていた。鈴木の店で、初めて食べたあの牛丼。決して高級な食材を使っているわけではない。完璧なレシピがあったわけでもない。ただ、そこには、疲れた人々を元気づけたいという、店主の温かい「想い」が込められていた。

「そうよ! あんたの、あの暑苦しくて、お節介で、でもどうしようもなく温かい、愛情のこもった料理!」

ひなたが、力強く頷く。その瞳には、もう絶望の色はない。確かな勝利への確信が、炎のように燃え上がっていた。「不器用でも、不格好でもいい! あんたの想いを、全部ぶつけるのよ!」

「……フン。悪くない」

橘が、初めてその口元に、わずかな、しかし確かな笑みを浮かべた。それは、氷が解ける瞬間に似ていた。

「いや、それしか奴に勝つ道はないだろう。奴の完璧な世界は、人間的な“揺らぎ”や“矛盾”を想定していない。我々が叩き込むべきは、そこだ。論理で構築された城は、非論理という名の最大の爆弾でしか、破壊できない」

いつの間にか、部屋の窓のカーテンの隙間から、白々とした光が差し込んできていた。眠らない街のネオンサインがその役割を終え、新しい一日が始まろうとしている。

徹夜の作戦会議の果てに、三人はついに、分厚い絶望の闇の中に、一筋の、しかしどこまでも確かな光を見つけ出したのだ。

誠は、テーブルの上に置かれていた二つの道具を、両手で強く握りしめた。右手に、橘の想いが宿るペティナイフの冷たい感触。左手に、ひなたの情熱が刻まれた泡立て器の無骨な感触。

友の想い。その温かい重みが、じんわりと掌から心へと伝わってくる。

もう、怖くはない。

相手が神のような存在だとしても、自分は一人ではない。

誠は、ゆっくりと立ち上がると、白み始めた空を見つめた。最後の戦いへと、その覚悟を、静かに、しかし確かに固めるのだった。
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薬草と静かな生活をこよなく愛する少女、レイナ=リーフィア。 地味で目立たぬ薬師だった彼女は、ある日貴族の陰謀で“冤罪”を着せられ、王都の冒険者ギルドを追放されてしまう。 「――もう、草とだけ暮らせればいい」 絶望の果てにたどり着いた辺境の村で、レイナはひっそりと薬を作り始める。だが、彼女の薬はどんな難病さえ癒す“奇跡の薬”だった。 やがて重病の王子を治したことで、彼女の正体が王家の“隠し子”だと判明し、王都からの使者が訪れる―― 「あなたの薬に、国を救ってほしい」 導かれるように再び王都へと向かうレイナ。 医療改革を志し、“薬師局”を創設して仲間たちと共に奔走する日々が始まる。 薬草にしか心を開けなかった少女が、やがて王国の未来を変える―― これは、一人の“草オタク”薬師が紡ぐ、やさしくてまっすぐな奇跡の物語。 ※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。

死んだはずの貴族、内政スキルでひっくり返す〜辺境村から始める復讐譚〜

のらねこ吟醸
ファンタジー
帝国の粛清で家族を失い、“死んだことにされた”名門貴族の青年は、 偽りの名を与えられ、最果ての辺境村へと送り込まれた。 水も農具も未来もない、限界集落で彼が手にしたのは―― 古代遺跡の力と、“俺にだけ見える内政スキル”。 村を立て直し、仲間と絆を築きながら、 やがて帝国の陰謀に迫り、家を滅ぼした仇と対峙する。 辺境から始まる、ちょっぴりほのぼの(?)な村興しと、 静かに進む策略と復讐の物語。

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