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第1部:黄金の檻と密約
第1話:安土の憂鬱 ~あるいは、魔王が地球儀を回しすぎて指を突き指する件について~
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天正十年、五月。 近江国、安土城天守。
標高百九十九メートルから見下ろす琵琶湖は、夕陽を浴びて、腐った蜜柑のようなドロドロとした黄金色に輝いていた。 天守の最上階。金箔と黒漆(くろうるし)で塗り固められたその空間は、権力の象徴というよりは、成金趣味の極致とも言える豪華絢爛な「密室」である。 西日が障子の桟(さん)を抜け、畳の上に鋭角な影を落としている。空気中を漂う埃の一粒一粒が、光の粒子を浴びてキラキラと踊っていた。その静寂を破ったのは、奇妙な回転音だった。
「キリキリ、キリキリキリキリ……」
錆びついた車輪が悲鳴を上げるような音。 音の発生源は、部屋の中央に鎮座する織田信長(四十九歳)である。 彼は南蛮渡来の「地球儀」を、まるで独楽(こま)でも回すかのように、人差し指一本で高速回転させていた。
「……上様、あ、あの」
控えていた小姓、森蘭丸(十七歳)が、もごもごとした口調で声をかけた。彼は極度のストレスから、懐に隠し持っていた氷砂糖をこっそり舐めていたのがバレないか、冷や汗をかいている。
「なんじゃ」
信長は地球儀から目を離さずに答えた。回転は止まらない。遠心力で地球儀の台座がガタガタと震え始め、イタリア半島あたりが残像で伸びている。
「回しすぎ……かと存じます。オルガンティノ師が『デリケートな精密機械ゆえ、優しく扱ってくだされ』と涙目で言っておりました」 「蘭丸よ」 「はっ」 「この球(たま)を見てみろ。ここが日ノ本だそうだ」
信長は急ブレーキをかけるように、回転する球体を「バシッ!」と掌で止めた。その衝撃で、地球儀の軸から「ミシッ」という、聞いてはいけない音が響いた。蘭丸の心臓も同時に「ミシッ」といった。
信長は、地球儀の表面にへばりついた、米粒の欠片のようなシミを指差した。
「……小さすぎぬか?」
信長の声音には、怒りよりも深い、深海のような絶望が混じっていた。 「余は、このシミ一つのために、四十九年もかけて人を殺し、寺を焼き、茶碗を集めてきたのか? え? これ、爪でカリッとしたら剥がれるぞ?」
「上様、それは国でございます。ゴミではございません」
「見ろ、この広い青い部分を。海だ。それに比べて、この赤い米粒。狭い。あまりにも狭すぎる」 信長は畳の上に大の字に寝転がった。最高級の京友禅の袴が、情けなく擦れる音がした。 天井の極彩色の龍が、呆れた顔で信長を見下ろしている。
「天下布武……天下布武とな……」
信長は夢遊病者のように呟いた。 彼が今感じているのは、達成感ではない。現代で言えば、超大作RPGを百時間かけてクリアし、ラスボスを倒した瞬間に画面に表示された「END」の文字を見つめている時の、あの虚無感である。 あるいは、必死に受験勉強をして東大に入った翌日に、「これから四年間、単位を取るための事務手続きが始まります」と告げられた学生の絶望に近い。
「あと少しで毛利も片付く。そうすれば天下統一だ。……で、その後はどうなる? 蘭丸、申してみよ」
蘭丸は氷砂糖を飲み込み、居住まいを正した。 「はっ。戦がなくなり、民は耕作に励み、豊かな国になりましょう。上様は安土にて、政(まつりごと)を統べ……」
「それだ!!」
信長がガバりと上半身を起こした。その勢いで、蘭丸はビクッとのけぞる。 「政(まつりごと)! つまり事務処理だ! 誰それの領地の境界線がどうだの、今年の米の収穫が悪いから税を負けてくれだの、家臣の誰と誰が喧嘩しただの……。余は、この先死ぬまで、巨大な役場の村長(むらおさ)をやらされるのか!?」
信長の目には、狂気じみた恐怖が宿っていた。 彼は破壊者であり、創造者であった。だが、管理者ではなかった。 毎日決まった時間に起き、書類に判を押し、部下の愚痴を聞く。彼にとってそれは、本能寺で焼かれることよりも遥かに恐ろしい「緩慢なる死」だった。
「嫌じゃ……。絶対に嫌じゃ……。そんな余生なら、猿(秀吉)にでもやらせておけばよい」
信長は子供のように足をバタつかせた。畳の井草(いぐさ)の匂いが、空しく立ち上る。 そして再び、地球儀に向き直った。 西日が沈みかけ、部屋の中が急速に闇に沈んでいく中、信長の瞳だけが、地球儀の向こう側――まだ見ぬ「外の世界」を反射してギラギラと光っていた。
「蘭丸」 「は、はい」 「ここから一番遠い国はどこだ」 「は? ええと……南蛮の教えによれば、ローマ、あるいはさらにその先……」 「そうか」
信長はニヤリと笑った。それは、久しぶりに新しい玩具を見つけた子供の顔であり、同時に、脱獄を企てる囚人の顔でもあった。 彼は立ち上がり、窓の外、暗くなり始めた琵琶湖の水面を見つめる。 風が吹き抜け、信長の乱れた髪が頬を打つ。遠くで鳶(とんび)が「ピーヒョロロ」と鳴いたが、その声はどこか間の抜けた電子音のように響いた。
「鳥籠の扉は、最初から開いていたのかもしれんな」
その言葉の意味を、蘭丸はまだ理解できなかった。 ただ、信長の背中から漂う気配が、昨日までの「天下人」のものではなく、何か得体の知れない「旅人」のものに変わっていることだけを、肌で感じて震えた。
その時。 廊下をドタドタと走る、品のない足音が近づいてきた。 「うわあぁぁん! 上様ぁぁ! お助けくだされぇぇ!」
襖(ふすま)が勢いよく開け放たれ、猿のような小男が転がり込んできた。 羽柴秀吉である。 信長は冷めた目で、泥だらけの秀吉を見下ろした。 「……役者が揃ったな。蘭丸、茶を淹れろ。渋いやつをな」
信長の退屈な「統治」への絶望と、そこからの逃走計画。 日本史最大のミステリーとなる歯車が、今、錆びついた音を立てて回り始めたのである。
標高百九十九メートルから見下ろす琵琶湖は、夕陽を浴びて、腐った蜜柑のようなドロドロとした黄金色に輝いていた。 天守の最上階。金箔と黒漆(くろうるし)で塗り固められたその空間は、権力の象徴というよりは、成金趣味の極致とも言える豪華絢爛な「密室」である。 西日が障子の桟(さん)を抜け、畳の上に鋭角な影を落としている。空気中を漂う埃の一粒一粒が、光の粒子を浴びてキラキラと踊っていた。その静寂を破ったのは、奇妙な回転音だった。
「キリキリ、キリキリキリキリ……」
錆びついた車輪が悲鳴を上げるような音。 音の発生源は、部屋の中央に鎮座する織田信長(四十九歳)である。 彼は南蛮渡来の「地球儀」を、まるで独楽(こま)でも回すかのように、人差し指一本で高速回転させていた。
「……上様、あ、あの」
控えていた小姓、森蘭丸(十七歳)が、もごもごとした口調で声をかけた。彼は極度のストレスから、懐に隠し持っていた氷砂糖をこっそり舐めていたのがバレないか、冷や汗をかいている。
「なんじゃ」
信長は地球儀から目を離さずに答えた。回転は止まらない。遠心力で地球儀の台座がガタガタと震え始め、イタリア半島あたりが残像で伸びている。
「回しすぎ……かと存じます。オルガンティノ師が『デリケートな精密機械ゆえ、優しく扱ってくだされ』と涙目で言っておりました」 「蘭丸よ」 「はっ」 「この球(たま)を見てみろ。ここが日ノ本だそうだ」
信長は急ブレーキをかけるように、回転する球体を「バシッ!」と掌で止めた。その衝撃で、地球儀の軸から「ミシッ」という、聞いてはいけない音が響いた。蘭丸の心臓も同時に「ミシッ」といった。
信長は、地球儀の表面にへばりついた、米粒の欠片のようなシミを指差した。
「……小さすぎぬか?」
信長の声音には、怒りよりも深い、深海のような絶望が混じっていた。 「余は、このシミ一つのために、四十九年もかけて人を殺し、寺を焼き、茶碗を集めてきたのか? え? これ、爪でカリッとしたら剥がれるぞ?」
「上様、それは国でございます。ゴミではございません」
「見ろ、この広い青い部分を。海だ。それに比べて、この赤い米粒。狭い。あまりにも狭すぎる」 信長は畳の上に大の字に寝転がった。最高級の京友禅の袴が、情けなく擦れる音がした。 天井の極彩色の龍が、呆れた顔で信長を見下ろしている。
「天下布武……天下布武とな……」
信長は夢遊病者のように呟いた。 彼が今感じているのは、達成感ではない。現代で言えば、超大作RPGを百時間かけてクリアし、ラスボスを倒した瞬間に画面に表示された「END」の文字を見つめている時の、あの虚無感である。 あるいは、必死に受験勉強をして東大に入った翌日に、「これから四年間、単位を取るための事務手続きが始まります」と告げられた学生の絶望に近い。
「あと少しで毛利も片付く。そうすれば天下統一だ。……で、その後はどうなる? 蘭丸、申してみよ」
蘭丸は氷砂糖を飲み込み、居住まいを正した。 「はっ。戦がなくなり、民は耕作に励み、豊かな国になりましょう。上様は安土にて、政(まつりごと)を統べ……」
「それだ!!」
信長がガバりと上半身を起こした。その勢いで、蘭丸はビクッとのけぞる。 「政(まつりごと)! つまり事務処理だ! 誰それの領地の境界線がどうだの、今年の米の収穫が悪いから税を負けてくれだの、家臣の誰と誰が喧嘩しただの……。余は、この先死ぬまで、巨大な役場の村長(むらおさ)をやらされるのか!?」
信長の目には、狂気じみた恐怖が宿っていた。 彼は破壊者であり、創造者であった。だが、管理者ではなかった。 毎日決まった時間に起き、書類に判を押し、部下の愚痴を聞く。彼にとってそれは、本能寺で焼かれることよりも遥かに恐ろしい「緩慢なる死」だった。
「嫌じゃ……。絶対に嫌じゃ……。そんな余生なら、猿(秀吉)にでもやらせておけばよい」
信長は子供のように足をバタつかせた。畳の井草(いぐさ)の匂いが、空しく立ち上る。 そして再び、地球儀に向き直った。 西日が沈みかけ、部屋の中が急速に闇に沈んでいく中、信長の瞳だけが、地球儀の向こう側――まだ見ぬ「外の世界」を反射してギラギラと光っていた。
「蘭丸」 「は、はい」 「ここから一番遠い国はどこだ」 「は? ええと……南蛮の教えによれば、ローマ、あるいはさらにその先……」 「そうか」
信長はニヤリと笑った。それは、久しぶりに新しい玩具を見つけた子供の顔であり、同時に、脱獄を企てる囚人の顔でもあった。 彼は立ち上がり、窓の外、暗くなり始めた琵琶湖の水面を見つめる。 風が吹き抜け、信長の乱れた髪が頬を打つ。遠くで鳶(とんび)が「ピーヒョロロ」と鳴いたが、その声はどこか間の抜けた電子音のように響いた。
「鳥籠の扉は、最初から開いていたのかもしれんな」
その言葉の意味を、蘭丸はまだ理解できなかった。 ただ、信長の背中から漂う気配が、昨日までの「天下人」のものではなく、何か得体の知れない「旅人」のものに変わっていることだけを、肌で感じて震えた。
その時。 廊下をドタドタと走る、品のない足音が近づいてきた。 「うわあぁぁん! 上様ぁぁ! お助けくだされぇぇ!」
襖(ふすま)が勢いよく開け放たれ、猿のような小男が転がり込んできた。 羽柴秀吉である。 信長は冷めた目で、泥だらけの秀吉を見下ろした。 「……役者が揃ったな。蘭丸、茶を淹れろ。渋いやつをな」
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