天を焼く虚構 ―本能寺、最後の共犯者―

Gaku

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第1部:黄金の檻と密約

第2話:道化の仮面 ~あるいは、猿が金のバナナの皮で転ぶ計算をする件について~

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「うわあぁぁん! 上様ぁぁ! 柴田殿が! 柴田殿が某(それがし)のハゲ頭を『ゆで卵』と呼びよったのでごぜぇますぅぅ!」

 羽柴秀吉(四十五歳)は、最高級の備後表(びんごおもて)の畳の上を、人間モップのようにズザーッと滑りながら進んだ。  その摩擦熱で額が少し焦げているのではないかと思うほどの勢いである。彼は信長の足元、わずか三センチの距離でピタリと停止し、見事な土下座を決めた。

 芸術的なまでの「卑屈」のフォーム。  尻を高く突き上げ、両手は地面にめり込むほど強く押し付けられている。

「……五月蝿(うるさ)い」

 信長は、蘭丸が淹れた渋い茶をすすりながら、眼下の生物を見下ろした。  夕闇が深まる天守の一室。蝋燭(ろうそく)の火が揺れ、秀吉の突き出した尻の影が、障子に巨大なキノコのように映っている。

「申し訳ございませぬぅ! ですが、悔しゅうて悔しゅうて! このサル、上様より賜ったこの大事な頭を、あのような猪武者に侮辱され……うっ、うっ……」

 秀吉は顔を上げた。その顔は、涙と鼻水、そしてどこでつけてきたのか泥と枯れ草でぐちゃぐちゃになっていた。  まさに「猿」である。それも、雨に濡れて風邪をひいた哀れな猿だ。

 だが。  信長だけは見ていた。  秀吉が顔を伏せた一瞬、その濁った涙の奥で、眼球だけが爬虫類のようにギョロリと動き、信長の顔色と部屋の様子――特に、散らかった地球儀の残骸――を冷静にスキャンしたことを。

(……こやつ、泣きながら計算してやがる)

 信長は心の中で舌打ちをした。  秀吉の「道化」は完璧だ。周囲を油断させ、笑わせ、警戒心を解く。だが、その皮膚一枚下にあるのは、煮えたぎるようなドス黒い「欲望」のマグマだ。    信長には聞こえていた。秀吉の心の声が。  『泣け、泣け、俺。もっと情けなく。上様はこういうのがお好きだ。安心させろ。俺は無害な玩具だと刷り込め。そしていつか――その首から上の座布団を、俺がいただく』

「藤吉郎」 「は、ははーっ!」

 信長が古名で呼ぶと、秀吉はバネ仕掛けの人形のように反応した。

「貴様、その泥だらけの着物、いくらした?」 「えっ? あ、はい、これは……上様に以前いただいた褒美の金で……ええと、金子(きんす)三枚ほどで……」 「嘘をつけ」

 信長は茶碗を置いた。「カタン」という硬質な音が、秀吉の心臓を叩く。

「その着物、裏地を見ろ。南蛮渡来のビロードではないか。表はボロに見せかけ、肌に触れる部分だけは極上の布を使う。……貴様の性根そのものだな」

 秀吉の動きが止まった。  一瞬、部屋の空気が凍りつく。  窓の外で、夜虫が「リリリリ」と鳴く声だけが、やけに大きく響く。

 秀吉の背中に冷や汗が流れる。  (バレてる!? いや、まさか。これはただの戯れ言……いや、この魔王の目は誤魔化せない!)

 しかし、次の瞬間、秀吉のとった行動は常軌を逸していた。  彼は突然、着物をベリベリと引き裂き、裏地のビロードを剥き出しにして、それを頭に被ったのである。

「ば、バレましたかぁー! いやはや、さすがは上様! このサル、肌が弱くてチクチクするのが苦手でして! オシャレ心というやつでごぜぇますよ! いやあ、面目ない!」

 彼はビロードを被ったまま、踊るように手足をバタつかせた。その姿は、高価な布を被った泥棒猫のようで、滑稽極まりなかった。  蘭丸が必死に笑いを堪えて肩を震わせている。

 信長は、ほう、と息を吐いた。 (……見事だ。プライドというものがないのか、こやつは)

 信長は知っていた。秀吉のこの「浅ましさ」こそが、彼の武器であることを。  そして信長自身、この便利な道具を手放せないことも。

「よい。……猿よ。貴様、天下が欲しいか?」

 信長は唐突に問うた。直球すぎる問いに、秀吉はピタリと踊りを止め、真顔になった。いや、真顔を「演じた」。

「滅相もございません! 天下など、上様がお持ちであればこそ輝くもの! 某などは、そのおこぼれの……そう、天下の隅っこに落ちている大福の粉を舐められれば、それで幸せでございます!」

「そうか。粉か」

 信長は冷ややかに笑った。  ――違うな。貴様は粉など欲しくない。大福そのものを、いや、大福を作っている店ごと飲み込みたいのだ。  だが、哀れなことよ。  信長は、先ほどの地球儀を足先で転がした。

「猿よ。貴様が見ている『天下』とやらは、この球(たま)の上の、ほんのわずかなシミだ。貴様は、そのシミの中で一番偉い猿になりたいだけだ。……狭い檻の中で、必死にボス猿の座を狙っている。ご苦労なことだ」

「は? ……はあ、恐悦至極に存じます?」  秀吉には、信長の言葉の真意が理解できなかった。  なぜなら、秀吉にとって「天下」とは、黄金であり、女であり、ひれ伏す人々であり、この世の全てだったからだ。それ以外に何があるというのか?  この温度差。  信長は「枠の外」を見つめ、秀吉は「枠の中」を極めようとしている。  二人の視線は、永遠に交わることがない。

「下がれ。……ああ、そうだ」  信長は退出しかけた秀吉の背中に声をかけた。

「光秀を呼べ。茶を飲む」

 その瞬間、秀吉の背中がビクリと跳ねた。  ライバルの名前に反応したのではない。信長の声色が、自分に向けられた「ペットをあやす声」から、対等な人間に向ける「湿り気を帯びた声」に変わったことに気づいたからだ。

「……承知仕りました」

 秀吉は深く頭を下げ、後ずさりしながら部屋を出た。  廊下に出た瞬間、秀吉の顔から「道化の仮面」が剥がれ落ちた。  そこにあったのは、冷酷で、焦燥に駆られた男の顔だった。

(光秀……。上様は、あの堅物と何を話すおつもりだ? 俺には見せない顔で……)

 秀吉は、廊下の暗がりに向かって、音もなく舌を出した。  その舌は、不気味なほど赤く、長く、ぬらりと光っていた。

 一方、部屋に残された信長は、秀吉が去った後の空気を手で払うような仕草をした。

「……暑苦しい男だ。欲望の熱気で部屋の温度が二度は上がったわ」

 信長は、次の訪問者を待つ。  道化ではない。唯一、言葉の通じる「共犯者」を。  障子の向こうから、静かな、あまりにも静かな足音が近づいてくるのが聞こえた。  それは、死神の足音のようでもあり、救世主の足音のようでもあった。
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