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第1部:黄金の檻と密約
第3話:静寂の茶会 ~あるいは、完璧主義者が想定外のオーダーでフリーズする件について~
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茶室「不知火(しらぬい)」。 二畳にも満たないその極小の宇宙は、先刻までの天守の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
シュン、シュン、シュン……。 茶釜の湯が沸く音――茶道でいう「松風(まつかぜ)」の音だけが、闇の中で規則正しく響いている。それは、世界の心臓の鼓動のようだった。
明智光秀(五十四歳)は、正座をしていた。 ただの正座ではない。 背筋の角度は床に対して垂直九十度。両膝の間隔、手の位置、視線の角度に至るまで、定規で測ったかのような幾何学的な美しさである。もしこの時代にAIロボットがいれば、「同志よ」と握手を求めたに違いない。
(……湯の温度、八十二度。茶葉の量、一・五グラム。室内の湿度、五十八パーセント。……完璧だ)
光秀は脳内で数値を弾き出しながら、目の前の主君を見つめた。 織田信長が、茶を点(た)てている。 秀吉に見せていた荒々しさは消え失せ、その手つきは不気味なほど滑らかだった。茶筅(ちゃせん)が抹茶をかく音が、ササササッ、と絹を裂くように鋭い。
「……飲め」
信長が差し出したのは、黒楽茶碗(くろらくちゃわん)。 闇をそのまま固めたような、歪(いびつ)で、しかし圧倒的な存在感を放つ器だ。
「はっ」
光秀は一礼し、茶碗を受け取る。 作法通りに回し、一口すする。 苦い。 舌が痺れるほどの濃厚な緑の味。だが、その奥に、鋭利な刃物のような清涼感がある。
「……結構なお手前でございます」 「嘘をつけ。不味かろう」 「はい。胃がねじ切れるほど苦うございます」
光秀は表情一つ変えずに答えた。 信長が口元を歪めた。これだ。この男だけだ。秀吉のように「甘露でございますぅ!」などというふざけた世辞を言わないのは。
「光秀よ」 「はっ」 「この茶碗、いくらするか知っておるか」 「……城が一つ、買えるかと」 「馬鹿らしいと思わんか? たかが土をこねて焼いた器だぞ。城という巨大な建造物と、この手のひらサイズの土塊(つちくれ)が等価だというのだ」
信長は茶碗を指先で弾いた。キン、と硬い音がした。
「価値とは、人が勝手に作り出した幻想(まぼろし)だ。皆、その幻想に踊らされて殺し合いをしておる」 「……上様は、その幻想の頂点におられます」 「そうだな。余は『織田信長』という、日本で最も高価な茶碗になってしまった」
信長は、ふぅ、と深く息を吐いた。その吐息には、長年溜め込んできた澱(おり)のような疲労が混じっていた。
「飾られるのは飽きた。……誰かが割ってくれねば、余は一生、床の間に置かれたままだ」
光秀の眉が、わずかに一ミリほど動いた。 主君の言葉が、抽象的な哲学談義の領域を超え、危険な「具体的な願望」へと着地しようとしているのを察知したからだ。
「光秀」 「はっ」 「俺を、殺してくれぬか」
その言葉が落ちた瞬間、茶室の空気が真空になった。 シュン、シュン……という湯の音さえも、恐怖で凍りついたように思えた。
光秀の脳内コンピュータが、猛烈な勢いでエラーログを吐き出した。 <警告:コマンド入力が不正です> <警告:主君からの命令が「主君の殺害」です> <処理不能:無限ループに入ります>
光秀は膝の上で握りしめた拳が、白くなるほど震えているのを自覚した。 だが、彼の口から出た言葉は、あまりにも冷静で、それゆえに狂っていた。
「……物理的な生命活動の停止をご所望でしょうか。それとも、社会的な存在としての抹殺をご所望でしょうか」
信長は、目を丸くし、次の瞬間、腹を抱えて笑い出した。 「くっ、くくく! さすがだ、金柑(きんかん)! そこでその確認をするか! 普通なら『御乱心!』と叫ぶところだぞ!」
「上様のご命令とあらば、たとえ太陽を西から昇らせることであっても、具体的な工程表(スケジュール)を作成するのが私の務めです」
光秀は真顔だった。汗一つかいていない。いや、冷や汗が背中を滝のように流れているが、精神力だけでそれを皮膚の内側に留めているのだ。
信長は笑い涙を拭い、急に真剣な眼差しになった。その瞳は、深淵のように暗く、澄んでいる。
「物理的な死はいらん。痛いのは嫌いだからな。……俺が欲しいのは『不在』だ。織田信長という役割からの解放だ」
信長は、茶室の隅に置かれた地球儀の方角――西を指差した。
「俺は、あの球の向こうへ行きたい。だが、魔王が生きたまま引退すれば、また誰かが俺を担ぎ上げるだろう。だから、死んだことにせねばならん。……完全に、跡形もなく、な」
光秀は理解した。 主君が求めているのは、謀反ではない。 これは、史上最大規模の「ゴミ出し」だ。 「織田信長」という、あまりにも巨大になりすぎた粗大ゴミを歴史から処分し、中身の「ただの人間」を取り出す作業。 そして、その汚れ役を完遂できるのは、緻密で、誠実で、そして誰よりも主君を愛している自分しかいない、と。
「……条件がございます」
光秀の声は、微かに震えていた。
「申せ」 「私の名は、逆賊として泥にまみれます。一族も路頭に迷うでしょう。……それでも、構いませんか」 「構わん。……すまん」
信長の口から出た「すまん」という言葉。 そのたった三文字が、光秀の論理回路を焼き切った。 主君が、頭を下げたのだ。天下人が、一家臣に対して。
光秀の中で、何かが決壊した。 彼は深く、額を畳に擦り付けた。
「……承知仕りました。この明智十兵衛光秀、天下一の悪役(ヒール)を演じてご覧にいれましょう。脚本、演出、主演、すべて私の責任において」
「頼む」
信長は茶碗を置いた。 二人の間に、血の盟約よりも重い、共犯の契約が結ばれた瞬間だった。
光秀が茶室を出ようとした時、信長が背中に声をかけた。
「あ、そうだ光秀。本能寺は燃やすことになるが、寺の住職には事前に菓子折りの一つも渡しておけよ」 「……上様。放火の根回しを律儀に行うテロリストはいません」
「そうか。難しいな、悪役というのは」 「……精進いたします」
襖が閉まる。 廊下に出た光秀は、そのまま崩れ落ちるように壁に手をついた。 胃が痛い。 猛烈に胃が痛い。 (とんでもない案件を受注してしまった……。納期は来月……。リソース不足……。予算なし……。成功報酬は『主君の笑顔』のみ……)
光秀は夜空を見上げた。月が、意地悪なほど綺麗に輝いていた。 彼は懐から胃薬(当時でいう漢方薬)を取り出し、一気に飲み込んだ。
シュン、シュン、シュン……。 茶釜の湯が沸く音――茶道でいう「松風(まつかぜ)」の音だけが、闇の中で規則正しく響いている。それは、世界の心臓の鼓動のようだった。
明智光秀(五十四歳)は、正座をしていた。 ただの正座ではない。 背筋の角度は床に対して垂直九十度。両膝の間隔、手の位置、視線の角度に至るまで、定規で測ったかのような幾何学的な美しさである。もしこの時代にAIロボットがいれば、「同志よ」と握手を求めたに違いない。
(……湯の温度、八十二度。茶葉の量、一・五グラム。室内の湿度、五十八パーセント。……完璧だ)
光秀は脳内で数値を弾き出しながら、目の前の主君を見つめた。 織田信長が、茶を点(た)てている。 秀吉に見せていた荒々しさは消え失せ、その手つきは不気味なほど滑らかだった。茶筅(ちゃせん)が抹茶をかく音が、ササササッ、と絹を裂くように鋭い。
「……飲め」
信長が差し出したのは、黒楽茶碗(くろらくちゃわん)。 闇をそのまま固めたような、歪(いびつ)で、しかし圧倒的な存在感を放つ器だ。
「はっ」
光秀は一礼し、茶碗を受け取る。 作法通りに回し、一口すする。 苦い。 舌が痺れるほどの濃厚な緑の味。だが、その奥に、鋭利な刃物のような清涼感がある。
「……結構なお手前でございます」 「嘘をつけ。不味かろう」 「はい。胃がねじ切れるほど苦うございます」
光秀は表情一つ変えずに答えた。 信長が口元を歪めた。これだ。この男だけだ。秀吉のように「甘露でございますぅ!」などというふざけた世辞を言わないのは。
「光秀よ」 「はっ」 「この茶碗、いくらするか知っておるか」 「……城が一つ、買えるかと」 「馬鹿らしいと思わんか? たかが土をこねて焼いた器だぞ。城という巨大な建造物と、この手のひらサイズの土塊(つちくれ)が等価だというのだ」
信長は茶碗を指先で弾いた。キン、と硬い音がした。
「価値とは、人が勝手に作り出した幻想(まぼろし)だ。皆、その幻想に踊らされて殺し合いをしておる」 「……上様は、その幻想の頂点におられます」 「そうだな。余は『織田信長』という、日本で最も高価な茶碗になってしまった」
信長は、ふぅ、と深く息を吐いた。その吐息には、長年溜め込んできた澱(おり)のような疲労が混じっていた。
「飾られるのは飽きた。……誰かが割ってくれねば、余は一生、床の間に置かれたままだ」
光秀の眉が、わずかに一ミリほど動いた。 主君の言葉が、抽象的な哲学談義の領域を超え、危険な「具体的な願望」へと着地しようとしているのを察知したからだ。
「光秀」 「はっ」 「俺を、殺してくれぬか」
その言葉が落ちた瞬間、茶室の空気が真空になった。 シュン、シュン……という湯の音さえも、恐怖で凍りついたように思えた。
光秀の脳内コンピュータが、猛烈な勢いでエラーログを吐き出した。 <警告:コマンド入力が不正です> <警告:主君からの命令が「主君の殺害」です> <処理不能:無限ループに入ります>
光秀は膝の上で握りしめた拳が、白くなるほど震えているのを自覚した。 だが、彼の口から出た言葉は、あまりにも冷静で、それゆえに狂っていた。
「……物理的な生命活動の停止をご所望でしょうか。それとも、社会的な存在としての抹殺をご所望でしょうか」
信長は、目を丸くし、次の瞬間、腹を抱えて笑い出した。 「くっ、くくく! さすがだ、金柑(きんかん)! そこでその確認をするか! 普通なら『御乱心!』と叫ぶところだぞ!」
「上様のご命令とあらば、たとえ太陽を西から昇らせることであっても、具体的な工程表(スケジュール)を作成するのが私の務めです」
光秀は真顔だった。汗一つかいていない。いや、冷や汗が背中を滝のように流れているが、精神力だけでそれを皮膚の内側に留めているのだ。
信長は笑い涙を拭い、急に真剣な眼差しになった。その瞳は、深淵のように暗く、澄んでいる。
「物理的な死はいらん。痛いのは嫌いだからな。……俺が欲しいのは『不在』だ。織田信長という役割からの解放だ」
信長は、茶室の隅に置かれた地球儀の方角――西を指差した。
「俺は、あの球の向こうへ行きたい。だが、魔王が生きたまま引退すれば、また誰かが俺を担ぎ上げるだろう。だから、死んだことにせねばならん。……完全に、跡形もなく、な」
光秀は理解した。 主君が求めているのは、謀反ではない。 これは、史上最大規模の「ゴミ出し」だ。 「織田信長」という、あまりにも巨大になりすぎた粗大ゴミを歴史から処分し、中身の「ただの人間」を取り出す作業。 そして、その汚れ役を完遂できるのは、緻密で、誠実で、そして誰よりも主君を愛している自分しかいない、と。
「……条件がございます」
光秀の声は、微かに震えていた。
「申せ」 「私の名は、逆賊として泥にまみれます。一族も路頭に迷うでしょう。……それでも、構いませんか」 「構わん。……すまん」
信長の口から出た「すまん」という言葉。 そのたった三文字が、光秀の論理回路を焼き切った。 主君が、頭を下げたのだ。天下人が、一家臣に対して。
光秀の中で、何かが決壊した。 彼は深く、額を畳に擦り付けた。
「……承知仕りました。この明智十兵衛光秀、天下一の悪役(ヒール)を演じてご覧にいれましょう。脚本、演出、主演、すべて私の責任において」
「頼む」
信長は茶碗を置いた。 二人の間に、血の盟約よりも重い、共犯の契約が結ばれた瞬間だった。
光秀が茶室を出ようとした時、信長が背中に声をかけた。
「あ、そうだ光秀。本能寺は燃やすことになるが、寺の住職には事前に菓子折りの一つも渡しておけよ」 「……上様。放火の根回しを律儀に行うテロリストはいません」
「そうか。難しいな、悪役というのは」 「……精進いたします」
襖が閉まる。 廊下に出た光秀は、そのまま崩れ落ちるように壁に手をついた。 胃が痛い。 猛烈に胃が痛い。 (とんでもない案件を受注してしまった……。納期は来月……。リソース不足……。予算なし……。成功報酬は『主君の笑顔』のみ……)
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