天を焼く虚構 ―本能寺、最後の共犯者―

Gaku

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第1部:黄金の檻と密約

第4話:イエズス会の影 ~あるいは、宣教師が悪魔と「片道切符」の値段交渉をする件について~

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安土城下、セミナリオ(神学校)。  南蛮の香油と、畳の湿った匂いが混じり合う奇妙な空間。  ステンドグラス代わりの色付き障子紙を通して、毒々しい紫や赤の光が室内に落ちている。

「Oh... Deus...(あぁ、神よ……)」

 イエズス会の宣教師、グネッキ・ソルド・オルガンティノは、祭壇の前で頭を抱えていた。  彼は日本に来て長い。納豆も食べられるようになったし、正座で足が痺れても顔に出さない技術も習得した。だが、この国の支配者・織田信長という男の思考回路だけは、いつまで経っても理解不能だった。

「どうした、オルガンティノ。神の腹痛でも治らぬか」

 背後から、低い声が鼓膜を叩いた。  オルガンティノは「Hiii!(ひぃっ!)」と裏返った声を上げ、十字を切る手で誤って自分の鼻を強打した。  振り返ると、そこにはいつの間にか信長が立っていた。供回りはいない。忍(しのび)のような静けさである。

「の、信長様!? な、なぜここに……入口の鍵は閉めたはずデース!」 「日本の鍵など、針金一本あれば開く。それより、頼んでいた『ブツ』はどうなった」

 信長は、祭壇の聖書を勝手にペラペラとめくりながら言った。

「ブツ、とは……まさか、先日の『ローマへの渡航願い』のことデースか? No, No! 無理デース! ありえまセーン!」

 オルガンティノは両手を激しく振った。その勢いで袖から数珠(ロザリオ)が飛び出し、信長の額にピシッと当たった。  信長の眉間がピクリと動く。オルガンティノは死を覚悟した。

「なぜ無理だ」 「貴方は、この国のKingデース! 王様が国を捨てて、平民に混じって船に乗る? Crazy! 船員がパニックになりマース! 『おい、あそこで雑巾がけしてるの、魔王じゃね?』ってなりマース!」

「俺だとバレねばよい。髪を剃り、僧衣を着る。言葉は……まあ、向こうに着くまでに覚える」

 信長は事もなげに言った。  彼の自信は異常だった。彼は本気で、ラテン語やポルトガル語を「安土から九州までの道中」でマスターするつもりなのだ。

「それに、貴様らにも損はないはずだ」  信長は懐から、ずしりと重い皮袋を取り出し、祭壇の上に「ドン!」と置いた。  袋の口が緩み、中から黄金の塊がゴロリと転がり出た。夕日を反射し、キリスト像の顔を金色に照らす。

「……寄付(ドネーション)だ」 「Oh……」  オルガンティノの喉が鳴った。イエズス会の日本支部は常に資金難だ。この金があれば、教会が三つ建つ。いや、五つか。

「それにだ、オルガンティノよ」  信長は黄金から視線を外し、宣教師の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、黄金よりも強く、恐ろしい光が宿っていた。

「余が日本にいなくなれば、貴様らにとって好都合ではないか?」 「W-What?(な、なんと?)」 「余は神を信じぬ。寺も焼く。貴様らの神のことも、便利な道具としか思っておらん。……そんな『魔王』が、自ら消えてやると言っているのだ。これぞ神の奇跡、あるいは悪魔祓い(エクソシズム)の成功ではないのか?」

 オルガンティノは口をあんぐりと開けた。  とんでもない理屈だ。  「俺を追放したければ、俺の逃亡を手伝え」。  パラドックスである。だが、悔しいほどに筋が通っている。

「し、しかし……貴方がローマに行って、何をするのデース? ローマ教皇に喧嘩でも売るつもりデースか?」

「喧嘩? 買われれば買うが、自分からは売らん」  信長はニヤリと笑った。

「見たいのだ」 「……Ha?」 「余は、この地球儀が『球体』であると頭では理解している。だが、身体はまだ納得していない。この目で水平線の向こうへ落ちていき、それでも落ちずに元の場所へ戻ってくるまで、余の魂は乾いたままだ」

 信長は、祭壇の上のキリスト像を見上げた。

「貴様らの神が作ったというこの世界が、どれほど精巧な『からくり』で動いているのか。余はそれを、特等席で見物したいだけだ。……神への信仰はないが、神の『作品』への興味はある」

 オルガンティノは、震える手で胸元の十字架を握りしめた。  目の前の男は、やはり魔王だ。  だが、単なる破壊者ではない。「知」への貪欲な渇望を持つ、あまりにも純粋な子供のような魔王だ。  カトリックの教義では、このような男を助けてはならない。  だが、冒険家としてのオルガンティノの本能が、叫んでいた。『この男を、ヨーロッパに連れて行ってみたい』と。  ルネサンスの風が吹くあの街に、この東洋の怪物を解き放ったら、一体何が起きるのか?

「……船は、六月に長崎を出マース」  オルガンティノは、掠れた声で言った。

「積み荷の名目は『東洋の珍しいサル』……いや、『帰国する日本人修道士』として登録しマース。ただし! 船内では一言も喋らないでくだサーイ! 貴方のそのデカい声と、上から目線の態度は、一発でバレマース!」

「ふん。善処する」  信長は満足げに頷き、黄金の袋をオルガンティノの胸に押し付けた。

「では、契約成立だな。……神に感謝しておけよ、宣教師。今日、貴様は悪魔を救済したのだ」

 信長は風のように去っていった。  後に残されたのは、呆然とする宣教師と、祭壇に積まれた黄金、そして微かに残る火薬の匂いだけだった。

 オルガンティノは、重たい金袋を抱え、天井を仰いだ。 「主よ……私は今、とんでもない荷物を背負い込みました。……でも、少しだけワクワクしている自分をお許しください。アーメン」

 ステンドグラスの光が、祭壇の上の黄金を、不吉なほど美しく輝かせていた。    その頃、安土城の一室で、徳川家康が腐りかけの魚を前に、眉間に皺を寄せていたことを、信長はまだ知らない。
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