天を焼く虚構 ―本能寺、最後の共犯者―

Gaku

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第1部:黄金の檻と密約

第5話:律儀者の観察 ~あるいは、狸親父が腐った魚の臭いから「嘘の香り」を嗅ぎ取る件について~

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安土城、大広間。  そこは、この世の極楽を模して作られたはずの場所だったが、現在の空気密度は地獄の底より重かった。

 徳川家康(四十歳)は、膳の前に座り、自身の胃袋と対話していた。 (……痛い。キリキリする。胃の壁が、誰かに雑巾絞りされているようだ)

 目の前には、豪華絢爛な料理が並んでいる。  しかし、その中心にある「鯛(タイ)の塩焼き」から、鼻腔を強烈に刺激する異臭が漂っていた。  それは、真夏の海岸に打ち上げられ、三日間放置された海藻と魚介のミックスジュースのような、鼻の奥の粘膜を直接攻撃する暴力的な臭いだった。

「……」  家康は表情筋を死滅させ、能面のような顔で箸を持っていた。  彼の隣では、家臣の酒井忠次が青ざめた顔で震えている。

 その時。  ドォォォォン!!  雷が落ちたような音が響いた。織田信長が、持っていた扇子で膳を叩き割った音だ。

「光秀ぇぇぇ!!」

 信長の怒号が広間の空気をビリビリと振動させた。  接待役である明智光秀が、平伏している。その額は畳にめり込みそうだ。

「貴様、この魚は何だ! 腐っておるではないか! 余の盟友、徳川殿に毒を食わせる気か! この田舎侍が!」

 信長は立ち上がり、光秀の肩を足蹴にした。  ゴッ、という鈍い音が響く。  周囲の小姓たちが悲鳴を上げそうになるのを必死で堪える。

「申し訳……ございませぬ……! 確認不足で……!」  光秀の声は震えていた。額からは血が滲んでいる。

 信長は止まらない。 「下がれ! 役立たずめ! 貴様のような奴は接待役など御免だ! 直ちに領地へ戻り、秀吉の援軍に行け! ここから消え失せろ!」

 光秀は這うようにして広間を退出した。その背中は、誰が見ても「絶望」そのものだった。  広間は凍りついた。誰も息をしていない。

 だが。  家康だけは、そのカオスの中で、奇妙な違和感に囚われていた。

(……おかしい)

 家康は、箸先で、問題の「腐った鯛」をツンツンとつついた。  確かに臭い。腐敗臭がする。  だが、家康の鋭敏な嗅覚――三河の山野を駆け巡り、敵の気配を察知してきた野生の勘――が、別の成分を嗅ぎ分けていた。

(この臭い……魚の内臓が腐った臭いではない。これは……『魚醤(ぎょしょう)』と『古漬け』を混ぜて、わざと塗りたくった臭いだ)

 家康は箸を止めた。  さらに、先ほどの信長の暴行。  家康は動体視力が良かった。信長の足が光秀の肩に当たる直前、信長の足首がわずかに減速し、インパクトの瞬間に力を逃がしていたのを見てしまった。  あれは「痛そうに見えて、実は骨には響かない蹴り」だ。三河の道場で、師範代が弟子を叱る時に使う「愛の鞭」の技術に近い。

(なぜだ? なぜ、そこまでして「激怒」を演じる?)

 家康は、荒い息を吐きながら座り直した信長を盗み見た。  信長は、鬼のような形相で周囲を威圧している。誰も彼と目を合わせられない。  だが、家康だけは見てしまった。  信長が、懐から手ぬぐいを取り出して汗を拭うその一瞬。  扇子の陰で、信長の口元が、ほんの数ミリだけ――

 「ニヤリ」

 と、悪戯(いたずら)に成功した子供のように歪んだのを。

 ドクン、と家康の心臓が跳ねた。  全てのピースが繋がった。  腐ったふりをした魚。寸止めの暴力。過剰な罵倒。そして、光秀への「ここから消えろ(=現場から離れろ)」という命令。

(あのお方は……わざと周囲に憎まれようとしているのか?)

 家康の背筋に、氷水のような戦慄が走った。  天下人が、自ら「悪役」を演じて、腹心の部下を遠ざける。  それはつまり、これから起きる「何か」から、光秀を、あるいは自分自身を、切り離そうとしているのではないか?

(芝居だ。この大広間は劇場で、我々は観客。そして舞台裏では、とてつもない脚本が進行している……)

「……徳川殿?」  不意に、信長の声がかかった。

「は、ははっ!」  家康は飛び上がるように平伏した。

「すまぬな、不愉快な思いをさせた。代わりの膳を用意させる」 「い、いえ! 滅相もございませぬ! この家康、腐った魚もまた、風流な珍味かと存じまして……!」

 家康はパニックのあまり、意味不明なフォローをした。  信長はそれを聞いて、怪訝そうに眉をひそめたが、すぐに興味を失ったように「そうか」とだけ言った。  その瞳は、もう家康を見ていなかった。彼の視線は、広間の窓の向こう――西の空、あるいはもっと遠い「何か」を見つめていた。

 その夜。  宿館に戻った家康は、腹痛薬(熊の胆)を齧りながら、側近の本多忠勝に呟いた。

「平八郎よ」 「はっ」 「嵐が来るぞ。それも、誰も見たことのないような、奇妙な嵐がな」

 家康は、自身の爪を噛んだ。彼の悪い癖だ。  律儀者(りちぎもの)と言われる彼だけが気づいてしまった「違和感」。  それは、歴史の歯車が大きく狂い始める、軋(きし)みのような音だった。

 家康の胃痛は、本能寺の変が終わるまで、治りそうになかった。
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