「彼女を拾うな」――謎の忠告を無視した俺の日常は崩壊した。記憶喪失の少女は世界を滅ぼす女神の『鍵』。

Gaku

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第一部:日常の崩壊と世界の顕現

第一話:雨の日の少女、世界が変わる音

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世界なんてものは、たぶん灰色をしている。

僕、相川海斗(あいかわ かいと)の目に映る世界は、少なくともそうだった。たとえば、今もそうだ。

六月の重たい雲が空に蓋をして、そこから吐き出される無数の雨粒が、大学の講義室の大きな窓ガラスをひっきりなしに叩いている。まるで、世界の彩度を根こそぎ洗い流そうとしているみたいに。

教授の単調な声が、眠気を誘う子守唄のように鼓膜を揺らす。今日のテーマは「近世ヨーロッパにおける宗教改革が後の市民社会に与えた影響について」。壮大なテーマだ。

壮大すぎて、僕のちっぽけな日常とは何の関係もない。まるで、遠い国の天気予報を聞いているみたいだった。

---

僕の日常は、決まった時間に起きて、同じような講義を受け、空きコマは図書館で時間を潰し、夕方になればコンビニで買った弁当をぶら下げて、六畳一間のアパートに帰る。

その繰り返し。まるで円環の理にでも囚われているみたいに、昨日と今日、そしてたぶん明日も、寸分違わぬ風景がループする。これが、僕という複雑系システムが導き出した、最も安定した退屈という名の解なのだろう。

ああ、何か面白いこと、起きないかな。

窓枠を伝って流れ落ちる雨垂れをぼんやりと眺めながら、そんなことを思った。それは祈りというにはあまりに怠惰で、願いというには具体性のない、ただの湿った溜息のようなものだった。

まさか、その数時間後、僕の世界の物理法則が根底から覆されることになるなんて、知る由もなかった。

---

大学の最寄り駅へと続く、いつもの道。

コンクリートの歩道は雨を吸って深い鼠色に変わり、行き交う人々の傘が、赤や青、あるいはコンビニで売っている味気ないビニール色の花を咲かせている。湿ったアスファルトの匂いが、ぬるい風に乗って鼻腔をくすぐった。

ふと、角を曲がったところで足が止まる。いつもなら大通りをそのまま進むのに、今日はなぜか、建物の間に挟まれた薄暗い路地裏がやけに気になった。

ショートカットにはなるが、薄汚れていて、あまり気分のいい道じゃない。それでも、何かに呼ばれたような気がした。

たぶん、それはただの気まぐれ。いつもの日常という軌道から、ほんの少しだけ外れてみたいという、ささやかな抵抗だったのかもしれない。僕の人生という名のプログラムに、ほんの僅かな初期値のズレが生じた瞬間だった。

路地裏は、ひどい有様だった。

両脇の建物の壁は雨染みでまだら模様になり、打ち捨てられたゴミ袋からは、生ゴミと雨水が混じり合った、酸っぱいような匂いが漂ってくる。

その、世界の淀みを煮詰めたような空間の真ん中に、それはあった。

人が、倒れていた。

いや、人と呼ぶには、あまりに現実離れしていた。

ゴミ捨て場のすぐ脇。汚れた水たまりに半分浸かるようにして、純白のワンピースを着た少女が倒れている。色素の薄い、蜂蜜を溶かしたような金色の髪が、濡れてアスファルトに張り付いていた。

肌は陶器のように白く、閉じられた瞼の向こうにあるだろう瞳の色を想像するだけで、胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚があった。

周囲の薄汚れた風景から、彼女の存在だけが切り取られたコラージュのように、あまりにも浮いていた。まるで、灰色の世界に、ぽつんと一滴だけ、純粋な光が落ちたみたいに。

僕は息をのんだ。思考が停止する。警察? 救急車?

そういう常識的な判断が、目の前の非現実的な光景によって麻痺していく。

少女が、ゆっくりと瞼を開いた。

その瞳は、夕立の後の空みたいな、澄み切った瑠璃色をしていた。焦点の合わない瞳が宙を彷徨い、やがて僕の姿を捉える。

薄い唇が、か細く動いた。

「……ここは?」

かろうじて聞き取れるほどの、鈴を転がすような声だった。

「あなたは、だれ……?」

「え、あ、僕は……」

しどろもどろになる僕を見て、少女は困ったように眉を寄せた。そして、自分の胸にそっと手を当て、何かを確かめるように呟く。

「私は……マナ。それしか、わからない」

マナ。

その名前以外、すべての記憶を失っている、と彼女は言った。雨に打たれ、体は氷のように冷え切っている。放っておけば、たぶん死ぬ。

面倒事に巻き込まれたくないという僕の常識が警鐘を鳴らす。でも、それ以上に、僕の心の奥底で、退屈な日常に溜息をついていたもう一人の僕が、叫んでいた。

ここで見捨てたら、お前は一生、灰色の世界から抜け出せないぞ、と。

僕は濡れるのも構わず、彼女の細い腕を自分の肩に回した。

「立てるか? とりあえず、ここから離れよう。僕の家、近いから」

瑠璃色の瞳が、僕をじっと見つめていた。その瞳には、警戒と、ほんの少しの安堵が混じっているように見えた。

---

僕のアパートは、大学から徒歩十五分、築三十年の木造二階建て。

六畳一間の洋室に、申し訳程度のキッチンと、風呂トイレが一緒になった三点ユニットバス。家賃四万二千円。

大学生の一人暮らしとしては、ごく平均的な城だ。そして今、その平均的な僕の城に、物語の中から抜け出してきたような少女がいる。

シャワーを貸し、とりあえず僕のスウェットに着替えてもらった彼女は、座布団の上で体育座りをしながら、僕がコンビニで買ってきた生姜スープを、両手で持ったマグカップでちびちびと飲んでいた。

ぶかぶかのスウェットから覗く白い首筋が、妙に生々しくて目のやり場に困る。

「……あのさ、マナ、さん?」

「さん、はいらない。マナ、でいい」

「あ、うん。マナ。本当に、何も覚えてないの? 自分のこととか、なんであんな場所にいたのかとか」

マナはこくりと頷き、マグカップの中の渦を見つめた。

「うん。何も。目を覚ましたら、雨の中にいた。寒くて、寂しかった。それだけ」

その横顔は、雨に濡れたガラス細工のように儚くて、見ているだけで胸が痛んだ。

「そっか……。警察、行くか? でも、記憶喪失じゃ話も進まないか……」

「警察……?」

マナは小首を傾げる。その反応で、僕は悟った。この子は、たぶん記憶喪失っていうレベルじゃない。社会のシステムそのものを、知らないんじゃないか?

温かいスープの湯気が、二人の間のぎこちない沈黙を、わずかに溶かしていく。僕は、ひとまず彼女をここに置くしかないと覚悟を決めた。半分は善意、もう半分は、この非日常がもう少しだけ続いてほしいという、不純な好奇心からだった。

その夜、僕は床に布団を敷き、マナにはロフトベッドを使ってもらうことにした。当然、眠れるはずもなかった。すぐ上の空間に、あの少女がいる。その事実だけで、心臓がやけにうるさく脈打った。

結局、僕はほとんど眠れないまま、買い出しと称して深夜のコンビニへと向かうことにした。少し頭を冷やしたかったのだ。

アパートの軋む階段を降り、外に出る。雨はすっかり上がっていた。湿った夜の空気が肺を満たし、少しだけ冷静になれた気がした。

街灯が、濡れたアスファルトにぼんやりとした光の輪を映している。

コンビニで適当に飲み物とパンを買い、アパートへの帰り道を歩いていた、その時だった。

べちゃ。

背後で、水たまりを踏むような音がした。

僕は足を止める。でも、振り返っても誰もいない。気のせいか。

僕は再び歩き出す。

べちゃ、べちゃ。

まただ。今度は、さっきより近い。僕が歩けば、同じペースでついてくる。僕が止まれば、音も止まる。

背中に、じっとりとした冷たい汗が滲んだ。何だ、これ。絶対に、何かがいる。

僕は恐怖に駆られ、走り出した。全力で。

べちゃ! べちゃ! べちゃ!

足音も、僕を追いかけて速度を上げる。心臓が破裂しそうだ。息を切らし、もつれる足を必死に動かして、アパートの階段を駆け上がった。

震える手で鍵を開け、部屋に転がり込む。乱暴にドアを閉め、鍵をかけ、チェーンまでかけた。

「はぁ、はぁ、はぁ……!」

ドアに背中を預け、荒い息を整える。一体、何だったんだ。

「どうしたの?」

ロフトベッドから、マナが心配そうに顔を覗かせた。

「いや、なんか……変な音に追いかけられて……」

僕はまだ息を切らしながら、ドアの方を警戒していた。その時、マナが「あ」と小さな声を上げた。

「その人、まだいるよ」

「は? なに言って……」

僕はマナの言葉の意味が分からず、怪訝に思いながら、もう一度ドアを見た。何もいない。やっぱりマナも疲れてるんだな、と自分に言い聞かせた。

そして、立ち上がって、部屋の電気をつけるために、マナがいるロフトベッドのすぐ下まで歩いて行った。

何気なく、本当に、何気なく。

玄関のドアの方を、もう一度、振り返った。

瞬間、全身の血が凍りついた。

さっきまで何もなかったはずの玄関のたたきに、それが、いた。

真っ黒な、人型の染み。

輪郭はぼやけていて、まるで壁に滲んだ水分のようにも、濃すぎる影のようにも見える。顔も手足もない。ただ、そこにあるはずのない「何か」が、確かにそこに立っている。

「ひっ……!」

声にならない悲鳴が喉から漏れた。なんで、なんで見えるんだ? さっきまで、アパートの前では見えなかったのに。何が違う?

僕の視線は、恐怖に固まったまま、その黒い染みと、隣にいるマナとを、交互に行き来した。

そして、気づいてしまった。

マナがいる。

そうだ。この部屋にはマナがいる。さっきまで、外では僕は一人だった。マナが僕のすぐそばにいる、この状況だけが、さっきまでと違う。

まさか。

僕が恐怖に震えていると、マナが不思議そうに、その黒い染みを指差して言った。

「どうしたの、海斗。その人、あなたが大学から帰る時から、ずっとあなたの後ろをついてきてたよ」

マナの言葉が、引き金だった。

僕の世界の常識と理性が、粉々に砕け散る音がした。

「ぎぃやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!」

六畳一間の安アパートに、僕の人生で最大級に情けない絶叫が響き渡った。

こうして、僕の灰色の日常は、瑠璃色の瞳の少女と、真っ黒な謎の染みによって、唐突に、そして暴力的に終わりを告げたのだった。
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