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第一部:日常の崩壊と世界の顕現
第二話:通せんぼの壁と、猫又の茶
しおりを挟む僕の灰色の日常が暴力的に終わりを告げてから、三日が過ぎた。
あの日、僕の人生最大級の絶叫を聞きつけた隣の部屋の住人(たぶんヘビメタ好きのバンドマン)が、「うるせえ!」と壁をドンドン叩いてきたおかげで、僕はかろうじて失神せずに済んだ。例の黒い人型の染み――マナが言うには、僕が大学からずっと連れて帰ってきてしまったらしい、その名も「べとべとさん」――は、僕が半狂乱になっている間に、いつの間にか姿を消していた。マナが「もう、あっちに行ったよ」と平然と言ったので、そういうものなのだろうと無理やり納得することにした。納得するしかなかったのだ。
それ以来、僕の日常は、灰色であることには変わりないが、その濃淡が著しく変化した。あらゆる角の向こうに、電信柱の影に、マンホールの蓋の下に、何かが潜んでいるような気がしてならない。世界は、僕が認識していなかっただけで、本当はずっと前から、得体のしれないモノたちで満ち溢れていたのかもしれない。マナという存在が、僕の目の曇ったフィルターを無理やり剥がしてしまったのだ。
大学の講義は、もはや子守唄にすら聞こえない。教授の言葉の隙間から、窓の外の木々がざわめく音に、「あれは木霊(こだま)じゃないか?」などと、いちいちビクつく始末。僕というシステムは、外部からの予期せぬ入力(マナの存在)によって、安定した退屈という均衡を失い、今はカオスと秩序の境界線をふらふらと漂っている状態だ。心理学的には、完全にヤバい奴である。
.
梅雨の晴れ間の昼下がり。湿気を含んだ空気が肌にまとわりつき、アスファルトの照り返しが視界を歪ませる。キャンパスの中庭では、気の早い蝉が「夏は俺たちのモンだ!」とでも言いたげにジージーと鳴いていた。
「――でさ、マジでヤバいんだって、あそこの道」
ベンチでぼんやりしていると、隣に座ったサークルの連中の会話が耳に入ってきた。
「ああ、聞いた聞いた。夜中に通ると、突然進めなくなるってやつだろ? 見えない壁がある、みたいな」
「そうそう! 先輩が酔って通ろうとしたら、顔面から思いっきりぶつかって鼻血出したって。マジで、ただの壁があったって」
見えない、壁。
その言葉が、僕の鼓膜の奥で不吉に反響した。昨今の僕の精神状態は、オカルト関連の単語に非常に敏感なのだ。
「都市伝説だろ、そんなの」
「いや、でも目撃談、一件や二件じゃないんだよ。警察も来たらしいけど、何もなくてさ」
連中は、夏の夜の怪談話に花を咲かせるように、無責任に笑い合っている。僕は平静を装いながらも、背中に嫌な汗が流れるのを感じていた。
まさか。
いやいや、そんなはずはない。幽霊だの妖怪だの、三日前に常識を破壊されたばかりじゃないか。これ以上、僕のちっぽけな日常に非日常が割り込んでくるなんて、キャパオーバーも甚だしい。
そう頭では否定しているのに、僕の心の片隅で、あの日の好奇心がまた鎌首をもたげていた。
――マナがいれば、その壁の正体が「見える」んじゃないか?
そして、もしそれが本当にヤバい奴だったとしたら? 誰かが大怪我をする前に、何とかしなくちゃいけないんじゃないか?
そんな、柄にもない正義感が、むくむくと湧き上がってくる。いや、これは正義感じゃない。ただの現実逃避だ。卒論とか、バイトとか、そういうリアルな問題から目を逸らすための、都合のいい口実探しに過ぎない。
そう自己分析を終えたところで、僕はアパートに向かって駆け出していた。僕の足は、僕の冷静な頭脳より、ずっと正直だったらしい。
その日の夜。生暖かい風が、街灯の頼りない光を揺らしていた。噂の現場は、駅から僕のアパートとは反対方向にある、古い住宅街の中の、特に変哲のない一本道だった。両脇は高いブロック塀に挟まれ、昼間でも薄暗そうな場所だ。
「本当に、ここに何かいるの?」
僕の隣で、マナが不思議そうに小首を傾げる。彼女には、まだ何も見えていないらしい。
「わかんない。でも、噂になってるんだ。何かにぶつかって怪我した人もいるって」
「ふーん……」
マナは興味深そうに、しかしどこか他人事のように相槌を打つ。彼女にとっては、妖怪も自動販売機も、同じくらい「初めて見る不思議なもの」なのだろう。
僕たちは、道の真ん中をゆっくりと進んだ。蛙の鳴き声と、遠くを走る電車の音だけが聞こえる。何も起きない。やっぱりただの噂だったのか。僕が安堵の息をつこうとした、その時だった。
ゴンッ!
「うおっ!?」
突然、目の前に何かが現れたような衝撃。僕は、見えない壁に鼻先を強打し、情けない声を上げて尻餅をついた。
「いってぇ……! なんだこれ!?」
手探りで目の前の空間を探る。確かに、そこには何かがある。ガラスのように滑らかで、氷のように冷たい、巨大な壁。だが、目には何も見えない。
「海斗、大丈夫?」
マナが駆け寄ってくる。彼女の隣に立った瞬間、僕の世界の解像度が、また一段階上がった。
目の前に、それはいた。
灰色で、のっぺりとした、巨大な壁。コンクリートのようでもあり、粘土のようでもある。高さは三メートル、幅は道いっぱいに広がっていて、一切の隙間がない。顔も手足もない。ただ、巨大な「壁」という概念そのものが、そこに居座っている。
「うわ……出た……」
.
僕は呆然と呟いた。マナは「大きいね」なんて、まるで美術館のオブジェでも見るかのように呑気な感想を述べている。
僕は壁を叩いてみた。びくともしない。蹴ってみた。足が痛いだけだった。
「ど、どうすんだよこれ……」
途方に暮れて、その場にへたり込んだ僕の耳に、しゃがれた声が聞こえた。
「へっ、近頃の若いもんは、道のど真ん中で痴話喧嘩かい。見っともないねぇ」
声のした方を見ると、道のすぐ脇にある、今にも崩れそうな古びた駄菓子屋の軒先で、一人の老婆が縁台に座って煙管(キセル)をふかしていた。深い皺の刻まれた顔。猫のように細められた、鋭い瞳。
老婆は僕を値踏みするように一瞥し、その視線をマナに注いだ。その瞳が、暗闇の中で爛々と光ったような気がした。
「ば、婆さん! 痴話喧嘩じゃねえよ! ここに、壁が……!」
僕が必死に説明すると、老婆は面倒くさそうに紫煙を吐き出した。
「ああ、『ぬりかべ』かい。あいつぁ、悪さをするつもりなんざねぇんだよ。ただ、構ってほしいだけさ。寂しいんだよ、図体がでかい癖に」
ぬりかべ。
その名前には聞き覚えがあった。確か、妖怪の一種だ。老婆は、目の前の怪異を、まるで近所の厄介者の噂話でもするかのように語っている。
「さ、寂しいって……それで人に鼻血出させるのかよ!」
「あんたたちが勝手にぶつかってくるだけだろうが。……まあいい。そいつをどかしたいなら、下の方を優しく払って、『通しておくれ』とでも言ってみな。それで通してくれるさ」
半信半疑だった。こんな巨大な壁が、そんなことで消えるものか。でも、他に手立てもない。僕は言われた通り、壁の下の方、地面との境目あたりを手のひらでそっと撫でるように払いながら、呟いた。
「あ、あのー……ぬりかべさん? すみません、通していただけませんでしょうか……」
すると、信じられないことが起きた。
目の前の巨大な壁が、陽炎のようにぐにゃりと歪み、そのまま透き通るように、すっと消えてしまったのだ。壁があった場所には、生暖かい夜風が吹き抜けていくだけだった。
僕とマナは、顔を見合わせた。
「すげえ……本当に消えた……」
僕は礼を言うために、慌てて駄菓子屋の方を振り返った。しかし、そこに老婆の姿はなかった。縁台の上には、まだ煙の立ち上る煙管だけが、ぽつんと置かれている。
翌日、僕とマナは、菓子折りを持ってあの駄菓子屋を再び訪れた。店は開いていたが、中には誰もいない。色褪せた商品棚には、子供の頃に見たような懐かしい駄菓子が並んでいる。
「ごめんくださーい」
声をかけると、奥の薄暗い居住スペースから、何かがことりと動く音がした。
「昨夜は、ありがとうございました。お婆さんに、お礼が言いたくて」
僕が言うと、奥の部屋の縁側で、日向ぼっこをしていた一匹の三毛猫が、ゆっくりとこちらを向いた。年老いた猫らしく、その動きはどこか気怠げだ。だが、僕の目は、その猫の尻尾に釘付けになった。
先端が、綺麗に二つに分かれていたのだ。
猫は、僕の視線に気づいたのか、億劫そうに立ち上がると、人間のように流暢な、そして、昨夜の老婆と全く同じしゃがれた声で言った。
「なんだい、あんたか。律儀なこったね」
僕は、自分の人生で三度目か四度目になる絶叫を、喉の奥で必死に飲み込んだ。
猫が、喋った。
マナは全く動じていない。それどころか、目をきらきらさせて、その猫に近づいていく。
「あなたは、昨日の……」
「いかにも。あたしぁ、この辺りを縄張りにさせてもらってる、猫又の珠(たま)ってモンさ。昨日の婆さんの姿は、仮の姿ってやつだよ」
珠と名乗った猫又は、僕の呆然とした顔を見て、愉快そうに喉を鳴らした。
「あんたの隣にいる嬢ちゃん、とんでもないモンを内に隠してるね。神様か仏様か、はたまたもっと厄介なモンか……。こりゃあ退屈しなさそうだ」
珠は、するりとマナの足元に体を寄せ、その匂いを確かめるように鼻をくんくんと鳴らした。
「面白そうだからね。あんたたちがこの先、何をしでかすか、何を引き寄せるか、しばらく見させてもらうよ。あたしが、あんたたちの監視役になってやる」
それは、提案ではなかった。決定事項の通達だった。僕に、拒否権などない。
こうして僕の日常には、記憶喪失の謎の美少女に加え、元締め気取りの妖怪猫までが加わることになった。
もう、後戻りはできない。僕の世界は、灰色どころか、魑魅魍魎が跋扈する極彩色の混沌へと、その姿を急速に変えつつあった。
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