「彼女を拾うな」――謎の忠告を無視した俺の日常は崩壊した。記憶喪失の少女は世界を滅ぼす女神の『鍵』。

Gaku

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第一部:日常の崩壊と世界の顕現

第三話:初めてのアイスクリーム

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 猫又の珠が僕らの監視役になってから、一週間が過ぎた。梅雨の重たい雲はいつの間にか姿を消し、空には夏の色をした入道雲が、その巨大な白い体をむくむくと膨らませている。六畳一間の安アパートの窓を開ければ、蝉の大合唱と、アスファルトを焼く熱気が、容赦なく部屋に流れ込んできた。
 僕らの生活は、奇妙な安定期に入っていた。珠は普段、僕のアパートの縁側で、だらりと伸びた猫の姿で昼寝をしているか、どこかをほっつき歩いているかで、僕らの生活に口出しすることは滅多にない。ただ、その琥珀色の瞳が、時折僕とマナのやり取りを値踏みするように細められるのを見るたび、僕らはやはり監視されているのだという事実を思い知らされるのだった。
 僕、相川海斗の人生というシステムは、マナという予測不能な変数が加わったことで、退屈という名の安定軌道を完全に逸脱した。今や僕の日常は、彼女という新しい太陽の周りを回る、ぎこちない衛星のようなものだった。
 たとえば、食事の準備。僕がキッチンに立つと、マナはすぐそばの座布団にちょこんと座り、興味津々な瞳で僕の手元をじっと見つめている。
「海斗、それは何?」
「ん? ああ、これはピーマン。苦いけど、栄養あるんだぞ」
「ぴーまん……。なぜ、切るの?」
「こうしないと、食べられないだろ」
「ぴーまんは、切られて痛くないのかな」
「……たぶん、大丈夫だと思う」
 そんな、哲学問答のような会話を繰り返しながら、僕は慣れない手つきで野菜炒めを作る。マナは、僕がテレビのリモコンを操作すれば「なぜ、この板を押すと箱の中の人が喋りだすの?」と真顔で尋ね、洗濯機が回れば「この中で、服たちがぐるぐる冒険しているの?」と目を輝かせる。
 彼女は記憶を失っているだけじゃない。この世界の「理(ことわり)」そのものを、知らないのだ。まるで、生まれたての雛鳥が、初めて見るものすべてに純粋な問いを投げかけるように。
 僕は、そんな彼女に、この世界のことを一つずつ教えていくことに、いつしか夢中になっていた。それは、退屈な講義や、将来への漠然とした不安から目を逸らすための、都合のいい逃避だったのかもしれない。それでも、僕にとっては、生まれて初めて誰かに心から必要とされているという実感があった。

 その日、僕は一大決心をした。
「マナ、出かけるぞ」
「どこへ?」
「世界探検だ」
 僕らはアパートを出て、夏の強い日差しが照りつける街へと繰り出した。まず僕がマナに見せたのは、僕のスマートフォンだった。
「いいか、この画面に触れると……ほら」
 僕が指で画面をスワイプすると、待ち受け画面の写真が、昨日撮ったマナの寝顔の写真に切り替わった。マナは「わっ」と小さな声を上げ、自分の寝顔が写った画面を不思議そうに覗き込む。
「私が、この中にいる……」
「そう。そして、こうやって指でなぞると、写真が動く」
 マナはおずおずと、その白く細い指先で画面に触れた。写真がするりと横にスライドし、別の写真が現れる。その単純な仕組みがよほど面白かったらしく、マナは夢中になって画面を何度も何度もなぞっていた。子供のように集中するその横顔を、僕は少し離れた場所から眺める。蝉の声が、やけに遠くに聞こえた。
 次に僕らが向かったのは、駅前の自動販売機だ。
「これは、魔法の箱だ」
 僕が冗談めかして言うと、マナはこくりと頷いて、真剣な眼差しで自販機を見つめた。僕が小銭を入れて、ボタンを押す。ガコン、と重たい音を立てて、取り出し口に冷たい缶ジュースが落ちてきた。
「!」
 マナは、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、自販機とジュースを交互に見ている。
「さあ、やってみな」
 僕は彼女に百円玉を渡し、好きなジュースのボタンを指差させた。マナが震える指でボタンを押すと、再びガコンという音と共に、リンゴジュースの缶が転がり出てくる。マナはそれを宝物のようにそっと拾い上げ、胸に抱きしめた。その姿が、あまりに愛おしくて、僕は思わず目を細めてしまった。
 そして、僕らの世界探検のメインイベントは、電車だった。
 自動改札機に切符を通す。切符が機械に吸い込まれ、向こう側からひょこっと顔を出す。その一連の動きに、マナは「生きているみたい」と囁いた。
 ホームに滑り込んできた銀色の車体に乗り込むと、マナは窓に顔をくっつけて、外の景色が猛スピードで流れ去っていくのを、食い入るように見つめていた。ガタンゴトンという規則的なリズムが、僕らの間の心地よい沈黙を埋めていく。
 車内の乗客たちが、時折マナのほうを見て、息を呑んでいるのが分かった。人間離れしたその美しさは、日常の風景の中では、否が応でも人の目を引いてしまう。僕は、それが少しだけ誇らしく、同時に、誰にも見せたくないという独占欲のようなものが芽生えていることに気づいて、一人で勝手に狼狽した。

 電車をいくつか乗り継ぎ、僕らがたどり着いたのは、緑豊かな大きな公園だった。噴水が涼しげな水しぶきを上げ、芝生の上では子供たちがボールを追いかけて笑い声を上げている。平和な、ありふれた休日の午後。でも、今の僕にとっては、世界で一番特別な場所に思えた。
「ちょっと待ってろ」
 僕はマナを木陰のベンチに座らせ、近くの売店へと走った。そして、二つのカップアイスを手に戻ってくる。
「ほら、これ。この世界で一番おいしい食べ物だ」
 マナは、僕が差し出したバニラアイスのカップを不思議そうに受け取った。プラスチックの小さなスプーンで、恐る恐る白いクリームをすくう。そして、ゆっくりと、その小さな唇に運んだ。
 瞬間、マナの瑠璃色の瞳が、驚きに見開かれた。
「!」
 初めて体験する、突き抜けるような冷たさ。次いで、口の中いっぱいに広がる、濃厚で、優しい甘さ。マナは、しばらくの間、口の中で起きた奇跡を確かめるように、じっと動かずにいた。
 やがて、彼女の顔に、これまで見たこともないような、満開の花のような笑顔が咲いた。
「なにこれ……! 冷たいのに、甘くて、幸せな味がする!」
 その笑顔を見た瞬間、僕の中で、何かが弾けた。
 世界から、音が消えた。蝉の声も、子供たちの笑い声も、すべてが遠くに霞んでいく。僕の目には、アイスクリームを頬張りながら、幸せそうに笑うマナの姿だけが、スローモーションで映っていた。木漏れ日が彼女の蜂蜜色の髪をきらきらと照らし、その笑顔は、僕がこれまで生きてきた二十年間で見た、どんな景色よりも、鮮やかで、美しかった。
 ドクン、ドクン、と心臓が大きく脈打つ。ああ、そうか。
 これが、「恋」というやつか。
 僕は、あまりにも単純で、あまりにも抗いようのないその事実を、夏の光の中で、はっきりと自覚した。

 夕日が、街を茜色に染めていた。僕とマナは、昼間の喧騒が嘘のような静かな道を、並んで歩いていた。買ってきたアイスはとっくに溶けてなくなったのに、その甘い余韻が、まだ胸の中に残っているようだった。
 ふと、隣を歩くマナが、自分の胸のあたりにそっと手を当てた。
「ねえ、海斗」
「ん?」
「あなたといると、ここが、ぽかぽかして、くすぐったいような、嬉しいような、不思議な気持ちになるの」
 マナは、純粋な瞳で僕を見上げて、問いかけた。
「これは、なあに?」
 その問いに、僕は言葉を失った。僕の顔に、夕日よりも熱い何かが、ぶわりと込み上げてくる。マナもまた、僕と同じような気持ちを、その胸に灯し始めている。でも、彼女はまだ、その感情の名前を知らない。
「そ、それはだな……! えっと、つまり、その……!」
 僕は、しどろもどろになりながら、意味のない言葉を繰り返すことしかできなかった。マナは、そんな僕の姿を、不思議そうに、でもどこか嬉しそうに見つめている。
 二人の影が、夏の夕暮れの中に、長く、長く伸びていた。
 僕の灰色だった世界は、いつの間にか、こんなにも温かくて、甘くて、少しだけ切ない色に染まっていた。
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