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第一部:日常の崩壊と世界の顕現
第四話:知識の悪魔と偽りの契約
しおりを挟む七月。世界は、巨大な蒸し風呂になった。
アスファルトは陽炎を揺らめかせ、自販機のペットボトルは買ったそばからぬるま湯に変わる。僕のアパートの年代物の扇風機は、「ぶぉん、ぶぉん」とやる気のない唸り声を上げながら、室内の熱気をかき混ぜているだけだった。もはやこれは風ではない。熱の移動だ。
そんな熱帯夜に、テレビのアナウンサーは涼しげな顔で、ちっとも涼しくないニュースを読み上げていた。
『……IT企業の寵児と謳われた若手プログラマー、天才ピアニストとして将来を嘱望されていた音大生など、成功を目前にした若者が、相次いで原因不明の昏睡状態に陥る事件が多発しています。いずれも外傷はなく、現場には奇妙な幾何学模様の紋様が残されていたことから、警察はカルト集団による連続傷害事件の可能性も視野に……』
「またかい」
フローリングに大の字になって伸びていた僕は、思わず呟いた。この一週間で、もう三人目だ。
「最近、物騒だね」
僕のスウェットをワンピースのように着こなしたマナが、心配そうにテレビ画面を覗き込んでいる。彼女との奇妙な同居生活にも、少しずつ慣れてきた。マナは僕が教えた通り、甲斐甲斐しく麦茶の入ったコップに氷を入れてくれている。その姿は、あまりにも日常に溶け込んでいて、時々、彼女がこの世界の理の外側にいる存在だということを忘れそうになる。
だが、その日常をぶち壊す声が、すぐそばの縁側から聞こえてきた。
「へっ、安っぽい魂狩りだねぇ。芸がねえ」
香取線香の煙の向こうで、猫の姿の珠が退屈そうに欠伸をしながら言った。
「魂狩り? 珠さん、何か知ってるのか?」
「知ってるも何も、ありふれた手口さ。ありゃあ、悪魔の仕業だよ。それも、とびきりの下衆(げす)な奴のね」
珠は、面倒くさそうに前足で顔を洗いながら説明を始めた。妖怪と悪魔は、似て非なるものなのだという。珠たち日本のあやかしは、この土地の自然や人々の想いから生まれた、いわば「場のエネルギー」の化身だ。良くも悪くも、その土地の理からはみ出すことはない。
しかし悪魔は違う。彼らは人間という個体に寄生し、その欲望を糧とする。特に、才能が開花し、夢が叶う直前の、希望と期待で飽和した人間の魂は、彼らにとって極上の御馳走なのだという。
「どんな生き物も、因果の華が咲き誇る一番美しい瞬間ってのがある。そいつぁ、その一番美味い瞬間だけを摘んで食い散らかす、美学も何もないハイエナみてぇな野郎だよ。あたしらの縄張りを嗅ぎ回るなんざ、いい度胸じゃねえか」
珠の琥珀色の瞳が、すうっと細められる。どうやら、自分のテリトリーで好き勝手されるのは、猫又のプライドが許さないらしい。テレビ画面の隅に映った、現場に残されたという紋様を見て、珠は「ああ、これだ」と確信したように呟いた。
「この淀んだ気の臭い……湾岸の古い倉庫街だね。今夜あたり、また新しい獲物を物色するつもりだろうさ」
夜の湾岸地区は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。潮の香りと、錆びた鉄の匂いが混じり合った、重たい空気が漂っている。僕とマナは、珠が示した廃ビル群の一角に立っていた。月明かりが、割れた窓ガラスを不気味に照らし出している。
「本当に、ここにいるのかな」
「珠さんが言うんだから、間違いないだろ。でも、マナは無理するなよ。危なくなったら、すぐに逃げろ」
「ううん。私も、行く」
マナは、僕の服の裾をぎゅっと握りしめて、強い意志を宿した瞳で頷いた。彼女はもはや、ただ守られるだけの少女ではなかった。
廃ビルの内部は、カビと埃の匂いで満ちていた。軋む床を慎重に踏みしめ、僕らは最上階へと向かう。月光が差し込むだだっ広いフロアの真ん中に、それはいた。
黒い外套をまとった、痩せこけた男。その背中からは、蝙蝠(こうもり)のような皮膜の翼が生え、爬虫類のように縦に裂けた瞳が、貪欲な光をたたえて僕らを見ていた。
「ほう。噂の女と、その番犬か。何の用だ、人間」
悪魔の声は、ガラスを引っ掻くような不快な音色だった。
「お前が、連続昏睡事件の犯人か!」
「いかにも。素晴らしい魂だったぞ。夢に焦がれ、未来を信じる、純粋な輝き……。極上の味だ」
悪魔は恍惚と舌なめずりをする。その姿に、僕の全身の血が逆流するような怒りがこみ上げた。
「ふざけるな! 人の人生をなんだと思ってる!」
僕が叫んだ瞬間、悪魔はにやりと笑い、その姿が掻き消えた。いや、違う。僕の世界が、歪んだのだ。
風景がぐにゃりと溶け、気づけば僕は大学の教室にいた。目の前には、サークルの仲間たちが、僕を指差して嘲笑っている。
『見ろよ、相川だぜ。あんな綺麗な子と一緒にいるけど、どうせ何もできねえんだよ』
『お前なんかが、彼女を守れるわけないだろ。無力な癖に』
違う、これは幻だ。頭では分かっているのに、彼らの言葉が、僕の心の最も脆い部分を抉ってくる。そうだ、僕は無力だ。特別な力なんて何もない、ただの大学生だ。マナの隣に立つ資格なんて、本当はないのかもしれない。
思考が、劣等感という名の沼に沈んでいく。その時、幻覚の向こうから、マナの悲鳴が聞こえた。
「海斗!」
はっとして顔を上げると、僕は元の廃ビルに戻っていた。僕が幻覚に囚われている隙に、悪魔の鋭い爪が、僕の喉元に迫っていた。
――死ぬ。
そう思った瞬間、僕の体は強い力で突き飛ばされた。僕がいた場所に、マナが立ちはだかっていた。
「この人に、指一本触れさせない!」
マナの体から、黄金色のオーラが迸った。それは、闇を切り裂く夜明けの光のように神々しく、悪魔は思わず「ぐっ」と呻いて後ずさる。
「な、なんだ、この力は……! 神聖な……!」
しかし、オーラはすぐに不安定に揺らめき、消えてしまった。マナは、自らの内に眠る力の制御方法を知らない。彼女は苦しげに膝をつき、その額には汗が滲んでいた。
オーラの正体に気づいた悪魔の瞳が、恐怖から、より一層どす黒い貪欲へと変わった。
「神の欠片……! まさか、こんな場所で、これほどの魂に出会えるとは! 食べてやる、その魂、丸ごと喰らってくれるわ!」
怒りと欲望を剥き出しにした悪魔が、マナに飛びかかった。僕は必死に立ち上がろうとするが、足がもつれて動けない。
万事休す。
僕の脳裏に、その四文字が浮かんだ、その時だった。
どこからともなく、荘厳なパイプオルガンの音色が響き渡った。バッハの『トッカータとフーガ ニ短調』。廃ビルの荒涼とした雰囲気には、あまりにも不釣り合いな、神聖で、圧倒的な調べ。
僕も、マナも、そして悪魔さえも、音のした方を振り向いた。
割れた窓枠。その向こうには、満月が浮かんでいる。その月光を背負い、一人の男が、まるでそこがオペラ座の舞台であるかのように、優雅に立っていた。
シルクハットに、燕尾服。手には、銀細工のステッキ。闇の中でも分かる、仕立ての良いその出で立ちは、英国の貴族紳士を思わせた。
「実に、美しくない」
男は、うっとりとするようなバリトンボイスで言った。
「魂の収穫とは、熟成した果実を静かに摘むような芸術でなくては。欲望を剥き出しにし、獣のように喰らいつこうとするなど……ああ、僕の美学に反する」
「な、何者だ、貴様!」
悪魔が警戒の声を上げる。男はステッキを軽く一振りし、僕らの前にゆっくりと歩み出た。
「僕の名は、パイモン。ご覧の通り、しがない悪魔でしてね」
悪魔。その言葉に、下級悪魔の顔が恐怖に引きつった。パイモンという名に、心当たりがあったのだろう。
「おっと、動かない方がいい。君の美しくない存在が、これ以上僕の視界を汚すのは耐え難い」
パイモンは、微笑んだまま、指をぱちんと鳴らした。
ただ、それだけだった。
次の瞬間、僕らの目の前で猛威を振るっていた下級悪魔は、悲鳴を上げる間もなく、まるで陽光に晒された古いフィルムのように、音もなく塵へと還り、闇に溶けて消えた。
.
僕とマナは、そのあまりに次元の違う力の差に、言葉を失って立ち尽くす。
パイモンは、僕には一瞥もくれず、マナの前まで歩み寄ると、恭しく片膝をついた。
「初めまして、失われた神話の姫君」
彼は、うっとりとマナを見上げ、その手をそっと取った。
「私の名はパイモン。地獄の序列、しがない九番目の王。偉大なるルシファーに、最も忠実な僕(しもべ)の一人です」
その言葉の一つ一つが、僕の理解の範疇を軽々と超えていく。猫又の次は、地獄の王だと?
「あなたの魂が奏でるその調べ……ああ、なんと美しい。不協和音の中に、かつて失われたはずの神聖な旋律が聞こえる。実に興味深い。解明されるべき謎だ。ぜひ、その謎を解明するお手伝いを、この私にさせていただけませんか?」
それは、善意からの協力の申し出ではなかった。彼の瞳に宿っているのは、未知の数式を前にした数学者のような、あるいは、新種の蝶を発見した昆虫学者のような、純粋で、底なしの「知的好奇心」だった。
こうして、僕のキャパシティを完全に無視して、僕らのチームに、地獄からの協力者が加わることが、一方的に決定された。僕の人生という名の複雑系は、もはや予測も制御も不可能な、神話レベルの領域へと、否応なく足を踏み入れてしまったのだった。
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