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第一部:日常の崩壊と世界の顕現
第6話:純白の正義、その名は『浄化』
しおりを挟む梅雨の気まぐれな晴れ間だった。
分厚い雲の切れ間からこぼれ落ちた太陽の光は、まるで一ヶ月分の仕事を一日で片付けてしまおうとでも言うかのように、容赦のない熱量をもって地上を照らしつけていた。アスファルトの照り返しが視界を白っぽく歪ませ、どこかの家から聞こえてくる風鈴の音だけが、かろうじて季節が夏であることを主張している。
相川海斗は、そんな猛烈な日差しから逃れるように、古びた駄菓子屋の縁側に腰を下ろしていた。
彼の隣には、記憶喪失の少女マナがちょこんと座り、生まれて初めて見るガラス瓶のラムネと格闘している。どうやってもビー玉が落ちず、首をかしげる彼女の仕草に、海斗は思わず頬を緩めた。
縁側の隅では、この駄菓子屋の主人であり、この辺りの土地を縄張りとする猫又の珠が、見事なまでにまん丸い猫の姿で昼寝を貪っている。その尻尾の先が二つに分かれていなければ、ただの年老いた三毛猫にしか見えないだろう。
そして、その光景の中で一つ、決定的に浮いている存在があった。
「やれやれ。日本の夏というものは、どうしてこうも野蛮な暑さなのだろうね。せっかくのダージリンの繊細な香りが、この湿気で台無しだ」
そう言いながら、アンティークのティーカップを優雅に傾けているのは、地獄の序列九番目の王、パイモンその人だった。シルクハットに燕尾服という、季節感をガン無視した出で立ちで、彼はまるでロンドンの高級ホテルのテラスにでもいるかのように振る舞っている。
海斗とマナが、あの妖怪『べとべとさん』の一件以来、アパートが危険だと判断した珠の計らいで、この駄菓子屋の二階に間借りするようになってから、数日が経っていた。穏やかで、少しばかり奇妙な日常。それは、こんな会話で彩られていた。
「ったく、西洋かぶれはこれだからいけねぇ」
昼寝から覚めたらしい珠が、片目を開けてパイモンを睨む。
「そんな葉っぱを煮出した汁の何が美味いんだい。暑い夏はキンキンに冷えた麦茶って決まってるだろうが」
「おや、路地の古猫には芸術が分からないようだね。これは混沌とした世界に秩序をもたらす、一杯の宇宙だよ。君たちが飲む、ただの焦げ臭い麦の煮汁とは次元が違う」
「なんだとぅ! 日本の伝統文化を馬鹿にする気かい!」
「伝統? 変化を拒むことを、君たちはそう呼ぶのかい? 実に非合理的だ」
小学生レベルの口喧嘩が、やけに哲学的な装いを纏って繰り広げられる。海斗は呆れながらも、その光景にクスリと笑みを漏らした。
風が軒先の古い風鈴を揺らし、チリン、と乾いた音を立てる。遠くからは、子供たちのはしゃぐ声。店先には、色とりどりの駄菓子。鼻をくすぐる、甘く懐かしい香り。
これが永遠に続けばいい。
そんな、ありきたりで、だからこそ切実な願いが、海斗の胸をふとよぎった。
その、瞬間だった。
バサッ、と鈍い音を立てて、一羽のカラスが店の軒先から縁側へと転がり落ちてきた。ただのカラスではない。その翼は焼け焦げ、片足はありえない方向に折れ曲がっている。息も絶え絶えのその鳥は、珠の使い魔の一羽だった。
縁側で丸くなっていた珠の姿が、一瞬で老婆のそれへと変わる。彼女の瞳から、昼寝猫ののんびりとした光は消え失せ、ガラスの破片のような鋭い光が宿っていた。
「どうした! 何があった!」
カラスは、珠の鋭い声に最後の力を振り絞るかのように、か細い声で喘いだ。
「珠様……も、森の……集落が……」
それだけを告げると、カラスはことりと首を傾げ、二度と動かなくなった。
さっきまで鳴っていた風鈴の音が、ぴたりと止んだ。子供たちのはしゃぐ声も、まるで映画の音声が途切れたかのように聞こえなくなる。
後に残されたのは、焦げ付いた羽の匂いと、心臓を鷲掴みにするような、重苦しい沈黙だけだった。
◇
街外れの、小さな森。
そこは、人間に害意を持たない、木霊や小鬼といったか弱き妖怪たちが、ひっそりと暮らす集落だった。珠の縄張りの中でも、特に穏やかな場所だと聞いていた。
珠の先導で一行が森の入り口にたどり着いた時、海斗はまず、その異臭に気づいた。
花の香りでも、土の匂いでもない。何か……肉が焦げるような、甘くむせ返るような、吐き気を催す匂い。それは、バーベキューの匂いを百度濃縮して、腐敗臭を混ぜ込んだような、冒涜的な香りだった。
森に足を踏み入れた瞬間、誰もが言葉を失った。
地獄が、そこにあった。
かつて木々が生い茂っていたであろう場所は、中心から巨大なコンパスで円を描いたかのように、完璧な円形に、焼き払われていた。
まるで、天から巨大な焼きごてを押し付けられたかのようだ。
木々は、黒い炭と化して立ち枯れ、その枝は天に向かって助けを求める亡者の腕のようにねじくれている。地面は熱で溶け、冷えて固まったことで、不気味な光沢を放つ黒いガラスのようになっていた。そこかしこから、まだ燻るように白い煙が立ち上り、焦げ臭い匂いを撒き散らしている。
音がない。鳥の声も、虫の羽音も、風に葉がそよぐ音すら、ここには存在しない。
ただ、焼き払われた円の外周で、奇跡的に生き残った小さな妖怪たちが、呆然と立ち尽くしているだけだった。手のひらに乗るほど小さな一つ目の小鬼が、かつて家族だったであろう炭の塊を抱きしめ、声もなく涙を流している。河童の子どもだろうか、頭の皿が砕け、ぐったりとした仲間を揺さぶり続けている。
そのあまりの惨状に、海斗はこみ上げてくる胃液を必死に飲み下した。
隣で、マナが膝から崩れ落ちるのが見えた。彼女は震える手で、焦げ付いた大地にそっと触れる。その美しいアクアマリンの瞳から、大粒の涙がいくつもこぼれ落ちた。涙はガラス化した地面に当たると、ジュッ、という悲しい音を立てて、一瞬で蒸発した。
珠は、その光景をただ黙って見つめていた。その横顔は能面のように無表情だったが、握りしめられた拳が、わなわなと震えているのを海斗は見た。
パイモンだけが、冷静な、あるいは冷酷なまでの観察眼で、現場の状況を分析していた。
「……凄まじいエネルギーだ。だが、魔力や呪力とは異質。これは……そうか、極めて純度の高い『聖性』による破壊だ。不純物を分子レベルで分解、昇華させている。悪魔の業火とは、破壊のベクトルがまるで違う」
その、どこか感心したような呟きが、今はひどく海斗の神経を逆撫でした。
どれくらいの時間が経っただろうか。
夕暮れが迫り、空が茜色と深い藍色の、美しいグラデーションに染まり始めていた。世界の悲劇など意にも介さず、空だけはいつも通り、その美しさを見せつけている。
その時だった。
西の空を背にして、一つの人影がゆっくりと舞い降りてくるのが見えた。
夕日がその輪郭を黄金色に縁取り、まるで後光が差しているかのようだ。光の粒子がきらきらと舞い、その姿は、ルネサンス期の宗教画から抜け出してきたかと錯覚するほどに、完璧だった。
地上に降り立ったのは、一人の青年だった。
雪のように白いローブを身に纏い、背中には、一枚一枚が精巧な彫刻のように美しい、純白の翼。少しウェーブのかかった金の髪は夕風にやわらかくそよぎ、陶器のように白い肌は、内側から発光しているかのような神々しさを放っていた。
あまりの美しさに、海斗は一瞬、目の前の惨劇も、胸に渦巻く怒りさえも忘れて、ただ呆然と見惚れてしまった。
その存在は、この世の美の概念をすべて集めて、形にしたかのようだった。
青年――天使は、感情の欠片も映さない、ガラス玉のような青い瞳で一行を見下ろすと、静かに、しかし有無を言わせぬ絶対的な響きで、その唇を開いた。
「穢れは浄化されねばならない。それが世界の調和であり、神の御心だ」
その声は、最高級の楽器が奏でる音色のように美しかった。だが、その内容を理解した瞬間、海斗の背筋を氷水のような悪寒が駆け下りた。
「穢れ……だと?」
絞り出すような声で、海斗が問いかける。
「ここに住んでいた奴らが、一体何をしたって言うんだ! 彼らはただ、静かに暮らしてただけじゃないか!」
海斗の叫びは、悲痛な響きを帯びていた。だが、天使は眉一つ動かさない。その表情は、まるで人間がアリの行列を眺める時のように、何の感慨も浮かんでいなかった。
「彼らが何をしたか、ではない」
天使は淡々と告げる。
「人間と、そうでないものが交わること。その事実そのものが、世界の設計図におけるバグであり、修正されるべき穢れなのだ」
その論理は、完璧だった。揺るぎなく、冷徹で、一切の感情を挟む余地がない。
プログラムの仕様書を読み上げるかのような、絶対的な正しさ。
だが、海斗には全く理解できなかった。
それは、あまりに一方的で、あまりに冷酷で、あまりに無慈悲な「正義」だった。
「ふざけるなッ!」
最初に動いたのは、珠だった。彼女の身体が黒い影となって溶け、弾丸のような速度で天使に襲いかかる。同時に、パイモンがこともなげにステッキを振るう。彼の足元から、本物の地獄の業火が渦を巻いて現れ、黒い大蛇のように天使へと牙を剥いた。
妖怪と悪魔、二つの強大な力が、神の使いへと同時に叩き込まれる。
しかし。
天使は、迫りくる二つの攻撃を、まるでつまらないものでも見るかのように一瞥しただけだった。
彼が軽く右手をかざすと、その周囲に、目には見えないが確固として存在する、光の障壁が展開される。
珠の影の爪が、パイモンの地獄の炎が、その障壁に触れた瞬間――音もなく、霧散した。
いや、違う。消えたのではない。「浄化」されたのだ。
悪意も、妖力も、魔力も、その神聖な光の前では等しく「不純物」として扱われ、その存在を許されず、より根源的なエネルギーの粒子へと分解されてしまったのだ。
「なっ……!?」
珠が驚愕の声を上げる。パイモンもまた、初めてそのポーカーフェイスを僅かに崩し、眉をひそめていた。
自分たちの力が全く通用しないという事実が、二人に戦慄をもたらしていた。
だが、天使はそんな二人を意にも介さなかった。彼にとって、珠やパイモンの攻撃は、道端の小石ほどの意味も持たなかったのだろう。
天使の冷たい視線は、生き残って震えている、あの一つ目の小鬼へと向けられた。
彼は、その小鬼に向かって、無造作に手を伸ばす。
その指が、パチン、と鳴らされようとした、その刹那。
「やめてっ!」
マナが、天使と小鬼の間に、まるで盾になるかのように立ちはだかっていた。
「この人たちは、何も悪くない! 何も、悪いことなんてしてない!」
マナの悲痛な叫び。
その時、天使は初めて、ほんの少しだけ、その表情を変えた。
驚きではない。怒りでもない。
まるで、植物図鑑でしか見たことのない、珍しい虫を目の前で見つけた植物学者かのような、冷たい、冷たい好奇心の色だった。
「……興味深い」
天使は、マナの全身を値踏みするように眺めながら、呟いた。
「最大の穢れの源が、他の穢れを庇うか。その魂が内包する混沌の奔流は、この森の穢れ全てを足してもまだ余りある。なるほど、道理だ」
何を言っているのか、海斗には理解できなかった。
ただ一つ分かったのは、この天使が、マナのことを、この森を焼き払った元凶よりも、さらに危険で、穢れた存在だと認識していることだけだった。
「ならば、話は早い」
天使は、マナから視線を外さずに言った。
「まとめて、浄化するまでだ」
天使の掌に、光が集まっていく。
最初は小さな蛍火ほどの光だった。だが、それは周囲の光を喰らうように、凄まじい勢いでその輝きを増していく。
やがて、直視することも憚られる、小さな太陽のような光球へと姿を変えた。
空気が灼け、空間が歪むほどの、圧倒的なエネルギー。
その絶対的な力の奔流を前に、海斗は金縛りにあったかのように、一歩も動くことができなかった。
頭の中で、何かがガラガラと崩れ落ちていく音がした。
天使は、善だ。
悪魔は、悪だ。
正義は、必ず勝つ。
幼い頃から、物語の中で、映画の中で、疑うことさえしなかった、単純で、美しかったはずの世界の法則。
それらが、目の前の光景によって、根こそぎ、砕け散っていく。
もし、あの神々しいまでに美しい存在が振りかざす力が「正義」なのだとしたら。
「正義って、一体、何なんだ……?」
彼の心に生まれたその問いは、答えのないまま、天使が放とうとする絶望的な光の中に、吸い込まれて消えていった。
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