「彼女を拾うな」――謎の忠告を無視した俺の日常は崩壊した。記憶喪失の少女は世界を滅ぼす女神の『鍵』。

Gaku

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第一部:日常の崩壊と世界の顕現

第7話:悪魔が語る、神の孤独

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視界が、ぐにゃりと歪んだ。
さっきまで目の前にいた能天使の姿が、夕焼けの空が、黒く炭化した森が、まるで水に溶けた絵の具のように混ざり合い、引き伸ばされ、渦を巻く。音が意味を失い、甲高い金属音と地響きのような低音が、脳の中で直接鳴り響いているかのようだ。平衡感覚が消失し、天地の区別がつかなくなる。自分の体がどこにあるのかさえ、分からなかった。
次の瞬間、背中に鈍い衝撃が走り、肺から強制的に空気が叩き出された。
「……ッ、ぐ、ぅ……!」
噎せ返るような土の匂い。耳の奥でキーンという鋭い音が鳴り響いている。相川海斗がゆっくりと目を開けると、そこに見えたのは、見慣れた駄菓子屋の裏庭の、雑草が生い茂る地面だった。
どうやら、あの絶望的な光が放たれる寸前、パイモンが最後の力を振り絞って空間転移を発動させたらしい。
「……はぁ……はぁ……」
海斗が荒い息を整えながら身体を起こすと、すぐそばに、同じように地面に倒れ込んでいる仲間たちの姿があった。
珠は老婆の姿のまま、肩で大きく息をしている。その着物には、天使の障壁に触れた際に受けたであろう焦げ跡が痛々しく残っていた。パイモンはさらに酷い有様だった。彼の顔色は蝋のように青白く、いつもは寸分の乱れもない燕尾服は土と埃で汚れ、その消耗しきった表情は、彼が悪魔といえども無尽蔵の力を持つわけではないことを物語っていた。
肉体的なダメージは、彼らの方が遥かに大きい。
だが、それとは比較にならないほど深く、致命的な傷を負ったのは、海斗の心だった。

駄菓子屋の二階、海斗とマナが間借りしている四畳半の部屋。
海斗は、窓の外をただぼんやりと眺めていた。隣家の瓦屋根。遠くで聞こえる、踏切の警報機の音。いつもと同じ、何の変哲もない日常の風景。
それなのに、今はすべてが薄っぺらい書き割りのように、現実感を失って見えた。
瞼を閉じれば、あの光景が焼き付いて離れない。
完璧なまでに美しかった、天使の顔。
感情のひとかけらも映さなかった、ガラス玉のような瞳。
そして、命乞いをする小鬼たちを、塵芥のように消し去ろうとした、あの無慈悲な光。
『穢れは浄化されねばならない』
あの声が、頭の中で繰り返し響く。
天使が悪なら、悪魔のパイモンは何なんだ?
自分たちを救ったパイモンは、善なのか?
いや、彼はマナの魂の輝きに興味を持っただけだ。あの場にマナがいなければ、彼はきっと見向きもせずに立ち去っただろう。
何が正しくて、何が間違っているんだ?
自分が今まで立っていたはずの、善悪という確固たる地面が、音を立てて崩れ落ち、今は底なしの沼に変わってしまったかのようだった。考えれば考えるほど、足元から全てが沈んでいく。
ぐるぐると同じ思考が頭を巡り、答えは見つからない。ただ、圧倒的な無力感だけが、鉛のように心を重くしていく。
守りたい。マナを。
そう思ったはずなのに、自分は結局、何もできなかった。恐怖に足が竦み、声を上げることしかできなかった。もしパイモンがいなければ、今頃はマナも、自分も、あの森の妖怪たちと同じように、黒い炭の塊になっていたのだろう。
「……くそっ」
意味のない悪態が、唇から漏れた。
その時だった。

静かに、部屋の襖がスッと開いた。
海斗が驚いて振り返ると、そこに立っていたのは、いつもの優雅さを取り戻したパイモンだった。その手には、銀の盆が掲げられており、上には美しい装飾のティーポットと、二つのティーカップが乗せられている。
「……パイモン」
「邪魔するよ」
彼は海斗の返事を待たずに部屋へ入ると、ちゃぶ台の上に手際よくティーセットを並べ始めた。ポットからカップへと注がれる、琥珀色の液体。ふわりと立ち上る、爽やかで気品のあるベルガモットの香りが、淀んでいた部屋の空気を、ほんの少しだけ浄化していくようだった。
パイモンは黙って一つのカップを海斗の前に差し出すと、自分はもう一つのカップを手に、窓辺に立った。
静かな部屋に、月明かりが差し込んでいる。
パイモンは、窓の外に浮かぶ、剃刀のように鋭い三日月を見上げながら、静かに口を開いた。
「君は混乱しているようだね。天使が正義の味方ではなかった、と。それは、君たちの世界が単純な物語で出来ていると、心のどこかで信じていたからだ」
その声は、いつもの皮肉めいた響きを潜め、まるで大学教授が講義を行うかのような、知的で、落ち着いたトーンだった。
「君たち人間は、世界をたった二色で塗り分けようとする。白と黒。光と闇。善と悪。だが、本質はそこにはない。この世界は、無限の階調を持つグレースケールで描かれているのだよ」
パイモンは一口、紅茶を含むと、言葉を続けた。
「君は、あの能天使に感情がないことに恐怖した。そうだろう? だが、それは当然のことなのだ。なぜなら、彼らは完璧だからだ。完璧なハードウェアに、完璧なソフトウェアがインストールされている。そこにはバグ……つまり、矛盾や揺らぎは一切存在しない」
「バグ……?」
「そう。そして、君たちが『心』と呼ぶもの……その正体こそが、魂が肉体という不完全なOSにインストールされた際に発生する、予測不能で、実に美しいバグなのだよ」
パイモンの言葉は、海斗の理解の範疇を遥かに超えていた。だが、その声には奇妙な説得力があり、海斗はただ黙って耳を傾けることしかできなかった。
「喜び、悲しみ、怒り、恐怖。それらは全て、移ろいやすく、矛盾をはらんでいる。ある人間を愛しく思う心が、次の瞬間には憎しみに変わることもある。実に非合理的で、不安定で、不完全だ。だが……」
パイモンは、手に持ったティーカップの中で揺れる月影を見つめた。
「それ故に、美しい」
「天使にあるのは、役割としての『絶対的な正義』。我々悪魔にあるのは、役割としての『絶対的な傲慢』。どちらも完璧で、揺るぎない。プログラムが命令を実行するのに、理由も、慈悲も、躊躇も必要ないだろう? 能天使の役割は『浄化』。ただそれだけだ。彼にとって、あの森の妖怪たちは、システムの安定を損なうエラーコードに過ぎない。デリートすることに、何の感慨も抱くはずがない」
パイモンは、ゆっくりと海斗の方へ向き直った。月明かりが彼の横顔を照らし、その瞳が、人間とは決定的に違う、悠久の時を生きてきた者の底知れない深みを湛えているのが見えた。
「だが、君たちが抱く、不完全で美しい『愛』や『悲しみ』は、そこには存在しない。完璧な水晶には傷一つないが、光はただ通り抜けるだけだ。だが、傷だらけのダイヤモンドは、その無数の傷によって、光を乱反射させ、虹色の輝きを放つ。君たちの感情とは、そういうものだよ」

その時、海斗は部屋の入り口に、一人の少女が立っていることに気づいた。
マナだった。
彼女がいつからそこにいたのか、海斗は全く気づかなかった。だが、パイモンは最初からその存在に気づいていたのだろう。彼は、その怜悧な視線を、静かにマナへと向けた。
その瞳は、まるで興味深い研究対象を観察する科学者のように、冷徹だった。
「そして、マナ」
パイモンの声が、夜の静寂を切り裂く。
「君は恐らく、彼らとも我々とも違う。だが、もし君が神なるものだとするならば、覚えておくといい」
彼は、一言一言、言葉を区切るように、残酷な真実を紡ぎ出した。
「君が今感じている、その胸の温もりも、彼を見て高鳴る心も、初めてアイスクリームを食べた時の喜びも……それら全ては、君が『不完全な人間』という器に入っているからこそ体験できる、儚い幻のようなものだ」
マナの顔から、さっと血の気が引いていくのが分かった。
「その人間としての器を失えば、君が今感じている感情も、彼との思い出も、全て消え失せる」
パイモンの言葉は、どんな武器よりも鋭く、マナの心を貫いた。
「君はただの完全で、冷徹な『概念』に戻るだけだ。愛も悲しみも感じない、世界の法則そのものにね」
マナは、自分の胸にそっと手を当てた。その美しいアクアマリンの瞳が、恐怖に見開かれている。自分の足元が、今、この瞬間にも崩れ去っていくかのような、存在そのものが揺らぐような、根源的な恐怖。海斗と出会ってから芽生えた、このかけがえのない温かい気持ちが、全て消えてしまう。その宣告は、死よりも恐ろしいものに感じられた。
それを見た瞬間、海斗の中で何かが弾けた。
混乱も、無力感も、全てが吹き飛んだ。ただ一つ、純粋な想いだけが、彼の身体を突き動かした。
「ふざけるなッ!」
海斗は立ち上がり、マナを庇うように、彼女の前に立ちはだかった。
「マナは概念なんかじゃない! ここにいる! 俺の前で笑って、泣いて、怒ってる! それが全部なくなるっていうのか! そんなこと、俺が絶対にさせない!」
その声は、怒りと恐怖で震えていた。
だが、その瞳には、愛する者を何があっても守り抜くという、揺るぎない決意の光が宿っていた。
パイモンは、そんな海斗の姿を一瞥すると、満足したかのように、ほんの少しだけ口の端を上げた。
その笑みは、嘲笑ではない。
まるで、興味深い実験が、期待通りの結果をもたらしたのを確かめた科学者のような。
あるいは、難しい問いに、教え子が満点の答えを出したのを見届けた教師のような。
そんな、複雑な色が混じった、静かな笑みだった。
彼は黙って一礼すると、ティーセットを盆に乗せ、音もなく部屋を出て行った。
後に残されたのは、まだ微かに香るベルガモモットの匂いと、互いの存在を確かめるように見つめ合う、少年と少女だけだった。
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