「彼女を拾うな」――謎の忠告を無視した俺の日常は崩壊した。記憶喪失の少女は世界を滅ぼす女神の『鍵』。

Gaku

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第一部:日常の崩壊と世界の顕現

第8話:砕けた鏡、映るは翼

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その夢は、あまりに美しく、そして残酷なほどに冷たい光景から始まった。

目の前に広がるのは、どこまでも続く純白の庭園。空には太陽も月もなく、ただ空間そのものが内側から発光しているかのように、柔らかな光に満ちている。見たこともない花々が完璧な秩序をもって咲き誇り、その花弁からは宝石のような雫が滴り落ちていた。荘厳で、清らかな音楽が、どこからともなく、絶えず響き渡っている。
ここは、かつてマナが「故郷」と呼んでいた場所だった。
彼女は、その庭園の中心に一人、佇んでいた。
周囲には、数多の翼を持つ者たちが、彼女を取り囲むようにして立っている。その一人一人の顔を、マナは知っていた。共に笑い、共に歌い、共に世界の調和を祈った、かけがえのない同胞たち。
だが、彼らの瞳に宿る光は、マナが記憶している温かい慈しみのそれとは、まるで違っていた。
今は、ただ氷のように冷たい侮蔑の色だけが、そこにあった。
まるで、汚れたものを見るかのような、憐れみと軽蔑が入り混じった、無数の視線。それが、槍のようにマナの心を突き刺す。
誰かが、自分を断罪する言葉を告げている。
その言葉は、音楽に掻き消されて内容は聞き取れない。だが、その響きは、魂そのものを凍てつかせるほどに、冷たく、絶対的だった。
なぜ?
私が、何をしたというの?
声にならない問いが、胸の中で渦を巻く。
その時だった。
背後に、最も信頼していたはずの誰かの気配を感じた。振り返る間もなく、その誰かの手が、マナーの背中を、強く、強く押した。
不意の衝撃に、マナの身体は為す術もなく、純白の床から虚空へと投げ出される。
視界が反転し、猛烈な速度で落下していく感覚。
美しい庭園が、星々が、みるみるうちに小さく遠ざかっていく。耳を打つのは、風の轟音だけではない。魂が引き裂かれるような、甲高い悲鳴。
そして、マナは感じた。
背中にあったはずの、自分の体の一部だったはずの翼が、内側から弾けるように砕けていくのを。
パリン、と澄んだガラスが割れるような音が、轟音の中でやけに鮮明に響き渡る。一枚、また一枚と、光り輝いていたはずの翼が、砕けた鏡の破片となって剥がれ落ちていく。その光の粒子は、すぐに追いついてくる底なしの闇に、あっという間に吸い込まれて消えていった。
痛みよりも強烈な、喪失感。
自分の存在理由そのものが、根こそぎ引き剥がされていく絶望。
ああ、私は、もう、私ではなくなってしまうのだ。
その絶対的な恐怖に、マナは声にならない悲鳴を上げた。

「マナッ!」

切迫した声が、悪夢の底に沈んでいた意識を、乱暴に現実へと引き揚げた。
「はっ……! はぁ、っ、ひぅ……!」
マナは、自分の喘ぎ声で目を覚ました。
全身は汗でびっしょりと濡れ、シーツが肌に張り付いて気持ちが悪い。心臓は、胸の中で暴れ馬のように激しく脈打ち、呼吸がうまくできない。
そこは、見慣れた駄菓子屋の二階の四畳半だった。
隣の布団から身を起こした海斗が、心配そうに自分の顔を覗き込んでいる。窓の障子紙が、夜明け前の深い藍色に、ぼんやりと染まっていた。
悪夢ではない。現実だ。
そう認識した瞬間、マナは安堵とは程遠い、別の種類の恐怖に襲われた。あれは、ただの夢なのだろうか。それとも、自分が忘れてしまった「真実」の断片なのだろうか。
「……大丈夫か? すごく、うなされてたぞ」
海斗の声が、やけに遠く聞こえる。
マナは荒い息を整えながら、無意識に、ぎゅっと握りしめていた自分の右手を開いた。
その掌に、一枚の、小さな光の羽が横たわっていた。
それは、五センチほどの大きさで、夢の中で砕け散った翼の、最後の欠片のようだった。淡い、儚い光を放ち、まるで呼吸をするかのように、ゆっくりと明滅している。
そのあまりの美しさに、海斗も息を呑んだのが分かった。
だが、その奇跡のような光景は、長くは続かなかった。
光の羽は、まるで朝露が太陽の光を浴びて蒸発するように、ふわりと光の粒子となって霧散し始めた。きらきらと輝く粒子が、マナの指の間をすり抜けて、夜明け前の薄闇へと溶けていく。
数秒後。
彼女の掌には、もう何も残っていなかった。

「……私、何か、とても悪いことをしたの?」
マナは、空っぽになった自分の掌を呆然と見つめながら、か細い声で呟いた。
「それとも……されたの? わからない。何も、思い出せない。でも……」
彼女は、祈るように両手を胸の前で握りしめた。
「思い出すのが、怖い」
その声は、消え入りそうなほど震えていた。
得体のしれない、巨大な恐怖。失われた過去という名の暗闇が、すぐそこまで迫ってきて、自分という存在を飲み込もうとしている。パイモンの言葉が、脳裏で冷たく反響する。
『君はただの完全で、冷徹な概念に戻るだけだ』
今の、この温かい気持ちも、海斗への想いも、全てが消えてしまう。その恐怖が、マナの全身を支配していた。
海斗は、かけるべき言葉を、何も見つけられなかった。
「大丈夫だ」なんて、安易な慰めは言えなかった。何が大丈夫なのか、自分にも分からないからだ。
彼はただ、何も言わずに、震えるマナの肩を、壊れ物を扱うかのように優しく、しかし、力強く抱きしめた。
マナの冷え切った身体に、海斗の体温だけが、唯一の確かな現実として伝わっていた。



あの日以来、マナは少し変わってしまった。
彼女の笑顔から、どこか儚さが滲むようになった。駄菓子屋の店番を手伝っていても、ふとした瞬間に、何もない空間を呆然と見つめていることがある。海斗が何気なく言った冗談に、一瞬、怯えたような表情を見せることもあった。
パイモンの『君は概念に戻るだけだ』という言葉。
そして、あの悪夢の記憶。
二つの毒は、彼女の中でじわじわと広がり、彼女の心を蝕んでいた。
記憶を取り戻せば、今の自分は消えてしまうのではないか。
海斗へのこの温かい気持ちも、初めてアイスクリームを食べた時の感動も、全て忘れてしまうのではないか。
その恐怖が、マナの心に、目には見えない、分厚い壁を作り始めていた。
海斗は、そんな彼女の変化に気づきながらも、どうすることもできずにいた。迂闊に記憶のことに触れれば、彼女をさらに追い詰めてしまう気がした。ぎこちない空気が、二人の間に、薄い膜のように漂っていた。

そんなある日の夕暮れ。
海斗は、駄菓子屋の近くにある、古びた公園でマナを見つけた。彼女は一人、ブランコに座り、力なく足を揺らしている。キィ、キィ、と錆びた鎖が立てる音が、やけに寂しく響いていた。
海斗は、黙って隣のブランコに腰を下ろした。
しばらく、二人とも何も話さなかった。ただ、夕日が校庭の鉄棒をオレンジ色に染めていくのを、ぼんやりと眺めていた。先に沈黙を破ったのは、マナだった。
「ねえ、海斗」
彼女は、俯いたまま、ぽつりと呟いた。
「もし……もし、昔の私に戻ったら、今の私は、消えちゃうのかな?」
それは、彼女がずっと抱えていた恐怖の、核心だった。
海斗は、ブランコを揺らすのをやめた。そして、マナの横顔を、真っ直ぐに見つめて言った。
「……俺は、お前の過去なんて、何も知らない。お前が本当は天使なのか、神様なのか、それとも、とんでもない悪党だったのかも、全然分からない」
彼の声は、静かだった。だが、その一言一言に、迷いはなかった。
「でもな、マナ。そんなの、どうだっていいんだよ」
海斗は立ち上がり、マナの前にひざまずくと、冷たくなった彼女の両手を、自分の温かい手で包み込んだ。
「たとえお前が何者だったとしても、どんな記憶を思い出したとしても、俺が駄菓子屋の裏で出会った、ずぶ濡れで震えてたお前がいたって事実は消えない。初めてアイスクリームを食べて、子供みたいに笑ったマナがいた事実は、絶対に消えないんだ」
彼は、マナの瞳を覗き込み、はっきりと告げた。
「今のマナも、昔のマナも、これからのお前も、全部まとめて、お前なんだよ。だったら俺は、その全部まとめて、絶対に守る。だから……」
海斗は、言葉を区切った。
「一人で怖がるな」
その力強い言葉が、マナの心の壁に、深く、深く突き刺さった。
張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。
マナの瞳から、大粒の涙が、堰を切ったように溢れ出した。
それは、恐怖の涙ではなかった。
ずっと一人で抱え込んでいた恐怖と孤独を、ようやく受け止めてもらえた、安堵の涙だった。
海斗は何も言わず、泣きじゃくるマナを、ただ優しく抱きしめた。
彼の腕の中で、マナは子供のように声を上げて泣いた。
二人の間にあった、見えない壁が、その温かい涙によって、少しずつ溶けていく。
恋愛という、どこか浮ついた感情は、この瞬間、共に運命に立ち向かうための、より強固で、より切実な「絆」へと、その姿を変え始めていた。
二人の影は、夕日に長く伸び、地面の上で、そっと一つに重なっていた。
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