「彼女を拾うな」――謎の忠告を無視した俺の日常は崩壊した。記憶喪失の少女は世界を滅ぼす女神の『鍵』。

Gaku

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第一部:日常の崩壊と世界の顕現

第9話:追跡者、ラジエルの書

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悪夢の夜が明けてから、数日が過ぎた。
相川海斗とマナ、そして奇妙な同居人たちの間には、まだ少しぎこちないながらも、確かな平穏が戻りつつあった。マナの心に深く突き刺さっていた恐怖の棘は、海斗の「全部まとめて守る」という不器用だが力強い約束によって、少しずつ溶け始めていた。
彼女はまだ時折、遠くを見つめて物憂げな表情を見せることはあったが、駄菓子屋の店先で子供たちと笑い合う時間は、確実に増えていた。
その日も、昼下がりの気怠い空気の中、そんな穏やかな時間が流れていた。
海斗は店の奥で大学のレポートに追われ、マナは店番の珠(老婆の姿)の隣で、楽しそうに商品の飴玉を並べている。店の軒先では、パイモンがこれみよがしに高価そうな万年筆で手帳に何かを書きつけていた。
全てがいつも通りだった。
だからこそ、その異変に最初に気づいたのは、この土地の理(ことわり)に最も敏感な、猫又の珠だった。

縁側で茶をすすっていた彼女の動きが、ぴたり、と止まった。
老婆の顔に深く刻まれた皺が、ぴくりと痙攣する。彼女は茶碗を置くと、猫のように細められた瞳で、店の前の通りを睨みつけた。
「……珠さん?」
異変に気づいたマナが、心配そうに声をかける。
「静かにしな」
珠の声には、普段の軽口とは全く違う、鋭い緊張が張り詰めていた。
「……来たよ。また、面倒くさいのが一匹」
その言葉に、海斗もパイモンも動きを止める。店の中に、シン、と静寂が落ちた。
「天使、なのか……?」
海斗が息を殺して尋ねる。
「ああ。だが、この前の脳筋野郎とは、気配の種類が全く違う」
珠は、まるで遠くの音を探るかのように、神経を研ぎ澄ませていた。
「この前の能天使の気配は、燃え盛る炎だった。触れるもの全てを焼き尽くす、熱くて攻撃的な気配だ。だが、今度の奴は違う。熱さも、冷たさもない。まるで……そこに、何もないみたいだよ。完全な真空が、人の形をして立っているような、そんな気味の悪い気配さ」

海斗とマナが恐る恐る店の表に出ると、その存在は、そこにいた。
蝉時雨が降り注ぐ、夏の日の午後。アスファルトの陽炎が揺らめく、何の変哲もない通りの、向かい側。
電柱の影に、一人の男が静かに佇んでいた。
その姿は、先日遭遇した能天使とは、あらゆる意味で対照的だった。
豪華絢爛な金の装飾も、神々しい翼もない。彼が身に纏っているのは、質素だが、仕立ての良い、学者のような深い藍色のローブだけだった。磨き上げられた革靴は、塵一つ付いていない。少し癖のある黒髪が、柔らかな風に揺れている。その顔立ちは整っていたが、能天使のような人間離れした美しさではなく、どこか大学の助教授のような、理知的で、近寄りがたい雰囲気を漂わせていた。
そして、何より異様だったのは、彼がその手に抱えている、一冊の分厚い書物だった。
黒い革で装丁されたその本には、無数の幾何学模様が、まるで生きているかのように複雑に、そして緻密に刻み込まれている。その模様は、見つめていると目が眩むほどにゆっくりと形を変え、本のページは、風もないのに、パラパラとひとりでに捲れていた。
男――天使は、騒がしい街の喧騒の中で、一人だけ音のない真空の中にいるかのように、ただ静かに、駄菓子屋の前に立つ海斗とマナを見つめていた。



天使は、まるで最初からそこにいることが決まっていたかのように、ごく自然な足取りで、道を渡ってきた。その動きには、一切の躊躇も、無駄もなかった。
彼は、海斗たちの数メートル手前で立ち止まると、敵意を見せることなく、丁重に一礼した。その所作は、まるで王宮に仕える書記官のように、洗練されている。
「はじめまして。驚かせてしまったのなら、謝罪します」
その声は、穏やかで、知的だった。だが、珠の言った通り、そこには何の感情も乗っていない。完璧に調整された、美しい合成音声のようだった。
「私は、神の秘密を司る大天使ラジエル様 に仕える者。名をセフィラと申します。あなた方を害しに来たわけではありませんので、ご安心を」
彼はそう言うと、その視線を、海斗を通り越し、真っ直ぐにマナへと向けた。
そして、まるで長年探し求めていた貴重な文献を発見したかのように、恭しく、しかし有無を言わせぬ態度で、白い手袋に覆われた手を差し伸べた。
「失われた神宝『マナ』よ。我らと共に、天へお還りください」
神宝、と彼は言った。
その言葉に、海斗は胸の中に冷たいものが広がるのを感じた。
「あなたのその不安定な力は、地上に混沌をもたらす、極めて危険な因子です。我々の記録によれば、その力が完全に解放された場合、この惑星の生態系バランスは、修復不可能なレベルで崩壊するでしょう。ゆえに、我らの管理下で、安全に保護させていただきたい」
保護。
管理。
その言葉は、どこまでも丁寧で、論理的で、そして善意に満ちているように聞こえた。
だが、海斗には分かった。
セフィラの瞳には、マナという一人の少女の姿は、映っていない。
彼の青い瞳が捉えているのは、道端で見つけた、分類不能で危険なアーティファクト。観測し、分析し、記録し、そして厳重に保管されるべき「オブジェクト」でしかなかった。
その無機質な視線に気づいた瞬間、海斗の中で、何かが弾けた。
「……ふざけるな」
静かな怒りが、腹の底から湧き上がってくる。
海斗は、マナを庇うように一歩前に出ると、神の使いを、真っ直ぐに睨みつけた。
「保護だと? 聞こえのいい言葉でごまかすんじゃねえ! お前の言ってることは、結局、マナを檻にぶち込むってことと、どう違うんだ!」
「檻、ではありません。最適な環境下での、適切な管理です」
「同じことだろうが! マナがどうしたいか、お前、一言でも聞いたか!? 彼女には意志があるんだ! 彼女はモノじゃない!」
かつて、夜道で「べとべとさん」の足音にさえ怯えていた青年は、もうそこにはいなかった。愛する者の尊厳が踏みにじられるのを、彼は決して許せなかった。
神の使いであろうと、関係ない。
その海斗の必死の叫びを、セフィラは、まるで機械がノイズを処理するかのように、冷徹に分析した。
「……記録。対象『相川海斗』の、対象『マナ』に対する強い情緒的依存を確認。これは、神宝の安定運用における、予測不能なリスク要因と判断します」
セフィラは、海斗の言葉を無視した。
いや、そもそも彼の言葉を、意味のある対話として認識すらしていなかった。
彼はただ、プログラムされた目的を、最短距離で実行しようとしているだけだった。
「実力行使に移行します」



セフィラが淡々と告げると、彼が持つ書物が、パラパラとひとりでに高速で捲れ始めた。
「我が名はセフィラ。書記官ラジエルの名において、対象『マナ』の時空間座標を、現在位置に固定する」
彼がそう唱えると、開かれたページから、光で描かれた幾何学的な術式がいくつも浮かび上がり、マナに向かって鎖のように飛来する。
それは、能天使が使ったような、暴力的な破壊の光ではなかった。
対象の存在そのものを定義し、世界の法則に直接命令を下す、冷徹で、理知的な術。
だが、その光の鎖がマナに届くことはなかった。
店の奥から飛び出してきた黒い影――猫の姿に戻った珠が、音速に近い動きで術式を切り裂く。同時に、いつの間にか海斗の隣に立っていたパイモンが、優雅にステッキを振るう。彼の足元から現れた複雑な魔方陣が、セフィラの術式を相殺するように光を放った。
「やれやれ、図書館司書というのは、どこの世界でも融通が利かないらしい」
パイモンが、やれやれと肩をすくめる。
セフィラは、二人の妨害に遭っても、一切表情を変えなかった。ただ、事実を記録するように呟く。
「……抵抗勢力を確認。猫又、及び、序列九番目の王パイモン。目的達成の障害と認定。排除プロトコルに移行」
彼の周囲の空間が、ガラスのように軋み始める。重力が不規則に変化し、海斗は立っていることさえ困難になった。
セフィラは、間違いなく強かった。能天使とは違う種類の、法則を操る厄介な強さだ。
だが、彼は深追いをしなかった。
珠とパイモンの抵抗がある程度のレベルに達していることを確認すると、彼はあっさりと術を解き、静かに距離を取った。彼の目的は戦闘ではなく、あくまでマナの「確保」だったからだろう。
セフィラは、その感情のない瞳で一行をもう一度見渡すと、最後の警告を告げた。
「愚かな選択を。我々の保護を拒むというのなら、あなた方は世界の浄化に巻き込まれて消えることになるでしょう。力天使カマエル率いる過激派が、あなた方の存在に気づくのも、時間の問題です」
その言葉を残し、セフィラの姿は、まるでそこに最初から誰もいなかったかのように、光の中に溶けて消え去った。

後に残されたのは、不気味な静けさと、重苦しい空気だけだった。
沈黙を破ったのは、パイモンの、どこか面白そうな声だった。彼は腕を組み、まるで興味深い戯曲でも鑑賞したかのように、にやりと笑う。
「なるほど、天界も一枚岩ではないらしい。一枚岩どころか、見事に派閥が割れているようだね」
彼は、まるで推理を披露する探偵のように、指を一本立てた。
「マナを危険な『穢れ』と見なし、問答無用で消し去りたい脳筋天使の武闘派閥。そして、マナを危険な『力』と見なし、ガラスケースにでも入れて厳重に保管したい図書館司書の知識派閥」
パイモンは、心底楽しそうに言った。
「いやはや、実に興味深い。神様たちの面倒な派閥争いに、我々はどうやら、どっぷりと巻き込まれたようだ」
敵の内部事情が、ほんの少しだけ明らかになった。
それは、絶望的な状況の中に生まれた、ほんの僅かな隙間。
海斗は、まだ混乱する頭で、必死に考えていた。
派閥争いなら、そこには必ず、利用できる「隙」があるはずだ、と。
ただ怯えるだけだった少年は、もういない。守るべき者のために、彼は思考という武器を手に、神々の戦争に立ち向かう覚悟を、静かに固め始めていた。
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