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第二部:陰謀の影と覚醒の兆し
第17話:水族館と、二つの約束
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夜が明けた。
昨夜の嵐が嘘だったかのように、空は高く澄み渡り、秋の柔らかな日差しが珠の駄菓子屋の古びた瓦屋根を照らしている。軒先では、蜘蛛が丹念に修復した巣に朝露が引っかかり、小さな虹色の宝石となってキラキラと輝いていた。
しかし、店の中に差し込むその穏やかな光は、部屋の隅々に溜まった澱んだ空気を、より一層際立たせるだけだった。
海斗は、二階の四畳半の部屋で、ぼんやりと自分の腕に巻かれた包帯を眺めていた。珠が塗ってくれた黒緑色の薬草は驚くほど効きが良く、昨夜あれほど深く裂けた傷は、もうほとんど痛みを感じなかった。だが、心の傷は違う。ズキズキと、鈍く、熱を持った痛みが、胸の奥で燻り続けていた。
一番、傷つけたくない人を、傷つけてしまった。
彼女のせいではないと、頭では分かっている。あれは暴走した力のせいだ。彼女の意志ではない。だが、あの瞬間の、海斗の血を見て絶望に染まったマナの顔が、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。結局、自分は彼女を守るどころか、彼女を絶望させる引き金になってしまったのだ。
「……っ」
無力感が、胃の腑に溜まった鉛のように重い。
部屋の隅にある押し入れの襖は、昨夜から固く閉ざされたままだ。
昨夜遅く、ずぶ濡れで泥だらけになったマナを、珠とパイモンが近くの川原で見つけ出し、半ば力ずくで連れ戻してきた。それ以来、彼女はその暗闇の中から一歩も出てこようとしなかった。
押し入れの向こう側で、マナは膝を抱えていた。暗闇は、今の彼女にとって唯一、安心できる場所だった。光も、音も、匂いも、何もかもが刺激となって、自分の内に眠る怪物を呼び覚ましてしまうような気がした。
(私がいるから、ダメなんだ)
自分の存在そのものが、バグなのだ。世界の調和を乱す、穢れなのだ。あの夢の中の声が、耳の奥で何度も反響する。そして何より、海斗を傷つけてしまったという事実が、彼女の心を容赦なく切り刻んでいた。優しくしてくれた人。初めて「幸せ」という感情を教えてくれた人。その人を、自分のせいで。
暗闇の中で、マナは、自分の存在が消えてなくなってしまえばいいと、ただそれだけを願っていた。
階下では、珠がこれ見よがしに大きな音を立てて店の掃除をしていた。しかし、その動きはどこか空回りしている。時折、二階の様子を窺うように、その耳がピクリと動くのを海斗は知っていた。しばらくすると、珠は何も言わずに、冷たく冷えたラムネの瓶を一本、押し入れの襖の前にことりと置いた。ビー玉が、カランと一度だけ、寂しい音を立てた。
パイモンは、店の奥にある茶の間で、分厚い革装丁の古書を何冊も広げていた。その表情はいつになく真剣だ。彼は、マナの心をどうこうしようという非合理的な試みではなく、彼女の力を強制的に、かつ彼女自身を傷つけることなく封印するための、古代の魔術的術式を探しているらしかった。それもまた、彼なりの不器用な優しさなのだろう。
誰もが、どうすることもできない。
それぞれの優しさが、それぞれの場所で空転している。この駄菓子屋という小さな空間が、まるで巨大な泥沼にはまり込んでしまったかのように、びくともしない。時間だけが、窓の外を流れる雲のように、残酷なまでに穏やかに過ぎていった。
昼過ぎ、何も変わらない状況に、海斗の中で、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
彼は勢いよく立ち上がると、押し入れの前に仁王立ちになった。そして、何の躊躇もなく、その襖を勢いよく開け放った。
突然差し込んできた光に、暗闇に慣れたマナが、うっと呻いて目を細める。逆光の中に立つ海斗のシルエットが、まるで巨大な怪物のように見えた。
「やめて……」
マナは、咄嗟に後ずさり、押し入れの奥の壁に背中を押し付けた。
「私に、触らないで……! また、海斗を傷つけちゃう……!」
そのか細い拒絶の声を、海斗は無視した。彼は押し入れの中にずかずかと踏み込むと、驚いて小さく丸くなるマナの腕を、少し乱暴に掴んだ。
「うるさい! 行くぞ!」
「いやっ!」
マナは必死に抵抗する。だが、その力は今の海斗を引き留めるにはあまりに弱々しかった。彼はマナを半ば引きずるようにして、部屋から連れ出し、軋む階段を駆け下りていく。
階下で古書を読んでいたパイモンが、驚いて顔を上げた。店先でぼんやりと空を眺めていた珠も、振り返って目を見開く。
「おい、小僧! 何をする気だ!」
珠の咎めるような声に、海斗は振り返りもせず、ただ一言だけ叫んだ。
「このままじゃ、マナが本当にいなくなっちまう!」
その声は、悲痛な叫びにも似ていた。
彼は、マナのサンダルを無理やり履かせると、駄菓子屋の引き戸をガラリと開け、秋の日差しが降り注ぐ外の世界へと、彼女を連れ出した。
後に残された珠とパイモンは、顔を見合わせた。
「……やれやれ。随分と乱暴な治療法もあったものだね」
パイモンが呆れたように溜息をつく。
「……フン。案外、ああいうのが一番効くのかもしれないねぇ」
珠はそう言って、悪態をつくように鼻を鳴らすと、心配そうな顔を隠すかのように、店の奥へと姿を消した。
***
電車に揺られている間、二人は一言も口を利かなかった。
海斗は、窓の外をただぼんやりと眺めていた。マナは、俯いたまま、時折、海斗の腕の包帯に視線を落としては、びくりと肩を震わせた。気まずい沈黙が、車両の規則正しいリズムの中に溶けていく。
それでも、海斗はマナの腕を掴む手を、決して離さなかった。その手のひらから伝わる温かさだけが、二人の間を繋ぐ唯一の 生命線 だった。
一時間ほど電車を乗り継ぎ、彼らが降り立ったのは、週末の家族連れやカップルでごった返す、巨大な駅だった。海斗がマナを連れてきたのは、駅に併設された、この辺りで最も大きな水族館だった。
喧騒が苦手なのか、人の波に、マナの身体がこわばる。海斗はそんな彼女を守るように、人混みをかき分け、チケットを買うと、足早に館内へと進んだ。
入り口のゲートをくぐり抜けた、その瞬間。
世界が変わった。
外の喧騒と太陽の光が、まるで分厚い扉の向こうに閉ざされたかのように、嘘のように遠のく。代わりに、静かで、ひんやりとした、深い青色の光が二人を包み込んだ。聞こえるのは、水が循環する、くぐもった低いモーター音と、どこからか流れてくるヒーリング音楽だけ。
そこは、地上から切り離された、静謐な海の世界だった。
海斗は何も言わず、ゆっくりと歩き始めた。マナも、ただ黙って、彼に引かれるままについていく。
色とりどりの小さな熱帯魚が、サンゴの周りを戯れるように泳ぎ回る水槽。
岩陰の暗がりで、ぬらりと擬態し、じっと獲物を待つ巨大なタコの姿。
そして、時間の流れから取り残されたかのように、淡い光を放ちながら、優雅に、ただ優雅に水中を漂う、無数のクラゲたち。
マナは、最初は俯いたまま、床の模様ばかりを見ていた。だが、その幻想的な光景に、彼女の視線は少しずつ、少しずつ、水槽の中へと引き寄せられていった。彼女の瞳に、揺らめく青い光が反射して、小さな星のようにきらめく。海斗は、時折彼女の横顔を盗み見ながら、ただ黙って、彼女の心の氷が溶けていくのを待っていた。
やがて二人は、館内で最も大きな「太平洋大水槽」の前にたどり着いた。
目の前に広がるのは、壁一面を覆い尽くす、巨大なアクリルガラス。その向こう側には、本物の海が切り取られて、そのまま置かれていた。
何千、何万というイワシの群れが、まるで一個の巨大な生き物のように、銀色の鱗をきらめかせながら、形を変え、渦を巻く。ウミガメが、まるで空を飛ぶように、ゆったりと水を掻いていく。そして、その全てを睥睨するように、巨大なジンベエザメが、絶対的な王者の風格で、悠然と泳いでいた。
海斗は、暗い観客席のベンチに腰を下ろした。マナも、彼の隣に、少しだけ間をあけて、ちょこんと座る。
言葉は、なかった。
ただ、目の前の圧倒的な生命の躍動を、二人は黙って見つめていた。まるで、自分たちも深い海の底に沈み、巨大な青い沈黙の一部になったかのような錯覚に陥った。
どれくらいの時間が、経ったのだろうか。
五分か、あるいは三十分か。
マナが、ぽつりと、心の奥底に溜め込んでいた澱を吐き出すように、呟いた。
「私ね……怖いんだ」
その声は、水の音に掻き消されてしまいそうなほど、か細く震えていた。
「パイモンさんが言ってた……私が記憶を思い出したら、今の私は、消えちゃうんじゃないかって……海斗と出会って、初めて知ったこの温かい気持ちも、アイスクリームの甘さも、全部、全部……なくなっちゃうんじゃないかって……」
それは、パイモンの残酷な宣告と、天上の悪夢が彼女に植え付けた、根源的な恐怖だった。今の自分が、偽りの存在であるかもしれないという恐怖。幸せを知ってしまったからこそ生まれた、それを失うことへの恐怖。
「私は、本当は、ここにいちゃいけない存在なんじゃないかって……」
その、か細い声を聞き、海斗はゆっくりと立ち上がった。そして、マナの隣に座り直すと、彼女の震える肩を、そっと、しかし、有無を言わせぬ力強さで、ぐっと引き寄せた。
「バカだな、お前は」
彼の声は、少しぶっきらぼうだった。
「いいか、よく聞け。俺が好きなのは、今のマナだ。ドジで、世間知らずで、でも、誰よりも優しくて、アイスクリームを死ぬほどうまそうに食う、お前のことだ」
彼は、マナの身体を自分の方へと向き直らせると、その涙に濡れた瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
「たとえお前が昔、天界の偉い女神様だったとしても、とんでもない大悪党だったとしても、そんなの関係ねえよ。お前がお前である限り、俺は絶対にお前のそばにいる。もし、お前が全部忘れそうになったら、俺が何度でも思い出させてやる。アイスクリームの味も、公園のブランコの揺れ方も、俺の名前も、全部だ。だから……」
海斗は、言葉を一度だけ区切ると、まるで自分に言い聞かせるように、さらに強く彼女を抱きしめた。
「だから、一人で勝手にいなくなるなよ」
その、不器用で、飾り気のない、しかし、彼の魂の全てが込められた言葉が、マナの心の奥深くまで、確かな熱を持って届いた。
彼女の中で、何か固く凍りついていたものが、音を立てて砕け、溶けていく。
堰を切ったように、大粒の涙が、彼女の瞳から溢れ出した。それは、昨夜流した、恐怖や悲しみの涙ではなかった。冷たい絶望の底から、力強い腕で引き上げられたような、安心と、そしてどうしようもないほどの喜びの涙だった。
「……う、ん……うわああああん……」
マナは、海斗のシャツに顔をうずめ、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
彼女は、この胸を締め付ける、温かくて、少しだけ切ない感情の正体を、はっきりと自覚した。
これが「恋」なのだと。
そして、この想いを守りたい。この人の隣にいるために、自分は強くならなければならない。自分の過去からも、制御できない力からも、もう、決して逃げないと。
ひとしきり泣いた後、マナは涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
「……うん。約束」
彼女は、しゃくりあげながら、それでも精一杯の笑顔を作って言った。
「もう、どこにも行かない」
それは、彼女が初めて、自分の意志で未来を選び取った、覚悟の言葉だった。
大水槽の幻想的な青い光が、固い絆で結ばれた二人を、まるで祝福するかのように、優しく、静かに照らしていた。
昨夜の嵐が嘘だったかのように、空は高く澄み渡り、秋の柔らかな日差しが珠の駄菓子屋の古びた瓦屋根を照らしている。軒先では、蜘蛛が丹念に修復した巣に朝露が引っかかり、小さな虹色の宝石となってキラキラと輝いていた。
しかし、店の中に差し込むその穏やかな光は、部屋の隅々に溜まった澱んだ空気を、より一層際立たせるだけだった。
海斗は、二階の四畳半の部屋で、ぼんやりと自分の腕に巻かれた包帯を眺めていた。珠が塗ってくれた黒緑色の薬草は驚くほど効きが良く、昨夜あれほど深く裂けた傷は、もうほとんど痛みを感じなかった。だが、心の傷は違う。ズキズキと、鈍く、熱を持った痛みが、胸の奥で燻り続けていた。
一番、傷つけたくない人を、傷つけてしまった。
彼女のせいではないと、頭では分かっている。あれは暴走した力のせいだ。彼女の意志ではない。だが、あの瞬間の、海斗の血を見て絶望に染まったマナの顔が、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。結局、自分は彼女を守るどころか、彼女を絶望させる引き金になってしまったのだ。
「……っ」
無力感が、胃の腑に溜まった鉛のように重い。
部屋の隅にある押し入れの襖は、昨夜から固く閉ざされたままだ。
昨夜遅く、ずぶ濡れで泥だらけになったマナを、珠とパイモンが近くの川原で見つけ出し、半ば力ずくで連れ戻してきた。それ以来、彼女はその暗闇の中から一歩も出てこようとしなかった。
押し入れの向こう側で、マナは膝を抱えていた。暗闇は、今の彼女にとって唯一、安心できる場所だった。光も、音も、匂いも、何もかもが刺激となって、自分の内に眠る怪物を呼び覚ましてしまうような気がした。
(私がいるから、ダメなんだ)
自分の存在そのものが、バグなのだ。世界の調和を乱す、穢れなのだ。あの夢の中の声が、耳の奥で何度も反響する。そして何より、海斗を傷つけてしまったという事実が、彼女の心を容赦なく切り刻んでいた。優しくしてくれた人。初めて「幸せ」という感情を教えてくれた人。その人を、自分のせいで。
暗闇の中で、マナは、自分の存在が消えてなくなってしまえばいいと、ただそれだけを願っていた。
階下では、珠がこれ見よがしに大きな音を立てて店の掃除をしていた。しかし、その動きはどこか空回りしている。時折、二階の様子を窺うように、その耳がピクリと動くのを海斗は知っていた。しばらくすると、珠は何も言わずに、冷たく冷えたラムネの瓶を一本、押し入れの襖の前にことりと置いた。ビー玉が、カランと一度だけ、寂しい音を立てた。
パイモンは、店の奥にある茶の間で、分厚い革装丁の古書を何冊も広げていた。その表情はいつになく真剣だ。彼は、マナの心をどうこうしようという非合理的な試みではなく、彼女の力を強制的に、かつ彼女自身を傷つけることなく封印するための、古代の魔術的術式を探しているらしかった。それもまた、彼なりの不器用な優しさなのだろう。
誰もが、どうすることもできない。
それぞれの優しさが、それぞれの場所で空転している。この駄菓子屋という小さな空間が、まるで巨大な泥沼にはまり込んでしまったかのように、びくともしない。時間だけが、窓の外を流れる雲のように、残酷なまでに穏やかに過ぎていった。
昼過ぎ、何も変わらない状況に、海斗の中で、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
彼は勢いよく立ち上がると、押し入れの前に仁王立ちになった。そして、何の躊躇もなく、その襖を勢いよく開け放った。
突然差し込んできた光に、暗闇に慣れたマナが、うっと呻いて目を細める。逆光の中に立つ海斗のシルエットが、まるで巨大な怪物のように見えた。
「やめて……」
マナは、咄嗟に後ずさり、押し入れの奥の壁に背中を押し付けた。
「私に、触らないで……! また、海斗を傷つけちゃう……!」
そのか細い拒絶の声を、海斗は無視した。彼は押し入れの中にずかずかと踏み込むと、驚いて小さく丸くなるマナの腕を、少し乱暴に掴んだ。
「うるさい! 行くぞ!」
「いやっ!」
マナは必死に抵抗する。だが、その力は今の海斗を引き留めるにはあまりに弱々しかった。彼はマナを半ば引きずるようにして、部屋から連れ出し、軋む階段を駆け下りていく。
階下で古書を読んでいたパイモンが、驚いて顔を上げた。店先でぼんやりと空を眺めていた珠も、振り返って目を見開く。
「おい、小僧! 何をする気だ!」
珠の咎めるような声に、海斗は振り返りもせず、ただ一言だけ叫んだ。
「このままじゃ、マナが本当にいなくなっちまう!」
その声は、悲痛な叫びにも似ていた。
彼は、マナのサンダルを無理やり履かせると、駄菓子屋の引き戸をガラリと開け、秋の日差しが降り注ぐ外の世界へと、彼女を連れ出した。
後に残された珠とパイモンは、顔を見合わせた。
「……やれやれ。随分と乱暴な治療法もあったものだね」
パイモンが呆れたように溜息をつく。
「……フン。案外、ああいうのが一番効くのかもしれないねぇ」
珠はそう言って、悪態をつくように鼻を鳴らすと、心配そうな顔を隠すかのように、店の奥へと姿を消した。
***
電車に揺られている間、二人は一言も口を利かなかった。
海斗は、窓の外をただぼんやりと眺めていた。マナは、俯いたまま、時折、海斗の腕の包帯に視線を落としては、びくりと肩を震わせた。気まずい沈黙が、車両の規則正しいリズムの中に溶けていく。
それでも、海斗はマナの腕を掴む手を、決して離さなかった。その手のひらから伝わる温かさだけが、二人の間を繋ぐ唯一の 生命線 だった。
一時間ほど電車を乗り継ぎ、彼らが降り立ったのは、週末の家族連れやカップルでごった返す、巨大な駅だった。海斗がマナを連れてきたのは、駅に併設された、この辺りで最も大きな水族館だった。
喧騒が苦手なのか、人の波に、マナの身体がこわばる。海斗はそんな彼女を守るように、人混みをかき分け、チケットを買うと、足早に館内へと進んだ。
入り口のゲートをくぐり抜けた、その瞬間。
世界が変わった。
外の喧騒と太陽の光が、まるで分厚い扉の向こうに閉ざされたかのように、嘘のように遠のく。代わりに、静かで、ひんやりとした、深い青色の光が二人を包み込んだ。聞こえるのは、水が循環する、くぐもった低いモーター音と、どこからか流れてくるヒーリング音楽だけ。
そこは、地上から切り離された、静謐な海の世界だった。
海斗は何も言わず、ゆっくりと歩き始めた。マナも、ただ黙って、彼に引かれるままについていく。
色とりどりの小さな熱帯魚が、サンゴの周りを戯れるように泳ぎ回る水槽。
岩陰の暗がりで、ぬらりと擬態し、じっと獲物を待つ巨大なタコの姿。
そして、時間の流れから取り残されたかのように、淡い光を放ちながら、優雅に、ただ優雅に水中を漂う、無数のクラゲたち。
マナは、最初は俯いたまま、床の模様ばかりを見ていた。だが、その幻想的な光景に、彼女の視線は少しずつ、少しずつ、水槽の中へと引き寄せられていった。彼女の瞳に、揺らめく青い光が反射して、小さな星のようにきらめく。海斗は、時折彼女の横顔を盗み見ながら、ただ黙って、彼女の心の氷が溶けていくのを待っていた。
やがて二人は、館内で最も大きな「太平洋大水槽」の前にたどり着いた。
目の前に広がるのは、壁一面を覆い尽くす、巨大なアクリルガラス。その向こう側には、本物の海が切り取られて、そのまま置かれていた。
何千、何万というイワシの群れが、まるで一個の巨大な生き物のように、銀色の鱗をきらめかせながら、形を変え、渦を巻く。ウミガメが、まるで空を飛ぶように、ゆったりと水を掻いていく。そして、その全てを睥睨するように、巨大なジンベエザメが、絶対的な王者の風格で、悠然と泳いでいた。
海斗は、暗い観客席のベンチに腰を下ろした。マナも、彼の隣に、少しだけ間をあけて、ちょこんと座る。
言葉は、なかった。
ただ、目の前の圧倒的な生命の躍動を、二人は黙って見つめていた。まるで、自分たちも深い海の底に沈み、巨大な青い沈黙の一部になったかのような錯覚に陥った。
どれくらいの時間が、経ったのだろうか。
五分か、あるいは三十分か。
マナが、ぽつりと、心の奥底に溜め込んでいた澱を吐き出すように、呟いた。
「私ね……怖いんだ」
その声は、水の音に掻き消されてしまいそうなほど、か細く震えていた。
「パイモンさんが言ってた……私が記憶を思い出したら、今の私は、消えちゃうんじゃないかって……海斗と出会って、初めて知ったこの温かい気持ちも、アイスクリームの甘さも、全部、全部……なくなっちゃうんじゃないかって……」
それは、パイモンの残酷な宣告と、天上の悪夢が彼女に植え付けた、根源的な恐怖だった。今の自分が、偽りの存在であるかもしれないという恐怖。幸せを知ってしまったからこそ生まれた、それを失うことへの恐怖。
「私は、本当は、ここにいちゃいけない存在なんじゃないかって……」
その、か細い声を聞き、海斗はゆっくりと立ち上がった。そして、マナの隣に座り直すと、彼女の震える肩を、そっと、しかし、有無を言わせぬ力強さで、ぐっと引き寄せた。
「バカだな、お前は」
彼の声は、少しぶっきらぼうだった。
「いいか、よく聞け。俺が好きなのは、今のマナだ。ドジで、世間知らずで、でも、誰よりも優しくて、アイスクリームを死ぬほどうまそうに食う、お前のことだ」
彼は、マナの身体を自分の方へと向き直らせると、その涙に濡れた瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
「たとえお前が昔、天界の偉い女神様だったとしても、とんでもない大悪党だったとしても、そんなの関係ねえよ。お前がお前である限り、俺は絶対にお前のそばにいる。もし、お前が全部忘れそうになったら、俺が何度でも思い出させてやる。アイスクリームの味も、公園のブランコの揺れ方も、俺の名前も、全部だ。だから……」
海斗は、言葉を一度だけ区切ると、まるで自分に言い聞かせるように、さらに強く彼女を抱きしめた。
「だから、一人で勝手にいなくなるなよ」
その、不器用で、飾り気のない、しかし、彼の魂の全てが込められた言葉が、マナの心の奥深くまで、確かな熱を持って届いた。
彼女の中で、何か固く凍りついていたものが、音を立てて砕け、溶けていく。
堰を切ったように、大粒の涙が、彼女の瞳から溢れ出した。それは、昨夜流した、恐怖や悲しみの涙ではなかった。冷たい絶望の底から、力強い腕で引き上げられたような、安心と、そしてどうしようもないほどの喜びの涙だった。
「……う、ん……うわああああん……」
マナは、海斗のシャツに顔をうずめ、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
彼女は、この胸を締め付ける、温かくて、少しだけ切ない感情の正体を、はっきりと自覚した。
これが「恋」なのだと。
そして、この想いを守りたい。この人の隣にいるために、自分は強くならなければならない。自分の過去からも、制御できない力からも、もう、決して逃げないと。
ひとしきり泣いた後、マナは涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
「……うん。約束」
彼女は、しゃくりあげながら、それでも精一杯の笑顔を作って言った。
「もう、どこにも行かない」
それは、彼女が初めて、自分の意志で未来を選び取った、覚悟の言葉だった。
大水槽の幻想的な青い光が、固い絆で結ばれた二人を、まるで祝福するかのように、優しく、静かに照らしていた。
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