「彼女を拾うな」――謎の忠告を無視した俺の日常は崩壊した。記憶喪失の少女は世界を滅ぼす女神の『鍵』。

Gaku

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第二部:陰謀の影と覚醒の兆し

第16話:暴走する神気

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ザドキエルが天へと帰っていった後、戦場には気まずいほどの静寂が戻ってきた。

季節は、夏の暴力的なまでの生命力が鳴りを潜め、世界がふっと一息ついたかのような初秋。空はどこまでも高く、深く、吸い込まれそうなほどの藍色をしていた。西の地平線に沈みゆく太陽が、空に浮かぶ鱗雲を一枚一枚、燃えるようなオレンジ色に染め上げている。まるで、天上の職人が巨大な和紙の上に、丹念に紅を刷いたかのようだ。

道の両脇では、ススキの穂が涼やかな風を受け、そのたびに銀色の光をキラキラと乱反射させていた。風が草の海を渡っていく様が、目に見える。リーン、リーン、と鳴く鈴虫の声が、静寂に支配された世界でやけに大きく耳に響いた。

あまりに平穏で、あまりに美しい風景だった。だからこそ、ほんの数十分前までここで繰り広げられていた死闘が、まるで現実感のない、悪い夢だったかのように感じられた。

パイモンは、消耗した魔力を回復させるためか、あるいはただ単にこの国の湿った空気が気に入らないのか、珍しく一言も発さず、白銀の装飾が施されたステッキに気だるげに寄りかかっている。その完璧に仕立てられたスーツの裾が、土埃で汚れていることにさえ気づいていないようだった。

珠は、老婆の姿のまま、深く抉られた自らの腕の傷を忌々しげに眺めている。傷口からは、人間とは違う、少しばかり粘度の高い血が滲んでいた。彼女はそれを舌でぺろりと舐めると、吐き捨てるように「ちっ」と小さく舌打ちをした。

そしてマナは、自分のせいで死の恐怖に巻き込んでしまったキノコ狩りの親子に、何度も、何度も、壊れた人形のように頭を下げ続けていた。幸いなことに親子に怪我はなかったが、その魂はひどく怯え、幼い子どもは母親の腰にしがみついたまま、わなわなと震えている。

「ごめんなさい、ごめんなさい……私のせいで、怖い思いをさせてしまって……本当に、ごめんなさい」

マナが、その震える子どもの小さな手にそっと触れると、不思議なことに、子どもの震えがほんの少しだけ収まった。だが、彼女自身の震えは、止まるどころかますますひどくなっていく。

その全ての光景を、相川海斗は、胸を万力で締め付けられるような思いで見つめていた。

マナは何も悪くない。
彼女は、自分を犠牲にしてまで、あの親子を守ろうとしたのだ。
なのに、なぜ彼女が謝らなければならないのか。なぜ、あんなにも自分を責めなければならないのか。
何もできなかった自分の無力さが、腹立たしくて、情けなくて、奥歯を強く噛み締めることしかできなかった。

夕焼けが最後の輝きを放ち、世界の輪郭が優しい藍色に溶けていく。美しい風景が、ただただ、残酷に感じられた。

***

珠の駄菓子屋に帰ってきた一行を、鉛を流し込んだかのような重苦しい沈黙が支配していた。

カラン、コロン。
店の軒先に吊るされた古い風鈴が、気まずそうに一度だけ鳴った。

珠は、薬箱から古びた陶器の壺を取り出すと、その中に入っている黒緑色の練り薬を無言で自分の傷口に塗りたくり始めた。ツン、と鼻をつく薬草の匂いが、店の古い木の匂いに混じる。その手つきは乱暴だったが、自分の傷よりも、もっと別の何かに対して苛立っているのが見て取れた。

パイモンは、どこからともなく取り寄せた、この古びた駄菓子屋には到底不釣り合いな、豪奢なビロード張りのソファに深く沈み込み、目を閉じていた。彼は指一本動かさなかったが、その周囲の空間だけが、まるで彼が放つ不機嫌なオーラに耐えかねるように、僅かに歪んで見えた。

海斗は、二階の間借りしている四畳半の部屋で、ぼんやりと窓の外を眺めていた。窓枠が切り取った風景の中では、隣の家の屋根の上で野良猫が欠伸をし、遠くの線路を走る電車の音が、ゴトン、ゴトンと平和なリズムを刻んでいる。いつもと同じ、何の変哲もない日常。しかし、その日常と、今自分がいるこの部屋との間には、透明で分厚い壁があるように感じられた。

マナは、部屋の隅で体育座りをし、膝に顔をうずめていた。その小さな背中が、か細く、小刻みに震えているのが見えた。自分の力が制御できず、見ず知らずの人々を危険に晒してしまったという恐怖。そして、守るべき人間を、自分の存在そのものが傷つけかねなかったという罪悪感。その二つの巨大な感情が、彼女の心を固く、固く閉ざしていた。

「なあ、マナ」

海斗は、喉の奥に張り付いた言葉を、ようやく絞り出した。

「大丈夫か?……お前のせいじゃない。絶対に。お前は、あの二人を守ったんだ。すごいことだよ。誰もができることじゃない」

声をかける。だが、マナは顔を上げない。ただ、膝にうずめた顔から、くぐもった声が漏れるだけだった。

「でも、私がいたから……私が、あんな力を持っているから……」

彼女の苦しみの本質は、そこにあった。「思い通りにならないこと」こそが、この世のあらゆる苦しみの根源なのだと、いつかパイモンが語っていた。力を完全にコントロールしたい。誰も傷つけたくない。その強い願いが、思い通りにならない現実との間で、彼女の心をギリギリと締め上げている。

何を言えばいいのか、分からなかった。どんな言葉も、今の彼女の絶望の前では、空虚で、薄っぺらく響いてしまうような気がした。

階下からは、珠とパイモンのひそやかな声が聞こえてくる。

「……ほっとくしかねぇだろ。ああなっちまったら、何を言ったって無駄だ」
「やれやれ、だから君は短絡的だと言うんだ。放置はシステムの破綻を招くだけだ。何らかの外部からの介入による、強制的な精神の安定化が必要だろう」
「へっ、要するに気絶でもさせろってのかい。そんなことをしてみな。あのお嬢ちゃん、今度こそこの店ごと吹き飛ばしちまうよ」

いつもの軽口の応酬。だが、その声には、いつものような遊戯の色はなく、深刻な響きが混じっていた。仲間たちの声が、今はひどく遠くに聞こえる。海斗は、深い孤独感に包まれながら、ただ窓の外が暗くなっていくのを眺めていることしかできなかった。

***

その夜、マナは悪夢にうなされた。

目の前に広がるのは、光り輝く天上の評議会。柱は純粋な光で編まれ、床は大理石よりも滑らかに輝いている。しかし、その空気は氷のように冷たい。

円卓を囲む、かつての同胞たち。彼らの翼は虹色に輝き、その顔立ちは完璧なまでに美しい。だが、その瞳に、かつて宿っていたはずの温かい光はない。あるのは、理解不能な異物を見るかのような、冷徹な侮蔑の色だけだった。

誰かが、自分を断罪する言葉を告げる。荘厳な音楽のように響く声。だが、その内容は魂を凍らせるほどに冷たい。

『調和を乱す異分子め。お前の存在そのものが、世界のバグなのだ』

バグ。異分子。修正されるべき、穢れ。

その言葉が、彼女の魂に深く、深く突き刺さる。恐怖と、言葉にできないほどの深い悲しみ。そして、自分でも理解できない、マグマのような激しい怒りが、心の奥底から噴き上がってくるのを感じた。

なぜ。
私は、ただ、全てのものが在るべき場所で、そのままでいられる世界を願っただけなのに。不完全さこそが、美しさだと信じていただけなのに。

『――よって、その存在を封じ、下界へと追放する』

信頼していたはずの誰かが、すぐ後ろに立っている気配がする。その人物が、自分の背中を、強く、無慈悲に押した。

視界が、反転する。
猛烈な速度で、光の世界から闇へと堕ちていく。風が轟音となって耳を打ち、背中にあったはずの翼が、ガラス細工のように、パリン、パリンと音を立てて砕け散っていく、あの絶望的な感覚。

痛み。喪失感。裏切り。
そして、孤独。

「いやっ!」

マナが、現実の世界で悲鳴を上げて飛び起きた。全身はびっしょりと汗で濡れ、心臓が警鐘のように激しく脈打っている。荒い息を繰り返す彼女の耳に、奇妙な音が聞こえてきた。

カタ、カタカタカタ……。

部屋の隅に置かれた、海斗が大学の講義で使っている安物のちゃぶ台。その上に置かれた湯呑が、小刻みに揺れ、音を立てている。

地震じゃない。

部屋の中の空気が、まるで高圧電流が流れているかのように、ビリビリと震えている。壁に貼ってあった、人気のロックバンドのポスターが、端からゆっくりと剥がれ落ちた。古びた蛍光灯が、バチ、バチ、と不吉な音を立てて、激しく明滅を繰り返している。

ポルターガイスト。
彼女の心の嵐が、現実の世界に漏れ出し、物理法則を歪ませ始めていた。

「やめて……やめてっ!」

マナは、自分の感情を必死に抑え込もうとする。しかし、それは逆効果だった。感情という奔流を無理やり堰き止めようとすればするほど、ダムに亀裂が入り、凄まじい圧力で水が噴き出すように、彼女の内に眠る膨大な神聖なエネルギーが、制御を失って溢れ出していく。

本棚から、本が雪崩のように一斉に滑り落ちた。畳が、まるで生き物のように、ささくれ立ち、盛り上がっていく。

そしてついに、窓ガラスが、耐えきれないと悲鳴を上げるかのように、甲高い金属音を立てて、粉々に砕け散った。

***

「――マナ!」

階下で寝ていた海斗が、ただならぬ気配に気づき、階段を駆け上がってくる。ほとんど同時に、珠とパイモンも階下から飛び出してきた。

襖が、勢いよく開け放たれる。
三人が見たのは、この世のものとは思えない光景だった。

部屋の中心で、頭を抱えて泣き叫ぶマナ。そして、彼女を中心に、眩いばかりの黄金色の光が、まるで台風のように激しく渦巻いていた。その圧倒的なエネルギーの奔流が、部屋の中のありとあらゆるものを巻き込み、破壊していく。

「マナ! しっかりしろ! 俺だ、海斗だ!」

海斗は、目の前の異常な光景への恐怖を、愛する人を想う気持ちで無理やり押し殺した。彼は、マナを正気に戻そうと、光の渦へ向かって、決死の覚悟で一歩踏み出した。

「馬鹿! 近づくんじゃない!」

背後から、珠の鋭い制止の声が飛ぶ。パイモンが無言で海斗の腕を掴もうとする。

だが、遅かった。

海斗が光の渦の領域に足を踏み入れた、その瞬間。

マナから放たれた無意識の力の奔流が、見えない衝撃波となって海斗に襲いかかった。それは、彼女の意志ではない。ただ、異物の侵入を拒絶する、純粋なエネルギーの拒絶反応だった。

「ぐあっ!」

海斗の身体は、まるで紙屑のように軽々と宙を舞った。一瞬、息が止まり、視界が真っ白に染まる。スローモーションのように、自分の身体が部屋の壁に向かって飛んでいくのが見えた。

ドン、という鈍い衝撃音。

背中に走る激痛。壁に、蜘蛛の巣のような深いひびが入る。叩きつけられた衝撃で、彼の腕が不自然な角度に曲がり、生々しい切り傷から、鮮血が流れ落ちた。

「……っ、かはっ……」

壁に叩きつけられたまま、ずり落ちていく。肺から空気が全て搾り出され、声も出ない。ただ、焼け付くような痛みだけが、彼の意識を支配していた。

その光景に、マナは、はっと我に返った。
彼女の絶叫が止まり、渦巻いていた光の嵐が、嘘のように、すっと消え去る。

静寂が、戻ってきた。

目の前には、破壊し尽くされた部屋。
そして、壁にもたれて、苦痛に顔を歪める海斗の姿。
その腕から流れ、壁を伝う、一筋の、赤い、血。

自分が、やった。
この世で一番、傷つけたくなかったはずの人を。
この手で、傷つけてしまった。

その、あまりにも絶望的な事実が、かろうじて繋ぎ止められていた彼女の心の最後の糸を、ぷつりと断ち切った。

「ああ……いや……」

喉から、ひび割れた声が漏れる。

「あああああああああああああああああああっ!」

それは、悲しみでも、怒りでも、恐怖でもなかった。
自分の存在そのものを、心の底から呪うかのような、魂からの、悲痛な絶叫だった。

マナは、まるで獣のように、砕け散った窓枠へと駆け寄ると、躊躇なく、階下の闇の中へとその身を投げ出した。

後に残されたのは、呆然と立ち尽くす珠とパイモン。
壁のひび。割れたガラスの破片。
そして、壁をゆっくりと伝い、畳の上にぽたりと落ちる、一筋の赤い血だけだった。

秋の夜風が、割れた窓から静かに吹き込み、むせ返るような血の匂いを、そっと攫っていく。
何事もなかったかのように、遠くで虫の声だけが、リーン、リーンと、変わらずに響き渡っていた。
しかし、彼らの日常が、もう二度と元には戻れない決定的な傷を負ったことを、その残酷なまでの静寂が、何よりも雄弁に物語っていた。
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