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第二部:陰謀の影と覚醒の兆し
第15話:天使の迷い、ザドキエルの慈悲
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ぬらりひょんの屋敷を後にしてから、数日が過ぎた。
僕たちは、あの異界の料亭での出来事を夢だったかのように感じながら、次の行動を模索するため、再び人里へと続く道を歩いていた。季節は、夏の終わりを告げる涼やかな風が吹き始める初秋。空はどこまでも高く澄み渡り、道の両脇に広がる田んぼでは、黄金色の稲穂が重たげに頭を垂れている。風が吹くたびに、ざあっと音を立てて黄金の波がうねり、乾いた稲の匂いが鼻先をくすぐった。道端に群生するススキの穂が、傾き始めた夕陽に照らされて、銀色に、金色に、きらきらと輝いている。
それは、あまりに穏やかで、美しく、そして懐かしい日本の原風景だった。
この数週間で経験した、常識がひっくり返るような出来事の数々が、まるで嘘だったかのように思えてくる。僕は、ただの大学生で、隣を歩くマナは、記憶を失った普通の女の子。僕の肩に乗っている猫はただの年老いた三毛猫で、少し先を、退屈そうにステッキで地面をつついている紳士は、ただの外国かぶれのコスプレおじさん。そんな、ありえない空想に、一瞬だけ浸りたくなるほどの、完璧な平穏だった。
その平穏は、何の前触れもなく、唐突に引き裂かれた。
ふと、世界の音という音が、全て消えたのだ。
風が稲穂を揺らす音も、遠くで鳴いていた虫の声も、砂利道を踏みしめる僕たちの足音さえも。まるで、分厚いガラスの箱の中に閉じ込められたかのように、絶対的な無音が、世界を支配した。
そして、空気が、まるで真冬の早朝のように、ぴんと張り詰め、肌を刺すように凍りつく。
「上だ!」
僕が空を見上げて叫ぶのと、パイモンがステッキを構え、珠が僕とマナの前に躍り出て老婆の姿に戻るのは、ほぼ同時だった。
夕焼けで茜色に染まった空を背に、五つの影が、ゆっくりと、しかし抗いがたい重力のように、僕たちに向かって舞い降りてくるところだった。
その姿は、神々しく、そして異質だった。これまでの能天使 のような、荒々しく燃えるような気配ではない。純白の翼を持つ五体の天使は、一体一体が、寸分の狂いもなく統率の取れた動きを見せる、冷徹なエリート部隊だった。感情の欠片も映さない、彫刻のように美しい顔が、秋の澄んだ空気の中で、無機質な輝きを放っている。彼らは、芸術品のように美しく、そして兵器のように冷たかった。
「問答は無用。神の御名において、穢れの源とその協力者たちを、速やかに排除します」
リーダー格と思しき、ひときわ壮麗な鎧を纏った天使が、まるでプログラムを読み上げるかのように、抑揚のない声で告げた。その言葉が合図だった。五体の天使は、完璧な五角形の陣形を保ったまま、一斉に攻撃を開始した。
空中に無数の光の矢が生成され、雨のように降り注ぐ。聖なる力で編まれた刃が、不可視の軌道を描いて僕たちの首を狙う。そして、僕たちの退路を断つように、巨大な光の防御障壁が、四方を囲むように展開された。その動きには一切の無駄がなく、役割分担と連携は完璧だった。彼らは、個として戦っているのではない。一つの目的のために稼働する、一つの精密機械だった。
「ちっ、面倒な奴らだねぇ!」
珠が、老婆の姿のまま、その身を翻して影の中に溶け込む。次の瞬間、彼女は一体の天使の背後、死角となる位置に音もなく現れ、その鋭い爪で斬りかかった。しかし、その攻撃が届く寸前、別の天使が、まるで珠の動きを完全に予測していたかのように、寸分の狂いもなく防御障壁を展開し、それを阻む。甲高い金属音と共に、火花が散った。
「やれやれ、これだから集団行動しかできない連中は好かないね!」
パイモンがステッキを天に掲げると、地面から地獄の炎が、まるで巨大な蛇のように渦を巻きながら立ち昇り、天使の一人を飲み込もうと襲いかかる。だが、それもまた、完璧なタイミングで放たれた聖なる浄化の光によって、轟音と共に相殺されてしまう。
戦況は、明らかに不利だった。彼らの連携はあまりに完璧で、僕たちが一つの綻びを作ろうとしても、別の場所が即座にそれを補ってしまう。個々の力では、珠やパイモンの方が上かもしれない。だが、組織としての戦闘能力では、相手が圧倒的に上回っていた。
その時だった。後方で、マナと共に防御障壁の中にいた僕の声が、戦場に響いた。
「パイモン、3秒後、右翼の天使の足元に幻術を! 詠唱に集中している! 詠唱が途切れるはずだ! 珠さん、その隙に中央のリーダーを叩いてください! 珠さんが動けば、左翼の天使が必ずカバーに入ります! その一瞬だけ、リーダーは孤立する! マナは俺の前に!」
それは、僕の口から咄嗟に飛び出した言葉だった。パイモンの書斎で、血反吐を吐く思いで頭に叩き込んだ、膨大な知識。天使の詠唱パターン、彼らが好む陣形の癖、そして、珠とパイモンの能力の特性。それらの情報が、僕の頭の中で、まるで高速で回転する計算機のように、瞬時に組み合わさり、一つの最適解を導き出したのだ。
パイモンと珠は、一瞬、驚いたように僕の顔を見た。この僕が、戦闘の指揮を執るなど、今まで一度もなかったことだ。だが、その躊躇はコンマ数秒にも満たなかった。
「面白い!」
パイモンが不敵に笑い、僕の指示通り、幻術の詠唱を開始する。
「小僧の言う通りにしてやるよ!」
珠もまた、影の中で身を低くし、リーダー格の天使へと跳躍するタイミングを伺う。
果たして、僕の予測は完璧に的中した。
パイモンの幻術が足元で炸裂した右翼の天使は、一瞬だけ、詠唱への集中を乱された。それによって、完璧だった五体の連携が、ほんの僅かに、しかし致命的に乱れたのだ。
「今だ!」
その隙を、珠の音速の斬撃が、リーダー格の天使の懐深くまで、一直線に突き刺さった。
「ぐっ……!」
初めて、天使から苦悶の声が漏れた。
僕の、司令塔としての役割が、初めて実戦で完璧に機能した瞬間だった。
*
しかし、戦いはそれで終わりではなかった。
リーダー格の天使は深手を負いながらも、その瞳に初めて、冷たい怒りの炎を宿らせた。
「……修正。穢れの因子だけでなく、人間という予測不能なバグも、最優先で排除する」
彼の号令一下、天使たちの攻撃は、それまでの機械的なものから、明確な殺意を帯びた、より破壊的なものへと変貌した。
戦いは激しさを増し、聖なる光と地獄の炎がぶつかり合う衝撃波が、周囲ののどかな田園風景を無残に破壊していく。稲穂はなぎ倒され、地面は抉れ、古びた地蔵の首が、ころりと地面に転がった。
その時、一行の誰も、その存在に気づいていなかった。
森の茂みの陰で、地元の親子が、夕飯の食料にするためのキノコ狩りをしていたのだ。戦いの轟音に驚き、腰を抜かした母親と、その腕の中で泣き叫ぶ幼い娘。彼らは、恐怖で立ち尽くすことしかできなかった。
天使の一人が、僕たちをまとめて殲滅しようと、両腕を天に掲げる。その手に、太陽のように眩い、巨大な光の槍が生成されていく。その絶大な力の奔流は、もはや制御などされていない。その攻撃範囲には、怯えて立ち尽くす、何の罪もない人間の親子が、完全に入っていた。
「危ない!」
僕が叫ぶ。パイモンも珠も、自身の敵と対峙していて、助けに入る余裕はない。もう、間に合わない。
そう思われた、瞬間。
マナが動いた。
彼女は、僕が張っていた防御障壁を自ら解くと、リーダー格の天使から放たれる牽制の光弾をその身に受けることも厭わず、一直線に、親子の前へと駆けつけた。そして、その小さな身体を盾にするように、両手を大きく広げて、二人の前に立ちはだかったのだ。
光の槍は、容赦なく、マナの背中に突き刺さった。
「ぐっ……!」
マナの口から、苦痛に満ちた声が漏れる。純白のワンピースが、背中から鮮血を滲ませ、見る見るうちに赤く染まっていく。それでも、マナは決してその場を動かなかった。彼女は、背後の親子を振り返ると、大丈夫、とでも言うように、痛みを堪えて、必死に微笑んでみせた。
その、信じられない光景に。
攻撃を放った天使の動きが、ぴたりと、止まった。
彼の、これまで感情の色など一度も浮かべたことのなかった、完璧なまでに美しい瞳に、初めて、明らかな「動揺」が、さざ波のように走った。
(なぜ? ……なぜだ? 最大の穢れの源が、我らが守るべき人間を、自らを犠牲にしてまで、庇う? 理解、できない。我々の行動は、神の御心。世界の調和を守るための、絶対的な正義のはずだ。なのに、なぜ、目の前の光景は、我々の正義よりも、遥かに、遥かに……『正しい』ものに見えるのだ?)
彼の信じてきた「正義」の定義が、目の前の、血に濡れた少女の小さな背中によって、根底から、ガラガラと音を立てて揺さぶられていた。
その千載一遇の隙を、僕が見逃すはずがなかった。
僕は、傷ついたマナを庇うように彼女の前に立つと、動揺して動きを止めた天使に向かって、魂の底から、ありったけの声を張り上げた。
「お前たちの言う『正義』は、一体、誰かを守るためのものじゃないのか! 守るべき民を平気で傷つけて、それが神の御心だって、本気で言えるのかよ!」
それは、ただの感情的な叫びではなかった。パイモンの書斎で学んだ、天使という存在の根幹をなす「信念」そのものに問いかける、最も鋭利な、言葉の刃だった。彼らの力の源泉は、揺るぎない、神への信仰心と、自らの正義への絶対的な確信。その土台が揺らげば、彼らの力もまた、鈍る。
僕の言葉は、楔となって、天使の心を貫いた。
彼の信念が揺らいだことで、完璧だった五体の連携は、完全に崩壊した。動きは精彩を欠き、攻撃は単調になり、防御には隙が生まれる。
「今だ!」
僕の号令一下、チームは一斉に反撃に転じる。珠の影が、迷える天使たちの間を縫うように駆け巡り、その爪が、鎧の隙間を的確に切り裂いていく。パイモンの魔術が、もはや連携を失った天使たちを、一人、また一人と無力化していく。そして、マナの癒やしの光さえもが、今は反撃の力となって、迷える天使たちの心を、その優しい光で縛り上げていく。
ついに、五体の天使は地に膝をつき、その純白の翼を力なく垂れ、戦闘能力を完全に失った。
*
「これで、終わりだ」
僕は、覚悟を決めて、リーダー格の天使にとどめを刺そうと、一歩踏み出した。彼らが生きている限り、また同じ悲劇が繰り返されるかもしれない。非情にならなければ。そう、自分に言い聞かせた、まさにその瞬間。
天から、これまでの戦いの緊張と殺伐とした空気を、全て洗い流すかのような、暖かく、それでいて抗いがたいほどに威厳に満ちた、荘厳な光が降り注いだ。
その光は、僕たちと、地に伏す天使たちの間に、まるで純白のカーテンのように、静かに割って入る。
光が収まると、そこには、七色の光輪を背に負い、深い慈悲を湛えた表情を浮かべた、壮麗な姿の上位天使が、静かに立っていた。その存在感は、カマエルのような、全てを断罪する峻烈なものとは全く違う。まるで、この世の全ての罪と悲しみを、その身に引き受けているかのような、どこまでも深く、そして温かいものだった。
彼こそが、中位三隊の長、主天使(ドミニオンズ)を束ねる、慈悲を司る大天使、ザドキエル だった。
ザドキエルは、地に伏す配下の天使たちを、痛ましげに一瞥すると、静かに、しかし有無を言わせぬ響きで告げた。
「退きなさい。あなたたちの役目は、終わりました」
そして、僕たちの方へ向き直ると、その深く、悲しみに満ちた瞳で言った。
「この者たちの行い、そして、力天使カマエルの掲げる正義。どちらが真に天の御心に適うのか、我ら天界にいる者たちも、今一度、見定める必要があるようです」
彼は、僕たちに一切の敵意を見せなかった。ただ、僕の腕の中で、傷つきながらも、地に伏した天使たちを心配そうに見つめているマナの姿を、痛ましげに見つめると、ぽつりと、まるで独り言のように呟いた。
「カマエルの正義は、あまりに性急で、そして……愛が、足りない」
その言葉を残し、ザドキエルは配下の天使たちを柔らかな光で包み込むと、静かに、天へと帰っていった。
後に残されたのは、呆然と立ち尽くす僕たちと、秋風に寂しげに揺れるススキの穂だけだった。
天界もまた、カマエルの思想一色ではない。
彼の過激なやり方に、疑問を抱き、心を痛めている勢力が、確かに存在する。
その事実は、絶望的に思えたこの戦いの中に、初めて差し込んだ、一条の、しかし確かな希望の光だった。敵の内部に、あるいは、味方となりうる存在がいるかもしれない。
それは、今後の戦局を、そしてこの世界の運命を大きく左右する、あまりにも重要な情報だった。僕たちの戦いは、新たな、そしてより複雑な局面を迎えようとしていた。
僕たちは、あの異界の料亭での出来事を夢だったかのように感じながら、次の行動を模索するため、再び人里へと続く道を歩いていた。季節は、夏の終わりを告げる涼やかな風が吹き始める初秋。空はどこまでも高く澄み渡り、道の両脇に広がる田んぼでは、黄金色の稲穂が重たげに頭を垂れている。風が吹くたびに、ざあっと音を立てて黄金の波がうねり、乾いた稲の匂いが鼻先をくすぐった。道端に群生するススキの穂が、傾き始めた夕陽に照らされて、銀色に、金色に、きらきらと輝いている。
それは、あまりに穏やかで、美しく、そして懐かしい日本の原風景だった。
この数週間で経験した、常識がひっくり返るような出来事の数々が、まるで嘘だったかのように思えてくる。僕は、ただの大学生で、隣を歩くマナは、記憶を失った普通の女の子。僕の肩に乗っている猫はただの年老いた三毛猫で、少し先を、退屈そうにステッキで地面をつついている紳士は、ただの外国かぶれのコスプレおじさん。そんな、ありえない空想に、一瞬だけ浸りたくなるほどの、完璧な平穏だった。
その平穏は、何の前触れもなく、唐突に引き裂かれた。
ふと、世界の音という音が、全て消えたのだ。
風が稲穂を揺らす音も、遠くで鳴いていた虫の声も、砂利道を踏みしめる僕たちの足音さえも。まるで、分厚いガラスの箱の中に閉じ込められたかのように、絶対的な無音が、世界を支配した。
そして、空気が、まるで真冬の早朝のように、ぴんと張り詰め、肌を刺すように凍りつく。
「上だ!」
僕が空を見上げて叫ぶのと、パイモンがステッキを構え、珠が僕とマナの前に躍り出て老婆の姿に戻るのは、ほぼ同時だった。
夕焼けで茜色に染まった空を背に、五つの影が、ゆっくりと、しかし抗いがたい重力のように、僕たちに向かって舞い降りてくるところだった。
その姿は、神々しく、そして異質だった。これまでの能天使 のような、荒々しく燃えるような気配ではない。純白の翼を持つ五体の天使は、一体一体が、寸分の狂いもなく統率の取れた動きを見せる、冷徹なエリート部隊だった。感情の欠片も映さない、彫刻のように美しい顔が、秋の澄んだ空気の中で、無機質な輝きを放っている。彼らは、芸術品のように美しく、そして兵器のように冷たかった。
「問答は無用。神の御名において、穢れの源とその協力者たちを、速やかに排除します」
リーダー格と思しき、ひときわ壮麗な鎧を纏った天使が、まるでプログラムを読み上げるかのように、抑揚のない声で告げた。その言葉が合図だった。五体の天使は、完璧な五角形の陣形を保ったまま、一斉に攻撃を開始した。
空中に無数の光の矢が生成され、雨のように降り注ぐ。聖なる力で編まれた刃が、不可視の軌道を描いて僕たちの首を狙う。そして、僕たちの退路を断つように、巨大な光の防御障壁が、四方を囲むように展開された。その動きには一切の無駄がなく、役割分担と連携は完璧だった。彼らは、個として戦っているのではない。一つの目的のために稼働する、一つの精密機械だった。
「ちっ、面倒な奴らだねぇ!」
珠が、老婆の姿のまま、その身を翻して影の中に溶け込む。次の瞬間、彼女は一体の天使の背後、死角となる位置に音もなく現れ、その鋭い爪で斬りかかった。しかし、その攻撃が届く寸前、別の天使が、まるで珠の動きを完全に予測していたかのように、寸分の狂いもなく防御障壁を展開し、それを阻む。甲高い金属音と共に、火花が散った。
「やれやれ、これだから集団行動しかできない連中は好かないね!」
パイモンがステッキを天に掲げると、地面から地獄の炎が、まるで巨大な蛇のように渦を巻きながら立ち昇り、天使の一人を飲み込もうと襲いかかる。だが、それもまた、完璧なタイミングで放たれた聖なる浄化の光によって、轟音と共に相殺されてしまう。
戦況は、明らかに不利だった。彼らの連携はあまりに完璧で、僕たちが一つの綻びを作ろうとしても、別の場所が即座にそれを補ってしまう。個々の力では、珠やパイモンの方が上かもしれない。だが、組織としての戦闘能力では、相手が圧倒的に上回っていた。
その時だった。後方で、マナと共に防御障壁の中にいた僕の声が、戦場に響いた。
「パイモン、3秒後、右翼の天使の足元に幻術を! 詠唱に集中している! 詠唱が途切れるはずだ! 珠さん、その隙に中央のリーダーを叩いてください! 珠さんが動けば、左翼の天使が必ずカバーに入ります! その一瞬だけ、リーダーは孤立する! マナは俺の前に!」
それは、僕の口から咄嗟に飛び出した言葉だった。パイモンの書斎で、血反吐を吐く思いで頭に叩き込んだ、膨大な知識。天使の詠唱パターン、彼らが好む陣形の癖、そして、珠とパイモンの能力の特性。それらの情報が、僕の頭の中で、まるで高速で回転する計算機のように、瞬時に組み合わさり、一つの最適解を導き出したのだ。
パイモンと珠は、一瞬、驚いたように僕の顔を見た。この僕が、戦闘の指揮を執るなど、今まで一度もなかったことだ。だが、その躊躇はコンマ数秒にも満たなかった。
「面白い!」
パイモンが不敵に笑い、僕の指示通り、幻術の詠唱を開始する。
「小僧の言う通りにしてやるよ!」
珠もまた、影の中で身を低くし、リーダー格の天使へと跳躍するタイミングを伺う。
果たして、僕の予測は完璧に的中した。
パイモンの幻術が足元で炸裂した右翼の天使は、一瞬だけ、詠唱への集中を乱された。それによって、完璧だった五体の連携が、ほんの僅かに、しかし致命的に乱れたのだ。
「今だ!」
その隙を、珠の音速の斬撃が、リーダー格の天使の懐深くまで、一直線に突き刺さった。
「ぐっ……!」
初めて、天使から苦悶の声が漏れた。
僕の、司令塔としての役割が、初めて実戦で完璧に機能した瞬間だった。
*
しかし、戦いはそれで終わりではなかった。
リーダー格の天使は深手を負いながらも、その瞳に初めて、冷たい怒りの炎を宿らせた。
「……修正。穢れの因子だけでなく、人間という予測不能なバグも、最優先で排除する」
彼の号令一下、天使たちの攻撃は、それまでの機械的なものから、明確な殺意を帯びた、より破壊的なものへと変貌した。
戦いは激しさを増し、聖なる光と地獄の炎がぶつかり合う衝撃波が、周囲ののどかな田園風景を無残に破壊していく。稲穂はなぎ倒され、地面は抉れ、古びた地蔵の首が、ころりと地面に転がった。
その時、一行の誰も、その存在に気づいていなかった。
森の茂みの陰で、地元の親子が、夕飯の食料にするためのキノコ狩りをしていたのだ。戦いの轟音に驚き、腰を抜かした母親と、その腕の中で泣き叫ぶ幼い娘。彼らは、恐怖で立ち尽くすことしかできなかった。
天使の一人が、僕たちをまとめて殲滅しようと、両腕を天に掲げる。その手に、太陽のように眩い、巨大な光の槍が生成されていく。その絶大な力の奔流は、もはや制御などされていない。その攻撃範囲には、怯えて立ち尽くす、何の罪もない人間の親子が、完全に入っていた。
「危ない!」
僕が叫ぶ。パイモンも珠も、自身の敵と対峙していて、助けに入る余裕はない。もう、間に合わない。
そう思われた、瞬間。
マナが動いた。
彼女は、僕が張っていた防御障壁を自ら解くと、リーダー格の天使から放たれる牽制の光弾をその身に受けることも厭わず、一直線に、親子の前へと駆けつけた。そして、その小さな身体を盾にするように、両手を大きく広げて、二人の前に立ちはだかったのだ。
光の槍は、容赦なく、マナの背中に突き刺さった。
「ぐっ……!」
マナの口から、苦痛に満ちた声が漏れる。純白のワンピースが、背中から鮮血を滲ませ、見る見るうちに赤く染まっていく。それでも、マナは決してその場を動かなかった。彼女は、背後の親子を振り返ると、大丈夫、とでも言うように、痛みを堪えて、必死に微笑んでみせた。
その、信じられない光景に。
攻撃を放った天使の動きが、ぴたりと、止まった。
彼の、これまで感情の色など一度も浮かべたことのなかった、完璧なまでに美しい瞳に、初めて、明らかな「動揺」が、さざ波のように走った。
(なぜ? ……なぜだ? 最大の穢れの源が、我らが守るべき人間を、自らを犠牲にしてまで、庇う? 理解、できない。我々の行動は、神の御心。世界の調和を守るための、絶対的な正義のはずだ。なのに、なぜ、目の前の光景は、我々の正義よりも、遥かに、遥かに……『正しい』ものに見えるのだ?)
彼の信じてきた「正義」の定義が、目の前の、血に濡れた少女の小さな背中によって、根底から、ガラガラと音を立てて揺さぶられていた。
その千載一遇の隙を、僕が見逃すはずがなかった。
僕は、傷ついたマナを庇うように彼女の前に立つと、動揺して動きを止めた天使に向かって、魂の底から、ありったけの声を張り上げた。
「お前たちの言う『正義』は、一体、誰かを守るためのものじゃないのか! 守るべき民を平気で傷つけて、それが神の御心だって、本気で言えるのかよ!」
それは、ただの感情的な叫びではなかった。パイモンの書斎で学んだ、天使という存在の根幹をなす「信念」そのものに問いかける、最も鋭利な、言葉の刃だった。彼らの力の源泉は、揺るぎない、神への信仰心と、自らの正義への絶対的な確信。その土台が揺らげば、彼らの力もまた、鈍る。
僕の言葉は、楔となって、天使の心を貫いた。
彼の信念が揺らいだことで、完璧だった五体の連携は、完全に崩壊した。動きは精彩を欠き、攻撃は単調になり、防御には隙が生まれる。
「今だ!」
僕の号令一下、チームは一斉に反撃に転じる。珠の影が、迷える天使たちの間を縫うように駆け巡り、その爪が、鎧の隙間を的確に切り裂いていく。パイモンの魔術が、もはや連携を失った天使たちを、一人、また一人と無力化していく。そして、マナの癒やしの光さえもが、今は反撃の力となって、迷える天使たちの心を、その優しい光で縛り上げていく。
ついに、五体の天使は地に膝をつき、その純白の翼を力なく垂れ、戦闘能力を完全に失った。
*
「これで、終わりだ」
僕は、覚悟を決めて、リーダー格の天使にとどめを刺そうと、一歩踏み出した。彼らが生きている限り、また同じ悲劇が繰り返されるかもしれない。非情にならなければ。そう、自分に言い聞かせた、まさにその瞬間。
天から、これまでの戦いの緊張と殺伐とした空気を、全て洗い流すかのような、暖かく、それでいて抗いがたいほどに威厳に満ちた、荘厳な光が降り注いだ。
その光は、僕たちと、地に伏す天使たちの間に、まるで純白のカーテンのように、静かに割って入る。
光が収まると、そこには、七色の光輪を背に負い、深い慈悲を湛えた表情を浮かべた、壮麗な姿の上位天使が、静かに立っていた。その存在感は、カマエルのような、全てを断罪する峻烈なものとは全く違う。まるで、この世の全ての罪と悲しみを、その身に引き受けているかのような、どこまでも深く、そして温かいものだった。
彼こそが、中位三隊の長、主天使(ドミニオンズ)を束ねる、慈悲を司る大天使、ザドキエル だった。
ザドキエルは、地に伏す配下の天使たちを、痛ましげに一瞥すると、静かに、しかし有無を言わせぬ響きで告げた。
「退きなさい。あなたたちの役目は、終わりました」
そして、僕たちの方へ向き直ると、その深く、悲しみに満ちた瞳で言った。
「この者たちの行い、そして、力天使カマエルの掲げる正義。どちらが真に天の御心に適うのか、我ら天界にいる者たちも、今一度、見定める必要があるようです」
彼は、僕たちに一切の敵意を見せなかった。ただ、僕の腕の中で、傷つきながらも、地に伏した天使たちを心配そうに見つめているマナの姿を、痛ましげに見つめると、ぽつりと、まるで独り言のように呟いた。
「カマエルの正義は、あまりに性急で、そして……愛が、足りない」
その言葉を残し、ザドキエルは配下の天使たちを柔らかな光で包み込むと、静かに、天へと帰っていった。
後に残されたのは、呆然と立ち尽くす僕たちと、秋風に寂しげに揺れるススキの穂だけだった。
天界もまた、カマエルの思想一色ではない。
彼の過激なやり方に、疑問を抱き、心を痛めている勢力が、確かに存在する。
その事実は、絶望的に思えたこの戦いの中に、初めて差し込んだ、一条の、しかし確かな希望の光だった。敵の内部に、あるいは、味方となりうる存在がいるかもしれない。
それは、今後の戦局を、そしてこの世界の運命を大きく左右する、あまりにも重要な情報だった。僕たちの戦いは、新たな、そしてより複雑な局面を迎えようとしていた。
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