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第三部:女神の覚醒と天魔妖怪の同盟
第21話:女神の告白
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アスモデウスの居城であった「ホテル・インフェルノ」の、あの魂を灼くようなけばけばしいネオンと、人間の欲望を煮詰めて凝固させたかのような甘ったるい香りが嘘のように消え失せ、海斗たちの鼻孔をくすぐったのは、初秋の夜が含んだ、少し湿った土の匂いだった。そして、どこからか風に乗って運ばれてくる、懐かしい金木犀の甘い香り。パイモンの転移魔術が終わった時、一行が立っていたのは、見慣れた珠の駄菓子屋の、少しばかり埃っぽい裏庭だった。
空には、都会では決して見ることのできない、吸い込まれそうなほどに大きく、そして静かな満月が浮かんでいる。その青白い光が、古びた物干し竿や、隅に積まれた植木鉢の影を、地面にくっきりと描き出していた。
「ケッ、やっと戻ってこれたかね。どうもあのギラギラした場所は、性に合わねぇ。目がチカチカして、どうにもならねぇよ」
老婆の姿に戻った珠が、やれやれといった様子で腰をトントンと叩きながら悪態をついた。その声には、アスモデウスとの精神戦で負った疲労の色が隠せない。パイモンもまた、タキシードについた僅かな埃を神経質な手つきで払いながら、心底うんざりした顔で溜息をついた。
「同感だね。美学のカケラもない、実に下品な空間だった。魂の純度が著しく低下した気分だよ。あの悪魔王は、欲望という概念をあまりに直接的に表現しすぎる。まるで、絵の具をチューブから出したままキャンバスに塗りたくる三流画家だ」
いつもの軽口。しかし、その声にも張りがない。アスモデウスの魔香が見せた幻覚は、彼らの魂の最も柔らかい部分を、容赦なく抉り出したのだ。祝勝ムードなど、どこにもなかった。誰もが口には出さないが、ギリギリの戦いであったことを、その消耗しきった気配が物語っていた。
そして何より、一行の中心には、奇妙で、重苦しい沈黙が渦巻いていた。
海斗は、隣に立つマナの横顔を、盗み見ることさえできずにいた。彼女は、手に入れたグリゴリの遺産――今は美しい青い宝石が嵌め込まれた、シンプルなチョーカーの形をしている――に、そっと指で触れている。その姿は、数時間前と何も変わらないはずなのに、海斗には全くの別人のように感じられた。
かつての、おっとりとして、どこか儚げで、守ってやらなければすぐに消えてしまいそうな危うい雰囲気は、今はもう影を潜めていた。月光を浴びて静かに佇むその姿には、凛とした、近寄りがたいほどの神々しさが宿っている。それは、決して冷たいオーラではない。むしろ、あまりに清らかで、完璧すぎる光。その光が強ければ強いほど、自分の存在が、まるで煤けた石ころのように、ちっぽけで、薄汚れているように感じられた。
ごく普通の大学生である自分が、彼女の隣に立つことさえ許されないのではないか。そんな圧倒的な存在感の差が、二人の間に見えない壁となって立ちはだかっているようだった。
「マナ」
呼びかけようとして、言葉に詰まる。今、彼女を今まで通りに、気安く名前で呼んでいいのだろうか。もしかしたら、記憶を取り戻した彼女は、もう自分のことなど覚えていないのでは。いや、覚えていたとしても、ただの人間である自分を、煩わしく思っているのではないか。次から次へと湧き上がる不安が、彼の喉を締め付けた。
そんな海斗の葛藤を見透かしたかのように、マナがふわりと微笑んだ。
「皆さん、お疲れでしょう。お茶を淹れますね」
その笑みは、以前と変わらず優しかった。しかし、その瞳の奥には、宇宙の深淵を一度覗き込んで帰ってきたかのような、底知れない静けさと、そして人間には到底計り知れないほどの叡智が宿っていた。その瞳に見つめられると、自分の心の奥底まで、その不安も、焦りも、そして彼女に対する淡い恋心さえも、すべて見透かされているような気がして、海斗は思わず視線を逸らしてしまった。
世界のバランスが、決定的に変わってしまった。そのことへの静かな戸惑いだけが、金木犀の香りと共に、一行の間に重く漂っていた。
その夜、海斗は眠れずにいた。珠に与えられた二階の四畳半の部屋で、万年床になりつつある布団に横になっても、アスモデウスとの戦いの興奮と、そしてそれ以上に、マナの変化に対する戸惑いが、脳を覚醒させていた。
窓の外では、秋の虫たちが、まるで競い合うように、リーン、リーン、と鳴いている。その澄んだ音色が、今はやけに自分の孤独を際立たせるように聞こえた。
(女神、か……)
パイモンの言葉が、頭の中で何度も反響する。記憶を失った女神。世界の運命を左右する『鍵』。そんなものが、自分の隣で、アイスクリームを頬張って無邪気に笑っていたなんて。あまりに現実離れしていて、まるで質の悪い夢でも見ているかのようだった。
いてもたってもいられなくなり、海斗は布団から抜け出すと、古い木枠の窓をそっと開けた。そして、子供の頃の秘密基地への冒険のように、慎重に窓枠を乗り越え、すぐ下の瓦屋根へと這い出した。瓦は夜露に濡れて、ひんやりと冷たい。その感触が、火照った頭を少しだけ冷やしてくれた。
屋根の最も高い場所に腰を下ろし、眼下に広がる小さな町の寝静まった夜景を眺める。ぽつり、ぽつりと灯る街灯のオレンジ色の光。遠くで、最後の電車が走り去る音が、カタコトと聞こえる。それが、自分の知っている日常の、最後の残滓のように思えた。
(俺は、どうすればいいんだ……)
風が、金木犀の香りを運んでくる。その甘い香りに混じって、ふわりと、シャンプーの優しい香りがした。
「海斗」
背後から、静かな声がした。振り返ると、いつの間にかマナが、同じように屋根の上に立っていた。彼女は、海斗から貰ったパジャマではなく、あの美しい青いドレス姿のままだった。月光を浴びた彼女の姿は、この世のものとは思えないほど幻想的で、海斗は再び、言葉を失った。
マナは、海斗の隣に音もなく座ると、彼と同じように、黙って眼下の夜景を眺めた。しばらく、虫の声と、遠くを走る車の音だけが、二人の間の沈黙を埋めていた。
その沈黙を破ったのは、マナだった。
「ごめんなさい。あなたを、混乱させてしまった」
「いや、そんなことは……」
思わず否定したが、それは嘘だった。マナは、そんな海斗の強がりを、穏やかに、しかしはっきりと否定した。
「ううん。分かってる。今の私が、あなたの知っている私とは、違うものに見えるんでしょう?」
その声は、断罪するような響きではなく、ただ、悲しい事実を受け入れるような、静かな響きを持っていた。マナは、ゆっくりと語り始めた。彼女が、あの宝石に触れたことで思い出した、断片的な記憶の物語を。
「私はね、たぶん、『女神』と呼ばれる存在だった。でも、それは誰かを支配したり、罰したりするような、偉い神様じゃないの」
彼女は、自分の胸のあたりにそっと手を当てた。
「光も、闇も。パイモンのような悪魔も、珠さんのような妖怪も。そして、あなたのような人間も。その全てが、それぞれの役割を持って、この世界に存在している。時には争い、時には助け合い、常に移り変わっていく。その、移ろいゆく関係性そのものが、とても尊くて、美しい。私は、その『調和』を守るために、生まれたんだと思う」
それは、仏教で言うところの「諸行無常」――すべては常に変化し続ける――という世界の真理を、ただ、そのまま肯定する思想だった。 決まった形はなく、常に変化し、相互作用し続けるからこそ、世界は生きている。海斗の心に、パイモンの言葉が蘇る。「この世界は機械じゃない。生き物だ」。マナが言っていることは、それと全く同じことだった。
「でも、天界では、その考え方を『危険だ』と思う人たちがいた」
マナの声に、初めて、深い悲しみの影が差した。
「彼らは、完璧な世界を望んでいた。傷も、歪みも、矛盾もない、完全に管理された、清らかな世界を。だから、感情や偶然、異種族の交わりといった、予測できない『ゆらぎ』を、世界の『バグ』だと考えたの」
彼女は、ぎゅっと拳を握りしめた。その指先が、微かに震えている。
「世界は、完璧な結晶である必要なんてないの。傷があったり、歪んでいたり、色が混じり合っていたりするからこそ、美しい。変化し続けるからこそ、生命は輝く。完全な静止は、死と同じだから。……私は、そう訴えた。でも、彼らはそれを理解してくれなかった」
彼女の思想は、カマエルの掲げる「浄化」という名の、固定化され、管理された完璧な世界とは、まさに対極の思想だったのだ。
「だから、私は追放された。世界の調和を乱す、危険な異分子として」
マナは、淡々とそう語った。その声は静かだったが、その奥には、魂が引き裂かれるほどの、計り知れない孤独と悲しみが滲んでいた。
海斗は、かけるべき言葉が、何も見つからなかった。話のスケールが、あまりに大きすぎる。自分がこれまで生きてきた、大学の講義と、コンビニのバイトと、六畳一間のアパートという日常とは、あまりにかけ離れている。目の前にいる、愛しいはずの少女が、今や、世界の法則そのものを語っている。
そのあまりに壮大な事実に、彼は喜びよりも先に、どうしようもない疎外感を覚えていた。自分は、彼女の隣にいるべき人間じゃない。彼女が戦っているのは、世界の運命。自分は、その戦いの足手まといになるだけの、ただの無力な人間だ。そんな思いが、鉛のように重く、彼の心を締め付けた。
部屋に戻っても、二人の間の空気は、屋根の上にいた時よりも、さらにぎこちないものになっていた。海斗は、マナの顔をまともに見ることができない。彼女が淹れてくれた温かいお茶を飲みながらも、その味はよく分からなかった。頭の中では、「女神様」「マナ様」という呼び名が、ぐるぐると回っていた。
「あの、さ……」
何か言わなければ。この沈黙を、破らなければ。そう思って口を開いたものの、続く言葉が出てこない。
「なあに?」
マナが、少しだけ期待を込めた瞳で、彼を見つめ返す。その瞳が、あまりに綺麗で、海斗はまた、視線を逸らしてしまった。
「いや、なんでもない。ちょっと、疲れただけだから」
そんな、意味のない、そして残酷な言葉しか出てこなかった。マナの瞳から、光がすっと消えていくのが、横顔でも分かった。彼女は、海斗が自分を遠い存在だと感じ、分厚い壁を作ってしまったことを、痛いほどに感じ取っていた。
女神としての記憶が戻っても、海斗への想いは、少しも変わらないのに。むしろ、アスモデウスの試練を乗り越え、彼との絆を再確認したことで、より強く、より鮮やかになっているというのに。その想いが、彼に届かないことが、何よりも悲しかった。
その夜、二人は別々の布団で、天井の木目を数えながら、一睡もできなかった。
愛している。それは、お互いに間違いない。しかし、ごく普通の人間と、世界の調和を司る女神。そのあまりに大きな身分の差が、二人の間に、初めて分厚く、透明な壁を作り出していた。それは、どんな物理的な障壁よりも、冷たく、そして厄介な壁だった。
彼らの恋は、世界の真実が明らかになったことで、最も甘く、そして最も切ない試練の時を迎えていた。物語は、二人の関係性が新たな局面に入ったことを示唆して、静かに幕を下ろす。
空には、都会では決して見ることのできない、吸い込まれそうなほどに大きく、そして静かな満月が浮かんでいる。その青白い光が、古びた物干し竿や、隅に積まれた植木鉢の影を、地面にくっきりと描き出していた。
「ケッ、やっと戻ってこれたかね。どうもあのギラギラした場所は、性に合わねぇ。目がチカチカして、どうにもならねぇよ」
老婆の姿に戻った珠が、やれやれといった様子で腰をトントンと叩きながら悪態をついた。その声には、アスモデウスとの精神戦で負った疲労の色が隠せない。パイモンもまた、タキシードについた僅かな埃を神経質な手つきで払いながら、心底うんざりした顔で溜息をついた。
「同感だね。美学のカケラもない、実に下品な空間だった。魂の純度が著しく低下した気分だよ。あの悪魔王は、欲望という概念をあまりに直接的に表現しすぎる。まるで、絵の具をチューブから出したままキャンバスに塗りたくる三流画家だ」
いつもの軽口。しかし、その声にも張りがない。アスモデウスの魔香が見せた幻覚は、彼らの魂の最も柔らかい部分を、容赦なく抉り出したのだ。祝勝ムードなど、どこにもなかった。誰もが口には出さないが、ギリギリの戦いであったことを、その消耗しきった気配が物語っていた。
そして何より、一行の中心には、奇妙で、重苦しい沈黙が渦巻いていた。
海斗は、隣に立つマナの横顔を、盗み見ることさえできずにいた。彼女は、手に入れたグリゴリの遺産――今は美しい青い宝石が嵌め込まれた、シンプルなチョーカーの形をしている――に、そっと指で触れている。その姿は、数時間前と何も変わらないはずなのに、海斗には全くの別人のように感じられた。
かつての、おっとりとして、どこか儚げで、守ってやらなければすぐに消えてしまいそうな危うい雰囲気は、今はもう影を潜めていた。月光を浴びて静かに佇むその姿には、凛とした、近寄りがたいほどの神々しさが宿っている。それは、決して冷たいオーラではない。むしろ、あまりに清らかで、完璧すぎる光。その光が強ければ強いほど、自分の存在が、まるで煤けた石ころのように、ちっぽけで、薄汚れているように感じられた。
ごく普通の大学生である自分が、彼女の隣に立つことさえ許されないのではないか。そんな圧倒的な存在感の差が、二人の間に見えない壁となって立ちはだかっているようだった。
「マナ」
呼びかけようとして、言葉に詰まる。今、彼女を今まで通りに、気安く名前で呼んでいいのだろうか。もしかしたら、記憶を取り戻した彼女は、もう自分のことなど覚えていないのでは。いや、覚えていたとしても、ただの人間である自分を、煩わしく思っているのではないか。次から次へと湧き上がる不安が、彼の喉を締め付けた。
そんな海斗の葛藤を見透かしたかのように、マナがふわりと微笑んだ。
「皆さん、お疲れでしょう。お茶を淹れますね」
その笑みは、以前と変わらず優しかった。しかし、その瞳の奥には、宇宙の深淵を一度覗き込んで帰ってきたかのような、底知れない静けさと、そして人間には到底計り知れないほどの叡智が宿っていた。その瞳に見つめられると、自分の心の奥底まで、その不安も、焦りも、そして彼女に対する淡い恋心さえも、すべて見透かされているような気がして、海斗は思わず視線を逸らしてしまった。
世界のバランスが、決定的に変わってしまった。そのことへの静かな戸惑いだけが、金木犀の香りと共に、一行の間に重く漂っていた。
その夜、海斗は眠れずにいた。珠に与えられた二階の四畳半の部屋で、万年床になりつつある布団に横になっても、アスモデウスとの戦いの興奮と、そしてそれ以上に、マナの変化に対する戸惑いが、脳を覚醒させていた。
窓の外では、秋の虫たちが、まるで競い合うように、リーン、リーン、と鳴いている。その澄んだ音色が、今はやけに自分の孤独を際立たせるように聞こえた。
(女神、か……)
パイモンの言葉が、頭の中で何度も反響する。記憶を失った女神。世界の運命を左右する『鍵』。そんなものが、自分の隣で、アイスクリームを頬張って無邪気に笑っていたなんて。あまりに現実離れしていて、まるで質の悪い夢でも見ているかのようだった。
いてもたってもいられなくなり、海斗は布団から抜け出すと、古い木枠の窓をそっと開けた。そして、子供の頃の秘密基地への冒険のように、慎重に窓枠を乗り越え、すぐ下の瓦屋根へと這い出した。瓦は夜露に濡れて、ひんやりと冷たい。その感触が、火照った頭を少しだけ冷やしてくれた。
屋根の最も高い場所に腰を下ろし、眼下に広がる小さな町の寝静まった夜景を眺める。ぽつり、ぽつりと灯る街灯のオレンジ色の光。遠くで、最後の電車が走り去る音が、カタコトと聞こえる。それが、自分の知っている日常の、最後の残滓のように思えた。
(俺は、どうすればいいんだ……)
風が、金木犀の香りを運んでくる。その甘い香りに混じって、ふわりと、シャンプーの優しい香りがした。
「海斗」
背後から、静かな声がした。振り返ると、いつの間にかマナが、同じように屋根の上に立っていた。彼女は、海斗から貰ったパジャマではなく、あの美しい青いドレス姿のままだった。月光を浴びた彼女の姿は、この世のものとは思えないほど幻想的で、海斗は再び、言葉を失った。
マナは、海斗の隣に音もなく座ると、彼と同じように、黙って眼下の夜景を眺めた。しばらく、虫の声と、遠くを走る車の音だけが、二人の間の沈黙を埋めていた。
その沈黙を破ったのは、マナだった。
「ごめんなさい。あなたを、混乱させてしまった」
「いや、そんなことは……」
思わず否定したが、それは嘘だった。マナは、そんな海斗の強がりを、穏やかに、しかしはっきりと否定した。
「ううん。分かってる。今の私が、あなたの知っている私とは、違うものに見えるんでしょう?」
その声は、断罪するような響きではなく、ただ、悲しい事実を受け入れるような、静かな響きを持っていた。マナは、ゆっくりと語り始めた。彼女が、あの宝石に触れたことで思い出した、断片的な記憶の物語を。
「私はね、たぶん、『女神』と呼ばれる存在だった。でも、それは誰かを支配したり、罰したりするような、偉い神様じゃないの」
彼女は、自分の胸のあたりにそっと手を当てた。
「光も、闇も。パイモンのような悪魔も、珠さんのような妖怪も。そして、あなたのような人間も。その全てが、それぞれの役割を持って、この世界に存在している。時には争い、時には助け合い、常に移り変わっていく。その、移ろいゆく関係性そのものが、とても尊くて、美しい。私は、その『調和』を守るために、生まれたんだと思う」
それは、仏教で言うところの「諸行無常」――すべては常に変化し続ける――という世界の真理を、ただ、そのまま肯定する思想だった。 決まった形はなく、常に変化し、相互作用し続けるからこそ、世界は生きている。海斗の心に、パイモンの言葉が蘇る。「この世界は機械じゃない。生き物だ」。マナが言っていることは、それと全く同じことだった。
「でも、天界では、その考え方を『危険だ』と思う人たちがいた」
マナの声に、初めて、深い悲しみの影が差した。
「彼らは、完璧な世界を望んでいた。傷も、歪みも、矛盾もない、完全に管理された、清らかな世界を。だから、感情や偶然、異種族の交わりといった、予測できない『ゆらぎ』を、世界の『バグ』だと考えたの」
彼女は、ぎゅっと拳を握りしめた。その指先が、微かに震えている。
「世界は、完璧な結晶である必要なんてないの。傷があったり、歪んでいたり、色が混じり合っていたりするからこそ、美しい。変化し続けるからこそ、生命は輝く。完全な静止は、死と同じだから。……私は、そう訴えた。でも、彼らはそれを理解してくれなかった」
彼女の思想は、カマエルの掲げる「浄化」という名の、固定化され、管理された完璧な世界とは、まさに対極の思想だったのだ。
「だから、私は追放された。世界の調和を乱す、危険な異分子として」
マナは、淡々とそう語った。その声は静かだったが、その奥には、魂が引き裂かれるほどの、計り知れない孤独と悲しみが滲んでいた。
海斗は、かけるべき言葉が、何も見つからなかった。話のスケールが、あまりに大きすぎる。自分がこれまで生きてきた、大学の講義と、コンビニのバイトと、六畳一間のアパートという日常とは、あまりにかけ離れている。目の前にいる、愛しいはずの少女が、今や、世界の法則そのものを語っている。
そのあまりに壮大な事実に、彼は喜びよりも先に、どうしようもない疎外感を覚えていた。自分は、彼女の隣にいるべき人間じゃない。彼女が戦っているのは、世界の運命。自分は、その戦いの足手まといになるだけの、ただの無力な人間だ。そんな思いが、鉛のように重く、彼の心を締め付けた。
部屋に戻っても、二人の間の空気は、屋根の上にいた時よりも、さらにぎこちないものになっていた。海斗は、マナの顔をまともに見ることができない。彼女が淹れてくれた温かいお茶を飲みながらも、その味はよく分からなかった。頭の中では、「女神様」「マナ様」という呼び名が、ぐるぐると回っていた。
「あの、さ……」
何か言わなければ。この沈黙を、破らなければ。そう思って口を開いたものの、続く言葉が出てこない。
「なあに?」
マナが、少しだけ期待を込めた瞳で、彼を見つめ返す。その瞳が、あまりに綺麗で、海斗はまた、視線を逸らしてしまった。
「いや、なんでもない。ちょっと、疲れただけだから」
そんな、意味のない、そして残酷な言葉しか出てこなかった。マナの瞳から、光がすっと消えていくのが、横顔でも分かった。彼女は、海斗が自分を遠い存在だと感じ、分厚い壁を作ってしまったことを、痛いほどに感じ取っていた。
女神としての記憶が戻っても、海斗への想いは、少しも変わらないのに。むしろ、アスモデウスの試練を乗り越え、彼との絆を再確認したことで、より強く、より鮮やかになっているというのに。その想いが、彼に届かないことが、何よりも悲しかった。
その夜、二人は別々の布団で、天井の木目を数えながら、一睡もできなかった。
愛している。それは、お互いに間違いない。しかし、ごく普通の人間と、世界の調和を司る女神。そのあまりに大きな身分の差が、二人の間に、初めて分厚く、透明な壁を作り出していた。それは、どんな物理的な障壁よりも、冷たく、そして厄介な壁だった。
彼らの恋は、世界の真実が明らかになったことで、最も甘く、そして最も切ない試練の時を迎えていた。物語は、二人の関係性が新たな局面に入ったことを示唆して、静かに幕を下ろす。
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