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第三部:女神の覚醒と天魔妖怪の同盟
第22話:力の代償と調和の片鱗
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重苦しい夜が明けた。
駄菓子屋の二階、海斗が間借りしている四畳半の部屋には、初秋の朝の、少しひんやりとして澄み切った空気が、昨夜のまま開け放たれた窓から静かに流れ込んでいる。チュンチュン、と雀の鳴き声がどこか遠くに聞こえた。あまりに平穏で、日常的な朝。だからこそ、昨夜の出来事が、まるで無かったことのように思えてしまう。
ちゃぶ台を挟んで向かい合ったまま、海斗とマナは黙り込んでいた。海斗は、珠が無理やり腕に巻いてくれた包帯がやけに気になり、意味もなくそれを撫でている。マナは、膝の上で自分の両手を固く握りしめ、俯いたまま動かない。彼女の長い睫毛が落とす影が、その白い頬に悲しみの色を刻んでいた。
階下からは、珠が朝食の準備をしているのか、味噌汁の香ばしい匂いが漂ってくる。トントン、と小気味よくまな板を叩く音。全てが、いつも通りの朝の音。しかし、この小さな四畳半だけが、分厚いガラスで隔てられたかのように、世界の日常から切り離されてしまっていた。
(何か、言わなきゃ)
海斗は焦っていた。昨夜、屋根の上でマナが語ってくれた壮大な物語。世界の調和を司る女神。天界からの追放。その事実を前に、自分が感じてしまった圧倒的な疎外感。そのせいで、彼女を深く傷つけてしまった。その気まずさが、まるで粘着質の接着剤のように、二人の間に張り付いて、言葉を奪っている。
「あのさ、マナ。昨日はごめん。俺、なんか変な態度とって」
絞り出した声は、自分でも情けないと思うほど、か細く、上擦っていた。
マナは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は少し赤く腫れている。彼女は力なく首を横に振った。
「ううん。海斗は、悪くない。私が、急に変なこと言ったから。混乱させて、ごめんね」
その、あまりに優しい謝罪が、海斗の胸をさらに締め付けた。違う。悪いのは、彼女の変化を受け止めきれなかった、自分の心の狭さだ。彼女は、計り知れない孤独と悲しみを抱えながら、それでも自分に真実を打ち明けてくれたというのに。
気まずい沈黙を破ったのは、階下からの珠の怒声だった。
「お前ら、いつまでそうやって湿っぽい顔してるんだい! さっさと降りてきな! 飯が冷めちまうだろうが!」
その怒声に、二人はびくりと肩を震わせ、弾かれたようにお互いの顔を見合わせた。そして、そのあまりに日常的な珠の剣幕に、思わず、ふっと二人同時に笑ってしまった。それは、ほんの僅かな、しかし確かな雪解けの兆しだった。
朝食の席は、やはりどこかぎこちなかった。珠が作った、少し焦げた焼き魚と、豆腐とワカメのシンプルな味噌汁。海斗は黙々と箸を動かし、マナも小さな口でご飯をゆっくりと咀嚼している。その様子を、パイモンが面白そうに観察していた。
「やれやれ。たった一夜で、随分と面白い関係性の変化が創発したものだね。まるで、安定した化学反応系に、予期せぬ触媒を投入したかのようだ。実に興味深い」
「うるさいねぇ、この西洋かぶれ。黙って食いな。あんたの分の魚はないよ」
「結構。僕は朝から、動物の死骸を食す趣味はないのでね」
いつもの軽口の応酬が、逆に場の気まずさを際立たせる。海斗は、味噌汁の味がほとんどしなかった。ただ、温かい液体が喉を通り過ぎていくのを感じるだけだった。
食事を終え、海斗が洗い物をしていると、先に食べ終えたマナが、縁側でぽつんと一人、庭を眺めているのが見えた。その背中は、あまりに小さく、頼りなく見えた。放っておけなかった。
海斗は洗い物を終えると、彼女の隣にそっと腰を下ろした。縁側の木の床は、朝の光を浴びて、ほんのりと温かい。庭の隅では、秋の七草の一つである桔梗が、紫色の凛とした花を咲かせている。リーン、リーン、と鳴く虫の声が、静かな昼前の空気に響いていた。
「あのさ」
海斗が声をかけると、マナの肩が小さく揺れた。彼女は、視線を庭の一点に固定したままだった。その視線の先にあるものを追って、海斗は息を呑んだ。
そこには、夏の間、毎朝見事な瑠璃色の花を咲かせていた朝顔の鉢植えがあった。しかし、季節の移ろいは残酷だ。かつて青々と茂っていた葉はすっかり枯れ落ち、蔓は茶色く縮こまって、まるで枯れた蛇のように鉢の支柱に絡みついている。それは、過ぎ去ってしまった輝かしい季節と、もう二度と戻らないかもしれない、二人の穏やかだった日常の、残酷な象徴のように見えた。
「もう、終わりなんだな。夏も、この花も」
海斗が、誰に言うでもなく呟いた。その言葉が、引き金になったのかもしれない。
マナが、悲しそうな、そして何かを慈しむような表情で、その枯れ果てた蔓に、そっと指を触れた。
その、瞬間だった。
まるで、世界から音が消えたかのような錯覚。
マナの指先から、蜂蜜を溶かしたような、淡く、温かい金色の光がほとばしった。光は、まるで意思を持った生き物のように、枯れた蔓を優しく包み込んでいく。
信じられない光景が、目の前で繰り広げられた。
光に触れた茶色の蔓は、まるで早送りの映像を見ているかのように、みるみるうちに生命力を取り戻していく。乾ききっていたはずの表面に瑞々しい潤いが戻り、その色が、枯れた茶色から、若々しい鮮やかな緑色へと、息を呑むような速度で変化していく。
そして、奇跡はそれだけでは終わらなかった。
蘇った蔓の節々から、小さな葉が芽吹き、あっという間に手のひらほどの大きさにまで成長し、茂り始める。その葉の間から、いくつもの固かったはずの蕾が、まるで喜びの声を上げるかのように膨らみ、その先端をゆっくりと綻ばせ始めた。
一枚、また一枚と、薄い花弁が、螺旋を描きながら開いていく。
そして、次の瞬間。
目の覚めるような、深く、吸い込まれそうなほどの美しい瑠璃色の花々が、まるで夜空に打ち上げられた花火のように、一斉に、その姿を現したのだ。
「え……」
海斗は、声も出せずに、ただその光景に立ち尽くしていた。季節を完全に無視した、あまりに幻想的な奇跡。それは、マナが持つ「調和」の権能が、乱れてしまった生命のリズムを、その生命が最も輝いていた、あるべき最も美しい姿へと、強制的に「調律」した結果だった。
「すごい……」
かすれた声が、やっと喉から漏れ出た。
「すごい!すごいよ、マナ! なんだよこれ、魔法か!? いや、魔法以上だ!」
海斗は、昨夜までのぎこちなさも、感じていた疎外感も、全て忘れて、子供のようにはしゃいだ。彼は、鉢植えの周りをぐるぐると回り、信じられないものを見るように、咲き誇る朝顔の花びらにそっと触れた。その感触は、幻ではない。確かな生命の瑞々しさを、その指先に伝えていた。
その、あまりに純粋で、屈託のない喜びの表情を見て、マナの顔にも、久しぶりに心からの笑みが浮かんだ。自分の力が、こんなにも美しく、そして愛しい人をこんなにも喜ばせることができる。その事実が、彼女の心を、温かい光で満たした。彼女は、自分の力に対する漠然とした恐怖を、ほんの一瞬だけ、忘れることができた。
だが、その喜びは、長くは続かなかった。
力を、無意識に使ってしまった直後。
マナの表情が、凍りついた。
彼女の脳裏に、あの天上のビジョンが、これまでで最も鮮明な映像となって、暴力的に流れ込んできたのだ。
――氷のように冷たい、円形の評議会。
――完璧なまでに美しい、しかし感情の欠片も映さない、かつての同胞たちの顔、顔、顔。
――その中の一人が、自分に向かって、抑揚のない、しかし魂を凍らせるほどの冷たい声で、断罪の言葉を告げる。
「調和を乱す異分子め。お前の存在そのものが、世界のバグなのだ」
――信頼していたはずの、誰よりも敬愛していたはずの誰かに、背中を強く押される、あの絶望的な感覚。
――そして、背中にあったはずの翼が、まるで繊細なガラス細工のように、甲高い音を立てて砕け散るビジョン。
――一枚、また一枚と、激しい痛みと共に、自分の身体から引き千切られていく、あの魂が根こそぎ削り取られていくかのような、耐えがたい喪失感。
「あっ……ああ……!」
マナはその場に崩れ落ち、頭を激しく抱えて喘ぎ始めた。顔は血の気を失い、紙のように真っ白になっている。全身が、まるで木の葉のように、小刻みに、激しく震えていた。咲き誇る朝顔の鮮やかな瑠璃色が、今は逆に、彼女の苦しみを際立たせる残酷な背景となっていた。
彼女にとって、「力を使う」という行為は、天界から追放された瞬間の、あの魂が引き裂かれるような苦痛と、裏切りの記憶を呼び覚ます、トラウマの引き金(トリガー)になってしまっていたのだ。
彼女は、自分が持つ強大な力を、心の底から恐れていた。それは、誰かを傷つけるかもしれないから、ではない。力を使うたびに、自分自身が、あの耐えがたいほどの絶望に、再び苛まれるからだった。それは、何度経験しても慣れることのない、魂そのものに刻み込まれた、永遠に癒えることのない傷痕だった。
「マナ! どうしたんだ、しっかりしろ!」
海斗は、先ほどまでのはしゃぎっぷりが嘘のように、蒼白になってマナの側に駆け寄った。しかし、彼女の苦しむ姿を前に、彼はなすすべもなく立ち尽くすしかなかった。
彼女が感じているのは、物理的な痛みではない。魂に深く刻み込まれた、計り知れないほどの苦痛だ。自分には、それを癒やす魔法も、取り除く力もない。昨日感じた、あの圧倒的な無力感が、今度は全く違う形で、しかしより鋭く、彼の心を抉った。
(どうすればいい。俺に、一体何ができる?)
頭が真っ白になる。パイモンなら、その現象を論理的に分析し、冷静な言葉で彼女を慰めるのかもしれない。珠なら、「しっかりしな!」と、その背中を叩いて、荒っぽく励ますのかもしれない。だが、自分には、何もない。知識も、力も、経験も。
ただの、無力な人間。
その事実が、彼の肩に重くのしかかる。しかし、彼は、ただ一つだけ、今の自分にできることを見つけた。特別な力などなくても、人間だからこそ、できることを。
海斗は、震え続けるマナの隣に、黙って座り込んだ。そして、何も言わずに、氷のように冷たくなった彼女の手を、自分の両手で、そっと包み込んだ。
「大丈夫だ」
彼は、ただそれだけを、何度も、何度も、繰り返した。それは、何の根拠もない言葉だったかもしれない。だが、彼の全存在をかけた、祈りにも似た響きが、その声には宿っていた。
「何があったのか、俺には分からない。お前の痛みも、代わってやることはできない。でも、俺は、ここにいる。お前が苦しい時は、絶対に、絶対に一人にはしない。だから、大丈夫だ」
それは、何の力もない、ただの人間ができる、唯一の抵抗だった。
しかし、その手の温もりと、決して離さないという強い意志が、マナの心を、絶望の淵から少しずつ、しかし確実に、引き戻していく。
彼女の激しい震えが、ゆっくりと、ゆっくりと、収まっていく。
やがて彼女は、海斗の肩に顔をうずめると、これまで溜め込んでいた恐怖と悲しみと、そして安堵の全てを吐き出すかのように、子供のように声を上げて、わんわんと泣き始めた。
海斗は、ただ黙って、彼女の小さな背中を、優しく、何度も何度も、さすり続けた。
女神と人間。
その間に横たわる、あまりに大きな壁は、まだそこにあるのかもしれない。
だが、魂のレベルで寄り添い、支え合うこと。
その、言葉にならない絆の前では、身分など、何の意味もなさない。
海斗は、自らの役割を、この瞬間に、確かに見出したのだった。それは、剣を振るうことでも、魔法を唱えることでもない。ただ、この孤独な女神の魂が、壊れてしまわないように、その温もりで、包み込み続けること。それこそが、自分にしかできない、戦いなのだと。
咲き誇る瑠璃色の朝顔が、そんな二人を、ただ静かに、見守っていた。
駄菓子屋の二階、海斗が間借りしている四畳半の部屋には、初秋の朝の、少しひんやりとして澄み切った空気が、昨夜のまま開け放たれた窓から静かに流れ込んでいる。チュンチュン、と雀の鳴き声がどこか遠くに聞こえた。あまりに平穏で、日常的な朝。だからこそ、昨夜の出来事が、まるで無かったことのように思えてしまう。
ちゃぶ台を挟んで向かい合ったまま、海斗とマナは黙り込んでいた。海斗は、珠が無理やり腕に巻いてくれた包帯がやけに気になり、意味もなくそれを撫でている。マナは、膝の上で自分の両手を固く握りしめ、俯いたまま動かない。彼女の長い睫毛が落とす影が、その白い頬に悲しみの色を刻んでいた。
階下からは、珠が朝食の準備をしているのか、味噌汁の香ばしい匂いが漂ってくる。トントン、と小気味よくまな板を叩く音。全てが、いつも通りの朝の音。しかし、この小さな四畳半だけが、分厚いガラスで隔てられたかのように、世界の日常から切り離されてしまっていた。
(何か、言わなきゃ)
海斗は焦っていた。昨夜、屋根の上でマナが語ってくれた壮大な物語。世界の調和を司る女神。天界からの追放。その事実を前に、自分が感じてしまった圧倒的な疎外感。そのせいで、彼女を深く傷つけてしまった。その気まずさが、まるで粘着質の接着剤のように、二人の間に張り付いて、言葉を奪っている。
「あのさ、マナ。昨日はごめん。俺、なんか変な態度とって」
絞り出した声は、自分でも情けないと思うほど、か細く、上擦っていた。
マナは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は少し赤く腫れている。彼女は力なく首を横に振った。
「ううん。海斗は、悪くない。私が、急に変なこと言ったから。混乱させて、ごめんね」
その、あまりに優しい謝罪が、海斗の胸をさらに締め付けた。違う。悪いのは、彼女の変化を受け止めきれなかった、自分の心の狭さだ。彼女は、計り知れない孤独と悲しみを抱えながら、それでも自分に真実を打ち明けてくれたというのに。
気まずい沈黙を破ったのは、階下からの珠の怒声だった。
「お前ら、いつまでそうやって湿っぽい顔してるんだい! さっさと降りてきな! 飯が冷めちまうだろうが!」
その怒声に、二人はびくりと肩を震わせ、弾かれたようにお互いの顔を見合わせた。そして、そのあまりに日常的な珠の剣幕に、思わず、ふっと二人同時に笑ってしまった。それは、ほんの僅かな、しかし確かな雪解けの兆しだった。
朝食の席は、やはりどこかぎこちなかった。珠が作った、少し焦げた焼き魚と、豆腐とワカメのシンプルな味噌汁。海斗は黙々と箸を動かし、マナも小さな口でご飯をゆっくりと咀嚼している。その様子を、パイモンが面白そうに観察していた。
「やれやれ。たった一夜で、随分と面白い関係性の変化が創発したものだね。まるで、安定した化学反応系に、予期せぬ触媒を投入したかのようだ。実に興味深い」
「うるさいねぇ、この西洋かぶれ。黙って食いな。あんたの分の魚はないよ」
「結構。僕は朝から、動物の死骸を食す趣味はないのでね」
いつもの軽口の応酬が、逆に場の気まずさを際立たせる。海斗は、味噌汁の味がほとんどしなかった。ただ、温かい液体が喉を通り過ぎていくのを感じるだけだった。
食事を終え、海斗が洗い物をしていると、先に食べ終えたマナが、縁側でぽつんと一人、庭を眺めているのが見えた。その背中は、あまりに小さく、頼りなく見えた。放っておけなかった。
海斗は洗い物を終えると、彼女の隣にそっと腰を下ろした。縁側の木の床は、朝の光を浴びて、ほんのりと温かい。庭の隅では、秋の七草の一つである桔梗が、紫色の凛とした花を咲かせている。リーン、リーン、と鳴く虫の声が、静かな昼前の空気に響いていた。
「あのさ」
海斗が声をかけると、マナの肩が小さく揺れた。彼女は、視線を庭の一点に固定したままだった。その視線の先にあるものを追って、海斗は息を呑んだ。
そこには、夏の間、毎朝見事な瑠璃色の花を咲かせていた朝顔の鉢植えがあった。しかし、季節の移ろいは残酷だ。かつて青々と茂っていた葉はすっかり枯れ落ち、蔓は茶色く縮こまって、まるで枯れた蛇のように鉢の支柱に絡みついている。それは、過ぎ去ってしまった輝かしい季節と、もう二度と戻らないかもしれない、二人の穏やかだった日常の、残酷な象徴のように見えた。
「もう、終わりなんだな。夏も、この花も」
海斗が、誰に言うでもなく呟いた。その言葉が、引き金になったのかもしれない。
マナが、悲しそうな、そして何かを慈しむような表情で、その枯れ果てた蔓に、そっと指を触れた。
その、瞬間だった。
まるで、世界から音が消えたかのような錯覚。
マナの指先から、蜂蜜を溶かしたような、淡く、温かい金色の光がほとばしった。光は、まるで意思を持った生き物のように、枯れた蔓を優しく包み込んでいく。
信じられない光景が、目の前で繰り広げられた。
光に触れた茶色の蔓は、まるで早送りの映像を見ているかのように、みるみるうちに生命力を取り戻していく。乾ききっていたはずの表面に瑞々しい潤いが戻り、その色が、枯れた茶色から、若々しい鮮やかな緑色へと、息を呑むような速度で変化していく。
そして、奇跡はそれだけでは終わらなかった。
蘇った蔓の節々から、小さな葉が芽吹き、あっという間に手のひらほどの大きさにまで成長し、茂り始める。その葉の間から、いくつもの固かったはずの蕾が、まるで喜びの声を上げるかのように膨らみ、その先端をゆっくりと綻ばせ始めた。
一枚、また一枚と、薄い花弁が、螺旋を描きながら開いていく。
そして、次の瞬間。
目の覚めるような、深く、吸い込まれそうなほどの美しい瑠璃色の花々が、まるで夜空に打ち上げられた花火のように、一斉に、その姿を現したのだ。
「え……」
海斗は、声も出せずに、ただその光景に立ち尽くしていた。季節を完全に無視した、あまりに幻想的な奇跡。それは、マナが持つ「調和」の権能が、乱れてしまった生命のリズムを、その生命が最も輝いていた、あるべき最も美しい姿へと、強制的に「調律」した結果だった。
「すごい……」
かすれた声が、やっと喉から漏れ出た。
「すごい!すごいよ、マナ! なんだよこれ、魔法か!? いや、魔法以上だ!」
海斗は、昨夜までのぎこちなさも、感じていた疎外感も、全て忘れて、子供のようにはしゃいだ。彼は、鉢植えの周りをぐるぐると回り、信じられないものを見るように、咲き誇る朝顔の花びらにそっと触れた。その感触は、幻ではない。確かな生命の瑞々しさを、その指先に伝えていた。
その、あまりに純粋で、屈託のない喜びの表情を見て、マナの顔にも、久しぶりに心からの笑みが浮かんだ。自分の力が、こんなにも美しく、そして愛しい人をこんなにも喜ばせることができる。その事実が、彼女の心を、温かい光で満たした。彼女は、自分の力に対する漠然とした恐怖を、ほんの一瞬だけ、忘れることができた。
だが、その喜びは、長くは続かなかった。
力を、無意識に使ってしまった直後。
マナの表情が、凍りついた。
彼女の脳裏に、あの天上のビジョンが、これまでで最も鮮明な映像となって、暴力的に流れ込んできたのだ。
――氷のように冷たい、円形の評議会。
――完璧なまでに美しい、しかし感情の欠片も映さない、かつての同胞たちの顔、顔、顔。
――その中の一人が、自分に向かって、抑揚のない、しかし魂を凍らせるほどの冷たい声で、断罪の言葉を告げる。
「調和を乱す異分子め。お前の存在そのものが、世界のバグなのだ」
――信頼していたはずの、誰よりも敬愛していたはずの誰かに、背中を強く押される、あの絶望的な感覚。
――そして、背中にあったはずの翼が、まるで繊細なガラス細工のように、甲高い音を立てて砕け散るビジョン。
――一枚、また一枚と、激しい痛みと共に、自分の身体から引き千切られていく、あの魂が根こそぎ削り取られていくかのような、耐えがたい喪失感。
「あっ……ああ……!」
マナはその場に崩れ落ち、頭を激しく抱えて喘ぎ始めた。顔は血の気を失い、紙のように真っ白になっている。全身が、まるで木の葉のように、小刻みに、激しく震えていた。咲き誇る朝顔の鮮やかな瑠璃色が、今は逆に、彼女の苦しみを際立たせる残酷な背景となっていた。
彼女にとって、「力を使う」という行為は、天界から追放された瞬間の、あの魂が引き裂かれるような苦痛と、裏切りの記憶を呼び覚ます、トラウマの引き金(トリガー)になってしまっていたのだ。
彼女は、自分が持つ強大な力を、心の底から恐れていた。それは、誰かを傷つけるかもしれないから、ではない。力を使うたびに、自分自身が、あの耐えがたいほどの絶望に、再び苛まれるからだった。それは、何度経験しても慣れることのない、魂そのものに刻み込まれた、永遠に癒えることのない傷痕だった。
「マナ! どうしたんだ、しっかりしろ!」
海斗は、先ほどまでのはしゃぎっぷりが嘘のように、蒼白になってマナの側に駆け寄った。しかし、彼女の苦しむ姿を前に、彼はなすすべもなく立ち尽くすしかなかった。
彼女が感じているのは、物理的な痛みではない。魂に深く刻み込まれた、計り知れないほどの苦痛だ。自分には、それを癒やす魔法も、取り除く力もない。昨日感じた、あの圧倒的な無力感が、今度は全く違う形で、しかしより鋭く、彼の心を抉った。
(どうすればいい。俺に、一体何ができる?)
頭が真っ白になる。パイモンなら、その現象を論理的に分析し、冷静な言葉で彼女を慰めるのかもしれない。珠なら、「しっかりしな!」と、その背中を叩いて、荒っぽく励ますのかもしれない。だが、自分には、何もない。知識も、力も、経験も。
ただの、無力な人間。
その事実が、彼の肩に重くのしかかる。しかし、彼は、ただ一つだけ、今の自分にできることを見つけた。特別な力などなくても、人間だからこそ、できることを。
海斗は、震え続けるマナの隣に、黙って座り込んだ。そして、何も言わずに、氷のように冷たくなった彼女の手を、自分の両手で、そっと包み込んだ。
「大丈夫だ」
彼は、ただそれだけを、何度も、何度も、繰り返した。それは、何の根拠もない言葉だったかもしれない。だが、彼の全存在をかけた、祈りにも似た響きが、その声には宿っていた。
「何があったのか、俺には分からない。お前の痛みも、代わってやることはできない。でも、俺は、ここにいる。お前が苦しい時は、絶対に、絶対に一人にはしない。だから、大丈夫だ」
それは、何の力もない、ただの人間ができる、唯一の抵抗だった。
しかし、その手の温もりと、決して離さないという強い意志が、マナの心を、絶望の淵から少しずつ、しかし確実に、引き戻していく。
彼女の激しい震えが、ゆっくりと、ゆっくりと、収まっていく。
やがて彼女は、海斗の肩に顔をうずめると、これまで溜め込んでいた恐怖と悲しみと、そして安堵の全てを吐き出すかのように、子供のように声を上げて、わんわんと泣き始めた。
海斗は、ただ黙って、彼女の小さな背中を、優しく、何度も何度も、さすり続けた。
女神と人間。
その間に横たわる、あまりに大きな壁は、まだそこにあるのかもしれない。
だが、魂のレベルで寄り添い、支え合うこと。
その、言葉にならない絆の前では、身分など、何の意味もなさない。
海斗は、自らの役割を、この瞬間に、確かに見出したのだった。それは、剣を振るうことでも、魔法を唱えることでもない。ただ、この孤独な女神の魂が、壊れてしまわないように、その温もりで、包み込み続けること。それこそが、自分にしかできない、戦いなのだと。
咲き誇る瑠璃色の朝顔が、そんな二人を、ただ静かに、見守っていた。
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