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第三部:女神の覚醒と天魔妖怪の同盟
第23話:天界の反逆者
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季節は、すっかり秋めいていた。
あれほど空気を焦がすように鳴いていた蝉の声はいつの間にか止み、代わりにか細く、しかし澄んだ虫の音が、昼夜を問わずどこからか聞こえてくる。空は、夏の暴力的なまでの青から、どこまでも高く、深く、そして少しだけ寂しさを湛えた瑠璃色へとその表情を変えていた。
珠の駄菓子屋の軒先には、渋柿が縄で吊るされ、秋の柔らかな日差しを浴びて、ゆっくりとその色を濃いオレンジ色へと変え始めている。店先には、夏の間あれほど子供たちに人気だったラムネやアイスの代わりに、ほくほくの焼き芋の甘い香りが漂うようになっていた。
あの日、マナが枯れた朝顔を蘇らせ、その力の代償に苦しんでから、数週間が過ぎていた。彼女の精神状態は、驚くほど穏やかに、そして安定していた。それは、海斗が文字通り片時も彼女のそばを離れず、その人間としての温もりで、彼女の孤独と恐怖を包み込み続けた結果だった。
力を使うことへのトラウマが完全に消えたわけではない。時折、マナは悪夢にうなされ、自分の神気に怯えることもあった。しかし、そんな時は必ず、隣にいる海斗が彼女の手を強く握りしめ、「大丈夫だ。俺はここにいる」と、何度も何度も囁いてくれる。その声と温もりが、彼女を絶望の淵から引き戻す、何よりも強い錨となっていた。
穏やかな昼下がり。
縁側で、一行はそれぞれの時間を過ごしていた。海斗は、パイモンに課された「宿題」である、古代ルーン文字で書かれた魔術書の解読に、眉間に皺を寄せながらも必死に取り組んでいる。マナは、そんな彼の横顔を、愛おしそうに見つめながら、珠に教わった下手くそな編み物で、海斗のためのマフラーを編んでいた。その姿は、世界の運命を握る女神などではなく、恋するごく普通の少女そのものだった。
「それにしても、見上げたもんだねぇ。あの朴念仁の小僧が、ここまでやるたぁね」
猫の姿で丸くなり、日向ぼっこをしていた珠が、感心したように呟いた。その視線の先には、海斗がいる。
「まったく、非合理的の極みだ。僕の書斎で三日も缶詰にしてやれば、その程度の文献、一時間で読破できる知識を脳に直接インストールしてやれるというのに」
パイモンは、縁側の隅に置かれたアンティークの椅子に優雅に腰掛け、どこから取り寄せたのか、最高級のダージリン・セカンドフラッシュの香りを愉しんでいた。その声はいつものように皮肉っぽいが、海斗を見るその目には、以前のような侮蔑の色はなく、むしろ面白い観察対象を見つけた科学者のような、好奇の色が浮かんでいた。
「ケッ、だからあんたは分かってないんだよ、この西洋かぶれ。あの小僧は、与えられる力なんざ欲しちゃいないのさ。自分の足で立って、自分の頭で考えて、あのお嬢ちゃんの隣に立つための『資格』が欲しいんだよ。だから、あんな泥臭いやり方で、必死こいてるんじゃねぇか」
珠の言葉に、パイモンは「フン」と鼻を鳴らした。
「人間の『努力』という名の、非効率的な自己満足か。まあ、そのプロセスが、時として予測不能な結果を創発することも、認めなくはないがね」
そんな、いつもの平和な光景。それが永遠に続くかのような、穏やかな秋の午後。
その、静寂を破るように、異変は訪れた。
パイモンだった。
彼は、優雅にカップを口に運んでいたが、ふと、その動きをぴたりと止めた。そして、まるで時間が凍りついたかのように、虚空の一点を見つめて、完全に固まってしまったのだ。その表情からは、いつもの皮肉な笑みも、退屈そうな気配も、完全に消え失せていた。代わりに浮かんでいたのは、誰も見たことのない、極度の緊張と、鋭い警戒の色だった。
「どうしたんだい、西洋かぶれ。腹でも壊したか?」
珠が茶化すように声をかけるが、彼は反応しない。彼の精神だけに、何者かが、直接コンタクトを取ってきているのだ。それは、物理的な距離も、次元の壁さえも無視した、極めて高度な精神感応。この地上で、パイモンの精神防壁を突破して、一方的に回線を開ける存在など、ほとんどいないはずだった。
彼の美しい顔に、一筋の冷や汗が伝う。
「……少し、席を外す」
数秒、あるいは数分の沈黙の後、パイモンはそれだけを呟くと、ポケットから異次元書斎に繋がる古書を取り出した。そして、ページを開くと、その星々の渦巻く闇の中へと、吸い込まれるように姿を消した。
残された三人は、顔を見合わせるしかなかった。ただならぬ何かが起きている。そのことだけは、誰の目にも明らかだった。
星雲が紫と藍色のグラデーションを描き、巨大な書架が天の果てまで伸びる、静謐な空間。パイモンの異次元書斎。彼は、その中心に置かれた黒曜石の円卓の前に一人立ち、静かに待っていた。
彼の全身の神経は、かつてないほどに研ぎ澄まされている。相手は、カマエルのような脳筋の執行官ではない。もっと、格上の存在だ。下手をすれば、この精神回線を通じて、自分の魂の座標を特定され、書斎ごと消滅させられる危険性さえある。
やがて、彼の目の前の空間が、まるで静かな水面に石を投げ込んだかのように、ゆっくりと揺らぎ始めた。物理的な扉が開くのではない。次元そのものが、高位の存在の意思によって、優雅に、しかし抗いがたく捻じ曲げられていく。
そこから滲み出てきたのは、荘厳で、清らかで、そしてどこまでも慈悲深い、圧倒的な光の気配だけだった。相手は、物理的にここに来ているわけではない。天界の、それもおそらくは神の玉座にほど近い場所から、次元を超え、地獄の公爵の聖域の、さらにその奥にあるこの異次元書斎まで、その強大な意識だけを、寸分の狂いもなく正確に飛ばしてきているのだ。
「何の御用かな、主天使(ドミニオンズ)の長。悪魔の書斎に、高貴な天使様がおいでになるとは。それとも、僕を浄化しに来たとでも?」
パイモンの声は、努めて挑発的だった。それは、彼の矜持であり、同時に、相手の出方を探るための、高度な駆け引きだった。しかし、その瞳は、一切笑っていなかった。ただ、鋭く、冷静に、光の気配の奥にある本質を探っていた。
光の中から響いてきたのは、男の声だった。穏やかで、温かく、しかしその奥に、天界の秩序を束ねる者としての、揺るぎない威厳を秘めた声。それは、先日、一行の前に姿を現した、あの慈悲の天使、ザドキエルのものだった。
『戯言を。私があなたに敵意がないことは、分かっているはずです、地獄の公爵』
その声は、パイモンの脳内に直接響き渡った。ザドキエルは、ゆっくりと、しかし切迫した響きを隠さずに語り始めた。
天界の、内なる亀裂の物語を。
『地上での度重なる失敗と、そして何より、あの女神がグリゴリの遺産を手にしてしまったことで、力天使カマエルの焦りは、今や頂点に達しています』
ザドキエルは語る。カマエルの掲げる、純粋すぎる「浄化」思想は、当初は一部の急進派だけのものだった。しかし、地上世界の混沌が増すにつれ、そのシンプルで力強い思想は、秩序と安定を求める多くの天使たちの心を掴み、今や、天界の主流派となりつつあるのだと。
『我々、反カマエル派は、彼の正義が行き過ぎたものであると訴え続けてきました。しかし、今の我々は反逆者の烙印を押され、完全に孤立し、身動きが取れない状態にあります。カマエルは、我々の動きを封じ込めた上で、彼の計画を、最終段階へと移行させるつもりです』
パイモンの表情から、挑発的な色が消えた。彼は、ただ黙って、ザドキエルの言葉に耳を傾けている。
『カマエルの計画は、世界の理そのものを、根底から書き換えることです。そのために、彼は、この星の霊的なエネルギーが最も古く、最も純粋な形で集中する、神聖な祭祀場を破壊するつもりです』
パイモンの目の前の空間に、光で描かれた一枚の古地図がホログラムのように浮かび上がった。それは、海斗たちの住む、日本の地図だった。そこには、幾筋もの巨大な龍脈(レイライン)が、光の線となって複雑に絡み合っている。そして、その中心、いくつかの特に太い龍脈が交差する一点が、まるで心臓のように、不吉な赤い光で、どく、どくと明滅していた。
『あなた方の言葉で言う、「龍の寝床」。この星の、霊的なヘソとも言うべき場所です』
ザドキエルの声に、苦渋の色が滲む。
『そこを破壊されれば、世界の霊的バランスは完全に崩壊し、天と地、聖と俗を隔てる次元の境界が、極端に曖昧になるでしょう。そうなれば、カマエルは天界の神聖な力を、何の制約もなく地上へ直接流し込むことが可能になる。そして、彼の理想とする、静かで、感情のない、完璧に管理された世界へと、この星のOSを、強制的に上書きするでしょう』
それは、世界のフォーマットを意味していた。生命が持つ、多様性、不完全さ、矛盾、そういった「ゆらぎ」の全てを消し去る、究極の浄化。パイモンの脳裏に、海斗の「思い通りにならないことそのものを消し去ろうとしている」という言葉が蘇った。あの人間の小僧は、本質を正確に射抜いていたのだ。
光の気配は、最後に、懇願するような響きを帯びた。
『我々は、天の法を破り、直接地上に介入することはできません。それは、カマエルに我々を粛清するための、決定的な口実を与えるだけです。ですが、あなた方になら、可能性がある。あの女神と共にいる、あなた方になら』
『これは、警告であり、そして、天の未来を憂う我々からの、祈りにも似た、願いです』
そう言うと、光の気配は、まるで水面に溶けるかのように、すっと消え失せた。書斎には、再び完全な静寂が戻る。
パイモンは、しばらく腕を組んで黙考していた。天使と悪魔。光と闇。決して交わることのないはずの二つの存在が、世界の崩壊という共通の危機を前に、今、密約を結んだ。実に皮肉で、そして実に面白い展開だった。
彼は、やがて古書を閉じ、地上へと戻っていった。これから始まる、壮大な茶番劇の筋書きを、その怜悧な頭脳の中で描きながら。
パイモンから全ての情報が共有された時、駄菓子屋の茶の間は、水を打ったように静まり返った。誰もが、その計画のあまりの壮大さと、残された時間の少なさに、言葉を失っていた。
「龍の寝床、だと……?」
最初に沈黙を破ったのは、珠だった。その声は、驚愕に震えていた。
「馬鹿な。あそこは、ぬらりひょんの爺さんをはじめ、この国の古株の連中が直々に管理する、正真正銘の聖域だ。神や仏でさえ、手出しを許されねぇ場所に、天界の若造どもが、本気で手を出すってのかい」
彼女の言葉が、事態の深刻さを、より一層際立たせる。それは、ただのパワースポットではない。日本の、いや、この星の霊的な心臓部そのものだった。
マナは、青ざめた顔で、固く唇を噛み締めている。自分の存在が、こんなにも大きな争いの火種となっていることに、改めて打ちのめされていた。
海斗は、自分の拳を、強く、強く握りしめていた。怒り、恐怖、無力感。様々な感情が渦巻く中、彼の頭脳は、パイモンとの特訓で得た知識と、司令塔としての思考を、必死で回転させていた。
敵は、天界の主流派。その力は、計り知れない。
対する自分たちは、ごく普通の人間と、記憶喪失の女神と、一匹の猫又と、一体の悪魔。そして、天界の片隅で、声も上げられずにいる、名もなき反逆者たち。
あまりに寄せ集めで、あまりに無謀な同盟。
だが、それでも。
「ならば、やることは一つだ」
海斗が、静かに、しかし決意を込めて言った。仲間たちの視線が、一斉に彼に集まる。
「ぬらりひょんさんに会って、協力を頼むしかない」
それは、世界の命運を賭けた、あまりにも無謀な交渉の始まりを告げる言葉だった。彼らは、日本の妖怪社会という、深く、複雑で、そして全く予測のつかない、巨大な渦の中心へと、自ら足を踏み入れることを決意したのだ。
秋の日は、釣瓶落とし。窓の外は、いつの間にか、深い、深い闇に包まれていた。
あれほど空気を焦がすように鳴いていた蝉の声はいつの間にか止み、代わりにか細く、しかし澄んだ虫の音が、昼夜を問わずどこからか聞こえてくる。空は、夏の暴力的なまでの青から、どこまでも高く、深く、そして少しだけ寂しさを湛えた瑠璃色へとその表情を変えていた。
珠の駄菓子屋の軒先には、渋柿が縄で吊るされ、秋の柔らかな日差しを浴びて、ゆっくりとその色を濃いオレンジ色へと変え始めている。店先には、夏の間あれほど子供たちに人気だったラムネやアイスの代わりに、ほくほくの焼き芋の甘い香りが漂うようになっていた。
あの日、マナが枯れた朝顔を蘇らせ、その力の代償に苦しんでから、数週間が過ぎていた。彼女の精神状態は、驚くほど穏やかに、そして安定していた。それは、海斗が文字通り片時も彼女のそばを離れず、その人間としての温もりで、彼女の孤独と恐怖を包み込み続けた結果だった。
力を使うことへのトラウマが完全に消えたわけではない。時折、マナは悪夢にうなされ、自分の神気に怯えることもあった。しかし、そんな時は必ず、隣にいる海斗が彼女の手を強く握りしめ、「大丈夫だ。俺はここにいる」と、何度も何度も囁いてくれる。その声と温もりが、彼女を絶望の淵から引き戻す、何よりも強い錨となっていた。
穏やかな昼下がり。
縁側で、一行はそれぞれの時間を過ごしていた。海斗は、パイモンに課された「宿題」である、古代ルーン文字で書かれた魔術書の解読に、眉間に皺を寄せながらも必死に取り組んでいる。マナは、そんな彼の横顔を、愛おしそうに見つめながら、珠に教わった下手くそな編み物で、海斗のためのマフラーを編んでいた。その姿は、世界の運命を握る女神などではなく、恋するごく普通の少女そのものだった。
「それにしても、見上げたもんだねぇ。あの朴念仁の小僧が、ここまでやるたぁね」
猫の姿で丸くなり、日向ぼっこをしていた珠が、感心したように呟いた。その視線の先には、海斗がいる。
「まったく、非合理的の極みだ。僕の書斎で三日も缶詰にしてやれば、その程度の文献、一時間で読破できる知識を脳に直接インストールしてやれるというのに」
パイモンは、縁側の隅に置かれたアンティークの椅子に優雅に腰掛け、どこから取り寄せたのか、最高級のダージリン・セカンドフラッシュの香りを愉しんでいた。その声はいつものように皮肉っぽいが、海斗を見るその目には、以前のような侮蔑の色はなく、むしろ面白い観察対象を見つけた科学者のような、好奇の色が浮かんでいた。
「ケッ、だからあんたは分かってないんだよ、この西洋かぶれ。あの小僧は、与えられる力なんざ欲しちゃいないのさ。自分の足で立って、自分の頭で考えて、あのお嬢ちゃんの隣に立つための『資格』が欲しいんだよ。だから、あんな泥臭いやり方で、必死こいてるんじゃねぇか」
珠の言葉に、パイモンは「フン」と鼻を鳴らした。
「人間の『努力』という名の、非効率的な自己満足か。まあ、そのプロセスが、時として予測不能な結果を創発することも、認めなくはないがね」
そんな、いつもの平和な光景。それが永遠に続くかのような、穏やかな秋の午後。
その、静寂を破るように、異変は訪れた。
パイモンだった。
彼は、優雅にカップを口に運んでいたが、ふと、その動きをぴたりと止めた。そして、まるで時間が凍りついたかのように、虚空の一点を見つめて、完全に固まってしまったのだ。その表情からは、いつもの皮肉な笑みも、退屈そうな気配も、完全に消え失せていた。代わりに浮かんでいたのは、誰も見たことのない、極度の緊張と、鋭い警戒の色だった。
「どうしたんだい、西洋かぶれ。腹でも壊したか?」
珠が茶化すように声をかけるが、彼は反応しない。彼の精神だけに、何者かが、直接コンタクトを取ってきているのだ。それは、物理的な距離も、次元の壁さえも無視した、極めて高度な精神感応。この地上で、パイモンの精神防壁を突破して、一方的に回線を開ける存在など、ほとんどいないはずだった。
彼の美しい顔に、一筋の冷や汗が伝う。
「……少し、席を外す」
数秒、あるいは数分の沈黙の後、パイモンはそれだけを呟くと、ポケットから異次元書斎に繋がる古書を取り出した。そして、ページを開くと、その星々の渦巻く闇の中へと、吸い込まれるように姿を消した。
残された三人は、顔を見合わせるしかなかった。ただならぬ何かが起きている。そのことだけは、誰の目にも明らかだった。
星雲が紫と藍色のグラデーションを描き、巨大な書架が天の果てまで伸びる、静謐な空間。パイモンの異次元書斎。彼は、その中心に置かれた黒曜石の円卓の前に一人立ち、静かに待っていた。
彼の全身の神経は、かつてないほどに研ぎ澄まされている。相手は、カマエルのような脳筋の執行官ではない。もっと、格上の存在だ。下手をすれば、この精神回線を通じて、自分の魂の座標を特定され、書斎ごと消滅させられる危険性さえある。
やがて、彼の目の前の空間が、まるで静かな水面に石を投げ込んだかのように、ゆっくりと揺らぎ始めた。物理的な扉が開くのではない。次元そのものが、高位の存在の意思によって、優雅に、しかし抗いがたく捻じ曲げられていく。
そこから滲み出てきたのは、荘厳で、清らかで、そしてどこまでも慈悲深い、圧倒的な光の気配だけだった。相手は、物理的にここに来ているわけではない。天界の、それもおそらくは神の玉座にほど近い場所から、次元を超え、地獄の公爵の聖域の、さらにその奥にあるこの異次元書斎まで、その強大な意識だけを、寸分の狂いもなく正確に飛ばしてきているのだ。
「何の御用かな、主天使(ドミニオンズ)の長。悪魔の書斎に、高貴な天使様がおいでになるとは。それとも、僕を浄化しに来たとでも?」
パイモンの声は、努めて挑発的だった。それは、彼の矜持であり、同時に、相手の出方を探るための、高度な駆け引きだった。しかし、その瞳は、一切笑っていなかった。ただ、鋭く、冷静に、光の気配の奥にある本質を探っていた。
光の中から響いてきたのは、男の声だった。穏やかで、温かく、しかしその奥に、天界の秩序を束ねる者としての、揺るぎない威厳を秘めた声。それは、先日、一行の前に姿を現した、あの慈悲の天使、ザドキエルのものだった。
『戯言を。私があなたに敵意がないことは、分かっているはずです、地獄の公爵』
その声は、パイモンの脳内に直接響き渡った。ザドキエルは、ゆっくりと、しかし切迫した響きを隠さずに語り始めた。
天界の、内なる亀裂の物語を。
『地上での度重なる失敗と、そして何より、あの女神がグリゴリの遺産を手にしてしまったことで、力天使カマエルの焦りは、今や頂点に達しています』
ザドキエルは語る。カマエルの掲げる、純粋すぎる「浄化」思想は、当初は一部の急進派だけのものだった。しかし、地上世界の混沌が増すにつれ、そのシンプルで力強い思想は、秩序と安定を求める多くの天使たちの心を掴み、今や、天界の主流派となりつつあるのだと。
『我々、反カマエル派は、彼の正義が行き過ぎたものであると訴え続けてきました。しかし、今の我々は反逆者の烙印を押され、完全に孤立し、身動きが取れない状態にあります。カマエルは、我々の動きを封じ込めた上で、彼の計画を、最終段階へと移行させるつもりです』
パイモンの表情から、挑発的な色が消えた。彼は、ただ黙って、ザドキエルの言葉に耳を傾けている。
『カマエルの計画は、世界の理そのものを、根底から書き換えることです。そのために、彼は、この星の霊的なエネルギーが最も古く、最も純粋な形で集中する、神聖な祭祀場を破壊するつもりです』
パイモンの目の前の空間に、光で描かれた一枚の古地図がホログラムのように浮かび上がった。それは、海斗たちの住む、日本の地図だった。そこには、幾筋もの巨大な龍脈(レイライン)が、光の線となって複雑に絡み合っている。そして、その中心、いくつかの特に太い龍脈が交差する一点が、まるで心臓のように、不吉な赤い光で、どく、どくと明滅していた。
『あなた方の言葉で言う、「龍の寝床」。この星の、霊的なヘソとも言うべき場所です』
ザドキエルの声に、苦渋の色が滲む。
『そこを破壊されれば、世界の霊的バランスは完全に崩壊し、天と地、聖と俗を隔てる次元の境界が、極端に曖昧になるでしょう。そうなれば、カマエルは天界の神聖な力を、何の制約もなく地上へ直接流し込むことが可能になる。そして、彼の理想とする、静かで、感情のない、完璧に管理された世界へと、この星のOSを、強制的に上書きするでしょう』
それは、世界のフォーマットを意味していた。生命が持つ、多様性、不完全さ、矛盾、そういった「ゆらぎ」の全てを消し去る、究極の浄化。パイモンの脳裏に、海斗の「思い通りにならないことそのものを消し去ろうとしている」という言葉が蘇った。あの人間の小僧は、本質を正確に射抜いていたのだ。
光の気配は、最後に、懇願するような響きを帯びた。
『我々は、天の法を破り、直接地上に介入することはできません。それは、カマエルに我々を粛清するための、決定的な口実を与えるだけです。ですが、あなた方になら、可能性がある。あの女神と共にいる、あなた方になら』
『これは、警告であり、そして、天の未来を憂う我々からの、祈りにも似た、願いです』
そう言うと、光の気配は、まるで水面に溶けるかのように、すっと消え失せた。書斎には、再び完全な静寂が戻る。
パイモンは、しばらく腕を組んで黙考していた。天使と悪魔。光と闇。決して交わることのないはずの二つの存在が、世界の崩壊という共通の危機を前に、今、密約を結んだ。実に皮肉で、そして実に面白い展開だった。
彼は、やがて古書を閉じ、地上へと戻っていった。これから始まる、壮大な茶番劇の筋書きを、その怜悧な頭脳の中で描きながら。
パイモンから全ての情報が共有された時、駄菓子屋の茶の間は、水を打ったように静まり返った。誰もが、その計画のあまりの壮大さと、残された時間の少なさに、言葉を失っていた。
「龍の寝床、だと……?」
最初に沈黙を破ったのは、珠だった。その声は、驚愕に震えていた。
「馬鹿な。あそこは、ぬらりひょんの爺さんをはじめ、この国の古株の連中が直々に管理する、正真正銘の聖域だ。神や仏でさえ、手出しを許されねぇ場所に、天界の若造どもが、本気で手を出すってのかい」
彼女の言葉が、事態の深刻さを、より一層際立たせる。それは、ただのパワースポットではない。日本の、いや、この星の霊的な心臓部そのものだった。
マナは、青ざめた顔で、固く唇を噛み締めている。自分の存在が、こんなにも大きな争いの火種となっていることに、改めて打ちのめされていた。
海斗は、自分の拳を、強く、強く握りしめていた。怒り、恐怖、無力感。様々な感情が渦巻く中、彼の頭脳は、パイモンとの特訓で得た知識と、司令塔としての思考を、必死で回転させていた。
敵は、天界の主流派。その力は、計り知れない。
対する自分たちは、ごく普通の人間と、記憶喪失の女神と、一匹の猫又と、一体の悪魔。そして、天界の片隅で、声も上げられずにいる、名もなき反逆者たち。
あまりに寄せ集めで、あまりに無謀な同盟。
だが、それでも。
「ならば、やることは一つだ」
海斗が、静かに、しかし決意を込めて言った。仲間たちの視線が、一斉に彼に集まる。
「ぬらりひょんさんに会って、協力を頼むしかない」
それは、世界の命運を賭けた、あまりにも無謀な交渉の始まりを告げる言葉だった。彼らは、日本の妖怪社会という、深く、複雑で、そして全く予測のつかない、巨大な渦の中心へと、自ら足を踏み入れることを決意したのだ。
秋の日は、釣瓶落とし。窓の外は、いつの間にか、深い、深い闇に包まれていた。
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