「彼女を拾うな」――謎の忠告を無視した俺の日常は崩壊した。記憶喪失の少女は世界を滅ぼす女神の『鍵』。

Gaku

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第三部:女神の覚醒と天魔妖怪の同盟

第25話:海斗の弁舌

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広間の空気が、死んだ。
鬼の頭領、獄炎が叩きつけた金棒の轟音が、まだ柱を震わせている。彼の「この話からは降りさせてもらう」という最後通牒にも等しい一言は、かろうじて保たれていた交渉の糸を、無慈悲に断ち切った。

「我らもだ! 神々の争いに付き合う義理はない!」
「そうだ! 山の静寂こそが我らの望みよ!」

獄炎の動きに呼応するように、これまで不干渉を決め込んでいた大天狗の一団や、人間への不信感を露わにしていた他のいくつかの妖怪一族も、ぞろぞろと重い腰を上げ始めた。一度動き出した雪崩は、もう誰にも止められない。共同戦線などという甘い幻想は砕け散り、妖怪社会そのものが分裂しかねない、最悪の事態が目の前で進行していた。

海斗は、唇を強く噛み締め、自分の無力さに打ち震えていた。
隣に立つパイモンは、静かに目を閉じ、腕を組んでいる。その表情からは、もはやこの状況を「興味深い」と楽しむ余裕は消え失せ、冷徹な諦観の色だけが浮かんでいた。彼の悪魔としての論理も、数千年の時を経て凝り固まった妖怪たちの感情の前では、あまりに無力だった。
珠は、悔しそうに拳を握りしめている。その指先が、怒りか、あるいは無念か、微かに震えていた。旧知の仲であるぬらりひょんさえ動かない今、彼女にできることはもう何もなかった。
そしてマナは、ただ悲しそうな顔で、立ち去っていく妖怪たちの背中を見つめている。彼女の理想とする「調和」の世界が、目の前で音を立てて崩れていく。その光景に、彼女は深く傷ついていた。

(このままじゃ、ダメだ)

海斗の心の中で、何かが弾けた。
このまま、終わらせていいのか。このまま、みんながバラバラになって、カマエルの思い通りに世界が塗りつぶされていくのを、ただ黙って見ているだけでいいのか。

怖い。
足が、鉛のように重い。目の前にいるのは、一体一体が伝説級の大妖怪。自分が一睨みされただけで、魂ごと凍りついてしまいそうな、圧倒的な存在ばかりだ。自分は、ただの人間。力も、術も、特別な血筋も、何一つ持っていない。そんな自分が、この場で一体何を発言できるというのか。何を言ったところで、一笑に付されるだけではないのか。

無力感と、恐怖と、焦りが、濁流のように彼の心を渦巻く。
だが、その濁流の奥底で、一つの、小さな、しかし確かな光が瞬いていた。

水族館での、マナとの約束。
『どんな君になっても、俺がそばにいる。今の君が、俺の好きなマナだ』

そうだ。俺は、彼女を守ると決めたんだ。彼女が愛する、この不完全で、騒々しくて、どうしようもなく美しい世界を、一緒に守ると。ここで何もしなければ、その誓いさえ、嘘になる。

海斗は、震える両膝に、ぐっと力を込めた。そして、全身の力を振り絞るように、声を張り上げた。

「待ってくださいッ!」

その声は、妖怪たちの怒号や地響きのような足音に比べれば、あまりに小さく、か細かった。まるで、嵐の中で鳴く、一匹の虫の声のように。

だが、その声には、彼の魂の全てが乗っていた。
その必死さが、広間にいた全ての者の足を、一瞬だけ、確かに止めた。

侮蔑、好奇、憐れみ、そしてわずかな苛立ち。様々な色の視線が、この場違いな人間の若者に、たった一人、針のように突き刺さる。

海斗は、乾ききった喉に、ごくりと唾を飲み込んだ。そして、震える足で一歩前に出ると、広間に集う全ての妖怪たちを見渡し、自分の言葉で、語り始めた。

それは、パイモンのような難解な理論でも、珠のような昔馴染みの情でもなかった。ただの、一人の人間の、心の底からの叫びだった。

「俺は、世界の調和とか、霊脈のバランスとか、正直、難しいことはよく分かりません」

彼の声は、まだ少し震えていた。

「俺は、見ての通り、ただの人間です。皆さんみたいに、千年を生きる力も、山を吹き飛ばす術も、何一つ持っていません」

彼は、一度言葉を切ると、そっとマナの方をちらりと見た。彼女が、心配そうに、しかしどこまでも信頼に満ちた瞳で、自分を見つめ返してくれている。それだけで、少しだけ勇気が湧いてきた。

「俺が好きなのは、好きな人と一緒に、駄菓子屋の縁側で、冷たいラムネを飲んで、『くだらないね』って笑い合えるような、そんな当たり前の時間なんです」

広間が、静まり返っていた。誰もが、この場違いな人間の若者が、次に何を言うのか、固唾を飲んで見守っている。

「夏には、打ち水をしたアスファルトの匂いがして、夜には花火が上がる。秋には、どこからか金木犀の香りがしてきて、冬には、ストーブの上で焼いた餅がぷうっと膨らむのを、ただぼんやりと待つ。そういう、どうでもいいことで、一喜一憂できる世界が、俺は、好きなんです」

その言葉には、何の飾りもなかった。しかし、その一つ一つの情景が、妖怪たちの心の奥底に、不思議と染み渡っていく。彼らが、人間と関わることをやめて久しい、遠い昔に忘れてしまったかもしれない、懐かしい感覚。あるいは、自分たちのテリトリーの中で、当たり前のものとして享受し、失うことなど考えたこともなかった、日々の営み。

海斗は、今度は立ち去ろうとしていた鬼の頭領、獄炎を、真っ直ぐに見つめて言った。

「カマエルっていう天使が作ろうとしてる世界は、たぶん、すごく綺麗で、静かで、完璧な世界なんだと思います。そこには、争いも、憎しみも、悲しみもないのかもしれない」

彼は、一度、言葉を区切った。

「でも、そこには、仲間と酌み交わす酒の味も、力比べで汗を流す喜びも、きっとない。だって、そういう予測不能で、馬鹿騒ぎみたいな感情は、彼にとって、消し去るべき『穢れ』であり、『バグ』だからです」

その言葉に、獄炎の眉が、ぴくりと動いた。

海斗は、次に、静観を決め込んでいた大天狗、蒼旻に向き直った。

「静かに暮らしたい、という気持ちも、よく分かります。争いに関わらず、山の静寂を守りたいという想いは、尊いものだと思います。でも、もし、森の木々が全部、寸分の狂いもなく同じ形に切り揃えられて、鳥の声も、風の音も、全てがプログラム通りに管理されたとしたら。それは、あなたが愛した山の、本当の姿ですか?」

それは、種族や立場の違いを超えた、根源的な問いだった。
「お前たちが本当に守りたいものは、一体何なのだ?」と。

カマエルの理想郷は、一見すれば、苦しみのない完璧な世界かもしれない。しかし、それは、感情や変化、つまり「生きている実感」そのものを失うという、もっと根源的な苦しみではないのか。海斗の言葉は、妖怪たちの目の前に、新たな「苦諦(避けられない苦しみの現実)」を、静かに、しかし鮮烈に提示していた。

海斗の言葉は、何の力も持たない、ただの言葉だった。しかし、その必死の訴えは、最強を自負し、常に孤独である大妖怪たちの心の、最も柔らかい部分に、不思議と、そして深く響いた。

広間を出て行こうとしていた獄炎が、完全に足を止め、ゆっくりと振り返った。彼の、これまで怒りと侮蔑に満ちていた顔には、いつの間にか、何かを深く、深く考えているような、複雑な色が浮かんでいた。

その時だった。
それまで静観を決め込んでいたぬらりひょんが、手にしていた湯呑をことりと置くと、初めて、にやりと、その口の端を釣り上げた。

「面白い」

その一言が、静寂を破った。

「実に面白い小僧じゃ。神も悪魔も動かせなんだ心を、ただの人間の言葉が動かすか。よかろう。この儂(わし)も、その小僧の賭けに乗ってみるのも、一興かもしれんな」

その一言が、空気を決定づけた。妖怪の総大将が、この人間に「賭ける」と言ったのだ。

獄炎は、しばらく黙って海斗を睨みつけていたが、やがて、その顔に浮かんでいた複雑な色が、ふっと消えたかと思うと、次の瞬間、腹の底から、豪快に笑い出した。

「がっはっはっは! 気に入った! 小僧、貴様の首は、この戦が終わるまで、俺が預かってやる! それまで、死ぬんじゃねぇぞ!」

それは、彼なりの最大の賛辞だった。彼は、くるりと踵を返すと、金棒を肩に担ぎ、何事もなかったかのように、広間の自分の席へと戻っていった。

その動きを見て、他の妖怪たちも、顔を見合わせ、やれやれといった風に、あるいは面白そうに、それぞれの席へと戻っていく。張り詰めていた空気は、一気に霧散していた。

最終的に、評定は、「龍の寝床の防衛という、ただ一点においてのみ、一時的に協力する」という形で、奇跡的な合意に至った。
それは、完全な信頼関係にはほど遠い、いつ壊れてもおかしくない、脆く、不安定な同盟だった。

しかし、絶対に交わるはずのなかった人間と妖怪が、ただ一人の青年の、魂の叫びによって、一つの目的のために手を取り合った。それは、奇跡と呼ぶにふさわしい瞬間だった。

海斗は、全身から力が抜けていくのを感じ、その場にへたり込みそうになるのを、必死で堪えた。そんな彼の腕を、マナがそっと、しかし力強く支えてくれる。

「ありがとう、海斗。あなたは、私の誇りです」

その囁き声と、彼女の温もりだけが、今の海斗にとっての、唯一の現実だった。
彼の「司令塔」としての本当の戦いは、今、ここから始まるのだ。
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