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第三部:女神の覚醒と天魔妖怪の同盟
第26話:龍の寝床攻防戦・序曲
しおりを挟む季節は、燃えるような夏がその役目を終え、世界が静かな思索にふけるかのように、深く、そして澄み渡った秋へとその姿を変えていた。
空は、昨日までの暴力的なまでの青が嘘だったかのように、どこまでも高く、深く、そしてまるで磨き上げられた瑠璃紺の器のように静まり返っている。山々の稜線をなぞる木々の葉は、生命の最後の輝きを振り絞るかのように、あるものは血のような深紅に、あるものは溶かした黄金のような黄色に、またあるものは燃え残る熾火のような橙色に、思い思いの色でその身を染め上げていた。風が吹くたびに、それらの葉がはらはらと舞い散り、まるで色鮮やかな弔いの紙吹雪のように、大地へと還っていく。
空気が、違う。夏の、肌にまとわりつくような湿気と熱気は完全に姿を消し、代わりにガラスのように冷たく、乾いた空気が肺の隅々まで満たしていく。吸い込むと、胸の奥がきんと冷えるような感覚。それは、枯れ葉の乾いた匂い、湿った土の匂い、そして遠い雪山の気配を微かに含んだ、秋そのものの香りだった。
決戦の地「龍の寝床」は、そんな秋の最も美しい部分だけを切り取って、箱庭に閉じ込めたかのような場所だった。
太古の火山活動によって生まれた巨大なカルデラの底に、まるで世界から忘れ去られることを望んだかのように、その盆地はひっそりと存在していた。外輪山の険しい峰々が天然の城壁となって外界とを隔絶し、この場所だけの独自の生態系と、そして尋常ならざる霊的な静寂を守り続けている。
盆地の中央には、数千年の時を生き抜いてきたであろう巨木たちが鬱蒼とした森を形成し、そのさらに中心には、空の青をそのまま溶かし込んだかのように静かな湖が、鏡のように天を映していた。
だが今日、その静謐な聖域は、かつてないほどの熱気と緊張に満ちていた。
湖畔から森の入り口にかけて、数千は下らないであろう妖怪たちが、来るべき戦いに備えて布陣を敷いていたのだ。
最前線に陣取るのは、酒呑童子の血を引くと噂される鬼の一族だった。一体一体が小山のように巨大な体躯を持ち、その肌は赤銅色や藍色に輝いている。彼らは、それぞれが巨大な鉄の棍棒を軽々と肩に担ぎ、時折、退屈そうに大地を踏みしめていた。そのたびに、ずしん、と地が揺れ、遠くの木々から驚いた鳥たちが一斉に飛び立つ。彼らの吐く息は、秋の冷たい空気の中で荒々しい白煙となり、その闘志を隠そうともしていない。
その遥か上空では、鞍馬山の大天狗が率いる数百の烏天狗たちが、巨大な黒い翼を広げ、ほとんど羽ばたくこともなく、上昇気流を捉えて滑るように旋回していた。彼らは空の支配者としての絶対的な自信に満ち、その鋭い瞳は、これから戦場となるであろう盆地全体を、まるで将棋盤でも眺めるかのように冷静に俯瞰している。時折、彼らの翼が太陽の光を遮り、地上に巨大な影がさっと走り抜けていった。
そして、湖畔に急ごしらえで建てられた本陣の床几に腰を下ろし、この異常な状況下で、ただ一人、泰然自若と湯呑みを傾けている老人がいた。一見すれば、ただの人の良さそうな好々爺。だが、その底知れない瞳は、この場にいるどの妖怪よりも遠く、そして深く、戦いの本質を見据えているようだった。妖怪の総大将、ぬらりひょん。彼がそこにいるだけで、雑多で、ともすれば烏合の衆になりかねない妖怪たちの群れに、一本の、目には見えないが確かな芯が通っていた。
その本陣の一角で、相川海斗は巨大な地図を床に広げ、この錚々たる大妖怪たちを前に、必死で最後の作戦説明を行っていた。
「……以上の理由から、天使軍の第一波は、おそらく上空からの急襲である可能性が極めて高いです。なので、大天狗様と烏天狗衆の皆さんには、敵の先鋒をこの空域で完全に食い止めていただきたい。その間に、地上の主力部隊である鬼の皆さんが、降下してくる敵本隊を、この森の入り口で、一気に叩きます」
海斗の声は、まだ若く、周囲を取り囲む伝説級の大妖怪たちが放つ、肌をピリピリと刺すような威圧感に、正直、押し潰されそうだった。足が、震える。だが、彼が震える指で地図上に指し示す戦術は、パイモンから地獄のスパルタ教育で叩き込まれた天使の行動パターンという「論理」と、珠やぬらりひょんから聞いた各妖怪一族の特性という「経験」を、必死で組み合わせた、彼にしかできない緻密なものだった。
鬼の頭領は、まだどこか不満げに「ふん」と鼻を鳴らし、腕を組んだままそっぽを向いている。人間の、それもこんなひょろりとした若造の指図で、なぜ我ら最強の鬼の一族が動かねばならんのだ、と顔に書いてある。だが、隣に座る大天狗は、その長い白髭をしごきながら、興味深そうに海斗の言葉に耳を傾けていた。
「ほう。小僧、面白いことを言う。つまり、我らが空で派手に立ち回る間に、奴らの意識が上に向いている隙を突き、地上部隊の奇襲効果を最大化させよ、と。理に適っておるわ」
その言葉に、鬼の頭領も少しだけ耳を貸す気になったらしい。
マナは、そんな海斗の横顔を、ただ祈るような気持ちで見つめていた。自分がこの戦いの「鍵」であることは、もう理解している。しかし、力天使の長カマエルという、神の憤怒そのものとでも言うべき絶対的な存在を前に、今の自分の力がどこまで通用するのか、正直、分からなかった。彼女にできるのは、仲間たちが傷ついた時に、その魂ごと癒やすこと。そして、この、あまりに大きな重圧と、たった一人で向き合っている、愛しい人の心を支えること。それが、今の彼女にできる、全ての役割だった。
正午。
太陽が空の最も高い場所に達し、地上の全ての影を最も短くした、その瞬間。
それは、訪れた。
雲ひとつない紺碧の空に、ぽつり、とインクを垂らしたかのような、一つの黒い染みが現れた。次の瞬間、その染みは、まるで悪性の腫瘍のように急速に広がり、空間そのものを歪ませながら、漆黒のゲートを形成する。
そして、そのゲートの奥から、数百、いや千はいるかと思われる光の矢が、一斉に地上へと降り注いだ。無音だった。音もなく、ただ完璧な軌道を描いて降り注ぐ、純白の殺意の奔流。天使軍の、あまりに静かで、あまりに美しい、先制攻撃だった。
「来たぞ! 各々方、抜かるなよ!」
大天狗の、空気を震わせる号令が響き渡る。
その声に応え、上空で待機していた数百の烏天狗たちが、一斉にその身を翻した。彼らは、手に持った羽うちわを一度だけ、力強く扇ぐ。すると、それぞれの天狗から凄まじい突風が巻き起こり、それらが一つにまとまって、上空に巨大な上昇気流の壁を形成した。
光の矢は、その見えない風の壁に突き刺さると、勢いを殺され、あらぬ方向へと弾き返されていく。いくつかは山肌に着弾し、轟音と共に岩を砕いたが、妖怪たちの陣形には一本も届かなかった。
空中で、純白の光と漆黒の翼が、激しく、そして美しく衝突する。光の矢を風の刃で切り裂き、聖なる障壁を音速の蹴りで砕く。それはまるで、神話の一場面をそのまま切り取ってきたかのような、幻想的な光景だった。
第一波を完全に凌ぎ切った、その時。天のゲートから、本体が姿を現した。
銀色に輝く、寸分の隙もない鎧にその身を包んだ天使の軍勢が、完璧な方陣を保ったまま、ゆっくりと地上へと降下してくる。その動きは、まるで一つの巨大な生命体のように、完全に統率が取れていた。個々の感情という、非効率的なノイズが一切ない。ただ、与えられた「浄化」という目的を遂行するためだけに存在する、冷徹で、美しい殺意の集合体。
「うおおおおおおおおっ! 我ら鬼の力、その綺麗なツラに刻み込んでやれぃ!」
鬼の頭領が、大地を揺るがすほどの咆哮を上げた。それに呼応し、最前線にいた数百の鬼たちが、地響きを立てながら一斉に天使軍へと殺到する。
鉄の棍棒が、天使の展開する聖なる障壁を、ガラスを叩き割るかのように粉砕する。天使の光の剣が、鬼の屈強な肉体を容赦なく切り裂き、鮮血が舞う。凄まじい白兵戦が、太古の森の入り口で始まった。
本陣で、固唾をのんで戦況を見つめていた海斗は、パイモンから借りた、異様に性能のいい双眼鏡を片手に、声を張り上げた。
「左翼! 左翼の敵陣が薄い! 河童隊の皆さん、聞こえますか! 今です、湖から回り込んで、敵の側面を突いてください!」
彼の声は、無線機を通じて、湖畔で待機していた河童の一族に届く。次の瞬間、静かだった湖面が、まるで沸騰したかのように激しく泡立ち、そこから数十人の河童たちが、水しぶきを上げながら飛び出した。彼らは、人間の子どものような見た目とは裏腹に、驚異的な脚力で湿地帯を駆け抜け、完全に油断していた天使軍の左翼に襲いかかった。
「ぬらりひょん様、お願いします! 敵の指揮官に、幻術を!」
海斗の言葉に、ぬらりひょんは湯呑みを置くと、ふっと目を細めた。それだけだった。しかし、最前線で指揮を執っていた天使の小隊長の目に、一瞬だけ、目の前の鬼が、敬愛する力天使カマエルの姿に見えた。そのコンマ数秒の躊躇を、鬼の棍棒が見逃すはずもなかった。
最初は「人間の小僧の指図など聞いてられるか」と、訝しげな視線を向けていた妖怪たちも、海斗の指示が、面白いように的確に敵の弱点を突き、味方の被害を最小限に抑えていることに、気づき始めていた。彼の言葉には、机上の空論ではない、必死の分析と、仲間を信じる力が込められていた。妖怪たちの間に、徐々に、この頼りない人間の若者に対する、「司令塔」への信頼が、確かに芽生え始めていた。
妖怪たちの奮戦は、凄まじかった。
個々の戦闘能力では、訓練された天使兵に劣る者も少なくない。しかし、彼らはこの土地の主だった。地の利を活かした奇襲や、種族特有の、セオリーから外れたトリッキーな妖術が、完璧な陣形を誇る天使軍を少しずつ、しかし確実に混乱させていく。
ぬらりひょんの、どこから発動しているのかさえ分からない幻術が、天使たちの五感を狂わせる。敵味方の区別がつかなくなった天使が、同士討ちを始める。その隙に、森の木陰から小妖怪たちが無数に現れ、蔓や茨で天使の足をすくい、動きを封じる。
戦いは、互いに一歩も譲らぬ、熾烈な消耗戦の様相を呈してきた。
鬼の棍棒が天使の鎧を砕き、天使の剣が鬼の命を奪う。天狗の風が光を散らし、光の矢が天狗の翼を焼く。生命の火花が、秋の澄んだ空気の中で、激しく咲いては、儚く散っていく。
しかし、海斗の顔色は、時間の経過と共に、どんどん青ざめていった。
おかしいのだ。天使軍の数が、一向に、減らない。
一体倒しても、すぐに後方、天のゲートから新たな一体が寸分の乱れもなく降下してきて、完璧に隊列に加わる。彼らは、疲労も、恐怖も、仲間が倒れることへの動揺さえも、一切感じていない。まるで、無限に補充される、完璧な兵士のようだった。
一方、妖怪たちの側には、明らかに疲労の色が見え始めていた。鬼たちの呼吸は溶鉱炉のように荒くなり、振り下ろされる棍棒の速度が僅かに落ちている。空を舞う天狗たちの飛翔にも、最初の鋭さがなくなってきている。このままでは、ジリ貧だ。いずれ、こちらが先に力尽きる。勢いや個々の力といったものは、永遠には続かない。移り変わっていくものなのだ。その、どうしようもない現実が、重くのしかかってくる。
「これだから、感情のない連中はたちが悪い」
パイモンが、苦々しく吐き捨てた。
海斗は、汗で濡れた手で、必死に戦況地図を睨みつけていた。この膠着状態を打破する、次の一手。何か、何か起死回生の策はないのか。敵の陣形の中心、そこにいるであろう指揮官を直接叩けば、統率が乱れるはずだ。だが、そこは最も防御が厚い。どうすれば、あの鉄壁の守りを突破できるのか――。
彼が、極限の集中で思考に没頭していた、まさに、その時だった。
戦場の、全ての音が、ふっと、消えた。
鬼の怒号も、天使の剣戟も、風が木々の葉を揺らす音さえも。まるで、世界から「音」という概念だけが、綺麗に、そして完璧に抜き取られてしまったかのように。
その、ありえない絶対的な静寂の中で、戦っていた全ての妖怪と天使が、まるで操り人形の糸が切れたかのように、ぴたり、と動きを止めた。そして、敵も味方もなく、全ての存在が、まるで何かに引き寄せられるように、ゆっくりと、天の一点を見上げた。
そこには、太陽よりも眩しく、しかし月よりも静かな、絶対的な「存在」が、ゆっくりと、舞い降りてくるところだった。
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