27 / 75
第三部:女神の覚醒と天魔妖怪の同盟
第27話:神を見る者、カマエルの槍
しおりを挟む音が、死んだ。
それは、ただ静かになった、という生易しい現象ではなかった。鬼の荒々しい咆哮も、天狗が風を切る音も、天使の剣が空気を裂く鋭い金属音も、森の木々が風にそよぐ葉擦れの音さえも。まるで、世界という巨大な劇場の演出家が、気まぐれに「音響」というスイッチを切ってしまったかのように、全ての音波がその伝播をぴたりとやめ、絶対的な真空の静寂が、戦場を支配した。
その異常なまでの静けさの中で、戦っていた全ての存在が、まるで熟練の人形師が糸を引くのをやめた操り人形のように、動きを止めた。棍棒を振り上げたまま固まる鬼。翼を広げた姿勢で静止する烏天狗。光の剣を構えたまま微動だにしない天使。敵も味方も、種族も思想も関係なく、全ての者が、ただ本能的な、魂の根源から湧き上がる畏怖に突き動かされるように、ゆっくりと、天の一点を見上げた。
そこには、一人の天使が、ゆっくりと舞い降りてくるところだった。
神々しい、という言葉すら、その存在の前では陳腐に聞こえた。太陽よりも眩しく、しかしその光には一切の熱がない。月よりも静かで、しかしその静寂は触れるもの全てを凍てつかせる。純白の翼は、ただ白いというだけでなく、光そのものを織り上げて作ったかのように、見る角度によって虹色の光沢を放っていた。その身に纏うのは、熾天使の金属で作られたという、伝説の武具。流線型の鎧は、完璧な黄金比で設計され、一つの寸分の狂いもない、絶対的な美の結晶としてそこにあった。
そして、その顔。完璧に左右対称の、神が自らの手で作り上げたとしか思えない、性別を超越した美貌。しかし、その陶器のように滑らかな顔には、何の感情も浮かんでいなかった。喜びも、怒りも、悲しみもない。ただ、そこには、磨き上げられた鏡面のような、空虚な美しさがあるだけだった。
[cite_start] 力天使の長、カマエル [cite: 29][cite_start]。神の「憤怒」と「正義」を執行するために存在する、天界最強の執行官 [cite: 29]。
彼が、その白い足を、血と硝煙に汚れた大地にそっと降ろしただけで、戦場の空気そのものが変質した。秋の澄んだ空気が、まるで真冬の絶対零度のように、肌を刺すほどに冷たく、鋭く、凍てついていく。ぬらりひょんや鬼の頭領といった、百戦錬磨の大妖怪たちでさえ、その魂の格の、あまりの絶対的な違いに、本能的に戦慄し、喉がひりつくのを感じていた。
カマエルは、眼下で繰り広げられていた死闘など、まるで道端に転がる石ころでも見るかのように、一切意に介さなかった。彼の、感情の宿らない完璧な瞳は、この戦場にいる数千の命を素通りし、ただ一点、本陣にいるマナだけを、正確に捉えていた。
「やはりここにいましたか、調和を乱す異分子よ」
その声は、拡声器を通したかのように、戦場の隅々まで明瞭に響き渡った。しかし、その音には、一切の抑揚も、感情の揺らぎも乗っていなかった。それは、誰かに何かを伝えるための「声」ではない。ただ、事実を記録し、宣言するためだけの、無機質な音の羅列だった。
「我らが神聖なる戦いに、土くれの妖怪どもを巻き込むとは。あなたの存在そのものが、やはり穢れの根源だ」
「ぬかせッ!」
その、あまりに傲慢で、他の全ての存在を無価値なものと断じる物言いに、鬼の頭領の堪忍袋の緒が切れた。彼は、神の威光への恐怖を、それ以上の怒りで無理やりねじ伏せると、渾身の力を込めて、肩に担いでいた巨大な鉄の棍棒を、カマエルに向かって投げつけた。風を切り、唸りを上げて飛んでいく鉄塊は、それだけで並の天使なら数十体はまとめて薙ぎ払うほどの、凄まじい破壊力を秘めていた。
しかし、その棍棒は、カマエルの身体に届く数メートル手前で、まるで分厚いゼリーの中に突っ込んだかのように、見えない壁に阻まれてぴたりと止まった。そして、その全ての運動エネルギーを完全に殺され、まるで子供が玩具を落とすかのように、ことり、と力なく地面に落下した。
「無意味です」
カマエルの瞳は、まだマナだけを見据えている。彼にとって、マナ以外の全ての存在は、認識する価値すらない、ただの風景の一部だった。その絶対的な無視は、どんな罵詈雑言よりも、どんな暴力よりも、鬼の頭領の誇りを深く、そして静かに傷つけた。
その、神の威光が作り出した凍てつくような静寂の中を、マナが、海斗に守られながらも、一歩、前に出た。彼女の顔は恐怖に青ざめていたが、その瞳には、自らの思想を、自らの存在理由を賭けて、この完璧なる天使と対峙しようとする、凛とした光が宿っていた。
「カマエル。あなたの言う正義は、あまりに一方的で、そして、あまりに冷たい。この世界は、不完全だからこそ美しいのです。傷つき、迷い、間違えるからこそ、優しさが生まれる。絶えず移り変わり、変化していくからこそ、生命は輝くのです」
マナの澄み切った声が、静まり返った戦場に響く。それは、世界のあり方を巡る、二人の神の思想の、根本的な対立だった。
「美しい? 変化?」
カマエルは、初めて、マナ以外の方向に視線を向けた。彼は、傷つき、倒れ、血を流している妖怪たちと、そして天使たちの亡骸を、まるで汚物でも見るかのように一瞥した。
「それは混沌であり、苦しみの源です。私は、その苦しみを根絶するためにここにいる。神の愛とは、時に厳格なものです。病に冒された腕は、全身を守るために、躊躇なく切り落とさねばならない」
カマエルの論理は完璧で、揺るぎない。そこには、慈悲も、情けも、そして対話の余地も、一切存在しなかった。彼は、この世界に存在する「思い通りにならないこと」という苦しみの原因そのものを、生命ごと根絶することこそが、究極の愛だと信じて疑っていないのだ。
彼は、ゆっくりと、まるでスローモーションのように、その美しい右手を天に掲げた。
「穢れの根源よ、その存在を、神の光の元に消し去ります」
その言葉と同時に、空中の光という光が、彼の掌に吸い寄せられるように収束していく。太陽の光、木漏れ日、妖怪たちの妖気、そして天使たちが放つ聖なる光さえも。あらゆる光の粒子が、一つの点に向かって奔流となり、彼の右手に集まっていく。
やがてそれは、戦場全体を白昼のように照らし出す、巨大な光の槍へと姿を変えた。それは、ただ眩しいだけではない。その槍の先端には、星を砕き、次元を裂くほどの、凄まじいエネルギーが、今にも爆発しそうなほどに圧縮されていた。その力は、これまで対峙してきたどの天使とも、比較にさえならない。それは、神の憤怒そのものが、形を持ったものだった。
マナもまた、自らの神性を解放し、必死で防御障壁を展開しようとする。彼女の周りに、温かく、優しい黄金色の調和の光が集まる。しかし、カマエルが生み出した純白の破壊の光は、それを僅かに、しかし絶望的に、上回っていた。
光の槍が、マナに向かって放たれる。
その瞬間、時間が、極限まで引き延ばされたかのように、ゆっくりと、ゆっくりと流れ始めた。
轟音はない。ただ、空間が引き裂かれる、かすかな絹鳴りのような音だけが響く。
光の槍が、美しい尾を引きながら、一直線にマナへと迫る。
マナの瞳が、絶望に大きく見開かれる。
パイモンと珠が、決死の覚悟で間に割って入ろうとするが、カマエルの威圧感に縛られ、身体が鉛のように重く、動けない。
(死ぬ)
誰もが、そう思った。
誰もが、諦めかけた。
その、永遠にも思える一瞬の中で、ただ一人、動いた者がいた。
「マナァァァァッ!」
叫び声。
それは、海斗の声だった。
何の力も持たない、ただの人間。神々の戦いの中では、塵芥にも等しい、非力な青年。
彼が、マナの身体を、横から、渾身の力で突き飛ばした。
その行動に、論理も、計算も、戦略もなかった。ただ、愛する人を守りたいという、それだけの、あまりに純粋で、あまりに人間的な衝動だけが、彼の身体を動かしていた。
マナの、驚きに見開かれた顔が、スローモーションで遠ざかっていく。
そして、海斗の身体は、神の槍の前に、無防備に、立ちはだかった。
閃光。
轟音。
世界が、一度、白に染まった。
光が晴れた後、そこに立っていたのは、海斗の姿だった。
彼の胸の、ちょうど真ん中を、あの巨大な光の槍が、貫いていた。
槍は、彼の身体を完全に貫通し、その勢いのまま、背後の大地に深く、深く突き刺さっている。まるで、彼をこの大地に縫い付ける、巨大な光の杭のように。
海斗は、呆然と、自分の胸を貫く光の塊を見下ろしていた。熱さも、痛みも、まだ感じない。ただ、自分の身体から、生命という名の温かい何かが、急速に流れ出していくのを感じていた。
「……かい、と?」
突き飛ばされたマナの、震える声が聞こえる。
その声に、世界の時間が、再び動き出す。
ごふっ、と。
海斗の口から、おびただしい量の、真っ赤な血が、塊となって溢れ出した。
彼の身体が、糸の切れた人形のように、ゆっくりと、ぐらりと傾いていく。
「はは……やった、ぞ……。マナは、おれが……まもった……」
血の泡を吹きながら、彼は、最後の力を振り絞って、マナの方を振り返り、微笑んだ。
その表情には、苦痛の色はなかった。ただ、心の底からの安堵と、どうしようもないほどの深い愛情だけが、浮かんでいた。
そして、その瞳から光が消え、彼の身体は、ゆっくりと、ゆっくりと、大地へと崩れ落ちていった。
「いやあああああああああああああああああああっ!」
マナの絶叫が、龍の寝床に木霊した。
それは、女神の悲鳴だった。
カマエルは、その一部始終を、眉一つ動かさずに見下ろしていた。
「塵芥が一つ、自ら消え去っただけのこと。さて、次はあなたの番です」
しかし、その冷徹な言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
マナの絶叫に呼応するように、彼女の身体から、これまでとは比較にならないほどの、凄まじいエネルギーが、嵐となって吹き荒れ始めたのだ。それは、もう、温かい調和の光などではなかった。愛する者を奪われた、深い、深い悲しみと、その理不尽に対する燃えるような怒りが、黄金色の神気となって、彼女を中心に渦を巻いている。
その、あまりに純粋で、あまりに強大な負の感情の奔流に、さすがの完璧なる天使カマエルも、僅かに、しかし確かに、目を見開いていた。
「退くぞ!」
ぬらりひょんの、苦渋に満ちた声が響いた。このままでは全滅だ。彼は、生き残った妖怪たちに撤退を命じると、自らも最後の力を振り絞り、戦場全体を覆い隠すほどの、巨大な幻術を展開する。現実と幻が入り混じり、天使たちの認識が、一瞬だけ、混乱する。
その隙に、珠とパイモンは、怒りの神気に我を忘れて暴走しかけているマナと、そして、胸に巨大な光の槍が突き刺さったまま、血の海に倒れる海斗の身体を抱え、闇の中へと姿を消した。
やがて、幻術が晴れた後。
秋風が吹き抜ける龍の寝床に残されたのは、無数の亡骸と、胸を貫かれた青年の血だまり。
そして、その全てを、ただ冷徹に、そして静かに見下ろす、一体の、完璧なる天使だけだった。
0
あなたにおすすめの小説
**俺、東大院生の実験対象にされてた。**同居している美人家庭教師のやばい秘密
まさき
青春
俺は今、東大院生の実験対象になっている。
ある雨の夜、アパートの前にずぶ濡れの美女が立っていた。
「家庭教師です。住まわせてください」
突然すぎる申し出に困惑しながらも、なぜか断れなかった。
桐島咲楽、東大大学院生。成績は天才、料理は壊滅的、距離感はおかしい。毎日転ぶ、焦がす、なぜか距離が近い。そのくせ授業は鬼のように丁寧で、俺のことを誰よりもよく見ていた。
偏差値42だった俺の成績は、気づけば上がっていた。でも、それより気になることがある。
咲楽さんが、研究ノートに何かを書いている。「被験者」という文字が、見えた気がした。
距離が近いのは、データのためか。褒めてくれるのは、実験のためか。でも、あの顔は。あの声は。
「データじゃなくて、私がそう思っています」
嘘をついているような顔じゃなかった。
偏差値42の俺に、東大院生の美女が押しかけてきた。ドタバタな毎日の中で、俺の心臓が休まる暇がない。これはドキドキなのか、心配なのか。それとも、もう恋なのか。
不器用な天才と、鈍感な高校生の、やばい同居生活。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗@オートスキル第1巻発売中
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
至れり尽くせり!僕専用メイドの全員が溺愛してくる件
こうたろ
青春
普通の大学生・佐藤健太は目覚めると、自宅が豪華な洋館に変わり10人の美人メイドたちに「お目覚めですか、ご主人様?」と一斉に迎えられる。いつの間にか彼らの“専属主人”になっていた健太は戸惑う間もなく、朝から晩までメイドたちの超至れり尽くせりな奉仕を受け始める。
憂国の艦隊
みにみ
歴史・時代
1936年2月26日 東京にて二二六事件が発生 首謀した陸軍青年将校らは捕縛されるも
その考えは日本陸軍だけではなく海軍にも広がっていた
その頃、ライバルの消えた吉田善吾連合艦隊司令長官を筆頭とする連合艦隊司令部は南進論を展開し有利に進めていた
これに異議を呈したが連合艦隊司令部から駆逐艦長に飛ばされたのが主人公である菅野峯昌大佐である
彼は乗艦した試製嚮導駆逐艦眞風の乗員たちとともに翌年の連合艦隊演習で連合艦隊司令部ごと日本海軍の誇りである長門を物理的に撃沈せしめようとする 長門撃沈は成功するのか この世界の日本が歩む道は
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる