「彼女を拾うな」――謎の忠告を無視した俺の日常は崩壊した。記憶喪失の少女は世界を滅ぼす女神の『鍵』。

Gaku

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第三部:女神の覚醒と天魔妖怪の同盟

第28話:癒えぬ傷、届かぬ心

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 妖怪たちの隠れ里は、敗戦の匂いで満ちていた。
 それは、ただの比喩ではなかった。鼻をつくのは、血の鉄錆びた匂い、傷口に塗る薬草の青臭い匂い、そして、拭い去ることのできない死の気配。数日前まで、この盆地を満たしていた陽気な喧騒は嘘のように消え失せ、代わりに、あちこちの治療小屋から漏れ聞こえてくる、押し殺したような呻き声と、時折響く、仲間を失った者たちのすすり泣きだけが、重く、淀んだ空気を震わせていた。
 季節は秋の半ば。空は高く、どこまでも澄み渡っているはずなのに、この里の上だけには分厚い絶望の雲が垂れ込めているかのようだった。木々の葉は鮮やかな赤や黄色に色づいているが、その色彩さえも、今はまるで乾いた血の色のように、痛々しく目に映った。

 里で最も清浄な場所とされる、湖畔の小さな社。その一室に、相川海斗は寝かされていた。
 彼の胸には、ぽっかりと、大人の拳が二つは入ろうかというほどの、巨大な穴が空いていた。傷口の縁は、神聖な光によって焼かれ、黒く炭化している。呼吸は、か細い。時折、浅く胸が上下するだけで、その命が、今まさに指の間からこぼれ落ちていく砂粒のように、刻一刻と失われつつあることを、誰の目にも明らかに見せつけていた。
 マナが、その側に付きっきりだった。彼女の顔からは血の気が完全に失せ、まるで美しい陶器人形のように真っ白だった。その両手からは、絶え間なく、温かい黄金色の癒やしの光が放たれ、海斗の傷口へと注がれている。しかし、その光は、彼の身体に届く寸前で、まるで見えない壁に阻まれるかのように、虚しく霧散してしまう。彼の傷は、一向に塞がる気配を見せなかった。
「どういうことだ、これは。女神様の力をもってしても、あの小僧の傷は治せんというのか」
 社の入り口で、腕を組みながら中の様子を窺っていた鬼の頭領が、焦燥に満ちた、低い声で唸った。彼の巨躯も、先の戦いで受けた無数の傷でぼろぼろだったが、今はそれよりも、この人間の若者の容態の方が気にかかっているようだった。
 その問いに答えたのは、同じく部屋の隅の暗がりで、壁に寄りかかりながら静観していたパイモンだった。彼は、いつもの芝居がかった態度は鳴りを潜め、怜悧な学者の目で、海斗の傷口を覗き込んでいた。
「これは、ただの物理的な傷ではない。カマエルの神聖な力が、彼の魂そのものに、教会の杭のように深く、深く打ち込まれている。肉体を細胞レベルで修復しようとしても、その設計図である魂が、傷ついた状態を『是』としてしまっているのだ。我々悪魔の魔術でも、魂に直接干渉する術は禁忌中の禁忌。これは……」
 パイモンは、一度だけ言葉を切り、そして、残酷な事実を、無慈悲なほど冷静に告げた。

「手の施しようがない」

 事実上の、死の宣告だった。
 その言葉は、まるで冷たい氷の刃となって、マナの心を突き刺した。
 彼女の顔から、最後の感情さえもが抜け落ちていく。血の気が引く、という表現では生ぬるい。彼女の存在そのものが、まるで色褪せていくかのように、希薄になっていくのが分かった。

 (私の、せいだ)

 その思考は、音もなく、しかし何よりも明確に、彼女の心の中で響いた。
 (私が『鍵』だから、海斗は狙われた。私が、あんな力を持っているから、彼は私を庇って、あんな目に遭った。私がそばにいなければ、海斗は、今も、あの駄菓子屋の縁側で、くだらないことで笑っていたはずなのに)
 その思考が、猛毒のように、じわりじわりと彼女の魂を蝕んでいく。
 彼女は、海斗の傷口に癒やしの力を注ぎ続けている自分の手が、まるで、彼の命を奪うための毒を、懸命に注ぎ込んでいるかのように感じられた。この温かい光が、彼を死へと追いやる、呪いの光のように思えた。
 彼女は、悲鳴を上げるように、思わずその手を引っ込めた。
「マナ?」
 珠が、心配そうに彼女の顔を覗き込む。
 しかし、マナは何も答えなかった。彼女は、まるで夢遊病者のように、ふらふらと立ち上がると、一言も発さずに、その部屋を出て行ってしまった。

 彼女は、海斗の側にいること、その事実そのものが、彼を苦しめているのだと、完全に、思い込んでしまったのだ。

 それから、マナは海斗の病室に二度と近づこうとはしなかった。
 彼女は、里の隅にある、誰も寄り付かない古びた社の、朽ちかけた縁側に、ただ一人、膝を抱えて座り続けていた。食事も、水さえも、一切口にしない。誰が何を話しかけても、その耳には届かない。ただ、虚空の一点を見つめているだけ。その美しい翠色の瞳からは光が失せ、まるで感情というものを全てどこかへ落としてきてしまったかのような、空っぽの抜け殻だった。
 珠が持ってきた好物のラムネも、パイモンが淹れた極上の紅茶も、彼女の前で、ただ静かに冷えていくだけだった。
 彼女は、自らの手で、自分を牢獄へと閉じ込めていた。
 愛している。心の底から、愛している。だからこそ、そばにいられない。
 それは、彼女自身が作り出した、罪悪感という名の、最も残酷で、最も強固な牢獄だった。

 マナが心を閉ざすのと呼応するように、海斗の容態は、悪化の一途を辿っていた。
 彼の意識は、暗く、冷たい水の底を、どこまでも、どこまでも沈んでいくようだった。音のない、光のない世界。身体の感覚はもうない。ただ、魂だけが、ゆっくりと、重力に引かれるように、深い闇へと落ちていく。
 (このまま、消えるのか)
 不思議と、恐怖はなかった。ただ、どうしようもないほどの、心残りがあった。
 暗闇の中で、彼は必死に手を伸ばす。
 温かくて、優しくて、太陽のような、あの笑顔に。
 初めてアイスクリームを食べた時の、あの無邪気な顔に。
 水族館で、涙を流しながら「約束」してくれた、あのいじらしい顔に。
 もう一度、会いたい。
 もう一度、その声が聞きたい。

「……マナ」

 彼の、ひび割れた唇から、ほとんど音にならない、か細い声が漏れた。それは、彼の魂の、最後の力を振り絞った、祈りにも似た叫びだった。
 側にいてほしい、と。
 一人にしないでくれ、と。

 しかし、その声は、決して届かなかった。
 罪悪感という名の分厚い牢獄の壁に阻まれ、その切実な願いは、マナの心に届く前に、虚しく霧散していく。彼女は、海斗が自分を呼んでいるとも知らず、ただ「私が、彼を殺してしまう」という、出口のない絶望の中で、さらに深く、深く、心を閉ざし続けていた。

 里には、秋の冷たい雨が、しとしとと降り始めていた。
 それは、まるで、すれ違ってしまった二人の心を悼む、天の涙のようだった。雨は、傷ついた妖怪たちの心をさらに冷やし、里全体を、深い、深い悲しみの色に染め上げていった。

 その夜。
 雨が、嵐へと変わろうとしていた。風が吹き荒れ、木々が不気味にざわめいている。
 マナは、ついに、一つの決意を固めた。
 自分の存在こそが、この里にも、海斗にも、そしてこの世界にも、災いをもたらすのだ。ならば、自分が消えるしかない。誰にも知られず、誰にも迷惑をかけず、ただ一人、この世界から。
 彼女は、静かに立ち上がると、誰にも告げず、雨の降る深い闇の中へと、その姿を消そうとした。
 しかし、里の出口、巨大な注連縄が張られた鳥居の下で、二つの影が、まるで仁王像のように、彼女の行く手を塞いでいた。
 一人は、雨に濡れるのも構わず、腕を組んで立っている珠。
 もう一人は、どこから取り出したのか、黒いシルクの傘を優雅に差し、静かに佇んでいるパイモン。

「どこへ行く気だい、お嬢ちゃん」

 珠の、低く、鋭い声が、風の音に混じって響いた。
「やれやれ。最も非合理的で、最も愚かな選択をしようとは。君らしくもない」
 パイモンの声は、いつものように冷静だったが、その瞳には、珍しく、軽蔑とも違う、静かな怒りの色が宿っていた。

「……どいて。お願いだから」

 マナの声は、雨音にかき消されそうなほど、か細かった。
「私がいるから、みんなが不幸になるの。私が、消えれば、全て」
「逃げてどうするんだいッ!」
 珠が、これまで誰も聞いたことのないような、魂を震わせる声で、叫んだ。
 それは、老婆の姿の彼女からは想像もつかないほどの、激しい怒りと、そして、深い悲しみが込められた声だった。

「お前さんがいなくなったら、あいつは、今度こそ本当に死んじまうぞ! それでもいいって言うのかい!」

 その言葉は、雷鳴のように、マナの心を打ち抜いた。
 彼女の足は、まるで大地に縫い付けられたかのように、ぴたり、と止まった。
 (私が、いなくなったら、海斗が、死ぬ?)
 自分の信じていた理屈と、全く逆の現実。
 彼女の作り上げた牢獄の壁に、初めて、一本の、大きな亀裂が入った。

 雨は、ますます激しく、三人の姿を叩きつけていた。
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