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第三部:女神の覚醒と天魔妖怪の同盟
第29話:珠の過去、パイモンの覚悟
しおりを挟む秋の長雨が、妖怪たちの隠れ里を静かに濡らしていた。
しとしと、という単調な雨音だけが世界を支配し、傷ついた妖怪たちの呻き声さえも、その湿った静寂の中に吸い込まれていくようだった。里の中心にある、最も大きな集会所。その広間の中心では、大きな囲炉裏に焚かれた火だけが、ぱちぱちと音を立てて爆ぜ、頼りない光で周囲を暖かく照らしていた。
燃える炎が、そこに座る三つの影を、壁や天井に大きく、そして歪に映し出している。
一人は、罪悪感という名の牢獄から出られず、ただ茫然と炎を見つめるマナ。
一人は、彼女をどう慰めるべきか言葉を見つけられず、ただ静かに佇むパイモン。
そしてもう一人、老婆の姿をした珠が、立ち尽くすマナの手を無言で引き、囲炉裏のそばへと座らせた。
重い、重い沈黙が、三人の間に横たわっていた。それは、雨に濡れた綿のように、冷たく、息苦しい沈黙だった。
やがて、その沈黙を破ったのは、珠だった。
「昔、話をしたかねぇ。あたしが、なんでこんなに捻くれて、誰にも心を許さない、可愛げのない婆さんになっちまったのか」
彼女は、燃え盛る炎の奥に、遠い昔の景色を映すかのように、目を細めていた。その声は、いつものような棘のある響きではなく、ひどく静かで、ひどく乾いていた。
あれは、まだこの国が、侍なんてものが当たり前に刀を差して歩いていた、遠い、遠い昔の話さ。
あたしは、今みたいな大層な妖怪じゃなかった。ただの、どこにでもいる三毛猫だった。腹を空かせて、雨宿りのために潜り込んだお堂の軒下で、震えていたところを、一人の人間の娘に拾われたんだ。
その娘は、お武家様の、それはそれは大事にされているお姫様だった。だけど、生まれつき身体が弱くてね。ほとんどの時間を、日当たりのいい縁側で、布団にくるまって過ごしていた。
あたしの居場所は、いつもその娘の膝の上だった。
季節は、ちょうど今頃だったかねぇ。秋の柔らかな日差しが、磨き上げられた縁側の板の間を、蜂蜜色に染めていた。娘の小さな手が、あたしの背中を、そっと、優しく撫でる。その手の温かさが、あたしの世界の全てだった。彼女は、よく手毬唄を歌ってくれた。その、少しだけか細い、透き通るような声が、あたしは好きだった。
「珠」
彼女は、あたしにそう名前をくれた。
「ずっと、一緒だよ、珠。私が、珠を守ってあげるからね」
そう言って、彼女は笑うんだ。守られるのは、どう考えたってあたしの方なのにね。馬鹿で、お人好しで、どうしようもなく優しい娘だった。
あたしは、その言葉を信じていた。この、日だまりのように温かい時間が、永遠に続くものだと、何の疑いもなく信じ込んでいたんだ。
人間の一生なんて、猫からすりゃあっという間だ。いずれ彼女は歳を取り、あたしを置いていなくなる。そんな当たり前のことさえ、その時のあたしには、分かっていなかった。いや、分かろうとしなかったんだろうね。
悲劇は、いつも突然やってくる。
その頃のこの国は、まだあちこちで妖怪同士の、馬鹿げた縄張り争いが絶えなかった。ある夜のことさ。あたしたちが住んでいた屋敷のすぐ裏の森で、土地神の座を巡って、巨大な猪の妖怪と、古い熊の妖怪が、くだらない意地の張り合いを始めた。
地響きがして、木々がなぎ倒される音が聞こえた。あたしは、本能的な恐怖に、娘の布団の中に潜り込んだ。娘は、震えるあたしを、小さな腕でぎゅっと抱きしめてくれた。
「大丈夫よ、珠。私が、ついてるから」
その声が、彼女の最後の言葉になった。
巨大な岩が、屋敷の屋根を突き破って、部屋の中に落ちてきたんだ。
轟音。
視界が、真っ暗になった。
次に気づいた時、あたしは瓦礫の山の中にいた。幸い、あたしは身体が小さかったから、隙間にいて無事だった。でも、娘は。
彼女は、あたしを庇うように、覆いかぶさったまま、瓦礫の下敷きになっていた。
あたしは、必死で彼女の顔を舐めた。まだ、温かかった。でも、その温もりは、どんどん、どんどん、失われていく。
「ごめんね、珠……ひとりに、しちゃって……」
そう言って、彼女は、一度だけ、あたしの頭を撫でようとした。でも、その手は、途中で力なく、落ちた。
その瞬間、あたしの中で、何かが、ぷつりと、大きな音を立てて切れた。
悲しかった。
悔しかった。
そして何より、腹が立った。自分に。何もできなかった、無力な自分に。
(力が、欲しい)
心の底から、そう願った。
あんな理不尽な暴力から、大切なものを守れるだけの、絶対的な力が。
その、怒りと、悲しみと、絶望的なまでの無力感が、あたしという存在を、根っこから変えちまったんだ。世界が、ぐにゃりと歪んで見えた。自分の身体の奥から、経験したことのない、熱い何かが噴き出してくるのを感じた。気づいた時には、あたしの尻尾は、二つに裂けていた。
あたしは、強大な力を持つ妖怪「猫又」になった。
力を手に入れたあたしは、その原因になった二匹の妖怪を、半殺しにして森から追い出してやった。
でも、虚しかった。
力を手に入れた時には、一番守りたかったもんは、もう、どこにもなかったんだから。
珠は、そこで一度、言葉を切った。囲炉裏の炎が、彼女の深く刻まれた皺を、オレンジ色に照らし出している。その瞳は、涙に濡れているようにも見えた。
「それからあたしは決めたんだ。もう二度と、誰かに情けをかけたりはしない。守るものなんざ、作ったりはしないってな。失うのが、もう、怖かったからさ」
彼女は、ゆっくりと顔を上げ、マナの目を、真っ直ぐに見つめた。
「海斗の小僧を見てると、あいつを思い出しちまう。馬鹿みてぇに真っ直ぐで、自分のことより、人のことばっかりで。どうせろくな死に方しねぇタイプだよ、あいつは」
その言葉は、いつものようにぶっきらぼうだった。しかし、その奥には、どうしようもないほどの、深い優しさが滲んでいた。
「だから、見てられねぇんだよ。あたしと同じ思いを、お前さんには、させたくねぇんだよ。分かるかい、お嬢ちゃん」
それは、過去の、どうしようもない苦しみに囚われ続けてきた一人の妖怪が、初めて他者に見せた、魂の告白だった。
珠の告白が終わると、再び、静寂が部屋を支配した。ぱち、ぱち、と薪が爆ぜる音だけが、やけに大きく響いていた。
その静寂を、今度はパイモンの、静かで、落ち着いた声が破った。
「僕の話も、しておこうか。僕がなぜ、あの完璧主義者のカマエルと、敵対するのか」
彼は、囲炉裏の炎に、マナや海斗には見えない、遠い天界の記憶を映し出すかのように、目を細めた。
「君たちは、天界という場所を、素晴らしいところだと思っているだろう? 確かに、その通りだ。そこには、完璧な調和と、完璧な秩序、そして、永遠に続く静寂がある。実に美しい。だがね」
パイモンは、まるで極上のワインの味を確かめるかのように、ゆっくりと、言葉を続けた。
「あまりに美しすぎて、息が詰まるのだよ。そこには『変化』というものが、存在しないからだ」
彼の声は、ただの事実を述べているだけなのに、不思議な説得力を持っていた。
「僕は、知の探求者だ。そして、真の知性や、真の芸術というものは、混沌の中からしか生まれない。矛盾、非合理、予測不能な感情のゆらぎ、不完全なものがぶつかり合って生まれる、奇跡のような一瞬の火花。そういった、カマエルが『バグ』と呼んで、忌み嫌い、切り捨てようとしているものの中にこそ、新しい音楽も、新しい哲学も、新しい美も生まれるのだ」
彼の語る言葉は、この世界のあり方そのものを肯定する、力強い思想だった。思い通りにならないこと。移ろいゆくこと。形を持たないこと。それら全てを受け入れた上で、そこに美を見出すという、彼の覚悟。
「カマエルの創る完璧で静的な世界は、色が無く、音が無く、魂の起伏もない、ただの真っ白なキャンバスだ。全ての絵の具を捨て去った、完璧な白。そんなもの、死んでいるのと同じだよ。僕はね、ごちゃごちゃしていて、汚くて、矛盾に満ちているが、だからこそ美しい、この不完全な世界の方が、よほど好きなのさ」
それは、堕天使としての彼の、揺るぎない信念の告白だった。彼は、神に逆らったのではない。ただ、自らの美学に、どこまでも忠実だっただけなのだ。
守れなかった過去への、どうしようもない後悔。
守りたい未来への、揺るぎない願い。
妖怪と、悪魔。二人の、全く異なる立場からの、しかし「失いたくないもののために戦う」という点で共通した、魂からの想いが、マナの心を、強く、強く打った。
自分は、一人ではない。
自分の戦いは、自分だけのものではないのだと。
彼女が自ら作り出した、罪悪感という名の牢獄の、分厚い壁が、音を立てて崩れ始めていた。彼女の瞳に、囲炉裏の炎を反射して、再び、微かな、しかし確かな光が灯り始めた。
雨は、まだ、降り続いていた。しかし、その音はもう、悲しいだけには聞こえなかった。
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