「彼女を拾うな」――謎の忠告を無視した俺の日常は崩壊した。記憶喪失の少女は世界を滅ぼす女神の『鍵』。

Gaku

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第四部:反撃の序曲と女神の遺産

第36話:雷獣と風の欠片

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ぬらりひょんの隠れ里で過ごした束の間の平穏は、夜明けと共に終わりを告げた。季節は秋。里を包む朝霧はひんやりと肌を刺し、吐く息が白く見える。妖怪ネットワークからもたらされた最後の報告が、一行の旅立ちを促していた。

「間違いない。目標の山域では、この数時間でさらに霊的エネルギーの奔流が激化している、と。地元の天狗が、命からがら報せてきおったわい」

ぬらりひょんの言葉は、いつになく険しい。彼が広げた古い地図の一点、北関東と東北の境に連なる山塊が、まるで生きているかのように、淡い光を放っていた。古来「雷神の通り道」とされ、禁足地として人々から畏れられてきた場所。そこに、最初の「女神の涙」が眠っている。

出発の準備を進める一行の空気は、これまでとは明らかに違っていた。海斗は、パイモンから叩き込まれた膨大な知識を頭の中で反芻し、地図と気象情報を睨みながら、幾通りもの進入経路と起こりうる事態をシミュレーションしている。もう、ただ守られるだけの青年ではない。仲間を活かし、勝利へと導くための頭脳、司令塔としての自覚が、その横顔を精悍に見せていた。

マナは、自分の胸元で静かな光を放つ、チョーカーの形をしたグリゴリの遺産にそっと触れた。アスモデウスとの一件で取り戻した女神としての記憶。それは、彼女に強大な自覚をもたらすと同時に、力を使うたびに魂を苛む、天墜ちの瞬間のトラウマという呪いをもたらした。しかし、今の彼女の瞳に、迷いはなかった。隣で地図を睨む海斗の真剣な表情が、彼女の恐怖を打ち消し、揺るぎない覚悟へと変えていた。

「やれやれ、神性の発露としては典型的な顕現だ。だが、それ故に厄介極まりない」
パイモンは、この国の湿っぽい空気が心底気に入らないといった様子で、ステッキを磨きながら溜息をついた。
「膨大なエネルギーが無秩序に放出されている状態だ。嵐の中心には、とんでもない代物が待ち受けていることだろう。僕の美しいタキシードが泥だらけになる未来しか見えないね」

「ケッ、行く前から弱音かい、この西洋かぶれ。嫌ならここで留守番でもしてな」
老婆の姿に戻った珠が、旅支度の最後の確認をしながら、軽口を叩く。地獄での死線を共に越えた二人の間には、憎まれ口を叩き合いながらも、互いの背中を預けられる、確かな戦友としての絆が芽生えていた。

一行は、ぬらりひょんと、見送りに来た里の妖怪たちに別れを告げると、秋の澄み切った空の下、最初の目的地へと旅立った。人里を離れ、山道を進むにつれて、風景は目まぐるしくその姿を変えていく。麓ではまだ夏の気配を残していた木々が、標高を上げるにつれて、燃えるような赤や、目に鮮やかな黄色へとその衣を替えていく。風が吹くたびに、カサカサと乾いた音を立てて舞う落ち葉が、季節の移ろいを告げていた。

しかし、目的地である「雷鳴の山」の麓にたどり着いた時、一行は言葉を失った。そこだけが、まるで世界の法則から切り離されたかのように、異様な光景を呈していたのだ。

空を見上げれば、山頂を覆い隠すように、巨大で禍々しい雷雲が、まるで巨大な生き物のようにゆっくりと渦を巻いている。その雲の中心は、不気味な紫色に明滅し、数秒に一度、空を引き裂くような稲妻が走り、轟音を響かせていた。麓の木々は、秋の色彩も豊かなはずなのに、絶え間ない風雨と落雷に打たれ続け、その多くが黒く焼け焦げ、無残な姿を晒している。風の音は、ただの風音ではなかった。まるで何者かの苦悶の叫びが混じっているかのような、甲高い悲鳴となって一行の耳を打つ。そして、鼻孔をくすぐるのは、湿った土の匂いや木の実の香りではない。空気が電気を帯びた、鼻の奥がツンとするような、独特のオゾンの匂いだった。

「ひどいな」
海斗が思わず呟く。ここは聖域などではない。ただ、制御不能な力が暴走し、苦しんでいるだけの、巨大な傷口だった。

「行くぞ。長居は無用だ」
パイモンが魔術で作り出した不可視の障壁を先頭に、一行はついに禁足地へと足を踏み入れた。一歩、山に入っただけで、空気が変わる。凄まじい暴風が、容赦なく一行の身体を叩きつけ、歩くことさえままならない。そして、頭上からは、まるで意志を持っているかのように、落雷が次々と降り注いだ。

「ちぃっ!」
珠が、老婆の姿からは想像もつかない俊敏さで宙を舞い、海斗とマナを庇いながら、障壁の薄い箇所を補強するように動き回る。パイモンはステッキを地面に突き立て、障壁の維持に全神経を集中させていた。しかし、その顔には早くも疲労の色が浮かんでいる。消耗が、あまりに激しい。

「海斗! この嵐、ただの自然現象じゃない! まるで、俺たちを拒絶してるみたいだ!」
風の轟音に負けじと、珠が叫ぶ。その言葉に、海斗はハッとした。彼は目を閉じ、意識を集中させる。龍の寝床での戦いの後、マナの魂の欠片を分け与えられたことで芽生えた、新たな共感能力。それは、人ならざる者たちの感情の機微を、理屈ではなく「色」や「気」として、肌で感じ取る力だった。

彼の意識が、嵐の中心へと伸びていく。最初は、ただの暴力的なエネルギーの奔流しか感じられない。しかし、その激しい流れの、さらに奥深く。その源泉に意識を沈めていくと、そこには、全く違うものが渦巻いていた。

(くるしい)
(いたい)
(たすけて)

憎しみでも、殺意でもない。ただ、純粋で、どうしようもないほどの「苦痛」。それが、赤黒く、激しく明滅するオーラとなって、海斗の脳裏に焼き付いた。

「これは、敵じゃない!」
海斗は目を見開き、叫んだ。
「この嵐は、攻撃じゃないんだ! 助けを求める、悲鳴なんだ!」
その言葉に、珠とパイモンは訝しげな顔をしたが、司令塔としての彼の判断を信じ、攻撃の手を緩めた。海斗の指示に従い、一行は嵐の最も激しい中心部へと、一直線に進路を取った。

どれほどの時間を進んだだろうか。嵐の中心、全ての雷が生まれ、全ての風が渦巻く場所にたどり着いた時、一行はそこに広がる光景に、再び言葉を失った。

そこにいたのは、山の主たる、天を衝くような巨大な霊獣ではなかった。

岩場の中心で、ただ一匹。子犬ほどの大きさしかない、白銀の毛並みを持つ小さな獣が、身を丸めて震えていた。その姿は、伝説に聞く雷獣のものだろう。しかし、その小さな身体には、あまりに不釣り合いな代物が、その額に角のように埋め込まれていた。

「女神の涙」だった。

宝石は、雷獣の生命力を遥かに超える、膨大な神聖なエネルギーを、周囲の雷雲から絶えず吸収し、そして暴走させている。雷獣の身体は、その力の奔流に耐えきれず、全身から稲妻を迸らせ、その瞳からは苦悶の涙が溢れていた。彼が苦しみに身を捩るたびに、周囲に凄まじい嵐と雷がまき散らされていたのだ。

「そんな、あいつ、この力を」
マナが、痛ましげに声を漏らす。彼女は、力の奔流に苦しむ者の気持ちが、痛いほどに分かった。それは、少し前の自分自身の姿だったからだ。

一行が、雷獣のあまりに痛々しい姿に立ち尽くしていた、その時だった。

上空の厚い雷雲が、音もなく割れた。そして、そこから純白の翼を持つ五体の存在が、絶対的な静けさと共に、ゆっくりと舞い降りてきた。先頭に立つ一体は、他の天使たちよりも一回り大きく、その手に持つ光の槍は、一際強い輝きを放っている。能天使だ。カマエル派の、斥候部隊。

「ようやく見つけましたか。世界の歪みの元凶を」
能天使は、感情の欠片も映さない美しい瞳で、一行と、そして苦しむ雷獣を見下ろした。
「報告通り。穢れた獣が、神宝を取り込んで暴走しているようですね。ならば、話は早い」

能天使は、何のためらいもなく、冷徹に告げた。
「穢れた獣ごと、神宝を回収します」

彼らが弱った雷獣ごと欠片を奪おうと、五本の光の槍を、無慈悲に振りかぶる。

「させるかァッ!」

珠の咆哮が、雷鳴よりも鋭く響き渡った。彼女は、老婆の姿を瞬時に戦闘形態である猫又へと変じさせ、地を蹴る。その動きは、まさに黒い疾風。五本の光の槍が放たれるよりも速く、彼女は天使たちの陣形に突っ込み、その鋭い爪で空間そのものを切り裂いた。

「やれやれ、美しくない戦いは趣味ではないのだがね!」
パイモンもまた、ステッキを天に掲げ、地獄の紋様が描かれた巨大な魔術障壁を展開する。珠が掻い潜った光の槍が、障壁に突き刺さり、甲高い音を立てて霧散した。

「小僧の言う通り、あの獣は敵じゃねぇ! だったら、守るのがあたしらの仕事だろうが!」
「勘違いしないでくれたまえ。僕はただ、神の使いの傲慢な面を拝むのが、何よりも好きなだけだよ」

憎まれ口を叩き合いながらも、二人の連携は完璧だった。地獄での死線を越えた彼らは、もはや単なる協力者ではない。互いの呼吸、次の動き、その全てを理解し合う、唯一無二の戦友だった。珠が幻影のように動き回って天使たちの視界を攪乱し、完璧な陣形に僅かな綻びを作る。その隙を、パイモンの魔術が、狙い澄ましたかのように的確に撃ち抜く。格上の能天使を相手に、二人は一歩も引かず、時間を稼いでいた。

激しい戦闘が繰り広げられる、そのすぐ傍らで、海斗は叫んだ。彼の声は、もはや司令塔としてのものではなかった。それは、一人の人間としての、魂の叫びだった。

「マナ、行ってくれ! あいつを、雷獣を助けてやってくれ! あいつは、敵じゃないんだ!」

その言葉を、マナは待っていた。彼女は、海斗の瞳の中に、自分への、そしてあの苦しむ雷獣への、揺るぎない信頼を見た。それだけで、十分だった。トラウマの引き金になりかねない、自らの力を使うことへの恐怖は、もうどこにもなかった。

マナは、戦場を駆け抜けた。落雷が彼女のすぐそばの地面を抉り、天使の光の槍が髪を掠める。しかし、彼女は止まらない。一身に攻撃を受け止めるための、黄金色の防御結界を展開しながら、ただ一心に、苦しむ雷獣の元へと走る。

ようやくたどり着いた雷獣の前で、マナはそっと膝をついた。雷獣は、近づく彼女を威嚇するように、その小さな身体から激しい稲妻を迸らせる。しかし、マナは怯まなかった。彼女は、その震える額に、優しく、そっと、自分の手を触れた。

そして、目を閉じ、祈る。

彼女の心の中にあったのは、ただ一つ。自分と同じように、制御できない力の奔流に苦しむ、この小さな命への、深い共感と慈しみだった。彼女の「調和」の力が、その温かい想いに乗って、雷獣の魂へと流れ込んでいく。

それは、力を無理やり奪い取るのでも、強引に抑えつけるのでもない。荒れ狂う奔流に、ただ静かに寄り添い、その激しい流れを、穏やかで、雄大な大河へと導いていくような、母の祈りにも似た力だった。

「もう、大丈夫よ。もう、苦しまなくていいの」

マナの温かい神性に、雷獣の荒ぶる魂が、ゆっくりと、しかし確実に鎮められていく。彼の身体から迸っていた稲妻は、次第にその勢いを失い、やがて柔らかな光の粒子となって、空気中に溶けていった。

マナの祈りに呼応するかのように、山を覆っていた巨大な雷雲が、まるで分厚いカーテンが開くように、その中心から晴れ渡っていく。嵐は嘘のように止み、空には、秋の澄んだ空気をキャンバスにした、大きく、美しい虹がかかった。

雷獣の額に埋まっていた「女神の涙」が、穏やかで、清らかな青い光を放ち始める。そして、まるで熟した果実が枝から落ちるように、ぽろりと、マナの広げた手のひらの上に収まった。

我に返った雷獣は、力の奔流から解放された安堵に、くぅん、と子犬のような声で鳴いた。そして、自分を救ってくれた女神に感謝するように、その頬に優しくすり寄ると、やがて、この山の本来の守り神として、満ち足りた表情で、再び永い眠りについていった。

「退くぞ! 目的の反応は消失した!」
遠くで、能天使の忌々しげな声が響き、天使たちは一斉に天へと撤退していった。珠とパイモンも、深手を負いながらも、その場に駆けつけてくる。

最初の欠片を手にした一行は、静かに、その光景を見つめていた。彼らは、この旅が、単なる世界の運命を賭けたアイテム探しなどではないことを、この時、静かに悟っていた。

これは、世界の歪みを正し、傷つき、苦しんでいる者たちの魂を癒やすための、長く、そして尊い巡礼なのだと。

秋の柔らかな日差しが、虹の光と共に、一行と、そして安らかに眠る雷獣の姿を、分け隔てなく、優しく照らし出していた。
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