「彼女を拾うな」――謎の忠告を無視した俺の日常は崩壊した。記憶喪失の少女は世界を滅ぼす女神の『鍵』。

Gaku

文字の大きさ
38 / 75
第四部:反撃の序曲と女神の遺産

第38話:水底の都と河童の王

しおりを挟む


鬼の一族が嵐のように去っていった後の大広間には、気まずいほどの静寂と、解決されなかった問題の重みが、秋の冷たい空気と共に澱んでいた。妖怪社会に刻まれた深い亀裂。それは、海斗の魂の叫びによって、かろうじて決定的な決裂を免れたに過ぎない。次なる戦いで「結果」を示せなければ、この脆い同盟は砂の城のように崩れ去るだろう。

焦燥感が、一行の心を無言のうちに支配していた。

「……見つけたぞ」

数日後、ぬらりひょんの屋敷の一室で、パイモンが古文書の山から顔を上げた。彼の怜悧な瞳には、疲労の色と共に、確かな獲物を見つけた狩人の光が宿っている。同時に、屋敷の庭先で情報収集の任にあたっていたカラスの使い魔が、一枚の木の葉を咥えて飛び込んできた。ぬらりひょんの広大な妖怪ネットワークからもたらされた情報だった。

二つの、全く異なる源からの情報が、地図上の一点を、寸分の狂いもなく指し示していた。

「西日本の山中にある、巨大なカルデラ湖……『御神湖(みかみこ)』」
海斗が、地図上のその名を指でなぞる。
「言い伝えによれば、その湖の底には、太古の昔に一夜にして沈んだとされる、古代都市が眠っておるそうじゃ」
ぬらりひょんは、煙管をふかしながら、重々しく言葉を続けた。
「そして、そこは『人間を捨てた』河童たちの一族が、数百年にわたって隠れ住む、不可侵の聖域でもある。一筋縄ではいかんぞ」

その言葉に、一行は息を呑んだ。次なる相手は、天使でも、暴走した霊獣でもない。人間そのものに、深い絶望と不信を抱く、知性ある一つの社会だった。

御神湖は、その名の通り、神々しさと同時に、人を寄せ付けない厳かな空気を湛えていた。一行が湖畔にたどり着いた時、季節は秋の盛りを迎えようとしていた。湖を囲む山々の木々は、燃えるような深紅や、目に鮮やかな黄金色に染まり、その美しさは息を呑むほどだ。しかし、その華やかな色彩を映すはずの湖面は、まるで磨き上げられた黒曜石のように静まり返り、生命の気配というものを全く感じさせなかった。鳥の声も、虫の音も、風が木々を揺らす音さえも、この湖畔だけが、まるで世界の音響から切り離されてしまったかのように、存在しない。

「……気味が悪いねぇ。これほどの湖に、魚一匹、水鳥一羽の気配もしないとは」
珠が、鼻をひくつかせながら、警戒を露わにする。
「結界だ。湖全体が、強力な拒絶の結界で覆われている」
パイモンは、ステッキの先で湖面にそっと触れた。彼の指先に、ビリビリと静電気のような抵抗が走る。
「外部の生命を招き入れず、そして内部の気配を一切外に漏らさない。完璧な隠れ蓑だ。なるほど、これなら数百年、人間どもに見つからずに済んだわけだ」

海斗は、そのあまりに完璧な静寂に、かつてカマエルが語った「完璧な静止は死と同じ」という言葉を思い出していた。この美しい楽園は、その実、自らを生きた牢獄へと変えてしまっているのではないか。そんな予感が、彼の胸をよぎった。

「どうする? この結界、あたしとこの西洋かぶれが組めば、無理やりこじ開けることもできるだろうが」
珠の提案に、海斗は静かに首を横に振った。
「いや、それはダメだ。俺たちは、戦いに来たんじゃない。お願いをしに来たんだ」
彼は、仲間たちを見回して言った。
「武装は解こう。丸腰で、敬意を払って、彼らの領域にお邪魔させてもらうんだ」

その提案に、パイモンは心底面倒くさそうに肩をすくめ、珠は「甘っちょろいねぇ」と鼻を鳴らした。しかし、二人とも、司令塔である海斗の決定に異を唱えることはなかった。

「マナ、お願いできるか?」
「うん」
マナは、湖に向かってそっと両手を差し出した。彼女の手のひらから、温かい黄金色の光が放たれ、一行の身体をシャボン玉のような球状の結界で優しく包み込んでいく。それは、外部からの攻撃を防ぐためのものではない。水中で呼吸を可能にし、一行が敵意のない訪問者であることを示すための、「調和」の光だった。

準備が整うと、一行は静かに、その黒い水面へと足を踏み入れていった。

湖の底は、海斗の想像を遥かに超えた、幻想的な世界だった。
結界を通り抜けた瞬間、外界の秋の風景は嘘のように消え、どこまでも青く、どこまでも澄み切った、光に満ちた別世界が広がっていた。湖底に差し込んだ太陽の光が、湖水に溶け込んだ「女神の涙」の清浄な神気に乱反射し、まるでオーロラのように揺らめきながら、水中全体を明るく照らしている。

そして、その光の中に、太古の昔に湖の底へと沈んだという、古代都市の遺跡が、荘厳な姿を現した。石造りの神殿、広大な広場、天へと伸びる石柱。その全てが、悠久の時を経て、今では水草や色とりどりのサンゴに美しく覆われている。そして、遺跡の間を、まるで空を飛ぶ鳥のように、メダカやフナといった淡水魚の群れが、きらきらと鱗を輝かせながら泳ぎ回っていた。

しかし、その圧倒的な美しさの中に、海斗はどこか物悲しい違和感を覚えていた。生活の音が、一切しないのだ。家々からは炊事の煙も昇らず、広場には子供たちのはしゃぐ声もない。ここは、あまりに美しく、そしてあまりに静かすぎた。まるで、時間が止まってしまったかのような、完璧な箱庭。

一行が、その水底の都を呆然と眺めていると、遺跡の陰から、いくつもの小さな影が現れた。河童たちだった。彼らは、一行がイメージしていたような、おどろおどろしい妖怪ではなかった。背中に甲羅を背負い、頭に皿を乗せているのは同じだが、その顔立ちは人間の子どものように愛らしく、好奇心に満ちた大きな瞳で、遠巻きに一行を眺めている。

しかし、その子供たちの背後から現れた、大人たちの河童の視線は、全く違っていた。その瞳には、侵入者に対する、深く、そして冷たい警戒の色が浮かんでいた。彼らは、一行を威嚇するように、しかし決して手出しはせず、ただ静かに、都の中心にある最も大きな神殿へと、一行を導いていった。

神殿の最奥。巨大な一枚岩を削り出して作られた玉座に、その王は座していた。
その姿は、甲羅を背負った、ただの痩せた老人に見えた。しかし、その全身から放たれる存在感は、鬼の頭領とも、ぬらりひょんとも違う、静かで、それでいて抗いがたい威厳に満ちている。その深い皺の刻まれた顔と、全てを見透かすかのような瞳には、数百年の時を、ただの一族の長として生き抜いてきた者の、計り知れないほどの叡智と、そして、決して癒えることのない深い悲しみが、同居していた。

「……よくぞ参られた、外界の者たちよ」
その声は、湖の底の水のように、静かで、冷たかった。
「おぬしらが、何をしにこの都を訪れたか。言わずとも、分かっておる」

海斗が、覚悟を決めて一歩前に出ようとするのを、王は手のひらで制した。
「その『女神の涙』は、今やこの都の礎。我らが楽園の心臓じゃ。それを渡すということは、我らに、この安住の地を捨て、再び死ねと言うに等しい」
王の言葉は、静かだったが、その一言一句に、微塵の揺らぎもなかった。

彼は、ゆっくりと語り始めた。かつて、河童たちがまだ地上で、人間たちと共に暮らしていた時代のことを。川の恵みを分かち合い、時には豊漁を祝い、時には水害を共に乗り越えた、古き良き時代の記憶。

「じゃが、人間は変わった。いつしか奴らは、川の恵みに感謝する心を忘れ、我らをただの化け物と呼び、追い立て始めた。森を切り拓き、川を汚し、我らの住処を次々と奪っていった。この御神湖は、我らが命からがら逃げ延びた、最後の聖域なのじゃ」

王の言葉には、何百年という裏切りの歴史の重みが、ずしりと込められていた。それは、珠やパイモンでさえも、軽々しく反論することのできない、動かしがたい事実の重みだった。

「その人間どもが、今度は天の神々と争いを始め、世界が危うくなった。じゃから、助けてくれ、と。おぬしらの言うことは、そういうことじゃろう。ふざけるでないわ」
王の瞳に、初めて、燃えるような怒りの光が宿った。
「我らが楽園の礎を、人間が起こした争いのために、危険に晒すことなど、断じてできぬ!」

その、魂からの拒絶。それは、この交渉が、いかに困難であるかを、一行にまざまざと突きつけるものだった。

神殿に、重い沈黙が落ちる。その沈黙を破ったのは、マナだった。彼女は、静かに一歩前に出ると、その神々しいまでの存在感を、惜しむことなく解放した。その姿は、もはやただの少女ではない。世界の調和そのものを司る、慈悲深き女神だった。

「王よ。あなたの民を思う、その気高い心は、この宇宙で最も尊い調和の一つです。あなたの築き上げたこの美しい都もまた、奇跡と呼ぶにふさわしい」
マナの声は、穏やかだったが、神殿の隅々まで響き渡った。
「ですが、王よ。この美しい楽園もまた、世界という大きな器に浮かぶ、かけがえのない、しかし、か弱い小舟に過ぎません。今、その器そのものが、カマエルという名の巨大な嵐によって、砕け散ろうとしています。小舟の安全だけを必死に願っても、器が壊れてしまえば、蓄えられた水の一滴も、そこには残らないのです」

それは、全てが繋がり合い、互いに支え合って存在しているという、世界の、そして複雑系の、決して覆すことのできない理(ことわり)だった。

王は、マナの言葉に、ぐっと息を詰まらせた。彼の叡智は、マナの言葉が真実であることを、痛いほどに理解していた。しかし、それでもなお、過去の裏切りが、彼の心を頑なにした。

その、揺れる王の心の、最後の扉を開けたのは、海斗だった。

彼は、マナの隣に並ぶと、何の弁明も、何の言い訳もせず、ただ、深く、深く、その若い身を折り曲げ、玉座の前に額を擦り付けた。

「……俺は、人間です」
その声は、震えていた。
「過去の人間が、あなた方にしてきた、あまりに多くの、そしてあまりに酷い仕打ちを、俺が今ここで謝罪したところで、何も変わりはしないことなど、分かっています。あなた方の傷が癒えることも、失われた仲間が帰ってくることもない。だから、許してほしいなんて、そんな虫のいいことは言えません」

彼は、一度言葉を切ると、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は涙で潤んでいたが、その奥には、揺るぎない覚悟の光が灯っていた。

「でも、俺は、未来を変えたいんです」

「俺たちの子供や、孫の世代が、あなた方の子供や、孫たちと、この美しい湖で、もう一度、何の隔たりもなく、一緒に笑い合えるような、そんな未来を、俺たちの手で、もう一度、創りたいんです。だから、どうか、力を貸してください!」

女神が説く、世界の理。
そして、一人の、何の力も持たない人間が示す、未来への、不器用で、しかしどこまでも誠実な誓い。

王は、長い、長い沈黙の後、ゆっくりと、その重い瞼を開けた。そして、海斗の瞳を、その魂の奥底まで見透かすかのように、じっと、じっと見つめた。

やがて、その厳しい口元に、数百年ぶりとも思える、微かな、本当に微かな笑みが、浮かんだ。

「……小僧」
その声は、先ほどまでの冷たさが嘘のように、どこか温かい響きを帯びていた。
「おぬしのその目は、かつて我らを裏切り、その欲望に濁りきっていた、人間どもの目とは、違うようじゃな」

王は、ゆっくりと玉座から立ち上がると、一行を神殿の最奥、聖域の中の聖域である祭壇へと導いた。
そこには、清らかな湧き水で満たされた、古代の石の器があった。そして、その中心で、二つ目の「女神の涙」が、命の鼓動のように、静かで、力強い青い光を放っていた。

「信じよう」
王は、自らの手で、その宝石を厳かに取り上げた。
「女神の理ではない。おぬしという、ちっぽけな人間の、その真っ直ぐな瞳をな」

彼は、そのずしりと重い宝石を、海斗の両手に、そっと託した。それは、ただのアイテムの譲渡ではなかった。種族を超え、数百年という時を超えて交わされた、未来への信頼。その重みが、海斗の両の腕に、そして心に、深く、深く、刻み込まれた。

一行が、水底の都を後にする時、あれほど冷たい視線を向けていた河童たちが、今は静かに、しかし敬意を込めて、一行のために道を開けていた。

湖上に出ると、秋の夕日が、広大な湖面を、どこまでも続く黄金色の道のように、きらきらと染め上げていた。
しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

**俺、東大院生の実験対象にされてた。**同居している美人家庭教師のやばい秘密

まさき
青春
 俺は今、東大院生の実験対象になっている。  ある雨の夜、アパートの前にずぶ濡れの美女が立っていた。  「家庭教師です。住まわせてください」  突然すぎる申し出に困惑しながらも、なぜか断れなかった。  桐島咲楽、東大大学院生。成績は天才、料理は壊滅的、距離感はおかしい。毎日転ぶ、焦がす、なぜか距離が近い。そのくせ授業は鬼のように丁寧で、俺のことを誰よりもよく見ていた。  偏差値42だった俺の成績は、気づけば上がっていた。でも、それより気になることがある。  咲楽さんが、研究ノートに何かを書いている。「被験者」という文字が、見えた気がした。  距離が近いのは、データのためか。褒めてくれるのは、実験のためか。でも、あの顔は。あの声は。  「データじゃなくて、私がそう思っています」  嘘をついているような顔じゃなかった。  偏差値42の俺に、東大院生の美女が押しかけてきた。ドタバタな毎日の中で、俺の心臓が休まる暇がない。これはドキドキなのか、心配なのか。それとも、もう恋なのか。  不器用な天才と、鈍感な高校生の、やばい同居生活。

ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話

桜井正宗@オートスキル第1巻発売中
青春
 ――結婚しています!  それは二人だけの秘密。  高校二年の遙と遥は結婚した。  近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。  キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。  ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。 *結婚要素あり *ヤンデレ要素あり

至れり尽くせり!僕専用メイドの全員が溺愛してくる件

こうたろ
青春
普通の大学生・佐藤健太は目覚めると、自宅が豪華な洋館に変わり10人の美人メイドたちに「お目覚めですか、ご主人様?」と一斉に迎えられる。いつの間にか彼らの“専属主人”になっていた健太は戸惑う間もなく、朝から晩までメイドたちの超至れり尽くせりな奉仕を受け始める。

酔っぱらったせいで、勇者パーティーを洗脳してしまった

透けてるブランディシュカ
ファンタジー
悪友のせいで酔ったら。(※重複投稿しています)仲仁へび

憂国の艦隊

みにみ
歴史・時代
1936年2月26日 東京にて二二六事件が発生 首謀した陸軍青年将校らは捕縛されるも その考えは日本陸軍だけではなく海軍にも広がっていた その頃、ライバルの消えた吉田善吾連合艦隊司令長官を筆頭とする連合艦隊司令部は南進論を展開し有利に進めていた これに異議を呈したが連合艦隊司令部から駆逐艦長に飛ばされたのが主人公である菅野峯昌大佐である 彼は乗艦した試製嚮導駆逐艦眞風の乗員たちとともに翌年の連合艦隊演習で連合艦隊司令部ごと日本海軍の誇りである長門を物理的に撃沈せしめようとする 長門撃沈は成功するのか この世界の日本が歩む道は

一国一城の主を目指す!〜渇望の日々を超えて。

リョウ
ファンタジー
 何者かになりたかった。  だが現世でその願いは叶わず、男は敗北感と悲嘆を胸に沈んでいた。  そんな彼の前に現れたのは、一柱の女神。  導かれるまま異世界へ転移した男は、新たにレイと名乗り、剣も魔法も身分もない底辺から成り上がることを決意する。  冒険者として生きる術を学び、魔法を覚え、剣を磨き、人と裏社会を見極めながら、レイは少しずつ力を蓄えていく。  目指すのは、ただ生き延びることではない。  一国一城の主となり、この世界で“何者か”になること。  渇望を燃料に、知恵と執念で上へ上へと這い上がる、ファンタジー成り上がり譚。

勘当された少年と不思議な少女

レイシール
ファンタジー
15歳を迎えた日、ランティスは父親から勘当を言い渡された。 理由は外れスキルを持ってるから… 眼の色が違うだけで気味が悪いと周りから避けられてる少女。 そんな2人が出会って…

処理中です...