「彼女を拾うな」――謎の忠告を無視した俺の日常は崩壊した。記憶喪失の少女は世界を滅ぼす女神の『鍵』。

Gaku

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第四部:反撃の序曲と女神の遺産

第39話:集う欠片、カマエルの急襲

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鬼の一族が去った後の、ぬらりひょんの屋敷は、まるで祭りの後のような、寂寥とした空気に満ちていた。妖怪社会に刻まれた亀裂は、海斗の言葉によってかろうじて最悪の決裂を免れたものの、一度生まれた不信の種は、そう簡単には消え去らない。広間のそこここで、傷の手当てをする妖怪たちの間には、未だ重苦しい沈黙が澱んでいた。

「さて、感傷に浸っている暇はないらしい」

数日が過ぎた秋の昼下がり。一行が集う一室で、パイモンが古文書の山から顔を上げた。彼の瞳には、新たな発見の光が宿っている。ぬらりひょんの屋敷に身を寄せて以来、彼は膨大な妖怪の伝承と、自らの知識を組み合わせ、残る「女神の涙」の在処を不眠不休で探り続けていた。

「次の欠片の反応が、実に興味深い場所から発せられている。いや、懐かしい場所と言うべきかな」
パイモンが魔術で空中に描き出した地図。その光が指し示した一点を見て、海斗は息を呑んだ。
「まさか……俺たちの街だ」

そこは、彼がごく普通の大学生として暮らし、マナと出会い、そしてこの壮大な物語が始まった、あの街だった。妖怪も天使も存在しない、ただの日常があったはずの場所。そこに、神の力が眠っているというのか。

懐かしさと、一抹の不安。そして、失われた日常を取り戻すための旅が、再び始まりの場所へと回帰したことへの、奇妙な運命の巡り合わせ。様々な感情が、海斗の胸に渦巻いていた。

電車に揺られ、見慣れた駅に降り立った時、海斗の胸を突いたのは、安堵感だった。けたたましい発車ベルの音、ホームに溢れる学生たちの屈託のない笑い声、駅前のファストフード店から漂ってくる、少しジャンキーな匂い。全てが、異世界での死闘の日々がまるで嘘だったかのように、変わらずにそこにあった。

「へぇ、ここがあんたの住んでた街かい。やけに騒々しくて、ごちゃごちゃしてるねぇ」
珠は、老婆の姿で物珍しそうにキョロキョロと辺りを見回している。
「人間の欲望が、実に効率的に可視化された都市構造だ。美的センスは皆無だが、機能性という点では評価できる」
パイモンは、相変わらずの皮肉を口にしながらも、その目は好奇心に満ちて、高層ビルの群れを見上げていた。

一行は、反応の源を目指す前に、少しだけ寄り道をすることにした。それは、海斗の、そしてマナのささやかな願いだった。

最初に訪れたのは、駅前の公園だった。秋の日差しが、色づき始めた銀杏の葉を透かし、地面に金色の絨毯を広げている。
「あのベンチだ」
海斗が指差した先。そこで、マナは生まれて初めてアイスクリームを食べた。その冷たさと甘さに衝撃を受け、心の底から嬉しそうな、無邪気な笑顔を見せた、あの日の記憶。

「なあに、これ。冷たいのに、甘くて、幸せな味がする!」

幻聴のように、あの日のマナの声が蘇る。二人は、どちらからともなく顔を見合わせ、はにかむように微笑んだ。あの頃、彼女はまだ自分の名前以外、何も知らなかった。そして自分も、ただの平凡な大学生だった。

次に、昔ながらの商店街をゆっくりと歩く。八百屋の店先から響く威勢のいい声、香ばしい焼き鳥の匂い、ショーウィンドウに並んだ、少し時代遅れの洋服。初めて一緒に買い物に来た日、マナは見るもの全てに目を輝かせ、海斗はその純粋な反応の一つ一つを、愛おしく感じていた。

それは、失われた日常の欠片を拾い集めるような、切なくて、温かい時間だった。この当たり前の風景を守るために、自分たちは戦っているのだ。その実感が、海斗の覚悟を、より一層強く、硬くしていく。

そして、ついに一行は、全ての始まりの場所へとたどり着いた。
ビルとビルの間に挟まれた、昼でも薄暗い、あの雨の日の路地裏。ゴミ捨て場の生臭い匂いが、微かに鼻をつく。

「ここで、俺はマナを見つけたんだ」

海斗の言葉に、マナは記憶のないはずのその場所を、何かを思い出すかのように、じっと見つめていた。反応の源は、路地裏の最も奥、蔦の絡まったブロック塀の前に、忘れ去られたようにぽつんと佇む、小さな石の地蔵だった。長い風雪に耐え、その顔立ちはもう判然としない。しかし、その小さな石の塊は、この都会の片隅で、誰にも知られることなく、人々のささやかな祈りを受け止め続けてきたのだろう。

「このお地蔵様が……」

マナは、吸い寄せられるようにその前に膝をつくと、祈るように、そっと、その冷たい石肌に指を触れた。

その、瞬間だった。

彼女の胸元で輝いていた二つの「女神の涙」が、閃光のように激しい光を放った。地蔵に宿っていた三つ目の欠片が、その光に呼応し、まるで長い眠りから目覚めたかのように、脈動を始める。

三つの神性が、互いを求め、引き合い、そして、共鳴した。

「しまった!」
パイモンが叫んだ時には、もう遅かった。制御不能なほどの、清浄で、強大な神聖な波動が、マナを中心に爆発した。それは、ぬらりひょんがこの街全体に張っていた、気配を隠すための結界を、薄紙のようにあっさりと貫き、一条の光の柱となって、秋晴れの空の、その遥か上空へと、駆け上っていった。

街の全ての音が、ふっと消えた。

車の走行音も、人々の喧騒も、風の音さえも。まるで、巨大な真空のドームが、世界を覆ってしまったかのように。空気が、冬の早朝のように張り詰め、凍りつく。

そして、空が、音もなく、割れた。

光の柱が突き抜けた天の一点から、まるで黒いインクが純白の紙に染み込むように、何かが滲み出してくる。それは、ゆっくりと形を成し、やがて、絶対的な静けさと共に、地上へと降下してきた。

純白の翼。完璧なまでに美しい、神々しい青年。
力天使の長、カマエルだった。

「ようやく見つけました、世界の歪みの元凶を」

彼の声は、どんな感情も乗せない、ただの音の羅列。しかし、その響きだけで、周囲の空間そのものが震え、魂が凍りつくような、絶対的な神威に満ちていた。

彼の狙いは、マナと、彼女が持つ三つの欠片のみ。彼が地上に降り立ち、その瞳がマナを捉えた瞬間、彼の全身から、目に見えない神威の波動が放たれた。

「ぐっ!」
「なっ!」

その波動の余波を受けただけで、珠とパイモンは、まるで巨大なハンマーで殴りつけられたかのように、凄まじい勢いで吹き飛ばされた。二人の身体は、路地裏のコンクリートの壁に強かに叩きつけられ、呻き声を一つ上げたきり、ぴくりとも動かなくなった。

絶望的なまでの、力の差。

「マナ! 逃げるぞ!」

海斗は、恐怖に凍りつくマナの手を引き、必死で走り出した。目指す場所は、一つしかなかった。この路地裏を抜けた先にある、自分たちの「家」。あの、六畳一間の、古びたアパート。

しかし、それはカマエルの掌の上で踊る、哀れな蝶の逃避行に過ぎなかった。

アパートの階段を駆け上がり、震える手で鍵を開け、部屋に転がり込むように逃げ込む。息を切らし、背中をドアに預け、荒い呼吸を繰り返す。

静寂。

あまりの静けさに、海斗は、ドアの向こうに、もうカマエルはいないのではないかと、淡い期待を抱いた。
その期待は、ドアノブが、何の音もなく、ゆっくりと回り始めたことで、無残に打ち砕かれた。

カチャリ、と。乾いた音が響く。ドアが、ゆっくりと開く。
そこに立っていたのは、純白の翼を静かに広げ、部屋の薄暗がりの中で、神々しい光を放つカマエルだった。

「ここがお前たちの巣か。実に矮小で、不完全な空間だ」

彼は、ゆっくりと部屋に足を踏み入れる。そして、海斗の心を、最も残酷な方法で破壊するための、静かな「儀式」を始めた。

彼は、まず、部屋の隅にある小さなキッチンに目を留めた。海斗が、記憶のないマナのために、初めてぎこちない手つきでスープを作った、その場所。
カマエルは、そのステンレスのシンクに、指先一つでそっと触れた。
「お前の愛」
その瞬間、シンクも、コンロも、壁にかかったお玉さえも、何の音もなく、たださらさらと、細かい砂の粒子となって崩れ落ちていった。

「お前の日常」
次に彼が指し示したのは、部屋の中央に置かれた、二人で座るには少し小さい、安物のソファ。そこで、二人はテレビを見て笑い合い、時には言い争い、そして、初めてアイスクリームの思い出を語り合った。
カマエルの視線が注がれただけで、ソファは、その存在を維持できず、まるで陽炎のように揺らめき、消え失せた。

「お前の思い出」
最後に、彼の視線は、部屋の奥に敷かれた二組の布団へと向けられた。マナが悪夢にうなされた夜、海斗が彼女を必死に抱きしめた、あの場所。
「その全てが、世界を不完全にし、穢れを生む、許されざるバグなのだ」
布団も、畳も、そして、二人の思い出が染み込んだ部屋の壁さえもが、静かに、しかし確実に、その存在を消し去っていく。

「やめろ……やめろぉぉぉっ!」

海斗は、マナを背中に庇いながら、絶叫し、カマエルに向かって飛びかかった。しかし、その拳は、カマエルの身体に届く前に、見えない障壁に阻まれる。彼は、まるで邪魔な虫を払うかのように、左手で軽く海斗をあしらう。海斗の身体は、紙屑のように宙を舞い、崩れゆく壁の残骸に叩きつけられた。

「ぐっ、はっ……!」
口の端から、赤い血が伝う。全身を打撲し、骨が軋む。しかし、肉体の痛みなど、どうでもよかった。心が、引き裂かれるように痛い。自分たちの生きた証が、その温もりが、思い出が、目の前で「無かったこと」にされていく。

「お前の目の前で、その全てを、消去してやろう」

カマエルの冷たい声が響く。
六畳一間のアパートは、もはやその原型を留めていなかった。床は抜け落ち、壁は崩れ、天井には大きな穴が空いている。そこから見える秋の夜空の月が、まるで瓦礫の墓標を照らすかのように、青白い光を投げかけていた。

二人の「家」は、跡形もなく、消え去った。

海斗は、瓦礫の中に膝をつき、もはや立ち上がる力も残っていなかった。彼の心は、肉体の痛み以上に、日常が、思い出が、愛する場所が、完全に失われたという、絶対的な絶望で満たされていた。

カマエルは、もはや抵抗する力もない海斗を、そしてその背後で震えるマナを、静かに見下ろした。
そして、とどめの一撃として、その右手に、天の光を収束させた、眩いばかりの槍を、ゆっくりと形成していく。

「塵芥は、塵芥らしく、静かに消えなさい」

光り輝く神の槍が、絶望に打ちひしがれる海斗の頭上へと、静かに、そしてゆっくりと、振り下ろされた。
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