「彼女を拾うな」――謎の忠告を無視した俺の日常は崩壊した。記憶喪失の少女は世界を滅ぼす女神の『鍵』。

Gaku

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第五部:女神の遺産と人の叡智

第41話:ぬらりひょんの隠れ家

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夜が明ける。
空が白み始め、柔らかい朝焼けの光が、世界に色を取り戻していく。しかし、その光が照らし出したのは、希望ではなく、無残な喪失の光景だった。相川海斗とマナが住んでいたアパートは、その場所ごと、巨大な獣に抉り取られたかのような、虚ろな空洞と化していた。

鉄骨は飴のようにひん曲がり、コンクリートの壁は粉々に砕け散っている。かつてそこに人々の生活があったことなど、まるで信じられない。焦げ付いた匂いと、乾いたコンクリートの粉塵が風に舞い、日の光がその粒子をきらきらと照らす様は、非現実的なほどに静かで、美しくさえあった。

海斗は、その瓦礫の山を前に、ただ呆然と立ち尽くしていた。怒りも、悲しみも、昨夜の激闘の中で燃やし尽くしてしまったかのようだ。心の中は、がらんどうだった。帰る場所。その概念そのものが、この物理的な空間と共に、彼の内側から消え去ってしまった感覚。すぐ近くには、マナが初めてアイスクリームを食べた公園のベンチが見える。子供たちの笑い声が聞こえてきそうなその場所だけが、まるで違う世界の風景のように感じられた。

マナは、瓦礫の中にそっと足を踏み入れた。足元の覚束ない、壊れ物を探すような歩き方。やがて彼女は何かを見つけ、ゆっくりと屈み込むと、小さな陶器の破片を拾い上げた。焦げ茶色の、何の変哲もないマグカップの欠片。海斗が、記憶を失った彼女のために、最初に買ってくれたものだった。彼女の大きな瞳から、一筋の涙が静かにこぼれ落ち、乾いた瓦礫の粉に小さな染みを作った。それは自分の悲しみ以上に、海斗から「思い出」という、二度と取り戻すことのできない宝物を奪ってしまったことへの、痛切な罪悪感から来る涙だった。

その、絶望的なまでに静かな空間に、場違いなほど穏やかな声が響いた。

「良い眺めじゃな。形あるものは、いつか必ず壊れる。それが、この世の理(ことわり)よ」

[cite_start]はっとして振り返ると、いつからそこにいたのか、路地裏の影が濃くなったような場所に、一人の老人が立っていた。高価だが華美ではない着物を粋に着こなし、柔和な笑みを浮かべている。ぬらりひょんだった [cite: 12]。彼の言葉は、あまりに平坦で、冷たくさえ聞こえる。しかし、その静かな瞳の奥には、憐れみとは違う、もっと深く、確かな意志の色が宿っていた。

「感傷に浸るのも結構じゃが、それで腹は膨れんし、敵も待ってはくれん。お主らには、次の戦支度のための『根城』が必要じゃろう」

ぬらりひょんは、有無を言わせぬ口調で言うと、一行を手招きした。パイモンは胡散臭そうに眉をひそめ、珠は意外そうな顔でぬらりひょんと海斗たちを交互に見ている。

ぬらりひょんが一行を導いたのは、アパートの残骸からほど近い、忘れ去られたような古い蔵だった。蔦の絡まる分厚い木の扉に手をかけ、ぎぃ、と重い音を立てて開くと、その向こうには、あり得ない風景が広がっていた。

夕暮れ時の、どこまでも広がる田園。黄金色の稲穂が風に揺れ、畦道には彼岸花が燃えるように咲いている。遠くの小川では蛍が舞い始め、その奥には、山の稜線に溶け込むようにして、荘厳な屋敷がそびえ立っていた。時間の流れも、空気の匂いも、先ほどまでいた現実の世界とは全く違う。懐かしい土の匂いと、草いきれの匂い。それは、日本という国の、失われた原風景そのものだった。

「こ、これは」

海斗は言葉を失う。マナも、そのあまりに美しく、穏やかな光景に目を奪われていた。失われた日常とは全く違う、しかし、魂の故郷に帰ってきたかのような、不思議な安らぎがそこにはあった。

「ようこそ。我らがあやかしの隠れ里へ」

屋敷は、ぬらりひょんの言葉通り、まさにあやかし達の巣窟だった。傷だらけの河童たちが霊泉の湧く湯治場で傷を癒やし、一つ目の小僧たちが楽しそうに駆け回っている。「龍の寝床」での戦いで深手を負った鬼の一人が、湯気の向こうで海斗に気づき、無言で片目を瞑って見せた。彼らは一行に気づくと、一様に歩みを止め、畏敬と好奇心の入り混じった、しかし敵意のない視線を向けた。

屋敷の広大な縁側で、ぬらりひょんは自ら茶を振る舞った。眼下に広がる里の風景を眺めながら、彼は静かに語り始めた。

「カマエルという天使のやり方は、無粋の極みじゃ。虫一匹、草一本に至るまで、全てを己の理屈通りに塗りつぶそうなど、傲慢も甚だしい。多様性も混沌も認めぬ世界など、墓場と同じことよ。それは、我らあやかしの存続をも脅かす」

彼の言葉は、同情ではなかった。利害の一致。そして、合理的な判断だった。

「この里を、お主らの新しい根城とするがよい。わしの持つ、日ノ本全国の妖怪網も、好きに使うがいいさ。お主らが、あの無粋な天使の鼻を明かしてくれるというのなら、それくらいの投資は惜しまんよ」

[cite_start]それは、妖怪社会の総大将からの、全面的な協力の約束だった [cite: 6, 17]。

[cite_start]海斗とマナは、顔を見合わせた。彼らは、人間社会における「日常」という拠点を、完全に失った [cite: 1, 20][cite_start]。しかし、その代わりに、妖怪社会の心臓部という、比較にならないほど強力な後ろ盾と、新しい拠点を得たのだ [cite: 6, 17, 22]。失ったものの大きさは、まだ計り知れない。だが、今は前を向くしかなかった。

眼下には、様々な姿形の妖怪たちが、それぞれの時間を生きている。夕餉の支度をする者、酒を酌み交わす者、傷を癒やす者。不完全で、バラバラで、混沌としている。だが、そこには確かな「生活」の温もりがあった。カマエルが消し去ろうとしている、美しき混沌が。

(ここからだ)

海斗は、心の中で呟いた。

(ここから、俺たちの反撃が始まるんだ)

マナも、同じ気持ちだった。彼女は、海斗の隣で、静かに、しかし力強く頷いた。二人の瞳には、同じ決意の光が燃えていた。
夕焼けが、隠れ里の全てを、優しい茜色に染め上げていた。
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