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第五部:女神の遺産と人の叡智
第42話:人に紛れる敵
しおりを挟むぬらりひょんの隠れ家に拠点を移してから、数日が過ぎた。
季節は秋も半ばを過ぎ、里の木々は最後の紅葉を惜しむかのように、燃えるような深紅や黄金色にその身を染め上げていた。朝晩の空気は肌を刺すほどに冷たく、澄み渡った空はどこまでも高く、近く、まるで一枚の青いガラスのようだ。
屋敷の一室は、急ごしらえの作戦司令室と化していた。本来であれば、美しい掛け軸でも飾られているべき床の間には、日本全土を示す巨大な地図が広げられ、その上をパイモンの魔術によって描き出された、占星術の紋様や龍脈を示す幾何学的な光の線が、ゆっくりと明滅を繰り返している。壁には、全国の妖怪ネットワークから寄せられた情報を示す、無数の木札が打ち付けられていた。「〇〇山にて、天の気配強く、山のヌシ警戒」「△△沼、原因不明の水位低下」。それらは、この国の霊的なバランスが、静かに、しかし確実に崩れ始めていることを示していた。
その膨大な情報の奔流の中心に、相川海斗はいた。
「パイモンさん、この前の雷鳴の山と、今回の候補地の龍脈上の繋がりは?」「珠さん、その地域を縄張りにしている妖怪で、何か妙な動きをしている奴はいますか?」
司令塔として、彼はもはや以前のような戸惑いを見せてはいなかった。パイモンが持つ悪魔としての体系的な知識、珠が持つ妖怪としての経験則、そして各地の妖怪たちからもたらされる断片的な地の利。それら性質の全く異なる情報を、彼は冷静に整理し、分析し、一つの結論へと収束させていく。カマエルとの死闘の末に芽生えた共感能力は、地図の上に浮かぶ地名や報告の文面から、その土地に渦巻く人ならざる者たちの「感情」の気を、微かに感じ取れるようになっていた。
「奇妙だ」
パイモンが、細い指で自身の顎を撫でながら呟いた。
「次の『女神の涙』の欠片が、極めて微弱ながら、この大都市の中心から反応を発していることは間違いない。だが、これほどの神聖なエネルギーの塊がそこにあるのなら、それを喰らおうとする悪食な妖怪や、浄化しようとする天使の気配があって然るべきだ。それらが、全くと言っていいほど観測されない」
海斗も、地図の一点――世界で最も混沌とした都市、新宿――を睨みつけながら、同じ違和感を覚えていた。彼の感覚にも、その場所からは、他のパワースポットのような、純粋な霊気や敵意の気配が感じられない。ただ、何か別の、異質で、巨大な感情の渦だけが、そこにある。
「百聞は一見に如かず、だねぇ。行ってみりゃあ、分かるこった」
珠が、老婆の姿で退屈そうに欠伸をしながら言った。その一言が、方針を決定づけた。
***
その日の午後、海斗たちは新宿の雑踏の中にいた。
空を覆い尽くす巨大なスクリーンからは、耳をつんざくような広告の映像と音楽が絶え間なく降り注ぐ。ネオンサインの洪水が、まだ日の高い街をけばけばしい色で染め上げ、スクランブル交差点では、目的も表情も違う無数の人々が、ぶつかり合い、すれ違い、一つの巨大な情報の奔流となって渦を巻いていた。
「やれやれ。地獄のどの階層よりも混沌としていて、美学のカケラもない場所だ」
パイモンは、この旅のために新調したらしい、趣味の悪いサングラスの奥で、心底うんざりしたように眉をひそめた。彼は今回、目立ちすぎるという理由で留守番だったが、小型の使い魔を通して、海斗たちと意識を共有している。
「ケッ、これだから田舎もんは好かねぇ。ごちゃごちゃしてるくらいが、ちょうどいいんだよ」
珠は、少し気の強い姉といった風情で、人混みを巧みにすり抜けていく。海斗とマナは、ごく普通の大学生にしか見えない、ありふれた服装でその後に続いた。
しかし、海斗の内面は、穏やかではなかった。彼の進化した共感能力が、この街に渦巻く、剥き出しの感情の奔流を、暴力的なまでの色彩として捉えていた。一攫千金を夢見る欲望の赤。誰にも理解されない孤独の青。未来への漠然とした不安が織りなす、淀んだ灰色。様々な色が混じり合い、彼の精神を直接揺さぶってくる。まるで、巨大な感情の汚泥の中を歩いているかのようだ。
その、あまりに混沌とした色彩の中で、彼はひときわ異質で、強力な一つの「流れ」を感知した。
それは、赤でも青でもない。純粋な、しかしどこか狂信的な「熱狂」を示す金色と、盲目的な「祈り」を象徴する乳白色が混じり合った、力強い感情の奔流。それは、この街の至る所から湧き上がり、まるで巨大な川となって、西新宿の高層ビル群の一角へと、吸い込まれるように集まっていた。
「こっちだ」
海斗は、その感情の流れを頼りに、人混みをかき分けて進んでいった。
たどり着いたのは、ガラス張りの、ひときわ近代的な高層ビルだった。そのエントランスには、「人生を輝かせるための自己啓発セミナー」という、どこにでもありそうな看板が掲げられている。しかし、中へ吸い込まれていく人々の瞳には、一様に、ある種の陶酔したような光が宿っていた。海斗が感じ取った感情の奔流は、間違いなくここから発せられていた。
「『暁の光輪』。最近、急成長している新興の団体だねぇ。代表の男が、やけにカリスマ性があって、信者がネズミ算式に増えてるって噂だ」
珠が、どこから仕入れてきたのか、そんな情報を呟く。
一行は、一般参加者を装い、そのセミナー会場へと足を踏み入れた。
ホールは、数百人の人々で埋め尽くされ、異様な熱気に包まれていた。ステージの上には、純白のスーツに身を包んだ、人の良さそうな笑みを浮かべた中年の男が立っている。彼が、この団体の代表らしかった。男は、甘く、しかし力強い声で、集まった人々に向かって語りかけていた。
「皆さんは、苦しんでおられます。病、貧困、孤独。なぜ、真面目に生きる皆さんが、これほどまでに苦しまねばならないのか。それは、この世界そのものが、不純な『穢れ』に満ちているからです!」
その言葉に、聴衆が大きく頷く。男は、さらに言葉を続けた。
「しかし、嘆くことはありません。間もなく、この穢れた古い世界は終わりを告げます。そして、天より遣わされし『光の使者』様の導きによって、選ばれた清らかな魂だけが、新しい世界へと旅立つことができるのです!」
その瞬間、会場の熱気は最高潮に達した。人々は立ち上がり、恍惚とした表情で拍手を送り、「光の使者様に栄光あれ!」と叫んでいる。その光景は、海斗にとって、あまりに異様で、そして、どこか悲しいものに映った。
『面白い。神の駒が、今度は人間の駒を手に入れたか。最も脆く、そして最も扱いやすい駒をね』
パイモンの、冷ややかな声が頭に響く。男が語っているのは、まさしくカマエルの思想そのものだった。それを、救いを求める人々の心に最も響くよう、巧みに言い換え、利用しているのだ。
海斗は、熱狂する信者たちの顔を、一人一人、見つめた。彼らは、決して狂人ではない。顔に深い疲労の色を浮かべた主婦。リストラされたのか、サイズの合わないスーツを着た中年男性。誰にも相手にされず、孤独に怯える若い女性。彼らの顔には、現実世界でどうしようもない苦しみ(苦諦)を抱え、そこから何とかして逃れたいという、切実な願いが浮かんでいた。彼らは、この教団の教えという、安易で、しかし魅力的な救済(偽りの滅諦)に、藁にもすがる思いでしがみついているだけなのだ。
カマエルは、人間の「苦しみ」そのものを利用している。彼は、苦しみの原因が「世界の不完全さ」にあると断じ(集諦)、その「完全な浄化」こそが唯一の解決策なのだと、人々の耳に心地よい福音として囁いている。それは、仏教が説く「四諦」の構造を、最も邪悪な形で悪用した、巧妙なプロパガンダだった。海斗は、敵意よりも先に、彼ら信者たちに対して、一種の共感と、そして深い憐れみを覚えていた。
セミナーが終わり、人々が陶酔した表情で会場を後にしていく中、海斗たちは、幹部らしき数人の男たちが交わす会話を、壁際で聞き耳を立てていた。
「例の『聖遺物』の在処、かなり絞れてきたらしいな」
「ああ。代表が仰るには、この街の最も古い『記憶』が眠る場所に、それはある、と」
「間もなくだ。間もなく、我らが『光の使者』様をお迎えできる」
その言葉に、海斗は息を呑んだ。奴らもまた、「女神の涙」を探している。そして、自分たちよりも、さらに具体的な手がかりを掴んでいる。
『どうやら、のんびり感傷に浸っている暇はなさそうだね』
パイモンの声が、海斗の気を引き締めた。一行は、顔を見合わせ、静かに頷き合う。次の目的地は、決まった。この教団の本部施設。そこに潜入し、奴らより先に、欠片を手に入れる。
ビルを出ると、新宿の空は、すでにけばけばしいネオンの光に支配されていた。海斗は、街に渦巻く欲望と孤独の色の中に、あの狂信的な金色の流れが、以前よりもさらに太く、力強くなっているのを感じていた。
敵は、天上にいる神の使いや、闇に潜む妖怪だけではない。救いを求めた結果、最も危険な道を歩み始めてしまった、弱く、そして哀しい「人間」もまた、この戦いの、紛れもない当事者なのだという事実を、海斗は改めて痛感していた。
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