「彼女を拾うな」――謎の忠告を無視した俺の日常は崩壊した。記憶喪失の少女は世界を滅ぼす女神の『鍵』。

Gaku

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第五部:女神の遺産と人の叡智

第49話:九尾の取引

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殺生石が砕け散った瞬間、那須野ヶ原は、その死せる貌(かんばせ)を一変させた。

千年の封印から解き放たれた玉藻前の妖力が、現実の法則を塗り替えていく。黒く焼けただれた大地から、突如として季節外れの妖しい桜が咲き乱れ、その花びらは燐光を放ちながら風に舞った。空には無数の狐火が、提灯のように、あるいは魂のように揺らめき、血のように赤かった月光を乱反射させて、世界を幻惑的なまでに美しく、そして危険な色彩に染め上げていく。硫黄の匂いは消え、代わりにむせ返るような甘い花の香りが戦場を満たしていた。
それは、伝説の大妖怪が作り出した、現実と幻が入り混じる広大な結界。美しき死の庭園だった。

「フフ……アハハハハハ!」

その世界の中心で、玉藻前は、心底楽しそうに笑っていた。
彼女の背後で優雅に揺れる九本の巨大な尾が、それぞれ独立した意志を持つかのように動き出す。

一本の尾がしなやかに振られると、そこから放たれた業火が、天の軍勢の一角を巨大な火球となって飲み込んだ。天使たちの聖なる鎧は、その地獄の炎の前では紙のように燃え上がり、断末魔さえ残さずに光の塵と化していく。
また一本の尾が揺らめくと、戦場に濃密な霧が立ち込め、天使たちは方向感覚を失い、同士討ちを始めた。それは、精神を直接蝕む強力な幻術だった。
雷を呼ぶ尾、吹雪を巻き起こす尾、大地を裂く尾――。

完璧な秩序と統率を誇っていた天の軍勢は、その予測不能な多角的攻撃の前に、いとも容易く陣形を崩されていく。一人の敵を相手にしているのではない。まるで、東西南北、天地の全てから、同時に奇襲を受けているかのようだった。

だが、その猛威は、敵だけに向けられているわけではなかった。
玉藻前が放った雷撃の余波が、近くにいた妖怪たちを数体まとめて黒焦げにする。咲き乱れる桜の花びらに触れた鬼は、その身体を石のように変えられ、そのまま崩れ落ちた。

彼女にとって、天使も、妖怪も、人間も、等しく矮小で、取るに足らない存在に過ぎなかった。千年の眠りを妨げた、不愉快な虫けら。ただそれだけだ。
戦況は、もはや三つ巴とさえ呼べない、純粋な混沌(カオス)と化していた。このままでは、天の軍勢が壊滅する前に、地の軍勢が共倒れになる。

「(これだ……これしかない!)」

隠れ里の本陣で、モニターに映る地獄絵図を睨みつけながら、海斗は一つの結論に達していた。彼の共感能力が、玉藻前から放たれる、憎悪と殺意の嵐の奥底に、微かに震える別の感情を捉えていた。それは、崇徳上皇が抱いていたものと同じ、深い孤独と、呪縛からの解放を願う魂の叫びだった。

「マナ、聞こえるか」

海斗は、通信機越しに、隣の部屋で戦況を見守るマナに語りかけた。

「彼女と話してくれ。力ずくじゃ駄目だ。あんたなら、彼女の本当の声が聞こえるはずだ!」

「……うん、わかってる」

マナの返事は、短く、しかし迷いのないものだった。彼女もまた、同じ結論に至っていた。この戦いを終わらせる唯一の方法は、混沌の源である玉藻前と、魂のレベルで対話すること。

「時間を稼ぐ! 行けッ!」

海斗の指示が、前線の妖怪たちへと飛ぶ。その無謀な命令に応えたのは、チームの切り込み役である珠とパイモン、そして同盟から離反しながらも、この決戦に駆けつけていた鬼の一族の頭領だった。

「面白ぇ! あの化け狐の気を引けばいいんだろ!」

鬼の頭領が、巨大な金棒を大地に叩きつけ、玉藻前の注意を真正面から引きつける。その隙に、珠が影となり、パイモンが霧となって左右から牽制する。それは、巨大な龍の顎に、自ら飛び込むような、決死の陽動だった。

「行くよ、海斗さん、セレスさん!」

マナが、本陣を飛び出した。海斗と、まだ本調子ではないながらも彼女を守ろうとするセレスが、その両脇を固める。三人は、美しくも危険な桜が舞い、狐火が飛び交う、死の庭園のまっただ中を、戦場の中心、玉藻前の元へと駆けた。

「ほう? 小娘、死に急ぐかえ」

玉藻前の殺意に満ちた金色の瞳が、一直線にマナを捉えた。その視線だけで、常人ならば魂ごと凍りついてしまうだろう。しかし、マナは怯まなかった。彼女は玉藻前の目前で足を止めると、その絶世の顔を、まっすぐに見つめ返した。

「あなたの憎しみ、私にはわかります」

マナの声は、静かだった。しかし、それは不思議なほど強く、戦場の喧騒を貫いて玉藻前の心に直接届いた。

「信じていた者に裏切られ、千年も孤独な石の中に閉じ込められる苦しみも。でも、それだけじゃない。その魂が、今もなお殺生石の呪いに縛られ、本当の自由を得られずに苦しみ続けていることも、私には見えるのです」

マナの共感能力は、玉藻前の憎悪の奥底にある、この世界そのものへの絶望と、同時に、その呪縛から解放されたいと切望する、魂の叫びを感じ取っていた。

玉藻前の眉が、ぴくりと動いた。目の前の小娘が、ただの神気を持つだけの存在ではないことを見抜く。彼女は、自らの魂の最も深い部分を、正確に見透かしていた。

その僅かな動揺を、マナは見逃さなかった。彼女は、この女神としての人生で、最大の賭けに出た。

「私たちは、あなたを解放するためにここに来ました」

マナは、きっぱりと言い放った。

「共通の敵である天の軍勢を退けるために、どうか、あなたの力を貸してください。戦いの後、私はこの『女神の涙』の全ての力をもって、あなたの魂を殺生石の呪いから完全に解き放ち、本当の自由を与えることを、この『調和の女神』の名において、誓います」

その言葉に、玉藻前は初めて、嘲笑以外の表情を浮かべた。千年間、彼女は人間も、神も、誰も信じてこなかった。信じた結果が、この石の中での永劫の孤独だったのだから。
しかし、目の前の女神が放つ、嘘偽りのない清浄な神気と、自らの魂の渇望を正確に見抜いたその力は、本物だと直感せざるを得なかった。
そして何より、「自由」という言葉が、彼女の千年の渇望を、どうしようもなく刺激した。

「……面白い」

玉藻前は、その紅い唇の端を、妖艶に吊り上げた。

「よかろう、小娘。その戯言(ざれごと)、信じてやろうぞえ」

彼女の瞳には、まだ深い不信の色が残っていた。だが、その言葉には、確かな意志が宿っていた。

「だが、もし妾を欺けば、その時は天の果てまで追い、その甘っちょろい魂を、八つ裂きにしてくれるわえ」

一時的な、しかし、人間側にとっては最強の切り札となる共闘契約が成立した瞬間だった。
玉.藻前は、その矛先を、今度は明確な意志を持って、天の軍勢へと完全に向けた。

「さあ、宴の続きじゃ。まずは、あの目障りな羽虫どもから、一匹残らず掃除してやろうぞ!」

九本の尾が、歓喜に打ち震えるように、天に向かって逆立った。
伝説の九尾の妖狐と、日本の百鬼夜行。あり得ないはずの連合軍が、天の軍勢に、今、牙を剥いた。
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