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第六部:最後の同盟と決戦前夜
第52話:女神の涙の力
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カマエル軍を退けた那須野ヶ原の朝靄がようやく晴れ、一行がぬらりひょんの隠れ里へと帰還したのは、それからさらに半日ほどが過ぎた頃だった。
季節は、いつの間にか晩秋の気配を色濃く纏っていた。里の木々は燃えるような赤や黄金色に染まり、澄み切った空気の中を、冷たい風が乾いた葉の匂いを運んで吹き抜けていく。ここは、日本の原風景を凝縮し、さらに神域の清浄さで濾過したかのような、この世ならざる美しさに満ちた場所だった。
その、完璧なまでに調和した風景の中で、今、凄まじい不協和音を奏でる存在がいた。
「……退屈じゃ」
ぬらりひょんが客間としてあてがった、里で最も格式の高い屋敷の、手入れの行き届いた日本庭園を望む縁側。そこに、一人の絶世の美女が、肘をついて寝そべっていた。玉藻前である。
千年の封印から解き放たれ、マナとの契約によって(一時的に)同行者となった彼女は、あてがわれた豪奢な着物を気だるげに纏い、その九本の巨大な尾を、まるで苛立ちを隠さない猫のように、ぱたぱたと畳に打ち付けていた。
その存在は、この穏やかな里の空気の中で、あまりにも異質だった。彼女がため息をつくだけで、周囲の空間が歪み、庭の木々が怯えたようにざわめく。彼女の機嫌一つで、この里全体が瞬時にして更地と化すであろうことが、誰の目にも明らかだった。
客間の中では、一行が、その爆弾から距離を取るように、部屋の隅でそれぞれの時間を過ごしていた。いや、過ごそうと、必死に努力していた。
「……」
珠は、玉藻前から決して目を離さなかった。柱の陰に身を潜め、いつでも飛びかかれるよう臨戦態勢を崩さない。時折、玉藻前の金の瞳と視線が合うと、バチバチと音を立てて火花が散る。玉藻前は「下賤な化け猫が」と鼻で笑い、珠は「落ちぶれた古狐が」と歯ぎしりする。二人の間に流れる空気は、真冬の刃のように冷え切っていた。
「やあ、これはこれは、美しい。実に興味深い力の構造だ。神聖な気配も、呪詛の気配も消え失せ、残ったのは純粋な『混沌』そのものか。ねえ、ちょっとその尻尾、一本触らせてはもらえないかね?」
パイモンは、好奇心という名の自殺願望に導かれ、目を輝かせながら玉藻前に近づこうとしていた。その度に、玉藻前から放たれる「死ね」としか書かれていない殺気を浴びては、「おお、なんと鮮烈な拒絶! 美しい!」と、心底楽しそうに身をよじらせている。彼は、那須野で海斗が「混沌を秩序にぶつける」という奇策を成功させたことに感銘を受け、その「混沌」の権化である玉藻前という存在に、学者として最大級の興味を抱いていたのだ。
「ひっ……」
そんな魔王と大妖怪のやり取りを、セレスが青ざめた顔で見つめていた。那須野では怨念の気に当てられ、ほとんど力を発揮できなかった彼女にとって、天使の天敵である大妖怪と同じ屋根の下にいるという事実は、拷問に等しかった。 彼女は、このチームで最も常識的な(?)存在である海斗の後ろに隠れ、小さく震えている。
「(なんで、こうなった……)」
海斗は、頭を抱えていた。 司令塔として覚醒し、天の軍勢を退け、最強の切り札である「女神の涙」も完成させた。 物語は、ここから反撃のターンに入るはずだった。それなのに、現実はどうだ。この、一触即発のカオスな空間は。まるで、時限爆弾だらけの部屋で、タップダンスを踊っているような気分だった。
海斗は、このどうしようもない状況を前に、深いため息を一つ吐くと、ごしごしと頭をかき、立ち上がった。
「……腹、減ったな。なんか、飯にしますか」
彼にできることは、これしかなかった。戦場で指揮を執るのも司令塔の役目なら、この崩壊寸前のチームの胃袋を満たし、日常を維持することもまた、司令塔の重要な役目なのだと、彼は半ばヤケクソに結論付けた。彼は、ぬらりひょんが自由に使えと貸してくれた台所へと、とぼとぼと向かっていった。
その日の午後。 ぬらりひょんの屋敷の一室が、即席の作戦司令室と化していた。パイモンが、どこから持ち出したのか、巨大な黒板を部屋の中央に据え、地獄で得た知識と、那須野での観測データを元に、チョークを走らせている。
「さて、諸君。我々はついに、カマエルに対抗する唯一無二の切り札を手に入れたわけだが」
パイモンは、芝居がかった手つきで振り返ると、黒板に『女神の涙』と大きく書き殴った。
「問題は、この『切り札』が、我々の想像を遥かに超える、とんでもない代物だったということだ」
彼の表情から、いつもの皮肉な笑みは消えていた。そこにあるのは、宇宙の真理に触れた学者の、畏怖と興奮が入り混じった熱狂だった。
「結論から言おう。これは、物理的な破壊力を持つ武器ではない。この首飾りは、マナ、君の『調和』の権能を無限大に増幅させ、この世界の根本的な法則(ルール)……因果律や物理法則といった、OSそのものに直接干渉する、『概念武装』だ」
「がいねんぶそう……?」
海斗が、意味もわからず呟き返す。
「そうだ。分かりやすく言えば、『火を放つ』のではなく、『燃えるという現象そのものを書き換える』力だ。カマエルの熾天使の武具が『絶対的な秩序』という概念であるならば、これは『絶対的な調和』という、対極の概念でそれを上書きする、カウンタープログラムなのさ」
その説明に、海斗とセレスは息を呑んだ。だが、珠は「回りくどいねぇ」と、パイモンの隣で興味なさそうに耳を掻いている。
「だが」と、パイモンは続けた。「どんな強力なプログラムにも、致命的な弱点(バグ)は存在する。この『女神の涙』も、例外ではない」
彼は、黒板に『神性』と『人間性』と書き、その二つを丸で囲った。
「この力は、術者である君の精神状態に、極度に依存する。この世界の法則というOSにアクセスするには、君の精神が、宇宙そのものと一体化した、個を持たない『無我』の状態、つまり『神性』に限りなく近づく必要がある」
パイモンは、そこで一度言葉を切ると、マナの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「だが、今の君には、海斗くんへの愛という、あまりにも強烈な『個』、すなわち『我執』が存在する。世界の全てを受け入れるべき『神性』と、ただ一人を渇望する『人間性』。この二つが、君の中で完璧に一致し、調和した時にのみ、力は発動する」
「……もし、それが、できなかったら?」
マナが、不安そうに尋ねる。
「簡単なことだ」と、パイモンは冷徹に告げた。「君の中で、神性と人間性が矛盾した瞬間、力は制御を失って暴走するか、あるいは、水蒸気のように霧散するだろうね」
その日の夕暮れ。 マナは、早速、力の制御訓練を始めていた。場所は、屋敷の裏手にある、静かな枯山水の庭。彼女は、庭の隅で静かに枯れている、一本の古い紅葉の木に向かい、そっと手をかざした。
「(大丈夫。私は、神であると同時に、海斗を愛する私でもある。矛盾なんかじゃない。どっちも、私……)」
マナは、パイモンの言葉を反芻し、意識を集中させる。彼女の胸で、「女神の涙」が淡い七色の光を放ち始めた。その光が、枯れた紅葉の木に注がれると、奇跡が起こった。
ぱらり、と。乾き切っていた枝先から、まるで春を迎えたかのように、小さな、しかし鮮やかな緑色の若葉が芽吹き始めたのだ。
「おお!」
その光景を、縁側から海斗と珠が固唾をのんで見守っていた。
「すごいぞ、マナ! その調子だ!」
海斗が、思わず声を張り上げる。その声に、集中していたマナが、はっとして振り返った。そして、海斗の嬉しそうな顔を見て、彼女もまた、心の底から嬉しそうに、花が咲くように笑った。
「えへへ」
その、瞬間だった。
芽吹いたばかりの若葉は、一瞬にしてその瑞々しさを失い、次の瞬間には、まるで千年分の時を一気に経たかのように、黒く変色し、ボロボロと崩れ落ちていった。
「えっ」
マナが呆然とする目の前で、蘇りかけた紅葉の木は、まるでギャグ漫画の一コマのように、カサカサに乾ききった音を立てて、根元から爆発四散した。
「「…………」」
後に残されたのは、ぽかんとするマナと、盛大に舞い散る枯れ葉の塵だけだった。
「(……『嬉しい』って、思った瞬間に)」
マナは、自分の手のひらを見つめ、愕然とした。神性を高め、無我に近づいた瞬間は、力は正しく発動した。しかし、海斗に褒められて「嬉しい」という人間的な感情(我)が顔を出した瞬間、力の調和は崩れ、暴走したのだ。
あまりにも繊細すぎる、神と人間の境界線。それは、マナが想像していた以上に、絶望的な壁となって、彼女の前に立ちはだかっていた。
その夜。 隠れ里の屋敷には、台所から、醤油と出汁の、香ばしくも懐かしい匂いが漂っていた。 「お待たせしましたー」 海斗が、大皿にてんこ盛りにした肉じゃがと、分厚いだし巻き卵を、ちゃぶ台に並べる。卓上には、すでに湯気を立てる具沢山の豚汁と、炊きたての白いご飯が用意されていた。
「うおお! 待ってました!」 「やれやれ、人間の食事というものは、どうも茶色くて美しくないね」 「ケッ、文句があるなら食うな、西洋かぶれ!」
種族も、立場も、思想も、何もかもがバラバラなメンバーが、一つのちゃぶ台を囲んでいた。その中には、縁側からいつの間にか移動し、上座にふんぞり返っている玉藻前の姿もあった。
「人間風情の餌など、妾の口に合うものか」
玉藻前は、そう吐き捨てながらも、海斗が差し出した肉じゃがの小鉢を、疑わしげに鼻先に近づけ、恐る恐る、その一片を口に運んだ。
そして、その金の瞳を、驚愕に見開いた。
(な……! この、甘く、しかし決してくどくなく、素材の味を引き立てる絶妙な『調和』は……!)
次の瞬間から、彼女は一切の言葉を発しなくなった。ただ、無言で、しかし、部屋にいる誰よりも速い、神がかった箸さばきで、肉じゃがを、だし巻き卵を、そして白いご飯を、その小さな口へと猛然とかき込み始めた。その姿には、大妖怪の威厳など、微塵も残っていなかった。
「あ、こら! それはあたしのだ!」 「フン、早い者勝ちという、実に野蛮なルールも、たまには悪くない」 だし巻き卵の最後の一切れを巡って、珠とパイモンが火花を散らす。セレスは、そんな光景に怯えながらも、おずおずと豚汁を一口すすり、その温かい美味しさに、ほっと顔をほころばせる。
海斗は、そのカオスな光景を眺めながら、苦笑いを浮かべていた。 超常的な力など、何一つ持たない自分。だが、こうして温かい食事を用意し、この制御不能な複雑系チームに、ささやかな「日常」と「秩序」をもたらすこと。それこそが、自分にしかできない、司令塔としての役割なのだと、彼は改めて実感していた。
夕食の片付けが終わり、夜が更けた頃。 海斗は、一人、縁側で冷たい夜風にあたりながら、月を見上げていた。そこに、マナが静かにやってきて、彼の隣にちょこんと座った。
「あの、海斗」 「ん?」 「私、やっぱりダメかもしれない。神様になろうとすると、海斗への気持ちが邪魔をして、海斗のことを考えると、神様の力が消えちゃうの。私、矛盾してる」
マナは、昼間の失敗を引きずり、すっかり落ち込んでいた。その声は、か細く震えている。
海斗は、彼女の方を向かず、月を見上げたまま、ぽつりと言った。
「なんかさ、難しく考えすぎじゃないか?」
「え?」
「俺は、マナが神様だから好きになったわけじゃないよ。ドジで、食いしん坊で、すぐ笑って、すぐ泣いて、枯れ木を爆発させるマナだから、好きになったんだ。それで、いいんじゃないのか」
彼は、ようやくマナの方に向き直ると、その不安げな瞳を真っ直ぐに見つめた。
「俺のために、無理に完璧な神様になろうとしなくていい。お前は、お前のままでいいんだ」
その言葉に、マナはハッとした。 (矛盾を、無くそうとしてた。でも、そうじゃないんだ) 神様である自分も、海斗を愛する自分も、どちらも、今の自分。矛盾しているのではない。その両方があって、初めて「私」なのだ。 矛盾を無理に一つに統合しようとするのではなく、矛盾したまま、その全てを「これが私だ」と受け入れること。 それこそが、自分が目指すべき、本当の「調和」の第一歩なのではないか。
「……ありがとう、海斗」
マナの心に、一筋の、しかし確かな光明が差し込んだ。彼女は、海斗の肩に、そっと自分の頭を預けた。秋の虫の声だけが、静かに響いている。
二人の穏やかな時間の裏で、遠く離れた天界では、那須野での歴史的な大敗北という報告が、カマエルの玉座に、新たな嵐を引き起こそうとしていた。
季節は、いつの間にか晩秋の気配を色濃く纏っていた。里の木々は燃えるような赤や黄金色に染まり、澄み切った空気の中を、冷たい風が乾いた葉の匂いを運んで吹き抜けていく。ここは、日本の原風景を凝縮し、さらに神域の清浄さで濾過したかのような、この世ならざる美しさに満ちた場所だった。
その、完璧なまでに調和した風景の中で、今、凄まじい不協和音を奏でる存在がいた。
「……退屈じゃ」
ぬらりひょんが客間としてあてがった、里で最も格式の高い屋敷の、手入れの行き届いた日本庭園を望む縁側。そこに、一人の絶世の美女が、肘をついて寝そべっていた。玉藻前である。
千年の封印から解き放たれ、マナとの契約によって(一時的に)同行者となった彼女は、あてがわれた豪奢な着物を気だるげに纏い、その九本の巨大な尾を、まるで苛立ちを隠さない猫のように、ぱたぱたと畳に打ち付けていた。
その存在は、この穏やかな里の空気の中で、あまりにも異質だった。彼女がため息をつくだけで、周囲の空間が歪み、庭の木々が怯えたようにざわめく。彼女の機嫌一つで、この里全体が瞬時にして更地と化すであろうことが、誰の目にも明らかだった。
客間の中では、一行が、その爆弾から距離を取るように、部屋の隅でそれぞれの時間を過ごしていた。いや、過ごそうと、必死に努力していた。
「……」
珠は、玉藻前から決して目を離さなかった。柱の陰に身を潜め、いつでも飛びかかれるよう臨戦態勢を崩さない。時折、玉藻前の金の瞳と視線が合うと、バチバチと音を立てて火花が散る。玉藻前は「下賤な化け猫が」と鼻で笑い、珠は「落ちぶれた古狐が」と歯ぎしりする。二人の間に流れる空気は、真冬の刃のように冷え切っていた。
「やあ、これはこれは、美しい。実に興味深い力の構造だ。神聖な気配も、呪詛の気配も消え失せ、残ったのは純粋な『混沌』そのものか。ねえ、ちょっとその尻尾、一本触らせてはもらえないかね?」
パイモンは、好奇心という名の自殺願望に導かれ、目を輝かせながら玉藻前に近づこうとしていた。その度に、玉藻前から放たれる「死ね」としか書かれていない殺気を浴びては、「おお、なんと鮮烈な拒絶! 美しい!」と、心底楽しそうに身をよじらせている。彼は、那須野で海斗が「混沌を秩序にぶつける」という奇策を成功させたことに感銘を受け、その「混沌」の権化である玉藻前という存在に、学者として最大級の興味を抱いていたのだ。
「ひっ……」
そんな魔王と大妖怪のやり取りを、セレスが青ざめた顔で見つめていた。那須野では怨念の気に当てられ、ほとんど力を発揮できなかった彼女にとって、天使の天敵である大妖怪と同じ屋根の下にいるという事実は、拷問に等しかった。 彼女は、このチームで最も常識的な(?)存在である海斗の後ろに隠れ、小さく震えている。
「(なんで、こうなった……)」
海斗は、頭を抱えていた。 司令塔として覚醒し、天の軍勢を退け、最強の切り札である「女神の涙」も完成させた。 物語は、ここから反撃のターンに入るはずだった。それなのに、現実はどうだ。この、一触即発のカオスな空間は。まるで、時限爆弾だらけの部屋で、タップダンスを踊っているような気分だった。
海斗は、このどうしようもない状況を前に、深いため息を一つ吐くと、ごしごしと頭をかき、立ち上がった。
「……腹、減ったな。なんか、飯にしますか」
彼にできることは、これしかなかった。戦場で指揮を執るのも司令塔の役目なら、この崩壊寸前のチームの胃袋を満たし、日常を維持することもまた、司令塔の重要な役目なのだと、彼は半ばヤケクソに結論付けた。彼は、ぬらりひょんが自由に使えと貸してくれた台所へと、とぼとぼと向かっていった。
その日の午後。 ぬらりひょんの屋敷の一室が、即席の作戦司令室と化していた。パイモンが、どこから持ち出したのか、巨大な黒板を部屋の中央に据え、地獄で得た知識と、那須野での観測データを元に、チョークを走らせている。
「さて、諸君。我々はついに、カマエルに対抗する唯一無二の切り札を手に入れたわけだが」
パイモンは、芝居がかった手つきで振り返ると、黒板に『女神の涙』と大きく書き殴った。
「問題は、この『切り札』が、我々の想像を遥かに超える、とんでもない代物だったということだ」
彼の表情から、いつもの皮肉な笑みは消えていた。そこにあるのは、宇宙の真理に触れた学者の、畏怖と興奮が入り混じった熱狂だった。
「結論から言おう。これは、物理的な破壊力を持つ武器ではない。この首飾りは、マナ、君の『調和』の権能を無限大に増幅させ、この世界の根本的な法則(ルール)……因果律や物理法則といった、OSそのものに直接干渉する、『概念武装』だ」
「がいねんぶそう……?」
海斗が、意味もわからず呟き返す。
「そうだ。分かりやすく言えば、『火を放つ』のではなく、『燃えるという現象そのものを書き換える』力だ。カマエルの熾天使の武具が『絶対的な秩序』という概念であるならば、これは『絶対的な調和』という、対極の概念でそれを上書きする、カウンタープログラムなのさ」
その説明に、海斗とセレスは息を呑んだ。だが、珠は「回りくどいねぇ」と、パイモンの隣で興味なさそうに耳を掻いている。
「だが」と、パイモンは続けた。「どんな強力なプログラムにも、致命的な弱点(バグ)は存在する。この『女神の涙』も、例外ではない」
彼は、黒板に『神性』と『人間性』と書き、その二つを丸で囲った。
「この力は、術者である君の精神状態に、極度に依存する。この世界の法則というOSにアクセスするには、君の精神が、宇宙そのものと一体化した、個を持たない『無我』の状態、つまり『神性』に限りなく近づく必要がある」
パイモンは、そこで一度言葉を切ると、マナの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「だが、今の君には、海斗くんへの愛という、あまりにも強烈な『個』、すなわち『我執』が存在する。世界の全てを受け入れるべき『神性』と、ただ一人を渇望する『人間性』。この二つが、君の中で完璧に一致し、調和した時にのみ、力は発動する」
「……もし、それが、できなかったら?」
マナが、不安そうに尋ねる。
「簡単なことだ」と、パイモンは冷徹に告げた。「君の中で、神性と人間性が矛盾した瞬間、力は制御を失って暴走するか、あるいは、水蒸気のように霧散するだろうね」
その日の夕暮れ。 マナは、早速、力の制御訓練を始めていた。場所は、屋敷の裏手にある、静かな枯山水の庭。彼女は、庭の隅で静かに枯れている、一本の古い紅葉の木に向かい、そっと手をかざした。
「(大丈夫。私は、神であると同時に、海斗を愛する私でもある。矛盾なんかじゃない。どっちも、私……)」
マナは、パイモンの言葉を反芻し、意識を集中させる。彼女の胸で、「女神の涙」が淡い七色の光を放ち始めた。その光が、枯れた紅葉の木に注がれると、奇跡が起こった。
ぱらり、と。乾き切っていた枝先から、まるで春を迎えたかのように、小さな、しかし鮮やかな緑色の若葉が芽吹き始めたのだ。
「おお!」
その光景を、縁側から海斗と珠が固唾をのんで見守っていた。
「すごいぞ、マナ! その調子だ!」
海斗が、思わず声を張り上げる。その声に、集中していたマナが、はっとして振り返った。そして、海斗の嬉しそうな顔を見て、彼女もまた、心の底から嬉しそうに、花が咲くように笑った。
「えへへ」
その、瞬間だった。
芽吹いたばかりの若葉は、一瞬にしてその瑞々しさを失い、次の瞬間には、まるで千年分の時を一気に経たかのように、黒く変色し、ボロボロと崩れ落ちていった。
「えっ」
マナが呆然とする目の前で、蘇りかけた紅葉の木は、まるでギャグ漫画の一コマのように、カサカサに乾ききった音を立てて、根元から爆発四散した。
「「…………」」
後に残されたのは、ぽかんとするマナと、盛大に舞い散る枯れ葉の塵だけだった。
「(……『嬉しい』って、思った瞬間に)」
マナは、自分の手のひらを見つめ、愕然とした。神性を高め、無我に近づいた瞬間は、力は正しく発動した。しかし、海斗に褒められて「嬉しい」という人間的な感情(我)が顔を出した瞬間、力の調和は崩れ、暴走したのだ。
あまりにも繊細すぎる、神と人間の境界線。それは、マナが想像していた以上に、絶望的な壁となって、彼女の前に立ちはだかっていた。
その夜。 隠れ里の屋敷には、台所から、醤油と出汁の、香ばしくも懐かしい匂いが漂っていた。 「お待たせしましたー」 海斗が、大皿にてんこ盛りにした肉じゃがと、分厚いだし巻き卵を、ちゃぶ台に並べる。卓上には、すでに湯気を立てる具沢山の豚汁と、炊きたての白いご飯が用意されていた。
「うおお! 待ってました!」 「やれやれ、人間の食事というものは、どうも茶色くて美しくないね」 「ケッ、文句があるなら食うな、西洋かぶれ!」
種族も、立場も、思想も、何もかもがバラバラなメンバーが、一つのちゃぶ台を囲んでいた。その中には、縁側からいつの間にか移動し、上座にふんぞり返っている玉藻前の姿もあった。
「人間風情の餌など、妾の口に合うものか」
玉藻前は、そう吐き捨てながらも、海斗が差し出した肉じゃがの小鉢を、疑わしげに鼻先に近づけ、恐る恐る、その一片を口に運んだ。
そして、その金の瞳を、驚愕に見開いた。
(な……! この、甘く、しかし決してくどくなく、素材の味を引き立てる絶妙な『調和』は……!)
次の瞬間から、彼女は一切の言葉を発しなくなった。ただ、無言で、しかし、部屋にいる誰よりも速い、神がかった箸さばきで、肉じゃがを、だし巻き卵を、そして白いご飯を、その小さな口へと猛然とかき込み始めた。その姿には、大妖怪の威厳など、微塵も残っていなかった。
「あ、こら! それはあたしのだ!」 「フン、早い者勝ちという、実に野蛮なルールも、たまには悪くない」 だし巻き卵の最後の一切れを巡って、珠とパイモンが火花を散らす。セレスは、そんな光景に怯えながらも、おずおずと豚汁を一口すすり、その温かい美味しさに、ほっと顔をほころばせる。
海斗は、そのカオスな光景を眺めながら、苦笑いを浮かべていた。 超常的な力など、何一つ持たない自分。だが、こうして温かい食事を用意し、この制御不能な複雑系チームに、ささやかな「日常」と「秩序」をもたらすこと。それこそが、自分にしかできない、司令塔としての役割なのだと、彼は改めて実感していた。
夕食の片付けが終わり、夜が更けた頃。 海斗は、一人、縁側で冷たい夜風にあたりながら、月を見上げていた。そこに、マナが静かにやってきて、彼の隣にちょこんと座った。
「あの、海斗」 「ん?」 「私、やっぱりダメかもしれない。神様になろうとすると、海斗への気持ちが邪魔をして、海斗のことを考えると、神様の力が消えちゃうの。私、矛盾してる」
マナは、昼間の失敗を引きずり、すっかり落ち込んでいた。その声は、か細く震えている。
海斗は、彼女の方を向かず、月を見上げたまま、ぽつりと言った。
「なんかさ、難しく考えすぎじゃないか?」
「え?」
「俺は、マナが神様だから好きになったわけじゃないよ。ドジで、食いしん坊で、すぐ笑って、すぐ泣いて、枯れ木を爆発させるマナだから、好きになったんだ。それで、いいんじゃないのか」
彼は、ようやくマナの方に向き直ると、その不安げな瞳を真っ直ぐに見つめた。
「俺のために、無理に完璧な神様になろうとしなくていい。お前は、お前のままでいいんだ」
その言葉に、マナはハッとした。 (矛盾を、無くそうとしてた。でも、そうじゃないんだ) 神様である自分も、海斗を愛する自分も、どちらも、今の自分。矛盾しているのではない。その両方があって、初めて「私」なのだ。 矛盾を無理に一つに統合しようとするのではなく、矛盾したまま、その全てを「これが私だ」と受け入れること。 それこそが、自分が目指すべき、本当の「調和」の第一歩なのではないか。
「……ありがとう、海斗」
マナの心に、一筋の、しかし確かな光明が差し込んだ。彼女は、海斗の肩に、そっと自分の頭を預けた。秋の虫の声だけが、静かに響いている。
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