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第六部:最後の同盟と決戦前夜
第53話:天の亀裂、地の亀裂
しおりを挟む【天界:カマエルの要塞「不動の天則」・至聖所】
そこは、完璧な静寂が支配する空間だった。 床も、壁も、天を突く柱も、すべてが磨き上げられた純白の大理石でできており、継ぎ目一つない。空気には色も匂いもなく、ただ、人間の耳には聞こえない高周波の賛美歌だけが、絶対的な秩序のBGMとして空間を満たしていた。 力天使カマエルの玉座、至聖所。 その玉座に、カマエルは座していた 。 那須野での敗北から、地上時間にして数日。彼の身を包んでいた「熾天使の武具」は、そのほとんどが修復を終えていたが、マナの「調和」の光によって打ち砕かれた左肩の篭手だけは、未だに痛々しい亀裂が走り、そこから制御しきれない神聖な光が、まるで不規則な心臓の鼓動のように、明滅を繰り返していた。 カマエルの完璧な論理の世界に刻み込まれた、初めての「傷」であり、「理解不能」の象徴だった。
彼の心は、静かではなかった。 (なぜだ) 彼の思考は、あの戦いの瞬間を、何億回となくシミュレーションし続けていた。 (なぜ、あの人間は、予測不能な一点で全ての力を集中させた? なぜ、あの女神は、憎悪ではなく愛を力に変えた? なぜ、あの悪魔と妖怪は、自らの危険を顧みずに連携した? 愛? 絆? 友情? そんなものは、肉体という牢獄が生み出す、効率を著しく低下させる不合理なバグ(ノイズ)に過ぎないはずだ) 彼の完璧な世界の設計図において、それらは全て「エラー」として処理されるべき項目だった。しかし、その「エラー」の集合体が、彼の「完璧な正義」を打ち破った 。 (理解できない) その苛立ちが、玉座の間の張り詰めた空気を、さらに冷たく、脆いものへと変えていた。 その静寂を破り、空間が歪んで、ぼろぼろになった能天使の一団が転がり込んできた。那須野からの敗残兵だ。 「カマエル様! も、申し上げます!」 指揮官だった天使は、片翼を失いながらも恭しく跪き、震える声で報告を始めた。 「那須野の拠点は、壊滅。腹心であられた熾天使様は、九尾の妖狐との戦闘の末、消滅されました。そして……」 指揮官は、言葉を詰まらせた。 「何だ。続けろ」 カマエルの声には、感情がなかった。 「……マナの手により、七つの『女神の涙』は、全て回収され……ついに、完成してしまった、模様です」 その瞬間、玉座の間の空気が、物理的な圧力を伴って軋んだ。カマエルの瞳から、初めて純粋な「怒り」という名の赤い光が迸る。 (間に合わなかった、だと?)
同時刻、天界の最高評議会。 そこは、物理的な議場ではない。天界の上位天使たちの「意志」だけが集う、純粋な概念空間だった。 カマエルの敗北と、「女神の涙」の完成という報告は、完璧な秩序で保たれていた天界のパワーバランスを、根底から揺るがしていた。 『――聞きましたか、皆の衆』 重々しく響いたのは、慈悲を司る主天使の長、ザドキエルの声だった 。 『力天使カマエルの掲げた「絶対的浄化」は、結果として、地上に更なる混沌を創発させました。彼は、自らの正義に固執するあまり、あの伝説の大妖怪・玉Omega前(たまものまえ)を現代に解き放つという、取り返しのつかない失態を犯したのです』 『しかし、それは地上世界のバグを一掃するために必要なプロセスであった!』 カマエル派の天使が、即座に反論する。 『プロセスだと? 彼の性急すぎる行いが、あの「女神の涙」を完成させるという最悪の結果を招いたのだ!』 『マナの存在こそが悪! 彼女の調和思想こそが、世界に曖昧さという病を撒き散らす!』 『否! 多様性こそが、神が望まれた世界の姿だ! カマエルの正義は、神の慈悲を忘れた、脆弱で傲慢な思想に過ぎない!』 これまでは水面下で燻っていたに過ぎなかった思想の対立が、カマエルの「敗北」という決定的な事実によって、一気に表面化したのだ。 個々の天使たちが抱いていた小さな疑念や恐怖が、ザドキエル派とカマエル派という二つの巨大な流れに飲み込まれ、増幅し、もはや誰にも止められない奔流と化していく。 「ガァァァッ!」 「神の御心に背くは貴様らだ!」 その概念的な対立は、ついに物理的な世界にまで溢れ出した。カマエルの要塞「不動の天則」の、純白の回廊のあちこちで、それまで隣人だったはずの天使たちが、互いに光の剣を抜き、衝突を始めたのだ 。 荘厳な賛美歌は、聖なる力がぶつかり合う轟音と、天使たちの怒号にかき消された。 玉座の間に、その報告が届いた時、カマエルは静かに立ち上がった。 (バグは、外部からだけではない。内部からも、こうも容易く創発するというのか……) 彼の完璧な論理は、今や一つの結論しか導き出せなかった。 「粛清せよ」 カマエルは、玉座の間に控えていた側近たちに、冷たく命じた。 「私に異を唱えるバグは、全てデリート(消去)する。もはや、猶予はない。反対派を制圧すると同時に、禁忌兵器『魂を砕く光』の最終シークエンスを起動させよ」 彼の論理は、より過激に、より短絡的に、純化されていた。内部のバグを強制的に消去し、外部のバグ(海斗たち)を、あの理解不能な兵器で概念ごと消し去る。それこそが、揺らいだ自らの「完璧な正義」を、再びこの宇宙に確立する、唯一の方法だった。 天界は、神の御名の下に、血で血を洗う内戦へと突入した 。
【地上:ぬらりひょんの隠れ里・大広間】
同じ頃、地上の隠れ里もまた、天界とは別の種類の緊張に包まれていた。 晩秋の冷たい風が、開け放たれた大広間を吹き抜けていく。那須野での勝利から数日。傷を癒やし、一時の平穏を取り戻した一行だったが、その空気は決して明るいものではなかった。 「龍の寝床」、そして「那須野」。二度にわたる大規模な戦闘で、妖怪たちが流した血は、決して少なくなかった 。 その不満と悲しみが、今、一つの形となって、海斗たちの前に突きつけられていた。 大広間の入り口に、傷ついた仲間たちを伴った、大江山の鬼の一族が、殺気とも言えるほどの重い気を放って立ちはだかっていた 。 頭領は、那須野での戦いで折れた角の傷跡を隠そうともせず、まっすぐに海斗たちの元へと進み出た。 彼は、海斗の目の前で、ゆっくりと、しかし深々と頭を下げた。 「那須野での貴様らの覚悟、そして、人間の小僧。司令塔としての貴様の腕、見事だった」 その意外な言葉に、海斗は息を呑む。 だが、頭領はゆっくりと顔を上げると、その鬼火のように揺らめく瞳で、海斗を射抜くように睨みつけた。 「だが、我らが流した血の代償もまた、あまりに大きい。戻らぬ仲間も、両手では足りん」 彼は、背後で片腕を失った部下、深い傷に今も苦しむ仲間たちを、親指で示す。 「これ以上、神だの悪魔だの、人間だのの都合で、我が同胞(はらから)の血を、一滴たりとも流すわけにはいかん。これをもって、我ら鬼の一族は、お前たちとの同盟を、完全に破棄する」 その決然とした声が、広間に響き渡った。 「なっ、今更何を!」 珠が、激昂して立ち上がる。 「非合理的だ。ここで戦力を分散させるのは、カマエルの思う壺だぞ」 パイモンが、冷ややかに指摘する。 鬼の頭領は、二人を一瞥すると、再び海斗に向き直った。 「ならば人間。貴様が、我らの仲間の命を、これ以上失わせないと、保証できるのか」 その問いは、あまりに重く、真っ直ぐだった。 広間にいた他の妖怪たちも、固唾をのんで見守っている。ここで鬼の一族が離反すれば、妖怪社会は分裂し、同盟は事実上崩壊する 。 沈黙が、場を支配する。 その沈黙を破り、海斗が、一人、頭領の前に進み出た。 彼は、反論も、説得もしなかった。ただ、鬼の頭領が下げたよりも深く、その場で土下座するように、額を畳にこすりつけた。 「……できません」 絞り出すような、声だった。 「俺に、皆さんの命を保証することなんて、できません。那須野で仲間を失ったのは、全ての作戦を立案し、実行を命じた、司令塔である俺の責任です。本当に……申し訳、ありませんでした」 頭領は、何も言わずに、土下座する海斗を見下ろしている。 海斗は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は、涙で濡れていたが、決して逸らされてはいなかった。 彼の進化した共感能力が、頭領の荒々しい怒りの赤いオーラの中に、燃えるような仲間への誇り(金色)と、失った者たちへの、底なしの悲しみ(深い青色)が渦巻いているのを、はっきりと読み取っていた 。 「俺は、あなた方と同じです」 海斗は、立ち上がった。 「俺も、仲間を、愛する人を、この手で守りたいだけなんです。カマエルの世界が実現すれば、鬼であるあなた方が仲間を思い、酒を酌み交わすその誇りも、その時間も、全て『不要なバグ』として消されてしまう」「それは、俺たちが愛した日常が奪われることと、全く同じ苦しみだ。俺が守りたいものと、あなた方が守りたいものは、絶対に同じだと信じています」 その言葉は、力も術も持たない、ただの人間の、魂の叫びだった。 鬼の頭領の、岩のような表情が、わずかに揺らいだ。海斗の言葉が、彼の怒りではなく、その奥にある「誇り」と「悲しみ」に、真っ直ぐに届いたのだ 。 頭領は、しばらく黙っていたが、やがて頑なに顔をそむけた。 「……言葉だけなら、何とでも言えるわ」 その時だった。 「あーあ。五月蝿いのぅ」 それまで縁側で退屈そうに爪を研ぎ、この世の全てに興味がないという顔をしていた玉藻前が、くぁ、と猫のような大きすぎるあくびをした。 「男どもの話し合いとは、なぜこうも回りくどく、退屈なのじゃ。気に入らぬなら、そこの角折れ鬼ごと、食ろうてしまえばよかろうに」 「……なんだと、この化け狐!」 その一言で、頭領の怒りが、今度は玉藻前に向かって爆発した。金棒を握りしめ、一触即発の殺気が広間を満たす。 「ほう? 妾(わらわ)に牙を剥くか、雑鬼め。天使どもよりは、歯ごたえがありそうじゃのう」 玉藻前も、その金の瞳を妖しく細め、九本の尾を逆立てる。 「やめてください!」 海斗が、慌てて二人の間に割って入った。 「今、俺たちが仲間割れしたら、それこそカマエルの思う壺だ!」 その必死の形相に、頭領は、忌々しげに舌打ちすると、金棒を下ろした。彼は、玉藻前という新たな、そして最大のリスク要因を値踏みするように一瞥すると、最後に、もう一度、海斗を睨みつけた。 「……小僧。お前たちの戦い、今一度、この目で見物させてもらう」 それだけ言うと、彼は「行くぞ!」と部下たちに命じ、嵐のように里を去っていった。 後に残されたのは、重い沈黙だった。 同盟は、決裂した 。しかし、完全な敵対は回避された 。そのあまりに綱渡りな結果に、海斗は、その場にへたり込みそうになるのを、必死で堪えた。 そこへ、セレスが、青ざめた顔で司令室から駆け込んできた。 「海斗さん、マナさん! 天界のザドキエル様から、緊急の極秘通信です! 天界で、カマエル派と穏健派の、全面的な内戦が勃発しました!」 天の亀裂。 地の亀裂。 二つの、絶望的とも思える報せが、ほぼ同時にもたらされた。一行は、天と地の両方から挟撃される、最悪の状況に追い込まれたことを知る。残された時間は、もう、いくばくもなかった。
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