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第六部:最後の同盟と決戦前夜
第57話:鬼、再び集う
しおりを挟む海斗とマナが未来への儚い約束を交わした、その夜が明けた。
晩秋の冷たく澄み切った空気が、夜の間に隠れ里の隅々まで染み渡り、あらゆるものの輪郭を、ガラス細工のように鋭く、鮮明にしていた。屋根にはうっすらと白い霜が降り、妖怪たちが見回りに吐き出す息も、朝の低い光を浴びては白く霧散していく。
作戦決行日の早朝。ぬらりひょんの屋敷を中心とした隠れ里は、静かな、しかし張り詰めた熱気に包まれていた。眠らない妖怪たちは、武器の手入れをする者、瞑想で妖気を高める者、あるいはこれが最後になるかもしれない酒を酌み交わす者、それぞれがそれぞれのやり方で、来たるべき死闘への覚悟を固めていた。
その、張り詰めた糸のような静寂を、甲高い警告の声が切り裂いた。
「敵襲かっ!?」 「いや、違う! この気は……馬鹿な!」
里の入り口、外界とを隔てる結界が張られた大鳥居のあたりが、にわかに騒がしくなる。見張りに立っていた烏天狗たちが、強大な、しかし既知の妖気(ようき)の接近を察知し、即座に臨戦態勢をとった。
霧。 里の境界線を覆い隠す朝霧が、まるで意思を持ったかのように渦を巻く。その奥から、地響きのような足音が、一つ、また一つと近づいてくる。
「止まれ! 何者だ!」
結界を守る妖怪たちの制止の声も虚しく、霧の中から、巨大な影が次々と姿を現した。
その姿を見た瞬間、里の妖怪たちの間に、緊張とは別の、明らかな敵意と動揺が走った。
赤や青の、岩のような肌。腰には虎の皮の褌(ふんどし)。そして、その額から突き出す、ねじれた角。
「鬼……」
誰かが、呻くように呟いた。
現れたのは、紛れもなく、かつて「龍の寝床」での犠牲に異を唱え、同盟からの離脱を宣言した(出典: )、鬼の一族だった。
その先頭に立つのは、大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)の血を引くとされる、巨大な頭領(とうりょう)だった(出典: )。彼は、その身の丈ほどもある巨大な金棒(かなぼう)を無造作に肩に担ぎ、その燃えるような瞳で、妖怪たちの群れを静かに見据えていた。
「……今さら、何の用だ」
屋敷の縁側から現れたぬらりひょんが、キセルを片手に、地を這うような低い声で言った。その隣では、珠(たま)が、美しい人間の女の姿を取りながらも、その瞳には猫又(ねこまた)としての警戒と敵意を隠そうともせず、冷たく言い放つ。
「決戦の日に、のこのこと。我らの邪魔をしに来たというなら、容赦はしないよ」
一触即発。鬼の一族と、里の妖怪たちとの間に、凍てついた空気が流れる。鬼たちは、その敵意を受けてもなお、一歩も引かなかった。
頭領は、ぬらりひょんや珠には一瞥(いちべつ)もくれなかった。
彼は、その巨大な体で妖怪たちの群れをかき分けると、ただまっすぐに、本陣の地図の前で呆然と立ち尽くす、一人の青年の前に進み出た。
相川海斗。その、あまりに人間的で、場違いなほどか弱い司令塔の前に。
頭領と海斗。その体格差は、大人と子供というよりも、大木と若草ほどの違いがあった。鬼の頭領が吐き出す、地熱のような妖気が、海斗の髪を揺らす。
海斗は、恐怖でもなく、怒りでもなく、ただ困惑した目で、自分を見下ろす巨体を見上げていた。
次の瞬間、隠れ里の全ての妖怪が、自らの目を疑う光景が繰り広げられた。
頭領の肩から、あの巨大な金棒が滑り落ち、ゴトリ、と重い音を立てて霜の降りた地面に転がった。武器を手放す。それは、誇り高き鬼にとって、降伏か、あるいはそれ以上の意味を持つ。
そして。
その巨大な体が、ゆっくりと、軋むように沈んでいく。誇り高き鬼が、神にも悪魔にも決して膝を折ることのない最強の種族が、一人の、か弱い人間の若者の前で、厳かに、片膝をついたのだ。
ごつごつとした額(ぬか)が、まるで許しを乞うかのように、深く、深く、大地に垂れられた。
里から、音が消えた。ただ、風の音だけが、そのあり得ない光景を撫でていく。
「小僧……」
地面を震わせるような、くぐもった声が響いた。
「いや」
頭領は、ゆっくりと顔を上げた。その鬼火のように燃える瞳が、真正面から海斗の目を捉える。
「司令・相川海斗。先日は、取り乱した」
その言葉は、数日前、この場を去った時の怒りに満ちたものではなく、自らの不明を恥じる、武人の潔さに満ちていた。
「お前の覚悟。仲間を想うその心。そして、仲間の犠牲をゼロにするため、プライドも何もかも捨てて、あの悪魔(アスモデウス)にまで頭を下げた(出典: )という、その器量。……この俺が、見誤っていた」
頭領は、自らの非を認めると、ゆっくりと立ち上がった。その巨体は、再び山のような威圧感を放つ。
彼は、海斗の目を真っ直ぐに見据え、そして、心の底から湧き上がるような、荒々しい笑みを見せた。
「お前が立てた『陽動』という名の、茨の道(出典: )。死ぬかもしれねぇ、その一番槍」
彼は、自分の胸を拳でドンと叩いた。
「我ら鬼の一族に、先陣を切らせてはもらえんだろうか!」
それは、同盟への復帰などという生易しいものではなかった。最も危険で、最も過酷な役割を、自ら買って出るという、鬼の流儀における、最大限の忠誠の誓いだった。
あの第53話の、雨の中での海斗の土下座(出典: )。あの時、鬼の心に植え付けられた、一人の人間の「誠意」という種。それは、彼らが一度里に帰り、一族の誇りと仲間の死を天秤にかけた、苦しい時間の中で、ついに芽を出したのだ。力ではなく、心。海斗の「思い」という原因が、鬼の「義理」という結果を、今この瞬間に結びつけた(縁)。
海斗の瞳から、こらえていた涙が溢れ出した。彼は、目の前の巨大な手を、自らの両手で、力一杯握り返した。
「ありがとう……ございます。……お願いします!」
その光景を、それまで敵意を剥き出しにしていた他の妖怪たちが、呆然と、そしてやがて、熱に浮かされたかのように見つめていた。失いかけた絆が、より強く、より強固な形で、今、戻ってきた。
「うおおおおおっ!」
誰からともなく、雄叫びが上がる。それは、里全体を揺るがす、新たなる「百鬼夜行」の産声だった。
屋敷の最も奥まった縁側。そこだけが、まるで違う時間が流れているかのように静かだった。千年の封印から目覚めたばかりの大妖怪、玉藻前(たまものまえ)が、一人、つまらなそうにその光景を眺めていた。
「フン。茶番だねぇ」
彼女は、淹れたての茶を一口すすると、興味を失ったかのように空を見上げた。だが、その完璧なまでに美しい横顔の、その口元には、誰にも気づかれないほどの、微かな笑みが浮かんでいた。
妖怪、悪魔、元天使、そして、人間。
種族も、思想も、利害もバラバラな、この世で最も奇妙な同盟軍の士気は、作戦決行の朝、ついに最高潮に達した。
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