「彼女を拾うな」――謎の忠告を無視した俺の日常は崩壊した。記憶喪失の少女は世界を滅ぼす女神の『鍵』。

Gaku

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第六部:最後の同盟と決戦前夜

第56話:最後の日常、あるいは始まりの夜

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季節は、その最後の輝きを終えようとしていた。

ぬらりひょんの隠れ里を包む空気は、数日前までの燃えるような紅葉の熱気を忘れ、冬の到来を予感させる、張り詰めた静けさと冷たさを帯び始めていた。木々は、その色鮮やかな衣装を惜しげもなく大地に還し、今はただ、その黒々とした枝先を、どこまでも高く澄み切った晩秋の夜空へと突き出している。

遠くの山々から吹き下ろす風は、もう肌を撫でる優しさを失い、まるでガラスの破片のように鋭く、頬を刺した。里に点在する古い社(やしろ)の軒先に吊るされたカンテラの頼りない光が、その風に煽られては、頼りなげに揺れている。

隠れ里の本拠地となっている、最も大きな屋敷。その一室は、今や「作戦司令室」と呼ぶにふさわしい熱気に満ちていた。壁一面に貼られた日本地図には、赤い墨で龍脈(レイライン)の流れが書き込まれ、妖怪たちが各地から集めた情報を示す無数の札が、まるで獲物を狙う鷹のように打ち付けられている。

部屋の中央には、アスモデウスから(半ば強引に)借り受けた「千里眼の水晶」が鎮座し、淡い、不気味な光を放っていた。水晶の表面には、次の目的地である「恐山」の霊的な地形図が、ホログラムのようにぼんやりと浮かび上がっては消えている。

「――以上が、水晶から読み取った敵戦力の初期配置だ。恐山の参道を塞ぐ主力部隊がおよそ三百。欠片の周囲に展開する守備隊が五十。そして、両者を連携させる指揮系統が……ここだ」

パイモンが、教鞭をとる教授のように、ステッキの先端で水晶が映し出す図の一点を指し示した。その表情は、いつもの芝居がかった皮肉屋のそれではなく、この世の全てを解体して愉しむ、冷徹な分析者のものだった。

「やれやれ。カマエルも、天界の内戦でよほど駒が足りないと見える。聖地とはいえ、この配置はあまりに合理的すぎ、そして想像力に欠ける。教科書通りの布陣だ」

「小難しいことは分からねぇが、ようは、正面からぶつかる連中が一番ヤバいってことだろ」

広間の隅で巨大な金棒を手入れしていた鬼の頭領が、地を這うような低い声で言った。ぬらりひょんは、そのやり取りを、ただ静かにキセルを燻らせながら見ている。

その緊迫した空気の中心で、相川海斗は、地図を睨みつけたまま微動だにしなかった。

彼の脳裏には、明日実行される作戦の全貌が、無数の分岐を伴う複雑なシミュレーションとして展開されていた。鬼たちを主力とした陽動部隊が、敵の主力を引きつける。その隙に、自分たち精鋭部隊が裏山から回り込み、最小限の戦闘で欠片を奪取する。

アスモデウスから得た「千里眼の水晶」。それがなければ、陽動部隊は確実に壊滅していた。だが、これがあっても、犠牲がゼロになる保証はない。戦場とは、予測不能な要素が瞬時に絡み合い、ほんの僅かなボタンの掛け違いが、最悪の結果を生み出す、制御不能な生き物だ。

彼は、その生き物を、たった一人の人間の脳で制御しようとしている。仲間の、妖怪たちの命を、チェスの駒のように動かそうとしている。

(俺の手は、もう綺麗じゃない)

第54話で、苦悩の末に非情な作戦を立案した時の覚悟が、現実の重みを伴って、再び彼の両肩にのしかかる。司令塔。その響きは、彼にとって誇りであると同時に、拭い去ることのできない「罪」の自覚でもあった。彼の共感能力は、作戦の成功を喜ぶ妖怪たちの高揚感と同時に、その奥底に眠る「死への恐怖」や「仲間を失うかもしれない不安」といった微細な揺らぎさえも、雑音のように拾い上げてしまう。

「……少し、頭を冷やしてきます」

海斗は、喉から絞り出すような声でそれだけ言うと、仲間たちの返事も聞かず、広間を後にした。

***

屋敷の縁側は、まるで氷の板のように冷え切っていた。海斗がそこに腰を下ろすと、吐く息が、月の光を浴びて真っ白な塊となって夜空に溶けていく。凍てつくような月が、真上で冷ややかに彼を見下ろしていた。

この静けさも、明日には終わる。

この穏やかな里の空気も、明日には血の匂いに変わるかもしれない。全ては、自分の立てた作戦次第。その重圧が、彼の呼吸を浅くする。

(俺は、逃げているだけじゃないのか。マナを守るという大義名分を盾に、本当は、この世界の壮大なゲームに酔っているだけなんじゃないか)

自問自答が、彼の心を苛む。愛する人を守るためだと信じていた道が、いつの間にか、他者の犠牲を許容する冷たい論理の道へと変貌していた。そのことに、彼は何よりも怯えていた。

その時、背後の障子が開く、か細い音がした。

「海斗」

振り返るまでもない。その声だけで、凍りついた心が、ほんの少しだけ溶け出すのが分かった。マナが、湯気の立つ湯呑を二つ、小さな盆に乗せて立っていた。彼女もまた、この冷気の中では、薄い肩を震わせている。

「……寒いのに、悪い」

「ううん。海斗が、一人で寒そうだったから」

マナは、海斗の隣に、そっと腰を下ろした。まるで、初めて出会った頃のように、少しだけ距離を置いて。彼女が差し出した湯呑を受け取ると、熱い生姜湯の香りが、ツンと鼻を刺激した。

「……」

「……」

二人の間に、言葉はなかった。ただ、遠くで聞こえる虫の音だけが、この世の終わりが近づいているとは信じられないほど、のどかに響いている。

沈黙を破ったのは、海斗だった。

「なあ、マナ」

「……なあに?」

「俺の手は、もう綺麗じゃないんだ」

彼は、湯呑を握りしめたまま、俯いて言った。

「明日、仲間たちが死ぬかもしれない。俺が、死ねって命令するのと同じだ。あいつらにも家族がいて、守りたいものがあって、それなのに、俺は……。俺は、マナを守るためなら、それが許されるって、どこかで思ってる、卑怯な奴なんだ」

罪の告白だった。アスモデウスとの対話で、マナが「矛盾したまま『今』を生きる」という覚悟を決めた(第55話)のとは対照的に、彼は、自らの「矛盾」そのものに押しつぶされかけていた。

マナは、黙って彼の言葉を聞いていた。やがて、彼女は自分の湯呑を縁側に置くと、海斗の、冷たく、そして罪悪感に震える手を、自分の両手でそっと包み込んだ。

その手は、驚くほど温かかった。

「海斗の手は、とても綺麗だよ」

「え……」

「だって、その手は、瓦礫の中から私を見つけてくれた。私に、初めてアイスクリームの味を教えてくれた。私が力の暴走で怯えていた時、何も言わずに握りしめてくれた」

マナは、まるで宝物でも見るかのように、海斗の手を愛おしそうに見つめている。

「海斗が、仲間たちの命を背負って苦しんでいることも、私は知ってる。その苦しみも、その罪悪感も、全部、私が一緒に背負うから」

その言葉は、女神としての慈愛ではなかった。海斗が背負うと決めた非情な作戦(第54話)の重荷を、ただ半分持つと申し出る、対等なパートナーとしての覚悟だった。

「海斗の罪は、私の罪。海斗の苦しみは、私の苦しみ。海斗が『今』を生きるために、その手を汚さなければならないと言うのなら、私は、喜んでその汚れを一緒に洗い流す。だから、一人で全部背負わないで」

海斗の目から、熱いものが溢れそうになるのを、必死で堪えた。自分が背負っていると思っていた重荷は、いつの間にか、この小さな少女も一緒に背負ってくれていたのだ。

***

その瞬間、二人の目に映る風景が変わった。

ひんやりとした隠れ里の縁側が、いつの間にか、あの懐かしい公園のベンチへと重なっていく。今はもうカマエルの手で破壊され(第39話)、失われてしまった、二人の日常の象徴。

アスモデウスとの対話で「今、ここを生きる」ことの本当の意味を掴んだマナは、もはや過去の幻影に囚われてはいなかった。彼女は、失われた過去を嘆くのではなく、これから掴み取る未来の象徴として、その心象風景を海斗と共有していた。

「……もし」

海斗は、ようやく顔を上げ、マナの真っ直ぐな瞳を見つめ返した。

「もし、この戦いが、全部終わったら」

「終わったら?」

マナが、悪戯っぽく微笑む。

「ううん……なんでもない。今は、明日のことだけを考えないと。司令塔が、こんな弱気じゃダメだよな」

彼がそう言って、また自分の中に閉じこもろうとした、その時。

マナは、海斗の額に、自分の額をこつんと優しく当てた。

「ダメだよ、海斗」

その近すぎる距離に、海斗の心臓が大きく跳ねる。

「未来を語って。未来を望んで。それこそが、私たちが『今』を戦う理由なんだから」

マナの言葉が、彼の最後の迷いを吹き飛ばした。

そうだ。何のために、この罪を背負うのか。それは、未来のためだ。この平穏な時間が、ただ移り変わり、失われていくだけの無常なものではなく、次の未来へと繋がっていくと信じるためだ。

「……そうだな」

海斗は、照れくさそうに笑うと、今度は自分から、彼女の手を強く握り返した。

「そうだな。終わったら、一緒に海を見に行こう。二人で、まだ見たことないから。広い、海を」

「うん。約束」

それは、明日死ぬかもしれない二人が交わした、あまりに儚く、しかし、この世のどんなものよりも力強い、未来への誓いだった。凍てつくような晩秋の月が、寄り添う二つの影を、静かに、優しく照らしていた。
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