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第六部:最後の同盟と決戦前夜
第55話:堕天使の円舞曲(ワルツ)
しおりを挟むその場所の名は「バベル」。 人間界と魔界の、そしておそらくは天界の理(ことわり)さえもが、万華鏡の破片のように乱雑に混じり合う、時空の狭間に築かれた悪魔王の宮殿。その外装は、人間の欲望を煮詰めて固めたような、けばけばしいカジノホテルだった。
海斗たちが、パイモンの作り出した歪んだ空間(ゲート)を抜けて再びそのロビーに足を踏み入れた時、むせ返るような香水の匂いと、頭蓋の内側で直接鳴り響くようなフリージャズの旋律が、彼らを歓迎した。現実の物理法則が、ここでは快楽と欲望のために意図的にねじ曲げられている。床の絨毯はまるで生きているかのように微かに波打ち、シャンデリアの光は現実にはあり得ない色相で明滅していた。
「……相変わらず、胸クソの悪くなる場所だね」 珠が、着物の襟元をかき合わせ、隠しようのない嫌悪感を露わにする。彼女の本能が、この空間にある全てのものに「天敵」の烙印を押していた。 「全く同感だ。混沌(カオス)にも美学があるというのに、ここはただ欲望を並べ立てただけの下品な陳列棚だ。僕の美学が著しく損なわれる」 パイモンも、ステッキで床を忌々しげに突きながら、心の底から同意する。
彼らがここに戻って来た理由は、一つ。 数時間前、ぬらりひょんの隠れ里にある司令室で、海斗が下した苦渋の決断にあった。
「――犠牲を、最小限に抑えたい」 海斗が立案した、妖怪軍団を陽動とする非情な作戦 。それは、司令塔として、仲間の命を「駒」として扱う罪悪感との引き換えに、初めて掴んだ勝利への道筋だった 。だが、彼の共感能力は、その罪の重さに耐えきれずに悲鳴を上げていた 。 「陽動部隊が、敵の予測を上回る速さで動ければ、犠牲は減らせる。そのためには、今この瞬間の、天界軍の正確無比な配置図が必要だ」 その言葉に、パイモンが、この世の終わりでも見るような顔で答えたのだ。 「……手段は、一つだけ、ある。だが、行きたくない。絶対に行きたくない。あの、美学のカケラもない男が所有する、『千里眼の水晶』を借りるしかない」
そして今、彼らはここにいる。 天使であるセレスは、高位の悪魔の気配が充満するこの空間で、青ざめた顔でマナのマントの裾を固く握りしめている。 海斗は、先頭に立って歩いていた。作戦を立案し、この地獄への再訪を決めたのは、他の誰でもない自分だ。その責任の重さが、彼の足取りを、一歩、また一歩と重くさせていた。
最上階のVIPルーム「エデン」の扉は、音もなく開いた。 前回と寸分違わぬ光景。退廃的なまでの豪奢な調度品。そして、玉座のようなソファに気だるげに寝そべり、一行を待っていたかのように微笑む、中性的な美青年。 七つの大罪、「色欲」を司る悪魔王アスモデウス 。
「おや、おやおや。これはこれは。天界から神様を盗み出し、あまつさえその神様と一緒に最強の天使まで打ち破ったという、噂の泥棒猫一行じゃないか」 彼は、心底楽しそうに、ゆっくりと拍手をした。 「いや、見事、見事。あの、完璧すぎて退屈極まりないカマエルが、まさか君たちのような『バグ』に足元をすくわれるとはね。この私も、久々に胸がすく思いだったよ」 その言葉には、カマエルの敗北を嘲笑う、純粋な愉悦が満ちていた。 「さて」と、彼は体勢を崩さぬまま、妖艶な瞳で海斗を射抜いた。「それで、神殺しの英雄御一行が、こんな下品な陳列棚に、何の御用かな?」
海斗は、彼の挑発に乗らず、単刀直入に用件を切り出した。 「『千里眼の水晶』。それを借りに来た」 「……ほう」 アスモデウスは、その言葉に、初めて片方の眉をぴくりと上げた。 「なるほど。天界の内戦に乗じて、一気に本丸を叩くつもりか。悪くない。実に、悪くない筋書きだ。だが」 彼はゆっくりと身を起こすと、一行、特にマナを、値踏みするようにじろりと眺めた。 「君たちに、私がそれをタダでくれてやる義理が、どこにある?」
「ふざけるな! てめぇのせいで、こっちは……!」 激昂した珠が小太刀に手をかけ、一触即発の空気が流れる。 「まあ、待て、珠」 海斗が、それを手で制した。彼は、この悪魔が、ただの脅しや金品には一切興味がないことを、前回のゲームで痛いほど理解していた 。
「……代価は、何だ」
海斗が、絞り出すように問う。アスモデウスは、その問いに、満足げに微笑んだ。 彼は、ソファから音もなく立ち上がると、まっすぐにマナの前へと歩み寄った。そして、まるで舞踏会で淑女を誘う王子のように、優雅に片膝をつき、彼女に手を差し伸べた。
「女神マナ。この私と、一曲、ワルツを踊っていただけますかな」
「貴様ッ!」 「ふざけるんじゃねぇ!」 海斗と珠が、同時に吼えた。パイモンまでもが、ステッキを握る手に青筋を立て、「下劣な!」と吐き捨てる。 しかし、アスモデウスは、彼らを完全に無視していた。その瞳は、マナだけを捉えて離さない。 「ただ、一曲踊るだけだ。もちろん、指一本触れはしないと、悪魔の名において誓おう。それとも」 彼は、冷笑を浮かべ、今度は海斗に向き直った。 「ここで私の申し出を断り、あの可愛い妖怪たちを、君の立てた『完璧な作戦』とやらで、無駄死にさせるかね? 選びたまえ、誇り高き『司令塔』殿」 その言葉は、海斗の罪悪感を、最も残酷な形で抉り出した。 「ぐっ……」 海斗は、唇を噛み締めた。この悪魔は、全てお見通しなのだ。自分の苦悩も、作戦の全容も。 海斗が、屈辱に震えながらも、その取引を呑もうと言葉を開きかけた、その瞬間。
「海斗」
マナが、静かに彼を制した。 そして、彼女は、アスモデウスの前に進み出ると、その差し出された手を、毅然として、しかし優雅な仕草で、掴んだ。
「いいでしょう。ただし、アスモデウスさん 。曲が終わるまでに、私たちを納得させる答え(水晶)を用意してくださらなければ、この話はなしです。そして、もし誓いを破って、私や私の仲間に手を出そうものなら」 マナの瞳が、七色に輝く「女神の涙」と共鳴し、一瞬、神の威光を放った。 「その時は、あなたという『理(ことわり)』を、この世界から『調和』させていただきます。……よろしいですね?」 その、愛らしさとは裏腹の、神としての絶対的な宣告に、アスモデウスは、一瞬、驚愕に目を見開いた。 そして、次の瞬間、彼は、心の底から楽しそうに喉を鳴らして笑った。 「……ククッ。面白い。面白いぞ、小娘! ああ、最高だ! よかろう、その取引、受けた!」
アスモデウスが手を鳴らすと、VIPルームの壁と天井が、星空のように溶けて消えた。 彼とマナは、銀河の中心にあるかのような、広大で、美しい、二人きりのダンスフロアに立っていた。 荘厳な、しかしどこか退廃的なワルツの調べが、虚空から流れ始める。 二人の、堕天使と女神の、円舞曲(ワルツ)が始まった。
アスモデウスは、完璧なリードでマナを導く。そのステップは、神話の時代の法則そのもののように、寸分の狂いもない。 「……見事だ」 彼は、マナの耳元で甘く囁いた。「神の力を取り戻し、人間の感情というバグも手なずけ、カマエルさえも退けた。君は、自分が勝ったと思っているのだろう?」 「勝敗など、どうでもいいことです。私は、私たちが生きる世界を守るだけです」 マナは、冷静にステップを続けながら答えた。 「だが、君は、この世界の最も基本的な法則(ルール)から目をそむけている」 アスモデウスは、マナを鮮やかにターンさせると、その身体を、強く引き寄せた。
「『諸行無常』」
その言葉は、マナの魂に直接響いた。 「この世の全ては移り変わる 。君の愛も、あの小僧の命も、例外ではない。君は、その矛盾に気づいているはずだ」 彼の囁きは、甘美な毒のように、マナの心の隙間に染み込んでいく。
「考えてみろ。もし君が、このまま完全な『神』に戻れば、愛などという、ちっぽけで一時的な感情のバグは、いずれ消え失せる。君は、あの海斗という男を、道端の石ころと同じようにしか感じられない、冷たい『概念』に戻るんだ 」
マナの呼吸が、一瞬、乱れた。それは、パイモンにも告げられた、彼女の最も根源的な恐怖だった 。
「かといって」と、アスモデウスは続けた。「君が、今の『人間』としての心に固執し続ければ、どうなる? 君は永遠に近い時を生きる。だが、あの小僧は? せいぜい数十年だ。君は、彼が老い、衰え、やがて塵に還るのを、その永遠の時の中で、見送ることになる」 彼は、マナを深く反らせ、その瞳を覗き込んだ。 「必ず、死が二人を分かつ。これこそが、君たちが『愛別離苦』と呼ぶ、逃れようのない苦しみだ 。どちらを選んでも、君の行き着く先は『喪失』という名の絶望だ。さあ、答えてみろ、女神。君が掴んだその愛は、永遠の孤独への、片道切符なんじゃないのか?」
それは、この世界の法則(三法印) そのものを武器にした、完璧な悪魔の揺さぶりだった。 死。別れ。喪失。 マナのステップが、乱れた。海斗の笑顔が、脳裏に浮かび、そして、消えていく。その想像を絶する恐怖に、彼女の魂が、凍りついた。
だが。
彼女は、踊りを止めた。 流れていたワルツが、ぴたりと止んだ。 マナは、アスモデウスの腕の中から一歩下がり、彼と真正面から向き合った。その瞳は、もう揺れてはいなかった。
「あなたは、間違っています」
「ほう?」
「あなたは、私に二つの『未来』を提示しました。神に戻る未来と、人間として残る未来。そして、どちらも絶望だとおっしゃった」 マナは、静かに、しかし、きっぱりと言った。 「ですが、あなたは、この世界の、もう一つの、そして最も重要な真理を、忘れています」 「何だ?」 「過去は、すでに存在しません。未来は、まだ存在しません。私たちが生きているのは、常に、今、この瞬間だけです」
アスモデウスの、余裕に満ちた表情が、初めて、わずかに強張った。
「そして、『今』の私は」と、マナは続けた。「海斗を愛する『私』であり、世界を調和させる使命を帯びた『女神』です。そこに、矛盾はありません。どちらも、今、ここに実在する、本当の私だからです」 「……」 「あなたは、私の愛を、未来の別れによって『苦しみ』だと決めつけようとした。でも、私はそうは思わない。いつか失うからこそ、今、この瞬間の愛おしさが、輝くんです 。私は、絶望という名の二つの幻の未来を選びません。私は、海斗と共に生きると決めたこの『今』を、選び続けます。そして、その『今』の積み重ねで、私たちが望む未来を、私たち自身の手で、創造します」
それは、神でもなく、人でもない、マナが海斗との出会いを通じて、自ら「創発」させた、全く新しい、第三の「理(ことわり)」だった。
アスモデウスは、マナの答えに、数秒間、完全に沈黙していた。 彼の、数万年という時の中で、これほど予想外で、これほど論理的で、そしてこれほど美しい「バグ」に出会ったことはなかった。
「……ククッ」
静寂を破り、彼の肩が、小さく震え始めた。
「ク、ククク……ハハハハハ! アッハハハハハハ!」
銀河のダンスフロアが、彼の哄笑(こうしょう)によって揺れた。それは、心からの驚嘆と、歓喜の笑いだった。
「面白い! 面白いぞ、女神! まさか、神が『今、この瞬間を生きる』などという、人間風情の開き直りを、最強の武器にするとは! 矛盾を受け入れたまま、新しい理を創るだと? ああ、最高だ! 最高に、美しい!」
星空が、ガラスのように砕け散る。 一行は、元のVIPルームに戻っていた。 アスモデウスは、上機嫌に指を鳴らした。テーブルの上に、無数の星々が渦巻く、拳大の水晶玉が、音もなく出現した。
「くれてやる。持っていけ、『千里眼の水晶』だ」 彼は、まるで極上の演劇を見終えた観客のように、満足げにため息をついた。 「せいぜい、この私を愉しませる、見たこともない結末を用意してくれよ。……新世界の、創造主候補殿」
一行は、水晶を手に、足早に「バベル」を後にした。 珠は、マナの身体中に塩を振りかける勢いで、邪気を払っている。パイモンは、マナのあの最後の言葉を反芻し、「なるほど、時間は存在しない、か。実に、美しい……」と、恍惚の表情でブツブツと呟いていた。 海斗は、水晶を、まるで壊れ物を扱うかのように、慎重に抱えていた。 その水晶の重みが、これから自分たちが向かう、何百、何千という妖怪たちの命の重さと、完全に一致しているように、彼には感じられた。
彼は、マナの手を、強く、強く握った。 マナが、彼に微笑み返す。 その瞳には、もう、何の迷いもなかった。
隠れ里の司令室に戻った海斗は、水晶を立体地図の中央に設置した。 水晶は、淡い光を放ち始め、地図の上に、無数の、赤い光点を投影し始めた。それは、今、この瞬間も、天界の内戦と地上の侵攻を続ける、カマエル軍の、寸分違わぬ、正確な配置図だった。
「……作戦を、修正する」
海斗は、仲間たちに向かって、静かに、しかし、揺るぎない声で、告げた。 「陽動は、行う。だが、犠牲は、ゼロにする。いや、ゼロにしてみせる」 彼の瞳には、司令塔としての冷徹な光と、仲間たちの悲鳴に苦しんだ、人間としての温かい光が、矛盾したまま、共存していた。
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