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第七部:天空の要塞と偽りの正義
第61話:至聖所にて
しおりを挟む第60話で開かれた最後の扉の向こう側は、想像を絶する空間だった。
そこは、色という概念が蒸発した場所だった。 床も、壁も、天井もない。ただ、あらゆる方向から等しく放たれる純白の光が、空間そのものを形作っていた。影はどこにも落ちず、それによって遠近感は完全に麻痺していた。一歩前に進めば、数メートル先なのか、数キロ先なのか、それとも同じ場所を踏みしめているだけなのか、脳が理解することを放棄する。
音もまた、存在しなかった。 風の音も、機械の駆動音も、何もかもが「無」に帰していた。海斗がごくりと唾を飲み込む音さえ、耳に届く前に光の圧に吸い込まれて消える。聞こえるのは、自分の頭蓋骨の中で直接反響する、ドクン、ドクンという心臓の鼓動と、荒くなった呼吸の音だけ。 それは、美しいというよりも、息が詰まるほどの「圧」だった。清浄すぎて、生き物が呼吸することさえ許されないかのような、絶対的な神聖さが空間を満たしていた。
「ひ、ひぅ……」
海斗の背後で、珠が小さく喉を鳴らした。普段の威勢の良さは完全に消え失せ、猫としての本能が、この異常な空間に対する最大級の警戒信号を発していた。彼女は無意識のうちに姿勢を低くし、いつでも飛びかかれる体勢をとりながら、その黄金色の瞳をせわしなく動かしている。
「やれやれ。これはまた、悪趣味なほどに完璧だ」
パイモンが、この重圧の中で唯一、平然とした声を出した。彼はどこから取り出したのか、純白のハンカチで額を拭う仕草をしてみせる。一滴の汗もかいていないというのに。 「秩序と静寂で構成された、実に美しくない空間だ。まるで、思想だけを詰め込んで蓋をした、真っ白な棺桶だよ」 彼の皮肉だけが、この異常な空間における唯一の「人間らしい」響きだった。
そして、その棺桶の中心に、それは座していた。
空間の中央、周囲の光よりもさらに眩い光で編まれたかのような、巨大な水晶の玉座。そこに、力天使カマエルは静かに座していた。 彼が纏う「熾天使の武具」は、今はその力を内に秘め、まるで呼吸するかのように、穏やかで神々しい光を明滅させている。兜は外されており、その顔が露わになっていた。 完璧だった。 海斗は、その言葉以外に表現を知らなかった。 男とも女ともつかない、あらゆる人種の特徴を超越し、黄金比としか言いようのない比率で組み上げられた顔立ち。肌は磨き上げられた大理石のように滑らかで、一切の感情を映さない、深く、どこまでも虚無的な蒼い瞳が、一行を――いや、一行の中の一点だけを、静かに見据えていた。
カマエルは、海斗、珠、パイモンが存在していないかのように、完全に無視していた。床に転がる石ころや、空間を漂うチリを見るのと同じ。その視線は、ただ一点、マナにのみ注がれていた。
やがて、カマエルは動かないまま、その唇がわずかに開いた。 音が、響かなかった。 しかし、脳髄のど真ん中に、直接、冷たい金属の杭を打ち込まれたかのように、明瞭な「声」が響き渡った。
『ようやく、戻りましたか。穢れた地の匂いをその身に纏って。嘆かわしい』
その声は、海斗の背筋を凍らせるのに十分だった。それは怒りでも、悲しみでもない。ただ、完璧なプログラムが、予測と異なる結果(エラー)を出力したのを淡々と読み上げるかのような、無機質な響きだった。
この、神の威光が支配する絶対的な空間。その重圧を真正面から蹴り飛ばしたのは、やはりこの悪魔だった。 パイモンは、わざとらしく大きく溜息をつくと、コツ、とステッキで床を鳴らした。無音の空間に、その音だけが異物のように響いた。 「やれやれ、これだから石頭の完璧主義者は好かない。客人がわざわざ地獄の底から天上の果てまで訪ねてきているというのに、挨拶もなしかね? 紅茶の一杯くらい出したらどうだ。美学に反するよ」 彼は、カマエルに向かって、芝居がかった優雅さで一礼してみせた。それは、この神聖な空間に対する、彼なりの最大の皮肉であり、冒涜だった。
その瞬間だった。 カマエルは、パイモンを見なかった。 彼の蒼い瞳は、マナを見据えたまま、微動だにしていない。 ただ、パイモンが発した「音(雑音)」というエラーを認識し、その発生源を「修正」するかのように、世界が、歪んだ。
「――っ!?」
パイモンが、初めて驚愕の表情を浮かべる。 彼の周囲の空間が、目に見えない万力に掴まれたかのように、ぐにゃりと捻じ曲がったのだ。彼が愛用するシルクハットが軋み、ステッキが悲鳴を上げる。抵抗する間もなかった。パイモンの身体は、空間ごと捻じ曲げられ、紙屑のように至聖所の壁に向かって、凄まじい速度で叩きつけられた。
ゴシャッ!
生々しい衝突音。 それは、この空間で初めて響いた、完璧ではない、「命の音」だった。 「パイモン!」 海斗が叫ぶ。 「この化け物が…!」 珠が、パイモンよりも速く動いていた。彼女は瞬時に影となり、壁に叩きつけられて崩れ落ちるパイモンの身体を、その影で受け止めて引きずり戻す。 「ゲホッ、ゴフッ…!」 パイモンは、シルクハットを無残に歪ませ、口の端から血を滲ませながら激しく咳き込んだ。彼がいつも浮かべている皮肉な笑みは完全に消え失せ、その瞳には、信じられないものを見たかのような、純粋な戦慄が浮かんでいた。 「(馬鹿な…指一本、動かさなかったぞ…?)」 海斗は、その一連の出来事を、ただ瞬きもせずに見ていることしかできなかった。これが、神。これが、カマエル。自分たちがこれから戦おうとしている、世界の「正義」そのもの。 圧倒的な力の差、格の違いを、これ以上なく明確に叩きつけられた瞬間だった。
カマエルは、床に転がって苦しむパイモンを、変わらず無視していた。彼にとって、それは床の染みが一つ増えた程度の、取るに足らない事象でしかなかった。 彼の虚無の瞳は、再びマナへと戻る。 そして、玉座から立ち上がることもなく、静かに、最後の問答を始めた。
『マナ。あなたはかつて、宇宙の法則である「調和」を司っていました。しかし、今のあなたは混沌そのものだ』 カマエルの声が、再び脳内に響く。 『あなたは、なぜこの世界に苦しみが満ちているのか、忘れたのですか?』 その言葉に呼応するように、一行を取り囲んでいた純白の壁が、突如として巨大なスクリーンへと変貌した。そこに映し出されたのは、海斗が目を背けたくなるような、人類の歴史そのものだった。 戦火の中、親を呼びながら泣き叫ぶ、泥だらけの子供。 病床に伏し、骨と皮だけになって、虚空を見つめる老人。 裏切りに絶望し、橋の上から身を投げようとする、若い恋人たち。 飢えに苦しみ、土を漁る家族。 詐欺に遭い、全てを失って道端に座り込む男。 その無数の「苦しみ」の映像が、音もなく、しかし強烈なリアリティを持って、海斗の共感能力を激しく揺さぶる。 「う、ぐ…っ」 海斗は、あまりの情報の奔流に、思わず口元を押さえた。 カマエルの声が、その地獄絵図の解説をするかのように、冷たく続く。
『それは「ゆらぎ」があるからです』
『感情という、予測不能なバグ。欲望という、無限に増殖するエラー。老い、病み、そして死ぬという、不完全で非合理な変化。それら全てが、今あなたが見ている苦しみを生む、唯一の原因なのです』
カマエルの言葉には、狂気も、悪意もなかった。ただ、絶対的な真理を語るかのような、揺るぎない確信だけがあった。 『私は、その苦しみの原因そのものを、完全に取り除きます』 彼は、壁に映る地獄絵図を、まるで愛おしむかのように見つめた。 『感情も、欲望も、変化すらもない、完璧で、永遠に静かな世界を創る。争いも、病も、死の恐怖さえない、絶対的な秩序の世界。それこそが、神の御心であり、この不完全な被造物たちに与えられる、唯一の救済なのです』 その完璧な論理。その歪んだ慈悲。 海斗は、カマエルの思想の恐ろしさを、今、心の底から理解した。彼がやろうとしていることは、病気の子供を救うために、子供そのものを消し去ろうとする行為に等しい。
圧倒的な映像と、完璧な論理の前に、海斗は押し潰されそうになる。膝が笑い、立っていることさえ困難になる。 (ダメだ、こいつには勝てない。こいつの言っていることが、もしかしたら「正しい」のかもしれない) そんな弱気が、心をよぎる。 その時、彼の震える手を、温かいものがそっと握った。 マナだった。彼女は、海斗の前に立ち、彼を庇うようにカマエルと対峙していた。 その温もりを感じた瞬間、海斗の中で、恐怖とは別の、熱い何かが弾けた。 彼は、マナの前に躍り出た。 カマエルに無視されていることなど、百も承知だった。それでも、叫ばずにはいられなかった。
「ふざけるなッ!!」
魂の底からの咆哮が、無音の空間を震わせた。 「感情がバグ!? 変化がエラー!? それは、あんたが勝手に決めたルールだろ!」 壁に映る映像を、彼は睨みつけた。 「そうだ、世界は苦しいことで溢れてる! 傷つくことも、悩むことも、喧嘩することもある! でも、それも全部含めて、『生きてる』ってことじゃねえか!」 彼は、カマエルの虚無の瞳を、真っ直ぐに睨み返した。 「誰も苦しまない世界だと? 誰も悲しまない世界だと? そんな、何のゆらぎもない、完璧で静かな世界なんて、ただの墓場だ! 俺は、そんな世界は、絶対に認めない!」 それは、神の論理に対する、ただの人間の、感情的な、しかし唯一の反論だった。
海斗の叫びを受け、マナもまた、一歩前に進み出た。彼女の胸で、七色に輝く「女神の涙」が、強い光を放つ。 「カマエル。あなたの創る完璧な世界は、あまりに退屈で、そして美しくない」 彼女の声は静かだったが、至聖所の神聖な「圧」を、真っ向から押し返すほどの、強靭な意志に満ちていた。 「私は、あなたの退屈な秩序を拒否します。不完全で、バラバラで、どうしようもなくて、それでも愛おしい、海斗たちが生きるこの世界を、私は守る」
その返答を聞き、カマエルは、初めて玉座から静かに立ち上がった。 彼が立つと、空間そのものが彼の威光にひれ伏すかのように、僅かに歪んだ。 その完璧な顔に、初めて冷たい光が宿る。憐れみとも、侮蔑ともつかない、絶対零度の光が。
『理解不能』
脳内に響く、最後の宣告。
『対話のフェーズは終了です。これより、エラー(あなたたち)を修正し、世界の「浄化」を最終実行します』
カマエルの言葉が引き金となった。 彼が纏う「熾天使の武具」が、その姿を変え始める。閉じられていた純白の装甲が、まるで花が開くかのように、甲高い金属音を立てて展開していく。 その内部から溢れ出したのは、光ではなかった。 それは、太陽の中心部をそのまま切り取ってきたかのような、眩いばかりの「熱量」と「力の奔流」だった。 純白だった空間が、その圧倒的なエネルギーによって、白く、白く、塗り潰されていく。
至聖所の絶対的な静寂が、ついに破れた。 宇宙の法則そのものが、悲鳴を上げて軋むような、耳を劈く高周波が鳴り響く。 最終決戦の火蓋が、今、切って落とされた。
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