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第七部:天空の要塞と偽りの正義
第65話:魂を砕く光
しおりを挟むガキンッ、という甲高く不協和な金属音が、絶対的な静寂の空間に響き渡り、そして吸い込まれて消えた。 時が、止まった。
海斗は、神の懐にゼロ距離で飛び込んだ、その体勢のまま硬直していた。自らの右拳が、確かに、カマエルの完璧な武具の隙間、その首元に突き刺さっている感触。信じられない、という思考が、脳を焼き切れるほどの速度で回転する思考を、逆に停止させた。
カマエルは、微動だにしていなかった。 彼がゆっくりと、その白磁のように滑らかな手を持ち上げ、自らの頬に走った浅い、しかし決定的な亀裂に、そっと触れた 。 カマエルの、完璧なまでに美しかった顔。そこに初めて刻まれた、「傷」という名の不協和音。 それは、海斗の拳が直接つけた傷ではなかった。海斗の「混沌(カオス)」の奇策が、カマエルの完璧な論理(プログラム)の防御システムをオーバーフローさせ、その結果、制御しきれなかったエネルギーが、彼自身の武具を内側から僅かに破損させたのだ。
カマエルの虚無的な蒼い瞳が、ゆっくりと動いた。 彼は、初めて、海斗を「床の染み」や「雑音」としてではなく、認識すべき「存在」として、その目に映した。 そして、その瞳が、生まれて初めて、色を変えた。 絶対零度の虚無が消え、その奥に宿ったのは、怒りとも、憎しみとも違う、もっと冷たく、もっと根源的な光。 それは、自らの完璧な数式(世界)に紛れ込んだ、理解不能なバグ(人間)を、絶対に許さないという、冷徹な「殺意」だった 。
『(理解不能。修正不能)』 カマエルの脳内に、響く声。 『(私の計算(論理)が、バグ(人間)に、敗北した?)』 『(――ならば、存在そのものを、消去する)』
カマエルは、その手を静かに下ろした。 彼は、天界の禁忌兵器「魂を砕く光」を、至聖所そのものを動力源として起動させた 。
その瞬間、ぬらりひょんの隠れ里。 作戦本部で、パイモンが残した魔術的な通信装置を、セレスが息を詰めて見守っていた。彼女は、元天使として、天界のエネルギーの「匂い」に誰よりも敏感だった。 「(この感覚は…まさか!)」 彼女が観測していた光の羅針盤が、激しい警報音と共に、赤黒く明滅を始める。それは、天界の書庫でしか見たことのない、最も古く、最も忌むべき禁忌の術式が起動したことを示していた。 「ダメ、海斗さん!」 セレスは、通信機に向かって、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。 「それは物理攻撃じゃありません! 魂の兵器です! 意識を、今すぐ閉じて!」
だが、その警告は、あまりにも遅すぎた。
至聖所の純白だった光が、一瞬、不吉な灰色へと反転した。 そして、鳴った。 音ではない。 それは、耳で聞くものではなかった。 キィィィィン、という、魂の最も深い部分を直接爪で引っ掻くような、低く、重く、耐え難い「振動」 。それは、空間そのものを揺さぶり、骨を、髄を、そして魂そのものを共振させる、悪夢の周波数だった。 その振動は、一行の精神の最も脆い部分、最も深く隠していた「傷(トラウマ)」を、容赦なくハッキングし、増幅させ、その悪夢の中に永遠に閉じ込める、悪魔のプログラムだった 。
「――あ」 海斗の意識が、急速に現実から剥離していく。
目の前が、閃光に包まれる。 (ああ、そうだ。俺は、一度死んだんだ) 龍の寝床。カマエルの、あの時とは比べ物にならないほど巨大な光の槍が、スローモーションで自分に向かってくる 。 マナを突き飛ばす。 衝撃。 胸が焼ける、凄まじい熱量と痛み。 ごふ、と自分の喉から血の泡が噴き出す音を聞いた。 遠くで、マナの、世界が終わるかのような絶叫が聞こえる 。 (マナ、ごめん) (守れなかった) その絶望の瞬間に、彼の意識は縫い付けられた。 また、槍が迫ってくる。突き飛ばす。貫かれる。絶叫が響く。 (マナ、ごめん、守れなかった) 槍。絶叫。苦痛。後悔。 (ごめん) (ごめん)
「(ごめんよ…ごめんよ…!)」 珠の意識もまた、過去の闇に囚われていた。 雨の夜。燃え盛る、貧しい長屋 。煙が喉を焼く。まだ、ただの猫だった自分の、小さな身体。 瓦礫の隙間から、か細い、少女の声がする。 「(たま…どこ…? こわいよ…)」 必死に燃える柱を爪で引っ掻く。肉球が焼け、激痛が走る。だが、届かない。 「(ごめんよ、ごめんよ、守れなかった…!)」 少女の咳き込む声が、ぷつりと途絶える。 燃え盛る家。少女の声。焼ける肉球。届かない爪。 (ごめんよ)
「(なぜ…なぜなのだ…!)」 パイモンの精神は、光の天界にいた。 まだ、書記官として、神の真理を記録していた、あの頃。 信じていた同胞たちの顔が、冷たい侮蔑に変わる。 自分が記録した「真実」が、「異端」として断罪される。 背中で、光の翼が引き千切られる、魂が裂けるほどの激痛 。 そして、光の世界から、無限の闇へと、ただ一人、堕ちていく 。 (なぜ、私が) (なぜ、信じていたのに) 光。裏切り。断罪。落下。 (なぜ…)
「(私のせいだ…)」 マナの意識もまた、最初の悪夢に囚われていた 。 雨の日の路地裏。海斗の、屈託のない優しい笑顔。 それが、自分の力の暴走によって、苦痛に歪む。壁に叩きつけられ、腕から血を流す海斗の姿 。 (私が、海斗を巻き込んだ) (私がいるから、海斗が傷つく) 笑顔。暴走。苦痛。 (私のせいだ)
彼らを縛り付けているのは、過去に起きた出来事そのものではなかった。 その出来事に対して、「私(わたし)」が「こうすべきだった」「こうあらねばならなかった」という、強烈な自己への執着。 「守るべきだった私」 「裏切られるはずのなかった私」 「彼を傷つけるはずのなかった私」 その、どうしようもない過去への執着が生み出す「後悔」という名の苦しみが、彼らの魂を、今、この瞬間に縛り付けていた 。
現実世界の、至聖所。 カマエルの禁忌兵器が放つ、魂を蝕む振動が、静かに鳴り響いている。 海斗、マナ、珠、パイモン。 四人は、立ったまま、あるいは膝をついたまま、その動きを完全に停止していた 。 その瞳は、大きく見開かれている。しかし、その蒼い瞳にも、黄金色の瞳にも、何一つ、光は映っていなかった。 まるで、精巧に作られた、魂の抜け殻の人形。 彼らの精神は、それぞれの過去という名の牢獄に、永遠に囚われてしまったのだ 。
カマエルは、動かなくなった四つの「エラー」を、静かに見下ろした。 彼の完璧な論理(プログラム)が、勝利した。 彼は、その白磁の手を、再びゆっくりと持ち上げた。その掌に、今度こそ、物理的な破壊を目的とした、純粋な光の槍が形成されていく 。 もはや、奇策も、混沌も、バグも存在しない。 ただ、修正すべき対象が、そこにあるだけ。
『苦しみの原因(バグ)は、それ自体が苦しみによって滅びるのが、最も美しい秩序(プログラム)です』
カマエルの脳内に、その冷徹な宣告が響く。
『さようなら、不完全な者たち』
彼は、その光の槍を、無防備に立ち尽くす海斗の、その心臓めがけて、ゆっくりと、しかし確実に、振り下ろした 。
海斗の意識は、暗く、冷たい水の底にいた。 もう、槍の痛みも、マナの絶叫も聞こえない。 ただ、無限に続く、暗闇。 その闇の底で、彼の魂は、たった一言だけを、永遠に繰り返し呟いていた。
(ごめん、マナ)
光の槍の穂先が、海斗の胸元に、触れようとしていた。
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