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第五部:盤上の神と、盤を降りた者たち
第六十五話:通じない力、蝕まれる心
しおりを挟む鉛色の空の下、世界から色彩が失われていた。
日はとうに西の山稜に隠れ、夕暮れの淡い光さえも、分厚い雲に遮られて地上には届かない。城壁を叩きつける風は、肌を切り裂くような冷たさを増し、乾いた土埃を亡霊のように舞い上がらせていた。
ユウキとシン、二人の異邦人の間に、この世界の物理法則が歪むほどの濃密な沈黙が流れていた。
日本人。満員電車。死んだ魚のような目。
シンが放った言葉の弾丸は、ユウキの心の最も柔らかく、最も見せたくない部分を正確に撃ち抜いていた。驚愕と混乱が、彼の思考を麻痺させる。
だが、それ以上に、腹の底から、どうしようもない嫌悪感がマグマのように湧き上がってくる。目の前の男の、その態度。この世界の全てを、そこに生きる人々を、自分の退屈しのぎのための駒(NPC)としか見ていない、その傲慢さ。それは、かつてユウキが前世で心底憎んだ、理不尽な上司や顧客が浮かべる笑みと同質のものだった。
「……ごちゃごちゃうるさい」
ユウキの唇から、低い声が漏れた。
「とりあえず、一発殴れば黙るだろ」
もはや、対話など不要。面倒くさい問答は、終わらせてから考えればいい。ユウキは、いつものように、軽く威嚇するつもりで右手の指を弾いた。
デコピン。
それは、彼がこの世界に来てから、あらゆる理不尽を粉砕してきた絶対的な力の象徴。空間そのものが悲鳴を上げるように歪み、不可視、不可知、不可避の衝撃波が、音もなくシンに迫る。それはもはや物理的な攻撃ではなく、世界の法則そのものに干渉する、バグ技に等しい一撃だった。
だが、シンは表情一つ変えない。
彼はただ、つまらなそうに、自分の胸の前に人差し指を一本、すっと立てた。
指先に、小さな光点が生まれる。それは、ユウキが放ったエネルギーと寸分違わぬ、しかしその性質が鏡合わせのように完全に反転した、負の力だった。
二つの絶対的な力は、音もなく衝突し、互いの存在を完全に打ち消し合った。まるで、最初からそこには何もなかったかのように。後に残ったのは、舞い上がる土埃と、シンが退屈そうに漏らした呟きだけだった。
「だから、無駄だって言ったろ」
彼は、まるで出来の悪い生徒を諭す教師のような口調で続けた。
「その力、懐かしいな。俺も最初はよく使ってたよ。世界のソースコードを直接いじるなんて、芸がないと思わないか?」
力比べが無意味だと悟ったシンは、嘲笑うかのようにくるりとユウキに背を向けた。そして、自分の背後に控える、催眠術にでもかかったかのように静まり返っていた数万の民衆に向かって、両腕を広げて語りかける。
「見なさい、同胞たちよ!」
彼の声は、魔法ではない。だが、彼の持つ「世界の法則を書き換える」力は、その言葉に乗って人々の心に直接浸透し、彼らが心の奥底に押し込めていた恐怖、不満、嫉妬といった負の感情を、巧みに増幅させた。まるで、乾ききった薪の山に、見えない火の粉を振りかけるように。
「偽りの王は、対話ではなく、我々にその暴力を向けた! 彼が守りたいのは汝らではない! 彼が築き上げた、異形なる者たちだけが優遇される、歪んだ秩序そのものなのだ!」
その言葉は、風に乗ってユグドシラル城内にも届いた。
そして、毒のように、人々の心を蝕み始めた。
城下町の広場。これまで隣人として暮らしてきた人間と、ドワーフや獣人との間で、些細なきっかけから口論が始まった。
「お前たちがこの国に来てから、俺たちの仕事が奪われたんだ!」
「人間は信用できない。どうせ我らを見下しているのだろう!」
不安は不信を呼び、不信は憎悪を煽る。口論は、やがて投石や小競り合いに発展した。昨日まで同じ鍋をつつき、共に笑い合っていたはずの隣人たちが、今や憎しみの形相で互いを罵り合っている。
「やめろ! お前たち、正気に戻れ!」
ガンツとボルガが、必死の形相で鎮圧に向かう。だが、相手は憎むべき敵ではない。彼らが守るべき民、その一人ひとりだ。力任せに制圧することなどできるはずもなく、混乱は燃え広がる炎のように、ただ拡大していくばかりだった。
ユウキは、城壁の上からその光景を、ただ歯噛みして見ていることしかできなかった。
デコピン一発で国を、山を、軍隊を消し去れるこの力が、目の前の、たった数十人の小競り合いすら止められない。彼の力が、初めて「無力」と化した瞬間だった。
この状況こそが、シンの狙い。彼が仕掛けた、最も悪趣味なゲームだったのだ。
城壁の前で、シンはその混乱を、最高のエンターテイメントを鑑賞するかのように満足げに眺めていた。そして、初めて本物の苦悩の表情を浮かべるユウキに向かって、残酷に、そして心底楽しそうに言い放った。
「ほら、お前の力じゃ、誰も救えないだろ?」
その言葉は、鈍器のようにユウキの心を殴りつけた。
「お前が王になって、一体何が変わった? 結局、お前は何も分かってないんだよ。人の心ってやつが、この世で一番面白いオモチャなんだぜ?」
その嘲笑が、引き金になった。
ユウキの脳裏に、忘れたはずの光景が、鮮明に蘇る。
灰色のオフィス。鳴り止まない電話。理不尽な要求を突きつけてくる上司の、歪んだ顔。何も言い返せず、ただ「申し訳ありません」と頭を下げ続けるしかなかった、無力な自分。あの、どうしようもない絶望感。
目の前の光景が、自分の無力さを証明するためだけに用意された、巨大な舞台装置のように見えてくる。
シンは、あの時の上司と同じ顔をしていた。
そして自分は、あの時の社畜の自分と、何一つ変わっていないのではないか。
鉛色の空の下、ユウキはただ、立ち尽くすことしかできなかった。
彼の「死んだ魚のような目」から、最後の光が、消えかけていた。
そこに、吹雪と共にロゼンベルグの軍師たちが到着するのは、もう少しだけ、先の話である。
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