71 / 91
第五部:盤上の神と、盤を降りた者たち
第七十一話:『嘘を暴く者、真実を語る者』
しおりを挟む
冬の空は、まるで巨大な鉛の板をどこまでも広げたかのように、重く、低く、大陸全土を覆っていた。光を失った世界では、すべての色彩がその鮮やかさを潜め、風の音だけが、肌を刺すような冷たさの輪郭を際立たせていた。
その鉛色の空の下、ロゼンベルグ王国の心臓部では、大陸の未来を賭けたもう一つの戦いが、静かに、しかし熱く始まっていた。王立印刷所。そこは、インクのツンとした独特の匂いと、規則正しく紙を叩く活版印刷機の重厚なリズム、そして壁という壁を埋め尽くす書架に眠る、知識の森厳な香りが混じり合う、知の戦場であった。
部屋の中央に置かれた巨大なオーク材の机の上には、羊皮紙の山がいくつも築かれ、その間を二人の天才が、常人には理解不能な速度で思考のパスを交わし合っていた。
「ふむ。やはり、シンと名乗る男の現象励起パターンは、この世界の物理法則を記述するソースコードに、管理者権限(アドミンコード)で直接介入するそれに酷似している。極めてエレガントさに欠ける、強引な手法だ」
ボサボサの髪を掻きむしりながら、万年寝不足を証明するかのような濃い隈を目の下に刻んだ男、ロゼンベルグの若き宰相アレクシスが、数式で埋め尽くされた羊皮紙を睨みつけ、忌々しげに呟く 。彼の指先が、まるでピアノを弾くかのように紙の上を滑り、既存の数式に新たな仮説を書き加えていく。その思考速度は、常人であれば目で追うことすら叶わない。
「まあ、素晴らしい!その解釈、実に興味深いですわ!」
その隣で、深い青色のローブをまとった知的な女性、ユグドラシルの魔導士リリアが、うっとりとした表情で目を輝かせている 。彼女はアレクシスの導き出した結論を、まるで美しい芸術品を鑑賞するかのように愛でながら、自身の知識体系と照合し、瞬時にその意味を理解した。
「つまり、彼はこの世界のバグや脆弱性を利用して、本来ありえない結果を無理やり引き出す、悪質なチーターということですわね」
「その通り。対して、我らがユウキ陛下の力は、全く性質が異なる。彼の『デコピン』の痕跡を解析する限り、あれは物理法則を無視しているのではなく、むしろこの世界の物理法則――すなわち質量とエネルギーの等価交換の法則を、極限まで遵守し、超高効率で実行しているに過ぎない。いわば、超高性能な物理演算エンジンを内蔵した、正規のプレイヤーだ」
アレクシスの言葉を受け、リリアはポンと手を打った。その瞳は、最高の研究対象を前にしたマッドサイエンティストの狂気と歓喜に満ち溢れていた 。
「分かりましたわ!シンはシステムの穴を突いて楽をするチーター、ユウキ陛下は、圧倒的な正規スペックですべてを真正面から殴りつける、脳筋ゴリラ!ということですのね!ああ、なんという興味深い対比!サンプルとして、両者とも最高級ですわ!」
「……その比喩、下品ではあるが、本質を捉えているのが腹立たしいな」
アレクシスは、リリアの遠慮のない物言いに眉をひそめつつも、否定はしなかった。二人の天才は、出会って数時間にもかかわらず、まるで長年連れ添った研究パートナーのように、完璧な連携でシンの力の正体を丸裸にしていく。ユウキとソフィアが「日本人転生者」という共通の秘密によって結ばれたように、アレクシスとリリアは「世界の真理を探究する」という共通の言語によって、国境や種族を超えて、瞬時に意気投合していたのだ。
彼らの共同研究は驚異的な速度で進み、わずか一昼夜で、シンの「奇跡」の正体を科学的に論証する、一つの完璧な論文が完成した。論文のタイトルは、『シン氏の行使する超常現象のエネルギーパターン分析と、ユグドラシル王国ユウキ陛下が顕現する物理現象との比較考察、及びそれに伴う世界法則への介入レベルに関するレポート』。その内容は、大陸のどの学者も足元にも及ばないほど高度で、深遠なものだった。
しかし、その論文が提出された作戦会議室で、最高司令官であるソフィア・フォン・ロゼンベルグは、美しい眉一つ動かさずに、こう言い放った。
「素晴らしい内容ですわ、アレクシス、リリア殿。ですが、これでは専門家でなければ誰も読めません。私たちの目的は、学会で発表することではなく、シンの足元を支える民衆の心を動かすこと。これを、十歳の子供が読んでも理解できるように、書き直しなさい」
その非情かつ無茶な命令に、アレクシスの顔が初めて引きつった。「じゅ、十歳……?そ、それは……非合理的な要求の極みですぞ、ソフィア様!」
「あら、あなたなら出来ると信じていますわ。頑張って」
にっこりと微笑むソフィアの有無を言わせぬ圧力に、天才学者は「ふ、ふむ……」と呻きながら、再び印刷所へと引き返していく。その背中は、初めて解けない問題を与えられた子供のように、小さく丸まっていた。
かくして、二人の天才の血と汗と涙の結晶は、大陸の運命を変える一枚の紙へと姿を変えた。
『【緊急警報】「神の使徒」を名乗る男の能力の正体について!』
そう題されたビラは、ロゼンベルグが誇る最新鋭の輪転機によって、夜を徹して何十万枚も刷り上げられた。ユグドラシルから派遣されたギルドの情報網と、ロゼンベルグの持つ商業ルートを最大限に活用し、それは大陸全土へと、まるで意志を持ったウイルスのように、急速に拡散されていった。
ある日の昼下がり、グランツ帝国の圧政に喘ぐ南部のとある街で、人々は空を見上げていた。分厚い雲の隙間から、雪ではない白い何かが、ひらひらと無数に舞い落ちてくる。それはまるで、神からの啓示のようにも見えた。人々は訝しげに、あるいは期待を込めて、その紙片を拾い上げる。
そこに書かれていた内容は、衝撃的だった。
「親愛なる大陸の兄弟たちへ!
今、大陸を席巻している『神の使徒シン』を名乗る男について、我々は重大な事実を突き止めました。彼の行う『奇跡』は、決して神の御業などではありません!」
ざわめきが、広場のあちこちで生まれる。
「我々、ロゼンベルグ王国とユグドラシル王国の学者たちによる共同調査の結果、彼の力は、解析可能な、極めて巨大なエネルギーの一種であることが判明しました。そして、そのエネルギーの性質は、ユグドラシルの偉大なる王、ユウキ陛下がお使いになる力と、本質的に同じ種類のものであることも確認されています」
人々は顔を見合わせる。ユグドラシルの王の名は、経済封鎖をたった一人で打ち破った英雄として、あるいは、とてつもなく美味しい「ラーメン」なる料理を民に振る舞う奇妙な王として、良くも悪くも大陸中に轟いていた 。
「つまり、シンは神でも、神の使いでもありません。彼は『ユウキ王と同じような、とてつもなくすごい力を持った、ただの人間』に過ぎないのです。
我々は、一人の人間を神として崇めることの危険性を、歴史から学ばねばなりません。真の救いは、天から与えられる奇跡にあるのではなく、我々自身の手で、パンを焼き、畑を耕し、隣人と助け合う、その営みの中にこそあるのです。
どうか、偽りの神性に惑わされることなく、真実を見極める目を持ってください」
ビラを読み終えた人々の間に、熱狂とは異なる、静かだが深い動揺が広がっていく。それは、疑念という名の、小さな、しかし強力な種だった。
そして、ソフィアの情報戦は、それだけでは終わらなかった。第二の矢は、大陸中の人々の信仰心に、より深く、直接的に突き刺さるものだった。
かつてグランツ帝国に利用され、偽りの神託を語らされていた聖女セレスティーナ 。彼女は、ユウキのデコピンによって教会の欺瞞から解放された後、今やユウキ本人を「我が師」と崇める、誰よりも熱狂的な信者と化していた 。ソフィアからの協力要請を受けた彼女は、二つ返事でそれを承諾した。我が師、ユウキ様の偉大さを大陸中に知らしめる、またとない機会だと考えたからだ。
大陸の主要都市に張り巡らされた、教会の持つ通信用の魔法水晶を通じて、彼女の清らかで、しかし力強い声が、神託として響き渡った。
「神は告げられました。真の救いは、天から与えられる奇跡にあるのではなく、人々が自らの手でパンを焼き、隣人と分ち合う、その温かい心の中にこそ宿るのだ、と。今、神の使徒を名乗る者が現れたと聞きます。しかし、神は言われます。シンは神の使徒ではありません、と」
その神託の原稿は、当初、セレスティーナの暴走によって、凄まじいものになりかけていた。
「――その温かい心の中にこそ宿るのです!まあっ!まさに、我が師、ユウキ様が民に振る舞われた、あの神の如きラーメンの温かさそのものではありませんか!神は告げられました!我が師ユウキ様のラーメンこそが、神の心そのものであると!」
この一文が追記された原稿案を見たユグドラシルの宰相アーサーは、危うく卒倒しかけた 。彼は、限界に近い胃痛に耐えながら、「セレスティーナ様!お気持ちは!お気持ちは痛いほど分かりますが、これではただのラーメン屋の宣伝です!神託の威厳が!」「まあっ!あなたには分からないのですか、アーサー宰相!あのスープの一滴にこそ、宇宙の真理が!」という押し問答を三時間にわたって繰り広げた末、なんとかその熱狂的な一文を削除させることに成功したのだった 。
アーサーの命がけの校正によって、神託は威厳を保ったまま、大陸全土へと伝えられた。
ビラという「科学の言葉」と、神託という「信仰の言葉」。性質の異なる二つの真実は、しかし、同じ一つの結論を指し示していた。「シンは、神ではない」。
シンの「聖なる行進」に加わっていた信者たちのキャンプ地でも、その二つの報は、冷たい冬の風に乗ってささやかれ始めていた。
「おい、見たか?このビラ。シンの旦那様は、神様じゃなくて、ユグドラシルの王様と同じ人間だったんだとよ」
「馬鹿なことを言うな。俺は見たんだぞ、砂漠にオアシスを作る奇跡を」
「だがよ、教会の聖女様まで、シン様は神の使いじゃないって言ってるらしいぜ」
「じゃあ、なんなんだよ。神の使徒が、二人もいるってことか?」
熱狂という名の熱い霧が、少しずつ晴れていく。その霧の向こう側で、人々は初めて、冷静な問いを、自分自身の頭で考え始めた。
「なあ、ユグドラシルの王様って、民に温かい汁そばを振る舞ってるんだってな」
「ああ、ラーメンとか言ったか。なんでも、神様の奇跡よりも、腹が膨れて、心が温まる味がするそうだ」
その噂は、シンの与える非日常的で壮大な「救い」よりも、はるかに具体的で、地に足の着いた魅力を持っていた。家族と囲んだ食卓の温かさ、汗水流して働いた後の一杯のスープの味。人々が心の奥底で本当に求めていたのは、神になることではなく、人間として、ささやかに、しかし確かに幸福に生きることだったのかもしれない。
シンの神性は、ソフィアが放った情報戦という、目に見えない無数の矢によって、少しずつ、しかし確実に剥がされていく。彼が築き上げた完璧な神の国に、初めて穿たれたその亀裂は、まだ小さく、本人すら気づかぬほどのかすかなものだったが、やがて巨大な城壁を崩壊させる、最初の綻びとなる運命にあった。
その鉛色の空の下、ロゼンベルグ王国の心臓部では、大陸の未来を賭けたもう一つの戦いが、静かに、しかし熱く始まっていた。王立印刷所。そこは、インクのツンとした独特の匂いと、規則正しく紙を叩く活版印刷機の重厚なリズム、そして壁という壁を埋め尽くす書架に眠る、知識の森厳な香りが混じり合う、知の戦場であった。
部屋の中央に置かれた巨大なオーク材の机の上には、羊皮紙の山がいくつも築かれ、その間を二人の天才が、常人には理解不能な速度で思考のパスを交わし合っていた。
「ふむ。やはり、シンと名乗る男の現象励起パターンは、この世界の物理法則を記述するソースコードに、管理者権限(アドミンコード)で直接介入するそれに酷似している。極めてエレガントさに欠ける、強引な手法だ」
ボサボサの髪を掻きむしりながら、万年寝不足を証明するかのような濃い隈を目の下に刻んだ男、ロゼンベルグの若き宰相アレクシスが、数式で埋め尽くされた羊皮紙を睨みつけ、忌々しげに呟く 。彼の指先が、まるでピアノを弾くかのように紙の上を滑り、既存の数式に新たな仮説を書き加えていく。その思考速度は、常人であれば目で追うことすら叶わない。
「まあ、素晴らしい!その解釈、実に興味深いですわ!」
その隣で、深い青色のローブをまとった知的な女性、ユグドラシルの魔導士リリアが、うっとりとした表情で目を輝かせている 。彼女はアレクシスの導き出した結論を、まるで美しい芸術品を鑑賞するかのように愛でながら、自身の知識体系と照合し、瞬時にその意味を理解した。
「つまり、彼はこの世界のバグや脆弱性を利用して、本来ありえない結果を無理やり引き出す、悪質なチーターということですわね」
「その通り。対して、我らがユウキ陛下の力は、全く性質が異なる。彼の『デコピン』の痕跡を解析する限り、あれは物理法則を無視しているのではなく、むしろこの世界の物理法則――すなわち質量とエネルギーの等価交換の法則を、極限まで遵守し、超高効率で実行しているに過ぎない。いわば、超高性能な物理演算エンジンを内蔵した、正規のプレイヤーだ」
アレクシスの言葉を受け、リリアはポンと手を打った。その瞳は、最高の研究対象を前にしたマッドサイエンティストの狂気と歓喜に満ち溢れていた 。
「分かりましたわ!シンはシステムの穴を突いて楽をするチーター、ユウキ陛下は、圧倒的な正規スペックですべてを真正面から殴りつける、脳筋ゴリラ!ということですのね!ああ、なんという興味深い対比!サンプルとして、両者とも最高級ですわ!」
「……その比喩、下品ではあるが、本質を捉えているのが腹立たしいな」
アレクシスは、リリアの遠慮のない物言いに眉をひそめつつも、否定はしなかった。二人の天才は、出会って数時間にもかかわらず、まるで長年連れ添った研究パートナーのように、完璧な連携でシンの力の正体を丸裸にしていく。ユウキとソフィアが「日本人転生者」という共通の秘密によって結ばれたように、アレクシスとリリアは「世界の真理を探究する」という共通の言語によって、国境や種族を超えて、瞬時に意気投合していたのだ。
彼らの共同研究は驚異的な速度で進み、わずか一昼夜で、シンの「奇跡」の正体を科学的に論証する、一つの完璧な論文が完成した。論文のタイトルは、『シン氏の行使する超常現象のエネルギーパターン分析と、ユグドラシル王国ユウキ陛下が顕現する物理現象との比較考察、及びそれに伴う世界法則への介入レベルに関するレポート』。その内容は、大陸のどの学者も足元にも及ばないほど高度で、深遠なものだった。
しかし、その論文が提出された作戦会議室で、最高司令官であるソフィア・フォン・ロゼンベルグは、美しい眉一つ動かさずに、こう言い放った。
「素晴らしい内容ですわ、アレクシス、リリア殿。ですが、これでは専門家でなければ誰も読めません。私たちの目的は、学会で発表することではなく、シンの足元を支える民衆の心を動かすこと。これを、十歳の子供が読んでも理解できるように、書き直しなさい」
その非情かつ無茶な命令に、アレクシスの顔が初めて引きつった。「じゅ、十歳……?そ、それは……非合理的な要求の極みですぞ、ソフィア様!」
「あら、あなたなら出来ると信じていますわ。頑張って」
にっこりと微笑むソフィアの有無を言わせぬ圧力に、天才学者は「ふ、ふむ……」と呻きながら、再び印刷所へと引き返していく。その背中は、初めて解けない問題を与えられた子供のように、小さく丸まっていた。
かくして、二人の天才の血と汗と涙の結晶は、大陸の運命を変える一枚の紙へと姿を変えた。
『【緊急警報】「神の使徒」を名乗る男の能力の正体について!』
そう題されたビラは、ロゼンベルグが誇る最新鋭の輪転機によって、夜を徹して何十万枚も刷り上げられた。ユグドラシルから派遣されたギルドの情報網と、ロゼンベルグの持つ商業ルートを最大限に活用し、それは大陸全土へと、まるで意志を持ったウイルスのように、急速に拡散されていった。
ある日の昼下がり、グランツ帝国の圧政に喘ぐ南部のとある街で、人々は空を見上げていた。分厚い雲の隙間から、雪ではない白い何かが、ひらひらと無数に舞い落ちてくる。それはまるで、神からの啓示のようにも見えた。人々は訝しげに、あるいは期待を込めて、その紙片を拾い上げる。
そこに書かれていた内容は、衝撃的だった。
「親愛なる大陸の兄弟たちへ!
今、大陸を席巻している『神の使徒シン』を名乗る男について、我々は重大な事実を突き止めました。彼の行う『奇跡』は、決して神の御業などではありません!」
ざわめきが、広場のあちこちで生まれる。
「我々、ロゼンベルグ王国とユグドラシル王国の学者たちによる共同調査の結果、彼の力は、解析可能な、極めて巨大なエネルギーの一種であることが判明しました。そして、そのエネルギーの性質は、ユグドラシルの偉大なる王、ユウキ陛下がお使いになる力と、本質的に同じ種類のものであることも確認されています」
人々は顔を見合わせる。ユグドラシルの王の名は、経済封鎖をたった一人で打ち破った英雄として、あるいは、とてつもなく美味しい「ラーメン」なる料理を民に振る舞う奇妙な王として、良くも悪くも大陸中に轟いていた 。
「つまり、シンは神でも、神の使いでもありません。彼は『ユウキ王と同じような、とてつもなくすごい力を持った、ただの人間』に過ぎないのです。
我々は、一人の人間を神として崇めることの危険性を、歴史から学ばねばなりません。真の救いは、天から与えられる奇跡にあるのではなく、我々自身の手で、パンを焼き、畑を耕し、隣人と助け合う、その営みの中にこそあるのです。
どうか、偽りの神性に惑わされることなく、真実を見極める目を持ってください」
ビラを読み終えた人々の間に、熱狂とは異なる、静かだが深い動揺が広がっていく。それは、疑念という名の、小さな、しかし強力な種だった。
そして、ソフィアの情報戦は、それだけでは終わらなかった。第二の矢は、大陸中の人々の信仰心に、より深く、直接的に突き刺さるものだった。
かつてグランツ帝国に利用され、偽りの神託を語らされていた聖女セレスティーナ 。彼女は、ユウキのデコピンによって教会の欺瞞から解放された後、今やユウキ本人を「我が師」と崇める、誰よりも熱狂的な信者と化していた 。ソフィアからの協力要請を受けた彼女は、二つ返事でそれを承諾した。我が師、ユウキ様の偉大さを大陸中に知らしめる、またとない機会だと考えたからだ。
大陸の主要都市に張り巡らされた、教会の持つ通信用の魔法水晶を通じて、彼女の清らかで、しかし力強い声が、神託として響き渡った。
「神は告げられました。真の救いは、天から与えられる奇跡にあるのではなく、人々が自らの手でパンを焼き、隣人と分ち合う、その温かい心の中にこそ宿るのだ、と。今、神の使徒を名乗る者が現れたと聞きます。しかし、神は言われます。シンは神の使徒ではありません、と」
その神託の原稿は、当初、セレスティーナの暴走によって、凄まじいものになりかけていた。
「――その温かい心の中にこそ宿るのです!まあっ!まさに、我が師、ユウキ様が民に振る舞われた、あの神の如きラーメンの温かさそのものではありませんか!神は告げられました!我が師ユウキ様のラーメンこそが、神の心そのものであると!」
この一文が追記された原稿案を見たユグドラシルの宰相アーサーは、危うく卒倒しかけた 。彼は、限界に近い胃痛に耐えながら、「セレスティーナ様!お気持ちは!お気持ちは痛いほど分かりますが、これではただのラーメン屋の宣伝です!神託の威厳が!」「まあっ!あなたには分からないのですか、アーサー宰相!あのスープの一滴にこそ、宇宙の真理が!」という押し問答を三時間にわたって繰り広げた末、なんとかその熱狂的な一文を削除させることに成功したのだった 。
アーサーの命がけの校正によって、神託は威厳を保ったまま、大陸全土へと伝えられた。
ビラという「科学の言葉」と、神託という「信仰の言葉」。性質の異なる二つの真実は、しかし、同じ一つの結論を指し示していた。「シンは、神ではない」。
シンの「聖なる行進」に加わっていた信者たちのキャンプ地でも、その二つの報は、冷たい冬の風に乗ってささやかれ始めていた。
「おい、見たか?このビラ。シンの旦那様は、神様じゃなくて、ユグドラシルの王様と同じ人間だったんだとよ」
「馬鹿なことを言うな。俺は見たんだぞ、砂漠にオアシスを作る奇跡を」
「だがよ、教会の聖女様まで、シン様は神の使いじゃないって言ってるらしいぜ」
「じゃあ、なんなんだよ。神の使徒が、二人もいるってことか?」
熱狂という名の熱い霧が、少しずつ晴れていく。その霧の向こう側で、人々は初めて、冷静な問いを、自分自身の頭で考え始めた。
「なあ、ユグドラシルの王様って、民に温かい汁そばを振る舞ってるんだってな」
「ああ、ラーメンとか言ったか。なんでも、神様の奇跡よりも、腹が膨れて、心が温まる味がするそうだ」
その噂は、シンの与える非日常的で壮大な「救い」よりも、はるかに具体的で、地に足の着いた魅力を持っていた。家族と囲んだ食卓の温かさ、汗水流して働いた後の一杯のスープの味。人々が心の奥底で本当に求めていたのは、神になることではなく、人間として、ささやかに、しかし確かに幸福に生きることだったのかもしれない。
シンの神性は、ソフィアが放った情報戦という、目に見えない無数の矢によって、少しずつ、しかし確実に剥がされていく。彼が築き上げた完璧な神の国に、初めて穿たれたその亀裂は、まだ小さく、本人すら気づかぬほどのかすかなものだったが、やがて巨大な城壁を崩壊させる、最初の綻びとなる運命にあった。
0
あなたにおすすめの小説
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
夫から『お前を愛することはない』と言われたので、お返しついでに彼のお友達をお招きした結果。
古森真朝
ファンタジー
「クラリッサ・ベル・グレイヴィア伯爵令嬢、あらかじめ言っておく。
俺がお前を愛することは、この先決してない。期待など一切するな!」
新婚初日、花嫁に真っ向から言い放った新郎アドルフ。それに対して、クラリッサが返したのは――
※ぬるいですがホラー要素があります。苦手な方はご注意ください。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
最低のEランクと追放されたけど、実はEXランクの無限増殖で最強でした。
MP
ファンタジー
高校2年の夏。
高木華音【男】は夏休みに入る前日のホームルーム中にクラスメイトと共に異世界にある帝国【ゼロムス】に魔王討伐の為に集団転移させれた。
地球人が異世界転移すると必ずDランクからAランクの固有スキルという世界に1人しか持てないレアスキルを授かるのだが、華音だけはEランク・【ムゲン】という存在しない最低ランクの固有スキルを授かったと、帝国により死の森へ捨てられる。
しかし、華音の授かった固有スキルはEXランクの無限増殖という最強のスキルだったが、本人は弱いと思い込み、死の森を生き抜く為に無双する。
戦場帰りの俺が隠居しようとしたら、最強の美少女たちに囲まれて逃げ場がなくなった件
さん
ファンタジー
戦場で命を削り、帝国最強部隊を率いた男――ラル。
数々の激戦を生き抜き、任務を終えた彼は、
今は辺境の地に建てられた静かな屋敷で、
わずかな安寧を求めて暮らしている……はずだった。
彼のそばには、かつて命を懸けて彼を支えた、最強の少女たち。
それぞれの立場で戦い、支え、尽くしてきた――ただ、すべてはラルのために。
今では彼の屋敷に集い、仕え、そして溺愛している。
「ラルさまさえいれば、わたくしは他に何もいりませんわ!」
「ラル様…私だけを見ていてください。誰よりも、ずっとずっと……」
「ねぇラル君、その人の名前……まだ覚えてるの?」
「ラル、そんなに気にしなくていいよ!ミアがいるから大丈夫だよねっ!」
命がけの戦場より、ヒロインたちの“甘くて圧が強い愛情”のほうが数倍キケン!?
順番待ちの寝床争奪戦、過去の恋の追及、圧バトル修羅場――
ラルの平穏な日常は、最強で一途な彼女たちに包囲されて崩壊寸前。
これは――
【過去の傷を背負い静かに生きようとする男】と
【彼を神のように慕う最強少女たち】が織りなす、
“甘くて逃げ場のない生活”の物語。
――戦場よりも生き延びるのが難しいのは、愛されすぎる日常だった。
※表紙のキャラはエリスのイメージ画です。
無能なので辞めさせていただきます!
サカキ カリイ
ファンタジー
ブラック商業ギルドにて、休みなく働き詰めだった自分。
マウントとる新人が入って来て、馬鹿にされだした。
えっ上司まで新人に同調してこちらに辞めろだって?
残業は無能の証拠、職務に時間が長くかかる分、
無駄に残業代払わせてるからお前を辞めさせたいって?
はいはいわかりました。
辞めますよ。
退職後、困ったんですかね?さあ、知りませんねえ。
自分無能なんで、なんにもわかりませんから。
カクヨム、なろうにも同内容のものを時差投稿しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる