過労死したので来世は平穏に暮らしたい。なのに、うっかり英雄になってしまい、東では国を救った元悪役令嬢が俺の噂をしていた。

Gaku

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第五部:盤上の神と、盤を降りた者たち

第七十四話:『ファイナルアンサー』

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世界が、悲鳴を上げていた。

シン――神谷真司の精神の崩壊と完全にリンクした神殿は、もはやその原型を留めていなかった。完璧だったはずの白亜の壁は、まるで溶けた蝋のように液状化し、どろりとした不定形の塊となって蠢いている。天井は砕け散り、その向こうには、昼とも夜ともつかぬ、紫とオレンジが混じり合った混沌の空が渦を巻いていた。そして、その空からは、なぜか無数の、鱗をきらめかせる銀色の魚が、雨のように降り注いでいた。

床は、巨大なチェス盤の模様に明滅を繰り返し、一歩踏み出すごとに、足元のマスが赤や青に色を変える。物理法則という、この世界を支えていた絶対的なルールが完全に崩壊し、シュールで、悪夢のような光景だけが、そこにあった。

その混沌の中心。
かつて玉座があった場所に、神谷真司は虚ろな目で宙を見つめ、壊れた玩具のように同じ言葉を繰り返していた。

「リセットだ……こんなクソゲー、リセットしてやる……」

彼の論理では、この状況はありえない。完璧なパラメータを持つはずの自分が、なぜ、データの寄せ集めに過ぎないNPCどもに敗北しなければならないのか。なぜ、自分が最も嫌悪した「孤独」に、再び引き戻されなければならないのか。

理解不能。計算不能。エラー。エラー。エラー。
であれば、答えは一つ。
このゲーム盤そのものが、欠陥品なのだ。

「リセットだ……リセットして、最初から……もっと完璧なゲームを……」

彼の呟きに呼応するように、その身体を中心に、空間そのものを喰らい尽くすかのような、絶対的な無を凝縮した黒い球体が生まれ、ゆっくりと、しかし確実に拡大を始めた。それは、存在そのものを消去する、究極のデリートコマンド。この世界という名の、彼にとってのクソゲーを、根こそぎアンインストールするための、最後のプログラムだった。

その絶望的な光景の中に、しかし、二つの影が静かに歩みを進めていた。
一人は、相変わらずやる気のない「死んだ魚のような目」をした、黒髪の青年。
もう一人は、その背中を絶対的な信頼をもって見つめる、金髪の王女。
ユウキとソフィアだった。

黒い球体が放つ、存在そのものを否定するような凄まじいプレッシャーを前に、ユウキは心底面倒くさそうに頭を掻いた。

「おい、やめろよ。俺の念願のスローライフまでリセットされたら、さすがにたまんねえだろうが」

その言葉は、世界の危機に瀕しているとは思えないほどに緊張感がなかった。だが、隣に立つソフィアは、その言葉にこそ、彼が本気になった証が宿っていることを知っていた。彼女は、決意を秘めた紫水晶の瞳で、ユウキの横顔を見上げた。

「ユウキ!彼を、世界を、お願い!私が彼の心を止めるまでの時間を、稼ぎますわ!」

「はいはい。やればいいんだろ、やれば。……まったく、俺の隠居生活は、いつになったら始まるんだか」

ユウキは、ぼやきながら一歩前に出る。
彼の右手がゆっくりと持ち上がり、人差し指が中指に、くい、と引っかけられる。デコピンの構え。しかし、その指先に込められたエネルギーの密度は、これまでとは比較にすらならない。彼の周囲の空間が、あまりのエネルギーの集中に、陽炎のようにぐにゃりと歪む。

「おらあっ!」

放たれたのは、不可視の衝撃波。
シンの生み出した「無の球体」が、世界の法則を「書き換える」力であるならば、ユウキの力は、この世界の物理法則を極限まで遵守し、膨大な質量とエネルギーを一点に凝縮して叩きつける、究極の「物理演算」だ。

法則を無視する力と、法則を極めた力。
二つの規格外の力が正面から衝突し、世界が激しく明滅した。黒い球体の拡大が、ほんのわずかに、しかし確実に押しとどめられる。

「ぐっ……おおおおっ!」

ユウキは、歯を食いしばりながら、カウンターの衝撃波を連射する。一発、また一発と、彼の指先から放たれるエネルギーが、世界の消滅という絶対的な結果を、強引に相殺していく。空間が裂け、時間が軋むような、壮絶な綱引き。それは、ただ一人の男による、世界の終焉に対する、あまりにも無謀で、しかし、あまりにも力強い抵抗だった。

その、ユウキが命がけで稼いだ時間の中を、ソフィアは、ゆっくりと、シンに向かって歩みを進めていた。
彼女の周りでは、天井から魚が降り注ぎ、床は光の洪水のように明滅している。だが、彼女の足取りに、迷いは一切なかった。

彼女の声は、世界の崩壊音にかき消されそうなほどに小さく、しかし、不思議なほど穏やかで、凛としていた。

「あなたも、私たちと同じなのでしょう?」

その言葉は、虚ろだったシンの瞳に、わずかな光を宿させた。ソフィアは、彼の数メートル手前で足を止め、その瞳をまっすぐに見つめた。そこにあるのは、敵意でも、憐憫でもない。同じ痛みを、同じ孤独を知る者だけが持つ、深く、静かな共感だった。

「満員電車に揺られて、死んだ魚みたいな目をして……。誰にも認められず、誰にも必要とされず、ただシステムの一部として、歯車のように毎日をすり減らしていた。何もかもに、うんざりしていた。……違いますか?」

ソフィアの言葉は、魔法ではなかった。それは、論理だった。彼が民衆に「日常」を選ばれた時に見せた、あの常軌を逸した絶叫。それは、彼が前世で、その「ちっぽけな日常」すら手に入れられなかったことの、何よりの証明だった。

彼が求めていたのは、神の力などではなかった。
この世界でなら、前世とは違う、特別な誰かになれるかもしれない。誰かに認められ、必要とされる、「繋がり」を手に入れられるかもしれない。その、あまりに人間的で、切実な願い。

しかし、彼はその方法を、間違えた。

「神様ごっこは、もうおしまいです」

ソフィアの声は、慈母のように優しく、しかし、判決を言い渡す裁判官のように、厳かだった。

「あなたは、神なんかじゃない。私や、あそこで馬鹿みたいに踏ん張っている男と同じ、ただの人間。この世界に、たった一人で放り出された、孤独な迷子よ」

ユウキが、力で世界を守る。
ソフィアが、言葉でシンの心を攻める。

それは、この異世界で巡り合った、二人の転生者による、最強の矛と最高の知恵を駆使した、最後の共同作業だった。

ソフィアの言葉は、神谷真司の心の最も柔らかく、最も脆い部分に、深く、深く突き刺さった。

忘れていたはずの記憶が、濁流のように蘇る。
灰色のオフィス。無機質なパソコンの画面。鳴り止まない電話。上司の罵声。同僚たちの嘲笑。誰からも評価されず、誰の記憶にも残らず、ただ、システムの一部として消費されていくだけの日々。

あの時の、絶望的なまでの無力感。
世界に、自分という人間がいてもいなくても、何も変わらないのだという、魂が凍るような孤独。

彼は、神になることで、その記憶から逃げようとした。
しかし、ソフィアの言葉は、彼をその記憶のど真ん中へと、容赦なく引きずり戻した。

「あなたの本当の名前は、何?」

その問いは、最後の鍵だった。
それは、「神」という、彼が自ら作り上げた巨大な偶像に問いかけるのではなく、その偶像の後ろで、孤独に震えていた、一人の人間としての彼に、向けられた問いだった。

神谷真司の目から、神としての冷たい光が、すうっと消えていった。
代わりに宿ったのは、迷子の子供のような、弱々しく、助けを求めるような光だった。
彼の唇が、かすかに震える。

「……かみや……しんじ、だ」

彼が、その、前世の名前を呟いた瞬間。
彼の心を支配していた、「神である私」という、巨大な思い込みの炎が、ふっと、音もなく消えた。

それと同時に、世界を消去しようとしていた黒い球体が、まるで陽炎のように霧散し、ユウキを苛んでいた凄まじいプレッシャーが嘘のように消え去った。

「……おわっ、と」

ユウキは、力の反動で数歩よろめき、その場にへたり込んだ。
そして、目の前で起きている光景に、ただ、息をのんだ。

黒い球体が消えた後、二人の転生者の周りで狂い咲いていた悪夢のような世界が、静かに、光の粒子となってほどけていく。液状化した壁も、降り注ぐ魚も、明滅する床も、すべてがキラキラと輝く光の塵となり、混沌の空へと昇っていく。

やがて、光が収まった後には、何もなかった。
ただ、どこまでも続く、静かな雪原と、凍てつくように冷たい、冬の空だけが広がっていた。

そして、その雪原の真ん中に、呆然と立ち尽くす、三人の転生者だけが残された。

神谷真司は、その場に崩れるように膝をついた。
彼の両目から、大粒の涙が、堰を切ったように溢れ出す。それは、神の涙ではなかった。絶望と、後悔と、そして、ほんの少しの安堵が入り混じった、ただの、一人の青年の涙だった。

彼の、長くて、孤独な神様ごっこが終わった瞬間だった。
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