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第六部:偽りの英雄と、盤上の神々
第七話 世界の『バグ』
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秋の陽が急速に傾き、ユグドラシル国王執務室は、床に届くほど長い、冷たい影に支配され始めていた。埃っぽい空気の中、シンの告白が重く響き渡る。
宰相アーサーは、床に散らばった解読不能な報告書の山(リリアとアレクシスからのもので、その大半が数式と古代ルーン文字の羅列だった)の横で、ついに両手で顔を覆い、カタカタと震えていた。
「か、観測者……?ア、アルバ公爵の、さらに上に……? あ、ああ……もう、もう終わりです……我が国は……」
「……」
シンは、血の気の引いた顔で、今にも透けそうな自分の左手をローブの袖に隠しながら、沈黙している。
執務机に突っ伏し、完璧な「業務放棄」の姿勢を貫いていたユウキが、ゆっくりと顔を上げた。
その目に、いつもの「死んだ魚」のような光はなかった。
代わりに宿っていたのは、前世、三十年にわたる社畜生活の果て、理不尽な上司と炎上するプロジェクト、そして「明日まで」という絶望的な納期に追い詰められ続けた男だけが持つ、冷徹な「プロジェクトマネージャー」の眼光だった。
「……アーサー」
「ひゃ、ひゃいっ!」
ユウキの声は、いつもと同じ気だるげなトーンだった。だが、その声に含まれる「圧」は、アーサーの胃痛を(恐怖で)一時的に麻痺させるのに十分だった。
「まず、状況を整理する。いいか、これは『問題』だ。そして問題には必ず『原因』があり、『解決策』がある。パニックは、一番無駄なリソースだ。……前世の俺の上司みたいになるな」
「は、はいぃっ!」
アーサーは、恐怖のあまり背筋を伸ばして直立不動になる。
ユウキは、前世で培った常識的な(・・・・・)コミュニケーション能力と、無数の修羅場をくぐり抜けてきた(そして死んだ)経験則に基づき、恐ろしく効率的に思考を組み立て始めた。
彼は、この絶望的な状況を、前世の忌まわしき「四半期報告」になぞらえて、冷静に(・・)分析した。
一つ。人生は思い通りにならない(苦諦)。
今、まさに目の前にあるこのクソ面倒な状況が、それだ。
二つ。思い通りにならないのには、必ず原因がある(集諦)。
原因は、アリアンという名の「新商品(?)」、それを仕掛けたアルバ公爵という「競合他社」、そして、どうやらその上にいる「観測者(クライアント)」だ。
三つ。その原因を潰せば、思い通りにならない状況は終わる(滅諦)。
すなわち、奴らを排除すれば、俺の「スローライフ」は戻ってくる。
四つ。そのためにやるべきことがある(道諦)。
これが、今から決める「ネクスト・アクション」だ。
ユウキは、忌まわしい記憶(前世の会議)を反芻しながら、淀みなく指示を出す。
「アーサー。最優先事項だ。今すぐロゼンベルグのソフィアに、極秘回線で繋げ。会議(・・)だ」
「か、会議!」
アーサーが、トラウマを刺激されたように顔を歪める。
「そうだ。そして、リリアとアレクシスを至急呼び戻せ。あの二人の天才が見つけた『世界の秘密』と、シンが見た『黒幕』の情報を、今すぐ突き合わせる必要がある。データがなければ、現状分析(アズイズ)も、あるべき姿(トゥービー)も描けない」
テキパキと指示を出すユウキの姿に、アーサーは(普段の怠惰な王を知っているだけに)恐怖で失神しそうになりながら、慌てて部屋を飛び出していった。
執務室には、ランプの頼りない光と、ユウキ、そしてシンの二人だけが残された。
「……シン」
「……なに」
「お前、さっきからその左手、どうした?」
ユウキの視線は、シンが隠しているローブの袖に向けられていた。
シンは観念したように、ゆっくりと左手をランプの光にかざす。
その手は、まるで淡いガラス細工のように光を透過させ、向こう側の壁の木目をぼんやりと映していた。
「……見えすぎた、代償だ」
シンは、アルバ公爵の思考を読み、さらにその上の「観測者」の視線に触れたこと、そして自分自身の転生が、ユウキたちとは異なる、乱暴な「差し込み」であったことを、淡々と告げた。
「俺は……たぶん、この世界の『住人』として、存在が確定してない。あの『観測者』に『異物』として認識されたせいで、この世界との繋がりが、さらに弱まってる」
「……そうか」
ユウキは、その非現実的な光景を、冷静に受け止めていた。
なぜなら、彼自身にも、心当たりがあったからだ。
「俺も、少しわかってきた。俺と、あのアリアンとかいう英雄サマの『違い』がな」
ユウキは、ランプの炎を見つめながら言う。
「シン、お前の言う『抜け道』ってのは、たぶん『結果』だけを強引に生み出す力だ。アリアンが『食料を出せ』と願えば、食料が『ポン』と現れる。植えて、育てて、収穫して、運んで、調理するという、当然の『流れ(原因と結果)』を、あいつは無視してる」
「……」
「それが、強烈な『気持ち悪さ』の正体だ。世界の『決まり事』を無視すれば、当然、どこかに『歪み』が出る。お前が厨房で感じた、あの空間のよじれがそれだ」
ユウキは、自分の右手をかざす。
「だが、俺の力……この『デコピン』は、たぶん違う。俺は『結果』だけを生み出してるんじゃない。恐ろしく非効率で、馬鹿げたやり方だが、ちゃんと『流れ(原因と結果)』に従ってるんだ」
「……どういうことだ?」
「例えば、柱を消す時。俺は『柱よ消えろ』と願ってるんじゃない。『その柱を構成する、たった一つの分子』の動きを、物理法則のギリギリの範囲で、極限まで『加速』させてるだけだ。その結果、連鎖反応が起きて、柱が消し飛ぶ。流れ(原因と結果)を無視してるんじゃなく、流れを『ハック』してるに過ぎない」
だからこそ、アリアンが起こす「奇跡」は、この世界そのものに「バグ(歪み)」を生み出す。
それは、ユウキが断続的に見ていた、あの「幾何学的な光のパターン」や、「エラーメッセージ」という幻聴の正体でもあった。
ストレスと、世界の「歪み」の共鳴。
その二つが引き金となり、ユウキの脳が、この世界の「本当の姿」を認識し始めていた。
「……ユウキさん?」
シンが、怪訝な顔でユウキを見つめる。
ユウキは、部屋の空間を、まるで焦点が合わないかのように見つめていた。
彼の「天眼」と呼ばれる力が、その本質を露わにし始めていた。
世界が、変わる。
石造りの壁も、重厚な机も、ランプの炎も、その「形」を失っていく。
すべてが、シンの言った通り、無数の光の「糸」が集まって、一時的に「その形」を保っているだけの、不安定な「集合体」にしか見えなくなった。
この世界は、一枚の巨大で複雑な「織物」だった。
そして今、アリアンという存在が、その織物をメチャクチャに引き裂いているせいで、あちこちが「綻び」、空間がノイズのようにちらついていた。
「……ああ、なるほどな」
ユウキは、乾いた笑いを漏らした。
「これが、アーサーが言ってた『国境付近のバグ』か。酷いもんだ。これじゃあ、まともに物流も動かせないわけだ」
「コンコン」
その時、執務室の扉がノックされ、燃えるような赤髪の竜族、イグニスがトレイを持って入ってきた。
「ユウキ様、アーサー様から、皆様お疲れだろうと。夜食のスープをお持ちしました」
生真面目な顔で、しかしその瞳は「この新レシピの評価やいかに」という料理人としての情熱に燃えている。
「ああ、悪いな、イグニ……」
ユウキは礼を言いかけて、息を飲んだ。
イグニスを、「天眼」で見てしまった。
イグニスは、「イグニス」ではなかった。
それは、「燃える赤髪」という色の情報、「黄金色の爬虫類の瞳」という形の情報、「誇り高い」という性格の情報、「料理バカ」という情熱の情報、そして「王への忠誠」という感情の情報……そういった、無数の「要素(パーツ)」が、寄り集まって、かろうじて「イグニス」という人型を保っている「情報の集合体」だった。
それは、仏教で言うところの「五蘊(ごうん)」――肉体(色)、感覚(受)、イメージ(想)、意志(行)、認識(識)――そのものだった。
固定的な「私」など、どこにもない(無我)。
ただ、要素が集まって、移り変わって(無常)、機能しているだけ。
そして、ユウキには見えた。
その「イグニス」を構成する「要素(パーツ)」が、まるで接触不良のランプのように、激しく「点滅」しているのが。
特に、彼の「忠誠」や「記憶」を司る中心部分が、激しく「バグ」を起こしていた。
(こいつらも……)
ユウキは、背筋が凍るような事実に気づく。
ガンツも、ボルガも、シルフィも、リリアも。
この世界で出会った仲間たちは、「作られた庭(プロジェクト・アヴァロン)」の一部として、誰かに「設定」された存在だとしたら?
アリアンという「バグ」のせいで、彼らの「設定」そのものが、今、崩壊し始めているとしたら?
「ユウキ様?」
イグニスが、蒼白になったユウキを心配そうに覗き込む。
「……どうかされましたか? お疲れのようです。あまり、無理をなさってはいけませんよ」
イグニスは、困ったように眉を下げ、スープ皿を机に置きながら、こう言った。
「あらあら、まあまあ……。休める時には、しっかり休まないと。ね?」
――ドクン。
ユウキの心臓が、大きく跳ねた。
世界から、音が消えた。
その言葉。そのイントネーション。その、慈しむような響き。
三十年間、前世で聞き続けた、過労死する間際まで心配してくれていた、彼の「母親」の、口癖だった。
(なんで……)
イグニスの「バグ」を起こしている中心部分と、ユウキ自身の「前世の記憶(データ)」が、一瞬、混線した。
視界が、幾何学的な光のノイズで埋め尽くされる。
そのノイズの向こうに、鮮明な「未来視」が流れ込んできた。
真っ白な、光だけの空間。
そこに、ソフィアが立っている。
泣いているようにも、笑っているようにも見える顔で、彼に向かって、手を差し伸べている。
そして、彼女の足元から、世界そのものが、光の「糸」となって、解けていく――。
「――っぐ、ぁ……!」
激しい頭痛がユウキを襲う。
前世の過労死の瞬間の苦痛と、世界の崩壊のビジョンが重なる。
「ユウキ様!?」「おい、ユウキさん!」
イグニスとシンの声が、遠くで聞こえる。
(……最悪だ)
ユウキは、机に突っ伏しながら、心の底から呻いた。
(こんなの……ただの炎上プロジェクトどころじゃない。世界の『仕様変更』どころか、『サービス終了』案件じゃないか……!)
スローライフが、音を立てて遠ざかっていく。
その夜。
ユウキは、イグニスとシンを(無理やり)下がらせた後、自室のベッドの上で、胡座をかいていた。
彼は、この忌まわしい「面倒事」の根源を、突き止める必要があった。
イグニスに混線した「母親の記憶」。
自分だけが持つ「デコピン」という、物理法則をハックする力。
そして、脳内に響く「エラーメッセージ」。
(俺は、一体、何なんだ?)
彼は、目を閉じ、意識を集中させた。
かつて前世で、ストレス解消のためにかじった「瞑想」――自らの内側をただ「観察」する行為(内観)――を、今、この世界で初めて、本気で実行した。
雑念を払う。
アーサーの胃痛。シンの半透明の手。イグニスの「あらあら」。ソフィアの未来視。
それら全てを「ただの現象」として脇に置き、意識を、自らの「力」の源泉へと深く、深く沈めていく。
それは、身体のどこにもなかった。
心臓でも、脳でもない。
それは、「繋がり」だった。
この世界という「織物」に、自分を繋ぎ止めている「糸」。
だが、それはシンのような乱暴な「差し込み」でも、ソフィアのような「刺繍」でもなかった。
(……これか)
それは、この「織物(世界)」そのものの「外側」にある、巨大な「何か」へと繋がる、一本の「回線」だった。
そして、自分の力は、その「回線」を通じて、この世界にアクセスするための「権限」に過ぎなかった。
彼は、この世界の「住人」でも「異邦人」でもない。
彼は、この「プロジェクト・アヴァロン」という名の「庭」を管理するために、設計者(ゲームマスター)によって用意された、特殊な「道具」――。
「……デバッグ・モード」
ユウキは、戦慄と共に、その答えにたどり着いた。
自分の力は、バグを修正し、異常を排除するための、「管理者権限(スーパーユーザー)」だったのだ。
そして、あの「観測者」は、今、気づいたのだ。
「道具」であるはずの自分が、意志を持ち、「スローライフ」などという、プログラム(・・・・・)にない行動を求めていることに。
あの幻聴の意味が、恐ろしいほど明確に理解できた。
『エラー:不正なアクセスが検出されました。権限レベルを確認します』
(……確認、されたか)
ユウキは、冷たい汗が背中を伝うのを感じた。
(どうやら俺は……この世界の『仕様書』から、逸脱したらしい)
宰相アーサーは、床に散らばった解読不能な報告書の山(リリアとアレクシスからのもので、その大半が数式と古代ルーン文字の羅列だった)の横で、ついに両手で顔を覆い、カタカタと震えていた。
「か、観測者……?ア、アルバ公爵の、さらに上に……? あ、ああ……もう、もう終わりです……我が国は……」
「……」
シンは、血の気の引いた顔で、今にも透けそうな自分の左手をローブの袖に隠しながら、沈黙している。
執務机に突っ伏し、完璧な「業務放棄」の姿勢を貫いていたユウキが、ゆっくりと顔を上げた。
その目に、いつもの「死んだ魚」のような光はなかった。
代わりに宿っていたのは、前世、三十年にわたる社畜生活の果て、理不尽な上司と炎上するプロジェクト、そして「明日まで」という絶望的な納期に追い詰められ続けた男だけが持つ、冷徹な「プロジェクトマネージャー」の眼光だった。
「……アーサー」
「ひゃ、ひゃいっ!」
ユウキの声は、いつもと同じ気だるげなトーンだった。だが、その声に含まれる「圧」は、アーサーの胃痛を(恐怖で)一時的に麻痺させるのに十分だった。
「まず、状況を整理する。いいか、これは『問題』だ。そして問題には必ず『原因』があり、『解決策』がある。パニックは、一番無駄なリソースだ。……前世の俺の上司みたいになるな」
「は、はいぃっ!」
アーサーは、恐怖のあまり背筋を伸ばして直立不動になる。
ユウキは、前世で培った常識的な(・・・・・)コミュニケーション能力と、無数の修羅場をくぐり抜けてきた(そして死んだ)経験則に基づき、恐ろしく効率的に思考を組み立て始めた。
彼は、この絶望的な状況を、前世の忌まわしき「四半期報告」になぞらえて、冷静に(・・)分析した。
一つ。人生は思い通りにならない(苦諦)。
今、まさに目の前にあるこのクソ面倒な状況が、それだ。
二つ。思い通りにならないのには、必ず原因がある(集諦)。
原因は、アリアンという名の「新商品(?)」、それを仕掛けたアルバ公爵という「競合他社」、そして、どうやらその上にいる「観測者(クライアント)」だ。
三つ。その原因を潰せば、思い通りにならない状況は終わる(滅諦)。
すなわち、奴らを排除すれば、俺の「スローライフ」は戻ってくる。
四つ。そのためにやるべきことがある(道諦)。
これが、今から決める「ネクスト・アクション」だ。
ユウキは、忌まわしい記憶(前世の会議)を反芻しながら、淀みなく指示を出す。
「アーサー。最優先事項だ。今すぐロゼンベルグのソフィアに、極秘回線で繋げ。会議(・・)だ」
「か、会議!」
アーサーが、トラウマを刺激されたように顔を歪める。
「そうだ。そして、リリアとアレクシスを至急呼び戻せ。あの二人の天才が見つけた『世界の秘密』と、シンが見た『黒幕』の情報を、今すぐ突き合わせる必要がある。データがなければ、現状分析(アズイズ)も、あるべき姿(トゥービー)も描けない」
テキパキと指示を出すユウキの姿に、アーサーは(普段の怠惰な王を知っているだけに)恐怖で失神しそうになりながら、慌てて部屋を飛び出していった。
執務室には、ランプの頼りない光と、ユウキ、そしてシンの二人だけが残された。
「……シン」
「……なに」
「お前、さっきからその左手、どうした?」
ユウキの視線は、シンが隠しているローブの袖に向けられていた。
シンは観念したように、ゆっくりと左手をランプの光にかざす。
その手は、まるで淡いガラス細工のように光を透過させ、向こう側の壁の木目をぼんやりと映していた。
「……見えすぎた、代償だ」
シンは、アルバ公爵の思考を読み、さらにその上の「観測者」の視線に触れたこと、そして自分自身の転生が、ユウキたちとは異なる、乱暴な「差し込み」であったことを、淡々と告げた。
「俺は……たぶん、この世界の『住人』として、存在が確定してない。あの『観測者』に『異物』として認識されたせいで、この世界との繋がりが、さらに弱まってる」
「……そうか」
ユウキは、その非現実的な光景を、冷静に受け止めていた。
なぜなら、彼自身にも、心当たりがあったからだ。
「俺も、少しわかってきた。俺と、あのアリアンとかいう英雄サマの『違い』がな」
ユウキは、ランプの炎を見つめながら言う。
「シン、お前の言う『抜け道』ってのは、たぶん『結果』だけを強引に生み出す力だ。アリアンが『食料を出せ』と願えば、食料が『ポン』と現れる。植えて、育てて、収穫して、運んで、調理するという、当然の『流れ(原因と結果)』を、あいつは無視してる」
「……」
「それが、強烈な『気持ち悪さ』の正体だ。世界の『決まり事』を無視すれば、当然、どこかに『歪み』が出る。お前が厨房で感じた、あの空間のよじれがそれだ」
ユウキは、自分の右手をかざす。
「だが、俺の力……この『デコピン』は、たぶん違う。俺は『結果』だけを生み出してるんじゃない。恐ろしく非効率で、馬鹿げたやり方だが、ちゃんと『流れ(原因と結果)』に従ってるんだ」
「……どういうことだ?」
「例えば、柱を消す時。俺は『柱よ消えろ』と願ってるんじゃない。『その柱を構成する、たった一つの分子』の動きを、物理法則のギリギリの範囲で、極限まで『加速』させてるだけだ。その結果、連鎖反応が起きて、柱が消し飛ぶ。流れ(原因と結果)を無視してるんじゃなく、流れを『ハック』してるに過ぎない」
だからこそ、アリアンが起こす「奇跡」は、この世界そのものに「バグ(歪み)」を生み出す。
それは、ユウキが断続的に見ていた、あの「幾何学的な光のパターン」や、「エラーメッセージ」という幻聴の正体でもあった。
ストレスと、世界の「歪み」の共鳴。
その二つが引き金となり、ユウキの脳が、この世界の「本当の姿」を認識し始めていた。
「……ユウキさん?」
シンが、怪訝な顔でユウキを見つめる。
ユウキは、部屋の空間を、まるで焦点が合わないかのように見つめていた。
彼の「天眼」と呼ばれる力が、その本質を露わにし始めていた。
世界が、変わる。
石造りの壁も、重厚な机も、ランプの炎も、その「形」を失っていく。
すべてが、シンの言った通り、無数の光の「糸」が集まって、一時的に「その形」を保っているだけの、不安定な「集合体」にしか見えなくなった。
この世界は、一枚の巨大で複雑な「織物」だった。
そして今、アリアンという存在が、その織物をメチャクチャに引き裂いているせいで、あちこちが「綻び」、空間がノイズのようにちらついていた。
「……ああ、なるほどな」
ユウキは、乾いた笑いを漏らした。
「これが、アーサーが言ってた『国境付近のバグ』か。酷いもんだ。これじゃあ、まともに物流も動かせないわけだ」
「コンコン」
その時、執務室の扉がノックされ、燃えるような赤髪の竜族、イグニスがトレイを持って入ってきた。
「ユウキ様、アーサー様から、皆様お疲れだろうと。夜食のスープをお持ちしました」
生真面目な顔で、しかしその瞳は「この新レシピの評価やいかに」という料理人としての情熱に燃えている。
「ああ、悪いな、イグニ……」
ユウキは礼を言いかけて、息を飲んだ。
イグニスを、「天眼」で見てしまった。
イグニスは、「イグニス」ではなかった。
それは、「燃える赤髪」という色の情報、「黄金色の爬虫類の瞳」という形の情報、「誇り高い」という性格の情報、「料理バカ」という情熱の情報、そして「王への忠誠」という感情の情報……そういった、無数の「要素(パーツ)」が、寄り集まって、かろうじて「イグニス」という人型を保っている「情報の集合体」だった。
それは、仏教で言うところの「五蘊(ごうん)」――肉体(色)、感覚(受)、イメージ(想)、意志(行)、認識(識)――そのものだった。
固定的な「私」など、どこにもない(無我)。
ただ、要素が集まって、移り変わって(無常)、機能しているだけ。
そして、ユウキには見えた。
その「イグニス」を構成する「要素(パーツ)」が、まるで接触不良のランプのように、激しく「点滅」しているのが。
特に、彼の「忠誠」や「記憶」を司る中心部分が、激しく「バグ」を起こしていた。
(こいつらも……)
ユウキは、背筋が凍るような事実に気づく。
ガンツも、ボルガも、シルフィも、リリアも。
この世界で出会った仲間たちは、「作られた庭(プロジェクト・アヴァロン)」の一部として、誰かに「設定」された存在だとしたら?
アリアンという「バグ」のせいで、彼らの「設定」そのものが、今、崩壊し始めているとしたら?
「ユウキ様?」
イグニスが、蒼白になったユウキを心配そうに覗き込む。
「……どうかされましたか? お疲れのようです。あまり、無理をなさってはいけませんよ」
イグニスは、困ったように眉を下げ、スープ皿を机に置きながら、こう言った。
「あらあら、まあまあ……。休める時には、しっかり休まないと。ね?」
――ドクン。
ユウキの心臓が、大きく跳ねた。
世界から、音が消えた。
その言葉。そのイントネーション。その、慈しむような響き。
三十年間、前世で聞き続けた、過労死する間際まで心配してくれていた、彼の「母親」の、口癖だった。
(なんで……)
イグニスの「バグ」を起こしている中心部分と、ユウキ自身の「前世の記憶(データ)」が、一瞬、混線した。
視界が、幾何学的な光のノイズで埋め尽くされる。
そのノイズの向こうに、鮮明な「未来視」が流れ込んできた。
真っ白な、光だけの空間。
そこに、ソフィアが立っている。
泣いているようにも、笑っているようにも見える顔で、彼に向かって、手を差し伸べている。
そして、彼女の足元から、世界そのものが、光の「糸」となって、解けていく――。
「――っぐ、ぁ……!」
激しい頭痛がユウキを襲う。
前世の過労死の瞬間の苦痛と、世界の崩壊のビジョンが重なる。
「ユウキ様!?」「おい、ユウキさん!」
イグニスとシンの声が、遠くで聞こえる。
(……最悪だ)
ユウキは、机に突っ伏しながら、心の底から呻いた。
(こんなの……ただの炎上プロジェクトどころじゃない。世界の『仕様変更』どころか、『サービス終了』案件じゃないか……!)
スローライフが、音を立てて遠ざかっていく。
その夜。
ユウキは、イグニスとシンを(無理やり)下がらせた後、自室のベッドの上で、胡座をかいていた。
彼は、この忌まわしい「面倒事」の根源を、突き止める必要があった。
イグニスに混線した「母親の記憶」。
自分だけが持つ「デコピン」という、物理法則をハックする力。
そして、脳内に響く「エラーメッセージ」。
(俺は、一体、何なんだ?)
彼は、目を閉じ、意識を集中させた。
かつて前世で、ストレス解消のためにかじった「瞑想」――自らの内側をただ「観察」する行為(内観)――を、今、この世界で初めて、本気で実行した。
雑念を払う。
アーサーの胃痛。シンの半透明の手。イグニスの「あらあら」。ソフィアの未来視。
それら全てを「ただの現象」として脇に置き、意識を、自らの「力」の源泉へと深く、深く沈めていく。
それは、身体のどこにもなかった。
心臓でも、脳でもない。
それは、「繋がり」だった。
この世界という「織物」に、自分を繋ぎ止めている「糸」。
だが、それはシンのような乱暴な「差し込み」でも、ソフィアのような「刺繍」でもなかった。
(……これか)
それは、この「織物(世界)」そのものの「外側」にある、巨大な「何か」へと繋がる、一本の「回線」だった。
そして、自分の力は、その「回線」を通じて、この世界にアクセスするための「権限」に過ぎなかった。
彼は、この世界の「住人」でも「異邦人」でもない。
彼は、この「プロジェクト・アヴァロン」という名の「庭」を管理するために、設計者(ゲームマスター)によって用意された、特殊な「道具」――。
「……デバッグ・モード」
ユウキは、戦慄と共に、その答えにたどり着いた。
自分の力は、バグを修正し、異常を排除するための、「管理者権限(スーパーユーザー)」だったのだ。
そして、あの「観測者」は、今、気づいたのだ。
「道具」であるはずの自分が、意志を持ち、「スローライフ」などという、プログラム(・・・・・)にない行動を求めていることに。
あの幻聴の意味が、恐ろしいほど明確に理解できた。
『エラー:不正なアクセスが検出されました。権限レベルを確認します』
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しかし、華音の授かった固有スキルはEXランクの無限増殖という最強のスキルだったが、本人は弱いと思い込み、死の森を生き抜く為に無双する。
戦場帰りの俺が隠居しようとしたら、最強の美少女たちに囲まれて逃げ場がなくなった件
さん
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戦場で命を削り、帝国最強部隊を率いた男――ラル。
数々の激戦を生き抜き、任務を終えた彼は、
今は辺境の地に建てられた静かな屋敷で、
わずかな安寧を求めて暮らしている……はずだった。
彼のそばには、かつて命を懸けて彼を支えた、最強の少女たち。
それぞれの立場で戦い、支え、尽くしてきた――ただ、すべてはラルのために。
今では彼の屋敷に集い、仕え、そして溺愛している。
「ラルさまさえいれば、わたくしは他に何もいりませんわ!」
「ラル様…私だけを見ていてください。誰よりも、ずっとずっと……」
「ねぇラル君、その人の名前……まだ覚えてるの?」
「ラル、そんなに気にしなくていいよ!ミアがいるから大丈夫だよねっ!」
命がけの戦場より、ヒロインたちの“甘くて圧が強い愛情”のほうが数倍キケン!?
順番待ちの寝床争奪戦、過去の恋の追及、圧バトル修羅場――
ラルの平穏な日常は、最強で一途な彼女たちに包囲されて崩壊寸前。
これは――
【過去の傷を背負い静かに生きようとする男】と
【彼を神のように慕う最強少女たち】が織りなす、
“甘くて逃げ場のない生活”の物語。
――戦場よりも生き延びるのが難しいのは、愛されすぎる日常だった。
※表紙のキャラはエリスのイメージ画です。
無能なので辞めさせていただきます!
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ブラック商業ギルドにて、休みなく働き詰めだった自分。
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