過労死したので来世は平穏に暮らしたい。なのに、うっかり英雄になってしまい、東では国を救った元悪役令嬢が俺の噂をしていた。

Gaku

文字の大きさ
1 / 91
第一部:『悪役令令嬢編』

第一話:目覚めたら悪役令嬢、ただし記憶はない

しおりを挟む

じっとりとした夏の終わりの生温い空気が、開け放たれた窓から流れ込んでくる。チュンチュンと可愛らしくさえずる小鳥の声が、やけに頭に響いた。厚手のカーテンの隙間から差し込む午後の光は、空気中の埃をキラキラと照らし出し、まるでスローモーション映像のように舞っている。

「……ん?」

むくり、と上体を起こすと、天蓋付きのベッドを覆うレースのカーテンがふわりと揺れた。なんだこの無駄に豪華なベッドは。我が家の、せんべい布団に比べたら雲の上、いや、成層圏レベルの寝心地だ。

視線を巡らせると、そこは見たこともない部屋だった。天井には、目が眩むようなシャンデリア。壁には、私には価値の欠片もわからないが、きっと高価であろう絵画がいくつも飾られている。家具の一つひとつが、素人目にもわかる最高級品だ。ベルサイユ宮殿か、ここは。

「お目覚めになられましたか、王女様!」

突然、背後から聞こえた甲高い声に、私の心臓は口から飛び出さんばかりに跳ね上がった。

「ひぃっ!?」

情けない悲鳴を上げて振り返ると、そこにはメイド服を着た女性たちがずらりと並び、直立不動の姿勢で私を見つめていた。その数、ざっと10人。多すぎやしないか。というか、いつの間に背後に。忍者か、君たちは。

「王女様、ご気分はいかがでしょうか。乗馬中に落馬された衝撃で、一時的に記憶が混乱されていると伺っております。わたくしどもは何なりとお申し付けくださいませ」

代表らしき初老のメイド長が、能面のような無表情でそう告げる。その目は、しかし、怯えた子犬のように微かに潤んでいた。いや、メイド長だけじゃない。そこにいる全員が、まるで猛獣を前にした草食動物のように、カタカタと震えているのだ。

「え、あ、はい。……大丈夫、です?」

とりあえず当たり障りのない返事をしてみるが、彼女たちの緊張は一向に解けない。それどころか、私が口を開いた瞬間、びくりと肩を揺らし、数人は顔面蒼白になっている。なんなんだ、この状況は。私はバイオハザードの世界にでも迷い込んだのだろうか。

どうやら私は、この国の王女らしい。そして、乗馬中に落馬して頭を打ち、記憶を失った――ということになっているようだ。しかし、本当は違う。私の中身は、しがない日本のOL。昨日の夜、特売のカップ麺をすすり、明日の会議資料に絶望しながら眠りについたはずなのだ。それがどうしてこうなった。

「王女様、何か……ご不満でも?」

私が押し黙っていると、メイド長が震える声で尋ねてきた。その顔には「どうか石つぶてだけはご勘弁を」と書いてある。

「いやいやいや!滅相もございません!」

慌てて笑顔で手を振る。善意100%の、人懐っこい犬のような笑顔を意識して。

「むしろ、ありがとう!心配かけてごめんね!」

にこっ!と効果音でもつきそうなほどの満面の笑みでそう言った瞬間、部屋の空気が凍りついた。メイドたちは、先ほどよりも激しく震えだし、何人かは「ヒッ」と短い悲鳴を漏らした。メイド長に至っては、顔から完全に血の気が引いている。

なぜだ。

「……何か、新しいご趣味でございましょうか」

メイド長が、絞り出すような声で尋ねる。
「え?」
「そのように……民をいたぶる前の、その……慈愛に満ちた笑みは……」

どうやら、この王女、とんでもない悪役令嬢だったらしい。私の親切な振る舞いは、彼女たちにとって「嵐の前の静けさ」「処刑前の最後の晩餐」のような、恐怖の合図でしかないようだ。

これはダメだ。何をしても裏目に出る。いい人アピールは、火に油を注ぐだけだと悟った私は、作戦を変更することにした。

「……そう。わたくしが記憶を失っている、と聞いて、いい気になっているようね?」

芝居がかった口調で、ふんと鼻を鳴らしてみる。するとどうだろう。メイドたちは、先ほどまでの恐怖とは違う、「ああ、いつもの王女様だ」という、ある種の安堵の表情を浮かべたではないか。解せぬ。

「わたくしは、この城の構造を忘れてしまったわ。メイド長、案内なさい」
「は、はい!かしこまりました!」

水を得た魚のように生き生きと動き出すメイド長。どうやら、この世界の正解はこっちだったらしい。

こうして、私の前世の記憶を持ったままの、悪役令嬢としての奇妙な一日が始まった。

まずは、自分の部屋に戻ることからして、一つの冒険だった。城は、東京ドーム何個分だ、と突っ込みたくなるほどに広い。長い長い廊下は、どこまで行っても同じような金の装飾と赤い絨毯で、方向感覚を失わせるのに十分だった。

「ここが図書室でございます」

案内されたのは、もはや「室」と呼べる規模ではない、巨大な図書館だった。三階建ての吹き抜け構造で、壁一面が本、本、本。天井近くの本はどうやって取るんだ。ハリー・ポッターの世界か。

「こちらが大広間でございます」

次は、どこかの国のサミットでも開けそうな巨大ホール。舞踏会でも開けば、数千人が踊れそうだ。床はピカピカに磨き上げられ、自分の間抜けな顔がくっきりと映っている。

「そして、こちらが食堂の厨房で……」

高級レストランの厨房が、そのまま5つくらい合体したような、ステンレスの要塞がそこにはあった。一体何人分の食事を作っているんだ。

衛兵の詰め所、騎士団の武骨な練習場、そして、何やら怪しげな色の液体が入ったフラスコが並ぶ研究所。そのどれもが、私の常識を軽々と打ち破っていく。

「……もう、お腹いっぱいです」

げんなりした私を、メイド長は最後の場所へと案内した。城の地下、ひんやりとした石の階段を下った先。そこに、それはあった。

「……牢獄?」

鉄格子が並ぶ、薄暗い空間。じっとりとした湿気が肌にまとわりつき、かび臭い匂いが鼻をつく。

「ええ。王女様のご機嫌を損ねた者たちが、ここに収監されております」

メイド長は、淡々とそう告げた。

私の心臓が、どくん、と嫌な音を立てた。先ほどまでのドタバタ気分が、急速に冷えていくのを感じる。

「……どんな罪を犯したの?」

恐る恐る尋ねると、メイド長はこともなげに答えた。

「はい。例えば、そこの男は、王女様の肖像画を描いた際、ほんの少しシミを付けてしまいました」
「……は?」
「そちらの女は、王女様がお召しになるドレスの刺繍を、一日遅らせました」
「……」
「あちらの老人は、王女様の馬車の前を横切りました」

言葉を失った。どれも、牢獄に入れられるような罪ではない。ただ、この「悪役令嬢」の機嫌を損ねた。ただ、それだけで。

鉄格子の向こう側で、人々が暗い瞳でこちらを見ている。その目には、憎しみも、怒りも、諦めすらない。ただ、無だった。

頭の奥で、何かがプツリと切れる音がした。

「……メイド長」
「はい」
「今すぐ、ここにいる全員を解放なさい」
「……は?」

能面のようなメイド長の顔に、初めて「驚愕」という感情が浮かんだ。

「聞こえなかったの?今すぐ、全員をここから出すのよ!」

私の怒声に、メイド長は弾かれたように動き出す。衛兵たちが慌ただしく鍵を開け、囚人たちが恐る恐る外へと出てくる。

私は、その一人ひとりの前に立ち、深く、深く頭を下げた。

「……本当に、申し訳ありませんでした」

ざわめきが起こる。誰もが、何が起きているのか理解できない、という顔をしていた。

解放された人々の中にいた、身なりの良い学者風の男に、私は声をかけた。

「教えてください。なぜ、こんなことがまかり通っているのですか。なぜ、この国は、こんなにも……歪んでいるのですか」

学者は、しばらく私を警戒するように見ていたが、やがて諦めたように口を開いた。

「……歪んでいるのは、人の心だけではございません、王女様。この王国は、もはや財政的に破綻寸前なのです。人々の不満が、あなた様のような存在を、そして、このような理不尽な場所を生み出したのかもしれません」

その言葉は、私の頭を殴りつけるような衝撃だった。

ただの悪役令嬢物語じゃなかった。この国は、根の深い問題を抱えている。

空を見上げると、いつの間にか空は燃えるような夕焼けに染まっていた。
これから、私がやるべきことは一つだ。

この国を、立て直す。

そのためには、仲間が必要だ。たとえ、最初は誰も信じてくれなくても。

こうして、記憶喪失の(中身は凡人な)悪役令嬢による、前代未聞の王国再建計画が、静かに幕を開けたのだった。

しおりを挟む
感想 67

あなたにおすすめの小説

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

夫から『お前を愛することはない』と言われたので、お返しついでに彼のお友達をお招きした結果。

古森真朝
ファンタジー
 「クラリッサ・ベル・グレイヴィア伯爵令嬢、あらかじめ言っておく。  俺がお前を愛することは、この先決してない。期待など一切するな!」  新婚初日、花嫁に真っ向から言い放った新郎アドルフ。それに対して、クラリッサが返したのは―― ※ぬるいですがホラー要素があります。苦手な方はご注意ください。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

最低のEランクと追放されたけど、実はEXランクの無限増殖で最強でした。

MP
ファンタジー
高校2年の夏。 高木華音【男】は夏休みに入る前日のホームルーム中にクラスメイトと共に異世界にある帝国【ゼロムス】に魔王討伐の為に集団転移させれた。 地球人が異世界転移すると必ずDランクからAランクの固有スキルという世界に1人しか持てないレアスキルを授かるのだが、華音だけはEランク・【ムゲン】という存在しない最低ランクの固有スキルを授かったと、帝国により死の森へ捨てられる。 しかし、華音の授かった固有スキルはEXランクの無限増殖という最強のスキルだったが、本人は弱いと思い込み、死の森を生き抜く為に無双する。

戦場帰りの俺が隠居しようとしたら、最強の美少女たちに囲まれて逃げ場がなくなった件

さん
ファンタジー
戦場で命を削り、帝国最強部隊を率いた男――ラル。 数々の激戦を生き抜き、任務を終えた彼は、 今は辺境の地に建てられた静かな屋敷で、 わずかな安寧を求めて暮らしている……はずだった。 彼のそばには、かつて命を懸けて彼を支えた、最強の少女たち。 それぞれの立場で戦い、支え、尽くしてきた――ただ、すべてはラルのために。 今では彼の屋敷に集い、仕え、そして溺愛している。   「ラルさまさえいれば、わたくしは他に何もいりませんわ!」 「ラル様…私だけを見ていてください。誰よりも、ずっとずっと……」 「ねぇラル君、その人の名前……まだ覚えてるの?」 「ラル、そんなに気にしなくていいよ!ミアがいるから大丈夫だよねっ!」   命がけの戦場より、ヒロインたちの“甘くて圧が強い愛情”のほうが数倍キケン!? 順番待ちの寝床争奪戦、過去の恋の追及、圧バトル修羅場―― ラルの平穏な日常は、最強で一途な彼女たちに包囲されて崩壊寸前。   これは―― 【過去の傷を背負い静かに生きようとする男】と 【彼を神のように慕う最強少女たち】が織りなす、 “甘くて逃げ場のない生活”の物語。   ――戦場よりも生き延びるのが難しいのは、愛されすぎる日常だった。 ※表紙のキャラはエリスのイメージ画です。

無能なので辞めさせていただきます!

サカキ カリイ
ファンタジー
ブラック商業ギルドにて、休みなく働き詰めだった自分。 マウントとる新人が入って来て、馬鹿にされだした。 えっ上司まで新人に同調してこちらに辞めろだって? 残業は無能の証拠、職務に時間が長くかかる分、 無駄に残業代払わせてるからお前を辞めさせたいって? はいはいわかりました。 辞めますよ。 退職後、困ったんですかね?さあ、知りませんねえ。 自分無能なんで、なんにもわかりませんから。 カクヨム、なろうにも同内容のものを時差投稿しております。

処理中です...